Magnet 32.「Sheryl Taylor's day off - シェリルはある朝突然に - 」






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ナディアから電話が掛かってきたのは、彼女が朝、ベティやミシェルと朝食を食べている時だった。
朝食と言っても、ショーンが用意してくれたようなきちんとした食事ではなく、シリアルにミルクをかけただけのものと少しのフルーツ、土曜日の早朝に焼いたサモサふうのアップルパイの残り、それからコーヒー、ただそれだけだったのだが。
何でも、レイが今朝熱を出してしまったので、大事を取って幼稚園を休ませたのだそうだ。
だから一日レイをベッドで休ませることになるので、今日は仕事に出て来なくてもいい、という連絡の電話だった。
この連日の出来事で、彼・ショーンと顔を合わせるのは少し気まずかったから、来なくていいというナディアの言葉に正直、救われたような、ホッとした思いが湧いたのは事実だった。
けれど、レイのことはとても心配だった。すぐに熱を出すのが子供だと言っても、レイは体があまり丈夫ではない。きっと苦しい思いをしているだろう。
そんな時に押し掛けて彼の負担になってはいけないが、一応彼女はレイの子守として雇われているのだ、何か少しでも手助け出来ることがあるかもしれない。
だけど彼に会うのは気まずいし、どうしようかしら、と悩んだ結果、レイを見舞うために、やはり顔だけは出そうと決めた。
いつもは幼稚園に直接レイを迎えに行き、そのままレイを連れてクリフォード家へ行くのだが、今日は駅から直接71丁目まで向かうことになる。
ショーンがクリフォード家に姿を現すのが大体2時から3時の間なので、なるべく彼と顔を合わさずに済むように、1時頃には到着するように早めに家を出た。
ナディアは最初、彼女の顔を見た時に『何故来たの』と驚いていたが、レイを見舞いに来たことを告げると喜んで迎え入れてくれた。少し疲れた様子のナディアの表情が気にかかったから、なおさらのこと、何かしら手助けをしなくては、そう思うラムカだった。


彼女はすぐにレイの部屋へ直行し、こそっと覗くようにレイの様子を窺った。レイは規則正しい寝息を立てていて、いつもよりも少しだけ青白い顔色をしているように見える。
そっとベッド脇の椅子に腰かけて、レイの顔を覗き込む。額にうっすらと汗をかいていたので、枕元に置かれたタオルでそっと汗を拭うと、レイがゆっくりと瞳を開いた。

「Oh , sorry」
「Hi……シェリー」
「Hi , 気分はどう?」
「うん、たいしたことないよ。ママが大げさにしんぱいしてるだけだから」
「No no no , 熱があるのよ?ゆっくり寝てなきゃ」
「うん、ありがとう」
「何か飲みたいもの、ある?」
「うん、アップルジュースが欲しい」
「OK」

彼女はレイの額に軽くキスをして立ち上がると、アップルジュースを取りに行くためにキッチンへと向かった。
そしてキッチンへ足を踏み入れた瞬間、驚いて思わず声をあげた。いつもならこの時間にいるはずのないショーンが、そこにいたからだ。

「Oh !」
「!」
「Um……Hi」
「Hi」
「どうしたの?こんな早くに」
「……Yeah , 実は今夜のメニューを決めてなくてさ。何の在庫があるか見てから買い出しに行こうかと思って、それで……」
「Oh……」
「君は?今日は休みだったんじゃ?」
「Uum……Yes , 来なくていいって連絡があったんだけど、レイが心配で……その、つまり……ただレイのお見舞いに来ただけ」
「……Oh yeah ?」

レイのためだけにここへ来た、そうわざと強調するような言い方をしてしまった。彼女はそう自覚し、そして次の瞬間、そのことを後悔した。
何故なら、彼の瞳がそうさせたからだ。どうしてこんな早い時間にいるの?と驚き、そしてレイのためだけに出てきた、そう強調するような彼女の言葉に、彼が少し不服そうな、何か言いたそうな視線を向けたのだ。
そこには、会いたくないから早い時間に来た、それなのに俺がいて、それが君には不快なんだろ?―――そう言いたげな色が宿っていた。
彼のその瞳を見て気付いてしまった、本当の気持ち。彼に会いたくないだなんて、そんなの嘘。ここのところずっと心がぐらぐらと揺れて落ち着かなくて、どうしていいかわからない。ただそれだけなのに。
気まずい気持ちを抱えたまま、彼女は彼の瞳から逃れるように、冷蔵庫からアップルジュースを取り出した。
そしてストローのついた子供用のドリンクカップにそれを入れ、ふたを閉めて、ゆっくりと彼へと振り返った。

「……Look」
「?」
「……昨日は本当にありがとう。その……お礼が遅くなってごめんなさい」
「……No problem」
「So……」
「?」
「クミンシードとキャベツのあれ、今度レシピを教えてもらわなきゃ」
「Hah」

彼女の言葉に彼が短く笑った。そして、『じゃあ』と彼に背を向けて歩き出した彼女に、『ああ、そうだ』と彼が呼び止めるような声をかけた。

「これ……」
「!」

彼がポケットから取り出して手のひらに乗せた、彼女の忘れていったピアス。
彼の部屋にそれを忘れてきた、それは全く彼女の頭になかった。それもそうだろう、寝ている彼女の耳から彼が勝手にそれを外したのだ、彼女がそれを知る由もない。
彼が昨夜、このピアスを届けにブルックリンの彼女の家の前まで行ったことも、このピアスを外した後、彼が、眠る彼女にキスをしようとしたことも、当然ながら、彼女は何ひとつ知らないでいる。
そう、彼の行動をすべて知っているのは、このピアスだけだ。
それを自覚しているのかしていないのか、何となく、彼はこのピアスを彼女に返したくない気持ちにもなってしまったのだが。

「Oh……Thanks」

彼女の『ありがとう』の言葉に、いつものように彼が軽く首をかしげ、『どういたしまして』というあのお決まりの表情をしてみせる。
その表情に、彼女の心が、キュッと縮まるような小さな音を立てた。再び気まずい思いが湧きあがり、『レイが待ってるから』と言い訳をして、彼女は逃げるようにキッチンから姿を消した。



レイの部屋へ戻ると、彼女がキッチンでショーンと話をしている短い時間の間に、どうやら再び眠ってしまったようだった。
ベッド脇の椅子にそっと腰かけ、ナイトテーブルの上にアップルジュースの入ったドリンクカップを静かに置いた。
不思議なことだが、レイの母親でもないのに、こうして毎日のようにレイの寝顔を見ていたような気がするのはどうしてなのだろう。
こんなふうに思うのは、実はこれが初めてのことではなかったのだが。
レイの額にそっと手のひらを乗せると、少し熱が引いているようだった。それからしばらくレイの寝顔を見つめていると、コンコン、と小さく壁をノックする音がしたので、その音に振り返ると、ショーンがそこに立っていた。

「どんな様子?」
「熱は下がってきたみたい。部屋に戻って来たらもう寝ちゃってた」
「そうか……」

Hey buddy , 早く元気になれよ―――ショーンは腰をかがめてレイにそう言うと、レイの髪にそっと唇を置いた。
再びの既視感。彼女は何度もこんな光景を見ていたような気がして困惑した。小さい子供の髪に口付けるショーンを、今までにも何度も見たような気がしてならないのだ。
私ってもしかして、どこかおかしいのかしら? そう不安な気持ちになった時。

「これから買い出しに行くんだけど、君も行かない?」―――そう言ってショーンが再び首をかしげた。







ショーンのバイクから降り、ヘルメットを外して見渡すと、そこは来たことのないマーケットの前だった。
以前レイを連れて3人で行ったマーケットは確かサード・アヴェニューにあったが、ショーンがその日彼女を連れて来たのは、ユニオン・スクエア近くに位置するマーケット。
さほど広くはないが、近郊で採れた有機栽培の野菜や、薬品を与えずに育てた鶏肉や牛肉など、安心して食べられるものを厳選して売っている、そんなオーガニック・フード・マーケットのようだった。
野菜を吟味するショーンを残し、ラムカは興味深そうに店内をウロウロと歩き回り、そしてスパイスコーナーの前で立ち止まった。
スパイス類は主にブルックリンのアトランティック・アヴェニューにある「サハディーズ*」というアラブ系の食材店で買っていて、よそで買うことはあまりないのだが、彼女はどこのマーケットへ行っても、スパイス類を見て回るのが単純に好きなのだった。
そう言えば家にあるクミンシードがもうそろそろ切れそうだったかも、そう思い出した。いつもは「サハディーズ」で買っているけれど、ついでだし、ここで買って帰るのもいいかも。そう思い、クミンシードの入った小さなガラスのボトルを手に取った。
そしてそのまま、上から下へ、右から左へ、と棚の隅々まで視線を移動させていると、製菓用の材料が揃えてあるコーナーに辿り着いた。
そうだ、土曜日にアップルパイを焼いた時にクルミがなかったんだった。そう思い出してクルミの袋を探していると、「ここにいたのか」と言いながら、ショーンがそこへ姿を現した。

「それは?」

彼女が手にしているスパイスのボトルを彼が指差して尋ねる。

「これ?」

彼の目の前にボトルをかざすと、それがクミンシードだと知った彼が軽く笑った。

「キャベツも買わなくていいの?」
「まだレシピ教えてもらってないし」
「よっぽどあれが気に入ったらしい」
「カレー用よ。決まってるじゃない」

ふん、と鼻を鳴らすように笑ったあと、彼はそこが製菓用の材料のコーナーであることに気が付いた。

「クルミ?」
「え?ああ、そう。アップルパイとかクッキーにいつも使うの」
「ふーん……」

彼は2日前の土曜日に、彼女の作ったという不思議なアップルパイを食べたことを即座に思い出した。確かあれにはクルミは入っておらず、シリアルのようなものが入っていた気がしたのだが。

「クルミは入ってなかったけど?」
「Wha ?」
「君のアップルパイを食べたんだ。サモサ風の三角形のやつ」

彼女は土曜日の夜、あのバーでの彼の「Hi , miss apple pie」の言葉を思い出した。
何故あの時彼がアップルパイだなんて言い出したのか、さっぱり訳がわからなかったのだが、今度は、何故休みのはずの彼があれを食べるに至ったのか、別の疑問が湧いた。
そして食のプロである彼に味見をされていた、と後で知るのは、あまり快適とは言えないものだが、そんな彼女の葛藤も一瞬で消え去った。
何故なら彼が「美味かったよ」と言ってくれたからだ。

「ちょうど切らしてたから、クルミの代わりにシリアルを入れたの」
「ふーん、俺としてはあのシリアルが気に入ったんだけど。って言うかさ、あんな味のアップルパイは今まで食べたことないよ。そういや姉が絶賛してた」
「ほんと?ありがとう。あれは母の自慢の味なの」
「形も面白いし、週末のグリーン・マーケットで売り出せば、NYの新しい名物になるかも」

彼の言葉に「No」と軽く笑って首を振り、彼女は先に支払いを済ませてショーンを待った。

「じゃあ次の店に行こうか」
「え?まだあるの?」

配達の手配を済ませたショーンが、笑いながら店のドアを開いた。
そして停めてあるバイクへと歩きながら、ふっと何かを思いついたように歩道で立ち止まった。

「―――Look」
「?」
「ずっと考えてたんだけど……」
「Yeah ?」
「レイに食べさせるお菓子を作ってもらえないかな」
「What !?」
「今日これから、ってことじゃなくて、その……日常的にって意味」
「日常的に?どういうこと?」
「本当はディナーのデザートまでお願いしたいとこだけど、贅沢は言わないよ」
「I……don’t get it (言ってることわかんない)」

突然の彼の提案に、さっぱり意味が解らない、という顔で彼女が肩をすくめた。

「正直、デザートまで手が回らなくてね。甘いものは苦手だし、作るのも自信ない。今のとこ、買ってきたやつを適当にデコレーションして出してるけど。それとは別に、レイには……何て言うか……ホームメイドの素朴なお菓子みたいなものが必要な気がしてさ」
「どうして私なの?そんなお菓子ならそこらじゅうで売ってるのに?」
「No , 買ったものじゃ意味がないんだよ」
「Why ?」
「ちょっと前にクッキーを焼いてあげてたろ?レイにも手伝わせてさ」
「そうだけど……」
「あの時、レイのやつすごく楽しそうだったし、ああいう時間をもっと作ってあげられたらいいなと思ってて。ほら、大きな声じゃ言えないけど、キャサリンはそういうのを作るタイプの母親じゃないだろ?」
「さあ……」
「レイは女の子じゃないし、そんなの必要ないって言われればそうかもしれない。だけど、『何かを作る』とか『手伝いをする』って経験は、子供にとってすごく重要だと思うんだ」
「……Yeah……You’re right (そうよね)」
「工作とか絵とか、何もお菓子に限ったことじゃないんだけど、君のあのアップルパイやクッキーを思い出したら閃いてさ」
「Oh……」
「もちろん毎日とは言わない。君の仕事は俺のアシスタントじゃないし、レイの子守や家庭教師がメインだってことはよく解ってる。その仕事の一環としてって言うと都合良すぎるだろうけど。君の仕事の邪魔をしない程度でやってくれればいいんだ」
「週に1回とかでもいいの?」
「Yeah , 2週間に1回、いや、1か月とか、いや、3か月に1回でもいいんだ。Oh , ちゃんと報酬も支払うよ」
「クリフォード家のキッチンで、ってことよね?あなたの邪魔にならない?」
「もちろん。そこは気にしなくていい」
「……OK, わかった。やってみる」
「商談成立」

彼が握手を求めて手を差し出したので、それに応えて彼女も手を差し出した。それは、エレヴェイタ―の中での、再会の日以来の握手だった。
彼の手ってこんなに大きかったっけ。そう思うのと同時に、昨日マグカップを受け取る時の出来事を思い出してしまった。
それだけでもまた彼女の心がぐらぐらと揺れて落ち着かないというのに、彼ときたら、またあの表情で首をかしげて彼女を見ているのだ。
またしても心がキュッと縮れる音がして、彼に聞こえやしなかったかと彼女は内心慌てていた。







その後、人気のスウィーツ店を2つ3つと巡り、彼女の助言に従っていくつかのスウィーツを買い、クリフォード家に戻った。
甘いものが苦手な彼にとっては、毎回それらを選ぶのも苦手で、だから彼女を買い出しに誘ったのだと知った。
クリフォード家に戻ると、まだ仕事中のキャサリンが、レイの様子を見に一時的に帰宅していた。
キャサリンは、休んでいいという連絡を受けながら見舞いに来たラムカに礼を言うと、ショーンへ「ちょっといい?」と声をかけた。
買ってきたスウィーツを冷蔵庫に仕舞うラムカの背後で、キャサリンが彼に「取材の依頼が入ったの。受けてもらえる?」と話している声が聞こえる。

「取材?」
「そう。さっき『Foodies journal』から取材の申し込みがあったの」
「アマンダ?」
「そう、彼女からよ。何でもNYのプライヴェート・シェフの特集を組みたいんですって」
「うーん……正直、あまり気が進まないんだけど」
「せっかくのチャンスじゃない、断る理由が解らないわ」
「取材とか撮影とか、そういうの苦手でね」
「私はOKしたわよ。あとはアマンダと直接話して決めて」
「わかった、そうするよ」


彼がアマンダと楽しそうに話をしていた姿を思い出し、再び彼女の心がぐらぐらと揺れる。やっぱり何だか落ち着かない。
けれど、取材はきっと彼にとって、ひとつのチャンスなのだろう。それは喜ばしいことであり、彼女自身、想像するだけでも高揚した。
キャサリンが出て行った後も、彼は腕組みをして、じっと考え込んでいる様子だ。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう―――後になって彼女はそう後悔することになるのだが、気が付けば、考え込む彼にひと言、こう声をかけていた。

「やってみれば? 何か出来ることがあれば、私も手伝うから」




Magnet 33.「Appetizers ? Main dish ! - メイン・ディッシュは前菜の前に - 」





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ウエストヴィレッジ  10:15 a.m.


昨日の夜、思いの外飲み過ぎてしまったせいで、いつも以上に遅い時間まで眠りを貪っていた彼は、電話の音に起こされた。
どうもここのところ、酒の量は増えていく一方で、なかなかすっきりとしない朝が続いている。
電話はアマンダからだった。例の取材の件で話がしたいからと、その日のランチへの誘いの電話だった。
『取材は気が乗らないよ』と言ってはみたのだが、アマンダが取りあえず話だけでも聞いて、と言うので、仕方なくランチに出かけることにした。
彼女が指定した店はソーホーにあった。いかにもソーホー界隈をうろうろしていそうな、モデル風情やファッション・アディクトな人間、アートディーラーっぽい人種が列を成していて、入り口はかなりの混雑を見せている。
『ご予約のお名前は?』と聞かれ、アマンダの名前を出すと、軽く20人以上並んでいた人々を出し抜いて、すぐに席に通された。
なるほど、その仕事ぶりから言って、アマンダはこの業界において、かなりの影響力を持っているらしい。そして、同じようなパワーを持ち合わせた女を、彼はもう一人知っている。
そのもう一人の女の顔を思い浮かべて小さく息を吐いた時、「待たせたわね」と聞き覚えのある声が背後から彼の耳に届いた。

「Hi」
「Hi Sean , 長く待った?」
「いや、さっき来たばかり」
「そう、良かった」

軽い話をしばらく続けた後、彼は薦められるままに適当にメニューを選び、とりあえずアマンダの言い分を聞くことにした。
彼女は、そう大きな特集ページではないし、数人の人間に取材をすることになるだろうから、ほんの小さなカットしか掲載されないかもしれない、と言った。
だからそこまでプレッシャーを感じる必要はないのだと言う。
それはそれで、せっかく取材を受けるのなら、大きく扱って欲しいと内心で思ってしまうのが人間だとも言えるが、彼は、顔や名前を売ったりすることにはあまり興味がない人間だったから、
やはりあまり乗り気にはなれなかった。
そしてそれは、彼の自信の無さを表しているとも言えた。彼は、自分程度の料理人など、掃いて捨てるほどいる、そう思っていたし、ただ単に料理を作ることが好きなだけの、どこにでもいる普通の男だと思っている。
いや、そんな彼にもチャンスが巡ってきたことがあるにはあった。名店と言われる店でスー・シェフになれた後、新しくオープンさせるレストランのシェフとして働かないか、と引き抜きにあったのだ。
結局はその時の経済状況と経営側とのタイミングが上手く合わず、その話は撤回されてしまった。
あの時に覚ったのだ。やはり自分はそういう「華やかなビジネス」向きの人間ではないのだろうと。
彼は、好きな料理が作れるなら、場所やシチュエーションはどこだろうと何だろうと構わないのだ。


「―――どうしてそんなに自分を低く見てるの?」
「そう見える?」
「そうとしか思えないわ」

アマンダは、取材を拒もうとするショーンに、理解出来ない、と言いたげな瞳を向けた。

「低く見てるつもりはないよ。身の程を知ってる、それだけだ。俺はピエール・ガニェールやアラン・パッサールにはなれないし、なりたいとも思わない」
「じゃあ言い方を変えるわ」
「?」
「協力して。私を助けて欲しいの」
「What?」
「知ってると思うけど、今雑誌は昔ほど売れない時代なの。このご時世に廃刊にならないだけでもありがたいことだけど」

思いもよらないアマンダの言葉に、彼は瞳を見開いた。

「インターネットでのアプローチももちろん大切な要素だけど、私は昔ながらの紙媒体が好き。ページをめくるたびにわくわくするような、そんな雑誌作りをずっと目指してきたの。この雑誌は私の全てと言ってもいいわ。一人でも多くの人に手に取って欲しいし、素晴らしい店や料理、器、コーディネート、それを作った人、生産農家、それらに関わった人たち。
一人でもたくさんの人に知って欲しいし、もっと『食』の大切さに目を向けて欲しい。そんな思いで毎日駆け回ってるの」

辛口のコメントで有名な彼女の口から、これほど熱い言葉が出てくるとは思いもしなかった。
好意的とは言えない評価をする人間、それが彼女について回るパブリック・イメージだったからだ。
だが、彼女の言葉でひとつ解ったことがある。パブリック・イメージなどと言った実体のないものなど、信じるに値しないものかもしれないと。

「……訊いていいかい?」
「どうぞ」
「以前に比べて『ジジ』が落ち始めてる、この間そう言ったよね?」
「ええ」
「たった1回の食事でそう思った?」
「No , 1度だけなら運が悪かっただけと思うわ。たまたまシェフが不在だったとか、コンディションが悪かったとか、作るのは機械じゃなくて人間だもの。そんな時もあるでしょう。でもね―――」
「?」
「料理だけを言ってるんじゃないの。電話の応対やサーヴィスの質、従業員の態度、全てにおいてどんどん劣化してきてる。何て言うのかしら……全てが悪循環に陥ってるって感じね」
「じゃあ、それを記事に書いたとして―――」
「―――実際書いたわ」
「そう、じゃあそういう時、君の中に躊躇いは一切ないの?」
「あるわよ、もちろん。私だって悪口なんて書きたくないもの。ただ、大好きだった店が落ちて行く姿をただ見てるだけなんて、そんなこと私には出来なかった。何とか立て直して欲しいと思って書いたの」
「そうか……」
「悪く書かれそうで心配なのね?」
「No……no , そんなこと、考えてもないよ」

いたずらっぽく上目遣いで笑う彼女に苦笑を漏らし、彼はグラスの水をひと口飲んだ。

「……君を知りたかった。ただそれだけさ」
「Well , それって……この会話を違う方向へと導こうとしてる?」
「はは……まさか」

再びいたずらっぽい瞳で見上げる彼女に笑みを返し、彼は軽く肩をすくめた。




結局、彼は彼女に、返事は待って欲しいと伝えた。
その後、彼女と別れてから仕事に向かう途中に立ち寄った、小さなチーズ専門店。
その店のレジの横に、『私たちの店が雑誌に掲載されました』という文字とともに、アマンダの雑誌のページが飾られていた。
そのページを読む彼に、店の店主が少し照れくさそうに、けれども誇らしげな笑顔を向けた。
そして彼は、店を出た後、アマンダに電話をかけて、『さっきの話、受けることにするよ』と伝えた。
彼女の熱意に動かされたことも大きいが、自分の身の程を知っていると言うならば、これくらいのことなどきっと何でもないはずだと、そう思えたからだ。
店の中を外から覗くと、さっきの店主が彼に気付いて、しわだらけの笑顔を向けて手を振った。店主に笑みを返し、彼はバイクのエンジンをかけて、ゆっくりと北へ向かって走り出した。











ミッドタウン・ノース 『Bruno Bianchi NY』 7:45 p.m.

(*R18…とまではいきませんが、この先は男性同士の描写があります。苦手な方はご注意ください)


その日、仕事を終えたミシェルがスタッフルームへ行くと、先にその部屋に来てメイク直しをしていたベティが、彼に気付いて振り返った。

「ミシェル、この後エミたちと飲みに行くけど、あんたも来ない?」
「あー……ごめん、これからミゲルと会うんだ」
「マジで! へえー、順調じゃん」
「ふふっ、まあね」
「やだー、彼氏出来たの?」

その部屋にいた仲間のロドニーが声を上げた。

「ひどいっ!あたしというものがありながら!」
「Oh , sorry honey , 確かに君という大切な存在を忘れてたよ」
「ぶっ」

ゲイ、ストレートを問わず、男性スタッフ全員に「好き、好き」とアピールしてはいちゃいちゃしたがるロドニーを誰も本気で相手にしないので、毎回こういう会話が繰り返されているのだが、そのロドニーが大げさな嘘泣きを始めたので、ベティが笑いをこらえて肩を震わせた。
その場にいたランディもぶっと噴き出し、ミシェルと一緒にやれやれ、という顔で肩をすくめている。

「そうだ」

ベティが思い出したようにミシェルを振り返る。

「ねえ、いつ彼に会わせてくれるのよ」
「んー、そのうち!」
「早いとこ会わせてよ。逃げられる前にさ」

ベティの軽口にふん、と軽く鼻で笑い、手にしていた仕事道具やルイ・ヴィトンのメイクボックスをロッカーに仕舞うと、彼はくるり、とベティのほうへ向き直った。

「そのメイク、ケバすぎない?」
「は!?」
「じゃ!」

ベティから何か飛んでくる前に急いでその部屋から逃げ出せたので、閉めたドアにカツン、と何かが当たった。
あの音は何だろう、フェイスブラシか何かかな。彼はふふん、と再び軽く笑いながら店のドアを開き、外の空気を浴びた。そして大通りへ出てキャブを捕まえ、行き先を告げた。
以前、ミゲルのアパートメントからの帰り際に、こじんまりとしてはいるが、なかなかに質の良いワインショップを見つけていた彼は、キャブを降りてまずはその店に向かった。
初めは、ピノ・グリージョか何か、きりりと冷えた辛口の白ワインでも買おうかと思っていたが、結局は店主が薦めてくれたシャンパンにした。
良く目にする銘柄ではなかったが、最近ニューヨークのレストランでも扱われ始めたもので、有名なメゾンのものにも決して引けを取らない、と言う店主の言葉に賭けてみたくなったのだ。
運よく冷えたものが1本だけ残っていたので、それを買うことにした。
『デートには最高の1本だよ』―――後に彼は、店主のその言葉を身をもって実感することになるのだが。





ブザーを鳴らした後、ドアを開いた男から、ふわり、といい匂いが漂うのに気付く。
香水やシャンプーといった人工的な匂いではない。ニンニクやハーブが混ざったような、つまり、美味しそうな匂いを漂わせていたのだ。
部屋に入ると、さらにいい匂いがして、キッチンのほうを覗くと、小さな鍋が火にかけられている。

「! 料理するの!?」
「? そんなに意外か?」
「Non , そうじゃないけど……」

でもさすがはイタリア男、って感じだね―――ミシェルのその言葉に、男は木製のターナーで鍋の中身をかき回しながら、『半分だけどね』と軽く笑った。

「それは?」
「ああ、この近くのワインショップで」
「ビリーの店のか。じゃあ間違いないな」

Thanks、とミシェルに向かって言うと、男は鍋の火を止め、戸棚から銀色のワインクーラーを取り出して、シンク横の作業台の上に置いた。

「グラスある?」
「ああ」

男は、更に別の棚から細長いシャンパングラスを取り出し、それをミシェルに手渡した。

「ねえ」
「?」
「シャンパンより先に味わいたいものがあるんだけど」

そう言って、ミシェルが男に挨拶のような軽めのキスをした。

「……会いたかった」

ミシェルの言葉に『Me too』という返事はなかった。だが、言葉を返す代わりのように、男はミシェルの頬や唇にいくつかのキスを重ねた。
そのまま貪り返してしまいたい欲望をこらえて、とりあえず、シャンパンを開けることにした。
彼はフランス語で書かれたエチケット(ラベル)の文字を流暢な発音で読み上げると、『楽しみだ』と言いながらキャップシールをまずは剥がしにかかった。
次にシャンパンのボトルを斜めに傾け、コルク栓を指でしっかりと押さえる。
決してコルクを回さないよう、ボトルの底のほうを回しながら、音が立たないようにそっとコルク栓を外し、細い糸を垂らすようにグラスに静かに注ぎ入れる。
ミシェルの慣れた手付きに男が『Bravo』と言ってグラスを受け取った。
そして軽くグラスをぶつけ合い、質の良いクリスタルだけが鳴らすことの出来る高く澄んだ音を、まずは耳で味わった。
そこから立ち上るフレッシュな芳香を鼻腔に送り、舌の上にそれを流し込む。ゆっくりと口に含ませて、口内の細胞のひとつひとつにじんわりと沁みこませるようにそれを味わい、そして静かに飲み落とす。
蜂蜜のようなコクと華やかな香りが後から遅れて口内と鼻腔に広がるのを楽しみ、互いに「悪くない」という満足げな表情で眉を上げ、そして再びグラスへと唇を寄せる。

「ん、本当だ。なかなかリッチだね」
「ああ」
「あ、さっきより香りが立ってきた」
「ん……」

男がグラスに唇を寄せるたびに、グラスにさえも嫉妬した。やはり欲望を抑えきれそうにない。ミシェルは、氷を取るために彼の前を横切ろうとしたミゲルを捕え、唇を奪った。
シャンパンの香るキス。吸い上げるような音を何度も立て、男の唇とその中身を味わう。唇を離すと、男の唇が濡れていた。
そしてそれは、ふっくらとして赤みのある、男の形良く丸い唇を、更に欲情的に見せている。それを見てますます抑えが効かなくなったミシェルは、男の手からグラスを奪い、それを軽くひと口含んで、再び男に口付けた。
ミゲルの息遣いとシャンパンの香りとを舌ごと吸い上げ、じっくりと味わうように湿った音を立て続ける。唇を離すと、男は、見上げるような鋭い視線をミシェルの瞳に突き刺した。
彼の心を虜にした、あの日の扇情的な視線と同じ色の瞳。そう、この瞳が欲しかった。この瞳で僕を見て欲しかったんだ。
男の鋭い視線を受け止めたまま、男のシャツのボタンに手をかけ、外していく。
闇色のシャツを肩から剥ぎ取り、男の首筋を唇と舌で甘く犯す。首から頬へ、そしてようやく探し当てた唇を再び奪った。
男はミシェルの髪に手を差し込むと、彼に応えるように激しい口付けを返した。そして同じようにミシェルのシャツのボタンを外し、彼を後ろ向きにして壁に押し付けた。
シャツを肩から脱がせ、背中の羽に唇を這わせ、後ろから乱暴に彼のベルトを外す。

「あ……」

続けて後ろからミシェルのパンツのフロントボタンを外し、そこへ侵入させた手でミシェルを攻め始める。ミシェルは後ろ手に男の首に指を伸ばし、男の髪と自分の呼吸を乱した。

「ん……」

振り返るように首を傾けて、少しずつ荒くなる息遣いを唇で吸い取ると、2人はそのまま口付けながらベッドまで移動した。
勢いよく倒れこんだ瞬間、ベッドが軋む音を立てる。そのうちに、まるで悲鳴を上げているかのように、更に大きな音でベッドが激しく軋み始める。
やがて、ああ、と言う声と共に、ミシェルの瞳の端からクリスタルのように澄んだものが流れ落ち、次の瞬間、男が溜息と共に最後の瞬間を迎えた。
自分の上に崩れ落ちた男にしがみつくように背中まで腕を回し、肩に口付けながら、指を差し入れるようにして男の髪を撫でる。ミシェルの優しい愛撫に、男は顔を上げて、甘い口付けを彼に返した。
それから体を離して横たわり、唇を重ねた後、ミシェルが『ああ』と溜息を吐いた。

「……ねえ、僕たち……待ちきれずに先にメインディッシュ食べちゃったんだね」

2人は、ミシェルの言葉にくすくすと笑いながら、再び唇を重ね合った。





それからしばらくして、食べるものとさっきのシャンパンを乗せたトレーをミゲルがベッドまで運んで来ると、ベッドに体を起こしたミシェルがギターを抱えていた。ベッド脇に置かれていたものを拾い上げたらしい。

「子供の頃、学校で少しだけ習ったんだけどなあ。もう忘れちゃったよ」
「『キラキラ星』か?」
「Uum…… kind of (そんな感じ)」

ギターをベッドに立てかけるようにして床に置き、彼はミゲルがキッチンから運んできた料理を食べ始めた。

「んー、美味しい!」
「だろ?」

ミゲルはそう言って軽く片方の眉を上げると、ミシェルが床に置いたギターを手に取り、ミシェルの横に腰かけて何かを弾き始めた。
スペインかどこかの、ヨーロッパの荒野を思い浮かべるような、少し悲しげで美しいメロディ。

「Oh my God , まだ僕を君にメロメロにさせたいの?」

ミシェルの言葉に男は軽く笑ってギターを弾き続けたが、ふっと指を止め、振り返ってミシェルのほうへと視線を向けた。

「……」
「Wha?」

男は何も答えずにミシェルの瞳を見つめ、『何でもない』と言いたげに小さく首を振って瞳を伏せた。

「What !?」

再びミシェルがその視線のわけを知りたがったが、男は首を振るばかりだ。

「I just……」
「?」
「……just ……nothing……」

こんな時、いくら『教えて』と懇願しても、男は決して何も言ってはくれない。ミシェルにもそれはよく解っていたので、それ以上訊くことはやめた。
この時、男の胸の内にあったもの。それを今のミシェルが知り得ることはない。
けれど、男の瞳の色や表情から、決して悪いことではないのだと読み取ることは出来た。
何しろ男は、今まで見せたことのないような、とても穏やかで優しい色を湛えた瞳でミシェルを見つめていたのだから。









Magnet 34.「It's too late for a gimlet - ギムレットには遅すぎる - 」





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マンハッタン……のどこか  8:25 a.m.

ぐーがっ………ぐーがっ……―――耳障りなくせに規則正しく鳴り響くいびき。漂う不快な酒臭さ。
何でダディがここに? それともこれは子供の頃の夢? 

「……ん……」

ずきん、と痛む額に手を当ててうっすらと瞳を開ける。
次の瞬間彼女は飛び起き、隣でいびきをかく見知らぬ男の顔を見下ろした。
だ、誰!?

「いっ……」

再び襲う頭痛に顔をしかめ、こっそりとベッドを抜け出して、散らばった服をかき集めた。
昨夜のことを思い出すことより先に、急いで服を身に着け、忍び込んだ男のバスルームで鏡を覗く。
ラムカみたいに、もしここにショーンがいれば、同じようにマリリン・マンソンだと言われたことだろう。
そんな悠長なことを考えている暇はないのだった。急いで逃げ出してしまわないと!
彼女はこそっとバスルームから部屋に戻り、男がまだいびきをかいてぐっすりと眠っているのを確認すると、その部屋から逃亡を図った。
すぐに通りでキャブを拾い、チェルシーにあるミシェルの家まで戻り、バスルームに駆け込んだ。
シャワーを浴びて、ミシェルの部屋をノックする。返事はない。そうだった、昨日彼はミゲルのとこ行ったんだっけ。
時計を見ると、急いで支度しないと遅刻しそうな時間だったので、慌てて支度をして家を出た。
地下鉄の中で、ぼんやりと昨夜のことを思い出してみる。クラブでエミやランディたちと飲んでいたのは憶えている。
どのあたりから記憶がぶっ飛んじゃってるの?えーっと、確か踊ってたら男が寄ってきて……カウンターで一緒に酒を飲んで……
どう頑張って思い出してみても、彼女の記憶はそこでぷっつりと消えている。ただし、体の中心部には、その後の記憶がしっかりと残されていた。
やだ、じゃあやっぱりあの男と…!? 嘘でしょ!? ―――彼女は道の真ん中で頭を抱えて立ち止まった。
やっとの思いでサロンにたどり着き、ガラスのドアを開ける。こんなにこのドアが重いと感じたのはこれが始めてだ。
そしてさらに奥のスタッフルームのドアノブに手をかける。表のドアよりも数段重い。彼女はえいっと気合を入れてそのドアを開いた。
途端に、中にいた数人がいっせいに彼女に目を向けた。彼らの表情を見て、昨夜とんでもない姿を仲間に晒してしまったのだろう、すぐにそう覚った。

「―――Good morning ! Queen Elizabeth !」
「Shut up !」

ニヤニヤするランディにそう声を上げると、彼女はロッカーを開けて荷物を仕舞い、大きな音を立てて扉を閉めた。


それからおよそ1時間後、遅番のエミが出勤してきたので、彼女はエミを捕まえてパウダールームに駆け込んだ。
昨夜あたしに一体何が起こったの!?―――そう恐る恐る尋ねるベティに、エミは『聞かないほうがいいかも』そう言って肩をすくめた。
お願い、話して、そう懇願すると、どうやら彼女は昨夜、かなり酒に酔ったようで、寄ってきた男とカウンターで激しくキスをしたり、今にもそこで脱ぎ始めてことを始めそうな勢いで、その男といちゃついていたのだそうだ。
出会ったばかりの知らない男と一夜を共にした、それ自体はこれが初めてではなかったし、その時に盛り上がった気持ちを優先した結果であり、後悔したことはなかった。そこから恋が始まったことだってあったのだから。
けれど、そんな痴態を仲間に晒した挙句、記憶のない状態で見知らぬ男と寝ただなんて!ありえない!それだけはすまいと心に誓っていたのに!
それでも彼女は何とか気持ちを切り替え、予約の客の施術はこなすことができたが、合間に出る溜息に自分で溺れそうになってしまった。
途中、何度かミシェルの方へと目線を送ったが、彼は昨夜のベティのことは何も知らない様子で仕事に没頭している。
そのうちに昼の休憩時間になってしまったので、彼女はひとり、向かいのカフェへとぼとぼと歩き出した。
カウンターにポールの姿はなかった。何故かそのことにホッとするような思いで、彼女はフレンチトーストとコーヒーを注文し、珍しくサロンに戻らずにカフェの店内の席に座った。
またスタッフルームで仲間にからかわれるのはごめんだったし、今は独りになりたかったのだ。
ぼーっとした顔でコーヒーを飲み、頬杖をついたまま窓の外へと視線を向けると、ミシェルが外へ出ていくのが見えた。どこかへランチに出かけるのだろう。
あーあ、やっちゃった……あたしってほんと馬鹿―――出るのは後悔と溜息ばかり。いわゆる『自己嫌悪』というやつだ。酒の失敗ほど恥ずかしいものはない。
先日、他人事のようにラムカのそれを茶化して笑っていたのに。ごめんラムカ。ほんと、全然笑えない、こんなの。

「―――Are you alright ?」
「……あ?」

声に顔を上げると、ポールがそこに立っていた。

「Hi , Paul」
「Hi , ひどい顔してるよ、ベティ。どうかしたのかい?」
「Uum……何でもない……って嘘になるか……」

だいじょうぶ、ちょっと失敗しちゃって……落ち込んでるだけだから―――彼女は精一杯の虚勢を張り、ポールに笑顔を向けた。

「Um……元気出して、ベティ」
「……Thanks」
「ああ、こんなことしか言えなくてごめん。僕に何か出来ることがあればいいんだけど―――」
「―――No no no , だいじょうぶよ。ありがとう、ポール」
「コーヒーおかわりするかい?」
「……ううん、それより、NYいちのカプチーノ、淹れてくれる?」
「OK , 待ってて」

ベティに笑顔を向け、ポールがカウンターの方へと歩いて行く。
その一部始終をこっそりと見ていたジェニーの鋭い視線にも気付かずに、ポールは真剣な表情でベティのためにカプチーノを作っている。
数分後、ベティの目の前に置かれたマグカップ。彼女はそれを見てくすっと笑い、少しだけ潤んだ瞳で、ポールに『ありがとう』と笑みを向けた。
彼がベティに運んできたカプチーノには、キュートなスマイルマークのラテアートが描かれていた。










ミッドタウン・ノース 1:45 p.m.

その日の正午過ぎ、彼女はミッドタウン・ノースにあるレストランでランチをとっている。ファッション雑誌の編集者とのランチ・ミーティングのためだ。
いつもなら広告の担当者に任せる仕事だったのだが、この雑誌の編集者・クレアとは古い付き合いの友人でもあったので、この雑誌の仕事に関してはブランドの代表者である彼女が直接出向き、打ち合わせをするのが常だった。
そのクレアが仕事関係の電話のためにテラスへと出て行った。その間、キャサリンは何気なくきょろきょろと店の中を見渡し、そして、離れたテーブルにミシェルの姿を見つけ、笑顔で席を立った。

「―――Excuse me」
「―――Cath !」
「Hi , Michel !」

席を立ったミシェルとハグしながら頬にキスを重ね、彼女はミシェルの向かいに座る男の顔に目を向けた。

「ああ、キャス、彼はラッセル。ラッセル、こちらキャサリン」
「はじめまして。ラッセル・チェンバースです」
「キャサリン・クリフォードです、よろしく。邪魔をしてごめんなさいね」
「とんでもない」

もしや、この彼が例の『運命の相手』?―――キャサリンがラッセルと自分の顔を交互に見て、そう言いたげな目をミシェルに向けたので、彼は笑って首を横に振った。

「Non , 残念ながら、彼は僕の親友」
「そうだったのね」
「前に話した彼となら、上手くいってるよ」
「そうなの!良かったじゃない!」
「うん、ありがとう」
「Uum……ミシェル、その……」
「Yeah ?」
「えっと……Oh , 友達が戻ってきちゃった。また電話するわ」
「OK , 待ってる」
「お邪魔したわね」
「No ploblem」

ミシェルとラッセルに笑みを向けて彼らのテーブルを離れると、彼女は自分の席に戻り、クレアとのミーティングの続きを始めた。


「―――彼と上手くいってる? まさかキースとよりを戻したわけじゃないよね?」
「違うよ。新たな恋、ってやつ?」
「Whoa , congratulations ! いつの間に?」
「君がNYに戻る少し前かな……いや、あとだっけ」

ラッセルにミゲルのことを軽く報告していると、ラッセルの電話が鳴り、彼は届いたテキストを読むなり声を上げた。

「Oh Jeez , 悪い、オフィスに戻らないと」
「マジで」
「またゆっくり夜にでも会おう。あ、ベティも一緒にどうだい?」
「OK , 伝えとくよ」
「じゃあな」

多めの金を置いてラッセルが席を立つ。全く、いつでも例外なく忙しい奴だ。
軽く笑って時計を見る。彼もそろそろサロンに戻らなくてはならない時間のようだ。
帰り際、キャサリンの方をちらり、と見ると、彼女が彼に気付いて手を上げたので、指先で彼女にキスを送った。



それから数時間後、彼のiPhoneに届けられた、彼女からのメッセージ。
『週末、家で軽いパーティーを開くから、ベティやラッセル、それから例の『運命の彼』を連れて是非、遊びに来て!』―――メッセージにはそう書かれていた。










ミッドタウン 7:15 p.m.

クリフォード家からの帰り道、彼女はミッドタウンを西の方向へと歩いている。ベティとミシェルの2人と合流するためだ。
それは仕事中にベティから緊急事態の召集がかかったからなのだが。
待ち合わせのカフェに辿り着くと、まだ2人は来ていなかったので、取りあえず見つけた空席に腰を下ろし、2人を待つことにした。
バッグの中から携帯電話を取り出してテーブルに置き、それから次に小さい本のようなものを取り出した。
それはハンドサイズのお菓子のレシピ集で、例のショーンからのオファー以来、持ち歩いているのだった。
しばらくそれを眺めているうちにベティがやってきて、ラムカの目の前にどかっと勢いよく腰を下ろした。

「Hi」
「―――今すぐあたしを撃ち殺して!」
「Wha ?」

いきなり物騒なことを言い出すベティに怪訝な顔を向ける。

「一体何事?」
「Please kill me NOW!」
「……ぷしゅ!」

今すぐに!と強調してベティがそう言うので、ラムカは指で作ったピストルでベティを撃つ真似をした。

「Uummm……」

そう声にならない声をあげたきり、死んだふりでもするように、テーブルに伏せたまま動こうとしないベティに業を煮やし、ラムカははーっと息を吐いた。

「いい加減白状しないと帰るよ」
「……やだ。帰んないでよう」
「ねえ、一体どうしたの、何があったって言うのよ」
「………」
「……言いたくないならいいわよ。でも死んだふりはミシェルが来るまでよ、いい?」
「うー……」

やれやれ、という顔をしてベティから顔を上げ、手元のレシピに再び目線を移す。
相変わらずベティはテーブルに突っ伏したまま動かないでいる。
仕方なく彼女はしばらくの間ベティを放ったまま、レシピに目を通していた。

「………知らない男と寝ちゃった」
「ん?」

死んだ振りのまま寝てしまったのかと思うほど、じーっと動かないでいたベティが、突っ伏したままボソリ、と呟いた。

「今何て!?」
「聞こえたくせに」
「いつよ!?昨日?」
「うん」
「それってでも……」
「もう最悪だよ」
「ねえ―――」

そこへ遅れてミシェルが到着したので、ラムカはミシェルに手を上げて合図を送った。

「―――お、逝っちゃってるねえ」
「さっきからずっとこんな調子よ」

3人揃ったので、カフェの店員に取りあえず適当に注文を済ませると、ミシェルとラムカは顔を見合わせ、テーブルに伏せたままのベティへと視線を向ける。
やがて、少し落ち着きを取り戻したベティが一部始終を話し始めたので、彼らの会合が正式にスタートした。

「―――で、何でそんなに落ち込む必要があるのさ」
「そうよ。別に初めてのことじゃないじゃない」
「No no no , 今までのはさ、ちゃんと意識があって、自分でそうしたいと思ったからそうした訳じゃない?だけどさ……」
「酒で記憶がぶっ飛んでたから?」
「色々最悪だけどさ、何が一番悔しいかってね」
「うん?」
「せっかくセックス出来たってのに、楽しかったとか気持ちよかったかどうかなんて、何一つ憶えてないってことよ!」
「えっ、そこ!?」
「あー……」
「憶えてないならやってないのと同じじゃない!それなのにみんなの前で恥だけかいちゃってさ、ほんとバカみたい」

そう溜息を吐くと、ベティは腹立ちまぎれにミシェルの皿にフォークを突き立て、彼のポーチトエッグを勝手に潰した。

「Oh , thank you」
「Aww……」

ベティがラムカの料理も狙おうとしたので、彼女はさっと皿をベティから遠ざけ、やめなさい、とばかりにベティに人差し指を向けた。

「ねえ、やってないのと同じなら、もう忘れちゃいなよ。そんなの、なかったことにしちゃえばいいのさ」
「そうそう。きっと夢でも見たのよ。ほら、欲求不満だっていつもこぼしてたじゃない?きっとそのせいでそんな夢見ちゃったのよ」
「Uum……」
「ね、しばらく禁酒しようか?私と一緒に」
「ぶっ」

立て続けに酒の失敗をやらかした女同士、噴き出した。ようやくベティの顔に笑顔が戻った瞬間だった。

「これも経験だよ、ベティ。僕だって酒の失敗は数知れず。そうそう、昨日だってミゲルと―――」
「―――今のろけたら殺すよ」
「……Oui」

ラムカとベティの2人が指で作ったピストルをミシェルに向けたので、彼は軽く両手を上げ、それ以上ミゲルの話をすることはやめた。

「―――Oh ! そう言えば―――」

突然ラムカが何かを思い出したように声をあげた。

「週末クリフォード家でパーティーするからあんたたち2人を連れていらっしゃい、って帰り際に言われたんだけど」
「ああ、キャスでしょ」
「そう」
「今日彼女に偶然会ってね。その後で僕にもメッセージが届いてた」
「彼、連れて行くんでしょ?」
「ミゲル?どうかな、一応話してみるけど」
「マジで!?うわっ!絶対連れて来てよ!」

やったー!彼に会えるー!―――さっきまでの落ち込みはどこへやら、ベティが浮かれた声を上げる。

「ねねね!ホントにミスター・パーフェクトかどうか賭けようよ!」
「ちょっと!僕の言葉を疑うの?完璧に決まってるでしょ?」
「お言葉だがねピノトー君、この世に完璧なものなどないのだよ」
「Non , 彼だけは特別!」
「そりゃあんたにとってはそうでしょうよ」
「ふふん、知らないよ」
「何が」
「僕が賭けに勝つのは目に見えてる」
「Ooh ! 言ったね!」


その後3人は、昨日の夜をリセットしようと言うベティの言葉に、久しぶりに3人でナイトクラブに出かけた。
酒の代わりにソーダを飲み、げらげらと笑い、音楽に合わせて体を揺らして、純粋に音楽と戯れて楽しい時を過ごした。
本当に楽しい時というのは、酒の力など必要としないのだ。大切な仲間と、とびきりの笑顔さえあれば。








Magnet 35. 「Much ado about nothing - から騒ぎの夜 -」





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アッパーイースト  7:15 p.m.


「―――No , no no , その件ならアトリエにきちんと伝えてあるし―――Oh , No , それは変更なしでって話はついてるはずよ?」
「そこにこの小さいタルトを並べてもらえるかい?」
「こんなかんじ?」
「Yeah , good , もう少し間隔空けて―――そう」
「―――それじゃ何も進んでないってこと?」
「―――OK , じゃあ次はタルトにこれとこれを乗せてってくれるかい?こんな感じで―――」
「うん、わかった」
「――――Ok , すぐに確認して連絡するわ」
「赤いやつを上に見えるように置いてみて。そう、いい感じだぞレイ」
「えへへ」
「―――ちょっと仕事でトラブル発生みたい。失礼していい?」
「Yes , of course」
「Bye , mom」

レイは、ため息をつきながらキッチンを出て行く母親の背中にそう声を掛けると、たどたどしい手つきでショーンの指示通りに手伝いを続けた。



本来なら休みであるはずの土曜日。彼は雇い主に頼まれ、軽いホームパーティーの料理を用意している。
招待客の1人であるにも関わらず、仕事もしているのだ。もちろんこれには特別報酬が支払われることになっている。
土曜日にいるはずのないショーンが仕事をしているので、レイが大はしゃぎでキッチンに姿を現し、手伝う、といって聞かないのだった。
当然ながら一人でも手を貸してくれるのはありがたいのだが、5歳の子供に難しい手伝いはさせられない。
見かねたキャサリンがレイを連れ戻しにキッチンにやってきたのはいいのだが、仕事の電話がひっきりなしにかかってきた挙句、トラブル発生だと言って結局は出ていってしまった。
さて、次は何を手伝ってもらおうかな―――と考えを巡らせる余裕もなくなってきた。レイの相手までしているせいだとは思いたくないが、思った以上に作業に時間がかかってしまっているのだ。
仕事絡みや緊張する相手を招待しているわけでもない気軽なパーティーなんだし、とキャサリンは言うが、ホームパーティーとは言え、報酬を貰う以上、手を抜くわけにはいかない。
そんなことはプロとして彼のプライドが許さない。いや、そんな当たり前のこと以前に、顔見知りが集まるからこそ、軽くつまめる食事ばかりと言えど、決して手抜きはしたくないのだ。

「―――Hi , guys 」
「Hi , Sherry」

そこにタイミングよくラムカが現れたので、ショーンは心底ホッとしたような顔で彼女を振り返る。

「レイ、シェリー先生にもそれを教えてやって。一緒にやったらきっと楽しいぞ」

『は?』と言う顔を向ける彼女に、ショーンがこっそりと『Please』と声に出さずに懇願する。

「Uum……Wow ! レイ、お手伝いしてるの?偉いのね」
「うん。―――そうだ!ぼくの『じょしゅ』にしてあげるよ、シェリー」
「Ok , thank you !」

得意げな顔のレイにぷっと軽く吹き出しそうになるのを堪え、彼女は上着を脱いでレイの傍に立った。

「うんとね、こうやってね、これをまずはタルトに乗せるの。こぼさないように少しずつだよ」
「こう?」
「ちがうよ、この赤いのをうえにするんだ。ちゃんとぼくのをみててよ」
「Oh , それは失礼しました、スー・シェフ」
「すー?」

くっくっく、と笑いを漏らし、ショーンが振り返る。

「Ok , 上出来だ。助かったよ、レイ。ありがとな」
「えー、もうおわり?」
「今のとこな」
「Ok , またいつでもよんで、シェフ」
「Yeah , I will」

そう言って彼はレイの頭を撫でるとにっこりと笑みを向けた。
キッチンから出ていくレイの後姿を見送り、ラムカが作業台に両手をついてきょろきょろ、とそこに乗せられたものを見渡す。

「それで?次は何をすればいい?」
「Uum……じゃあそこの天板のアボカドをこの皿に並べてくれるかな。整然と並べるんじゃなくて、散らす感じで」
「Alright」

結局は手伝うことになるのよね、と言いたげな顔で肩をすくめ、彼女はショーンの指示通りにアボカドを皿に並べ始めた。







「―――ええ、そうしていただけると助かるわ。そうね、じゃあその件も確認して折り返し連絡するわね。Bye」

廊下をウロウロ歩き回りながらの電話を終え、ふーっと息を吐いてしばしあれこれと考えを巡らせる。
ある程度考えがまとまり、まず初めに連絡すべき先の番号を探していると、エレヴェイターの到着する音が聞こえた。
間を置かず、すぐに玄関ドアのベルが鳴ったので、『私が出るわ』と奥の部屋にいるナディアに聞こえるように言い、彼女は足早にドアの方へと向かった。
ドアを開くと、そこに立っていたのは、ワインボトルを手にしたミシェルだった。

「Hi Cath , お招きありがとう!」
「ミシェル!いらっしゃい!」

キャサリンはミシェルと抱き合って頬にキスを重ね、ミシェルの後ろに立つ男の顔を見て瞳を丸くした。

「ミゲル!」
「Hi Cath」
「Hi ! 久しぶりね、ミゲル!」

2人が親しそうに頬にキスを重ねるのをミシェルが驚いた顔で見ていると、キャサリンも、ミシェルとミゲルの2人を交互に見遣り、驚いた表情を浮かべている。

「えっと……えっ?えっ? ちょっと待って! まさか……あなたたち……!?」
「Um……Well , It’s a long story」
「Oh my God !」

キャサリンがさらに驚いたような声をあげて胸に手をあてた。
ほら、だから来たくなかったんだ、そういう顔でミゲルがミシェルを振り返る。
同行を拒むミゲルと、大切な友人だから会って欲しい、と懇願するミシェルとの間で、ここ数日、激しい攻防戦が繰り広げられたのだった。
結局は渋々とミゲルが折れた。誘いを断れば、ミシェルの顔を潰してしまうことになるからだ。
当然そんなことなど知る由もないキャサリンが、ああ私ったら、と声を上げた。

「とりあえず入って。好きなものを飲んでゆっくりくつろいでてね。Oh ! 2人とも!あとでじっくり話を聞くわよ! ちょっと失礼」

そう言ってキャサリンは奥のほうへと姿を消した。
連れ立って奥のリヴィングルームへ歩き出そうとしたところで、子供の笑い声がしたので、ふたりはその声に振り返った。
レイだった。

「ミスター・アンダーソーン!」
「?」
「Ciao! Ray !」
「??」

走ってきたレイを、それまで見せたこともないような満面の笑顔で抱き上げ、レイの頬にキスをする。ミゲルのその様子を見て、ミシェルはまるで違う人間を見ているような気になってしまった。

「ご機嫌麗しゅう、殿下」
「うむ。くるしゅうない」
「はは…」
「ねえねえ、また公園で遊ぼうよ、ミスター・アンダーソン」
「いつでもお相手いたしますよ、殿下」
「Hi , ミシェル!きみもきてたんだね」
「Hi ! 元気そうだね、レイ」
「―――坊ちゃま、今はそっちに行っちゃいけません、こちらに!」

その声に振り返ると、声の主はナディアだった。
仕方なくミゲルはレイを床に下ろし、「また今度、殿下」と笑って、髪の毛をくしゃっとするようにレイの頭を撫でた。
ナディアはレイの背中を子供部屋の方へそっと押しやると、ミシェルとミゲルを交互に見遣り、少し硬い表情をミゲルに向けた。
ミシェルがナディアに挨拶しようと口を開きかけた、その時だった。

「……Ciao Ma (やあ、母さん)」

ミゲルがそう言ってナディアを軽くハグし、彼女の頬に挨拶のキスをした。

「……」

それには答えず、ナディアは硬い表情のまま、何かを言いたげにミゲルを見つめている。
そして彼女は小さく息を吐いて瞳を伏せると、今度は慈愛を滲ませた瞳で、ミゲルの頬を軽くぽんぽんと叩くように手のひらを沿わせ、レイの後を追うようにその場から姿を消した。
「Are you alright ?」―――ミシェルがミゲルに心配そうな顔を向ける。
来てしまったものは今さら仕方ないよ、とでも言いたそうにミゲルが肩をすくめた。
その場から立ち去るようにミゲルが歩き出したので、ミシェルもその後を追ってリヴィングルームへと移動した。


「―――ミスター・アンダーソン?」
「Ha」

シャンパンの入ったグラスを手渡しながら、ミシェルが怪訝な顔を向けると、ミゲルが短く笑った。

「またひとつ、君の謎が増えたよ」
「謎?」
「そう。君って謎だらけの男だから」

まあ、そこがセクシーなんだけど―――誰も周りに居ないのをいいことに、ミゲルの腰を引き寄せ、こっそりと口付ける。

「じゃあ最新の謎を明かそうか」
「うん?」
「これはレイのお遊びで、彼にとって俺は、アンダーソンって名の架空の護衛人ってわけさ」
「架空の護衛人?」
「Yeah , どうやら彼にとっては架空じゃないらしいけど。まあ、この話は長くなるからまたそのうちに」
「あ、さっきのメイドのご婦人も!君のお母さんだったなんて驚いたよ。それでキャスやレイと親しかったんだね」

ミシェルの言葉に『Uum……』と口ごもったあと、ミゲルが軽く笑うように息を吐いた。

「……キャサリンの夫が俺のボスでね」
「! どうして黙ってたの?」
「別に秘密にしてたわけじゃない」

これで俺がここに来たくなかった理由が解ったろ?―――ミゲルがそう言って苦笑した。
ミゲルと母親のナディアには、何かわけがありそうにも見えたが、今それを口にするのは無粋だろう。
ミシェル自身、母親のアンヌとの間に、時に愛情だけでは解決出来ない複雑なものを抱えてきたのだ、理解出来る。

「まあいいや。今だけでもいくつか君のことを知ったし」

気を取り直したようにミシェルが頬にえくぼを浮かべると、キッチンの方から大きな皿を持ったラムカがリヴィングルームへと姿を現した。

「ミシェル!」
「Hi ! My Princess !」

大きな皿を窓際のテーブルに置き、ラムカはミシェルと抱き合って頬にキスをした後、ミシェルの後ろに立つ男に目線を向けた。

「ああ、ラムカ、彼がミゲル。ミゲル、こちらラムカ」

想像以上にグッド・ルッキングな男だったので、ラムカがミシェルに『Wow !』と言いたげな驚いた顔で目配せをする。
ラムカとミゲルがよろしく、と握手をして少し話をしていると、少し遅れてショーンがそこに料理を運んで来た。

「あれ、お前も来てたのか」
「お、酔っ払いのお出ましか」
「うるさい、まだ飲んでないぞ」

ミゲルとショーンが笑いながら抱き合って男同士の挨拶を交わし、ラムカだけが『?』という顔でそれを見ていると、ミシェルがショーンへと手を差し出した。

「この間は失礼。彼女を置き去りにして悪かった」
「ああ、あのあとマジで大変だったんだよ。詳しく聞く?」

ちょっと!―――不服そうにラムカがショーンの腕を軽く小突き、彼の背中を押すようにしてキッチンに再び姿を消した。

「ビックリしたー!本当にすごいハンサムなんだもの!」
「?」

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、ラムカが驚いたように呟いた。

「あー、ミシェルの勝ちかも。でもほんとフェアじゃないわよね」
「? さっきから何の話?」
「ミシェルの新しい彼氏のことよ。さっきの彼」
「What !? ミゲルはゲイじゃないぞ?」
「What !!? そんなはずない」
「ちょ、マジで?付き合ってるの?あの2人?」
「そうよ。ミシェルったらもうすっかり彼に夢中なんだから」
「Oh Jeez……いつもいい女連れてたあいつがねえ……」
「そうなの?」
「そりゃあもう」

あいつが通りを歩くだけで、マンハッタンじゅうの女が色めき立つんだぜ?―――そうショーンが肩をすくめた。同じ夜に同じ女を口説き、ミゲルに負けた過去があることは言わずにおいたのだが。

「ねえ、ミシェルには黙ってて。彼、きっと凄いショック受けるから」
「解ってる。言えるわけないよ」
「あなたと彼が知り合いだなんて、それもびっくりだわ」
「こっちのセリフだよ」
「知り合って長いの?」
「そうだな……7、8年ってとこじゃないかな。もともとはフィルを介して知り合ったけど、気が合ってね。いい奴だよ」
「ふーん……」

その時、『Oh my gosh !』というベティの大声がキッチンまで聞えたので、ラムカはリヴィングルームの方へと顔を向けた。

「―――あの時の彼よね?レイのボディガードみたいな、ホラ、うちのサロンにティナを迎えに来たでしょ?レイと一緒に」
「Uum , yes」
「えっ!?君がうちのサロンに!?いつ!?」

ミシェルが『そんな話は初めて聞いた』とばかりに驚いた顔をミゲルに向ける。

「まだ寒い時だったわよね?あなたあの時、確かサングラスかけてて」
「そうだったかな」
「そうよ、あの日よ。忘れもしないわ。浮気された最悪の日だもの!」
「Oh」
「ほら、ミシェル、同じ日にラムカも幼稚園クビになっちゃってさ、あの日よ。憶えてるでしょ?」
「あー……」
「――― B !」
「ラムカ」

そこに現れたラムカがベティとハグをしたので、ミゲルはようやく解放された。

「ちょっと手伝って―――Excuse us !」

そう言ってラムカがベティの背中を押すようにキッチンへ連れて行く。キッチンへ行くとそこにはショーンがいて、料理の盛り付けをしていた。

「Hi Sean」
「Oh , Hi Betty」
「こないだはこの眠り姫の面倒みてくれてありがとう」
「Yeah , その埋め合わせに手伝いに来たのかい?」
「もっちろーん!」
「いいから!ちょっとこっち来て!」
「なになになに」

ラムカがキッチンの隅にベティの手を引っ張って移動した。

「Look ! ミゲル、どうやらバイ(バイセクシャル)みたいなの」
「あらま。そうなの?」
「ううん、バイかどうかは解らないけど、少なくとも以前はストレートだったみたい」
「……ってことはさ、あたしでもOKってことよね? やった!」
「なにバカな事言ってんの、いい?ミシェルには言っちゃだめよ」
「ん?ミシェルは知らないの? じゃあいったい誰の情報?」
「俺」

ショーンが真剣な表情で料理にソースをかけながら言う。

「お嬢さんたち、ガールズ・トークはパントリーの中で頼むよ。気が散るから」
「Oh , sorry」
「もう終わったわよ。あーっ!運ぶ運ぶ!貸して!」

盛り付けた料理を運ぼうとするショーンのもとへとベティが走り寄り、「美味しそうー!」と言いながら、受け取った皿をリヴィングルームへと運んで行った。
笑いながら、やれやれ、といった感じで首を振り、彼がベティの後姿を見送る。

「とりあえずこれで終わり?」
「ああ、あとは様子見ながら追加していくよ」
「OK」
「Hey」
「?」
「……Thanks」
「……Anytime」






Magnet 36. 「Light and shadow - 光と影 -」



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突然部屋の中に違う空気が流れ込んだように感じ、ラムカは顔を上げた。
同時に「フィル!」というキャサリンの声が響き、その場にいた全員が入口の方へと視線を向ける。
ただいまとおかえりのキスをキャサリンと重ね、その場の面々との挨拶もそこそこに、フィリップはミゲルを伴い、2人で書斎へと姿を消した。
何となく人の気配を感じ、キャサリンが玄関のほうへと行くと、そこにはフィリップの秘書、ヴァレリーが立っている。
いくつかの書類やデータをフィリップから受け取るために寄ったのだと言う。
あなたもゆっくりして行って。お食事もまだなんでしょう?―――そういうキャサリンの言葉に彼女・ヴァレリーは礼を言いつつ、忙しいからと言ってキャサリンの誘いをやんわりと断った。
そのうちにキャサリンの携帯電話が鳴ったので、失礼、と言って彼女は廊下の方へと歩き出し、違う部屋のドアを開けてそこへ姿を消した。







―――「ヴォイテック社の情報収集はどんな具合だ?」
「Yeah、想像以上にハードルが高いよ。広報の人間も政府機関で働いてたって言うかなりのやり手だし、セキュリティ・システムも万全で、どんな些細な情報のリークも許さない構えだな。まあ表向きは、と言うべきだが」
「And?」

当然ながら何も収穫無しってわけじゃないんだろう?―――フィリップがそう言いたげな瞳をミゲルに向ける。

「ひとつだけ判ったことがある。どうやらB&W社を買収しようと動き始めたらしい」
「!」
「B&Wというのはリーク対策のためのガセで、実際は違う会社という可能性もある。まあ今のところ、五分五分ってところだな」
「お前の読みは?」
「Well……俺はガセじゃないかと疑ってる」
「確かに……B&Wを吸収するメリットがいまひとつはっきりしないな……」
「まあB&Wを吸収すれば、中西部のシェアが一気に上がることにはなるんだ。だからあの会社を欲しがる企業は恐らく他にもある。ただ……」
「B&Wの近年の業績から言って、ヴォイテックがそんなリスクを負うとは考えにくい、そういうことか?」

Right―――そう言ってミゲルが片方の眉を上げる。

「……OK、引き続いて情報収集にあたってくれ」

しばらく考え込んだあと、フィリップがそう言って振り返ると、ミゲルが軽く頷くように了解した。

「……それはそうと……」
「?」
「例の男の件はどうだ。あれから進展は?」
「いや……」

例のパーティーで見かけた男のことだ。「彼女」と一緒にいた、あの若い男。
ただの情夫だとすれば調べる必要もない相手だが、あの時感じた直感のようなもの、それが何故だか引っかかるのだ。
ミゲルによれば、どうやら男は現在国を出ているらしいこと、「彼女」との関係を証拠付けるものがまだ見つからないことなどの他、「彼女」のほうも今のところ何の怪しい動きもない様子だった。
そちらのほうも引き続き情報を集めてくれ、と言うフィリップの言葉に再び頷くと、ミゲルはフィリップへと顔を向けた。

「……フィル」
「何だ?」
「………いや、何でもない。忘れてくれ」

この男が『何でもない』とそう口にする時、その口を割らせるのは至難の業だと痛いほどに知っている。だから余程のことでない限りは、そのまま聞かなかったことにしていた。
だからこの時も彼はそうした。ミゲルの表情から言っても、そう大したことではなさそうに見えたからだ。

「ところで、キャスの客としてお前がここにいるのが不思議でならんのだが」
「不可抗力ってやつさ。まあ、久しぶりにレイに会えたからいいけど」
「ナディアには?」
「会ったよ。もちろん」
「もっと頻繁に顔を出してやったらどうだ。彼女はそんなこと口にはしないが、本当は寂しがってると思う」
「……Yeah」
「ああ、そうだ」
「?」
「悪いがこれをヴァレリーに渡してくれないか。玄関で待ってるはずだから」
「何で俺が」
「いいから」

バスルームに行きたいんだ、と言うフィリップに溜息を吐き、ミゲルがフィリップの書斎を出ていく。
長い廊下を抜けて角を曲がり、玄関の方へ向かうと、ミゲルに気付いたヴァレリーが怪訝そうな顔を向けた。

「ここで何してるの」
「パーティーに招待されてね」
「パーティーですって? Hah! 人が休日返上で仕事してるってのにいい気なもんね」
「でもそれを望んだのは君自身だ。俺のせいじゃない」

今では望み通り第1秘書の座に収まったヴァレリーにニヤリとした笑みを向け、ミゲルはフィリップからの書類を彼女に手渡した。

「そして俺を呼んだのはボスの奥方だ。断れると思うか?」
「ふふ、嫌々来たくせに」

書類を受け取りながらヴァレリーが不敵そうに笑う。

「あなたはパーティーなんて大嫌いだもの。そうよね?」
「……」
「でも嫌いなパーティーにせっかく来たんじゃない、今夜もまた酔ったせいにして誰かと寝れば? あの夜みたいに」

彼女は笑顔でそう言うと、ミゲルの視線を捉えたまま、彼の頬に手のひらを置いた。

「……ヴァレリー、君が俺を恨むのは仕方ない。それは解ってる。だけど―――」
「―――恨んでなんかないわよ」

I just hate you ―――ヴァレリーはミゲルの耳元にそう囁くと、ニヤリと笑って彼の頬を手のひらで撫でた。
「ミゲル?」―――その時、ミシェルの声が玄関ホールに響き、ハッとしたように2人が体を離す。

「ここにいたんだ」

声をかけた時、ミシェルからはヴァレリーの姿は見えなかったのだろう。ミゲルのほうへ近付いて、ようやくミシェルが彼女の存在に気付いたように瞳を丸くした。

「Um……ミシェル、こちらヴァレリー。仕事の同僚だ。ヴァレリー、こちらミシェル」
「Hi , 初めまして」
「よろしく、ミシェル」

にっこりと笑って握手をする2人を内心苦々しく思いつつ、ミゲルはいつものように取り澄ました顔を保ち続けていた。
だが、ヴァレリーが何かを言いたげに、ほんの少しだけ眉を上げた表情をミゲルに向けた瞬間、この女にはきっとお見通しなのだろう、そう覚った。
ヴァレリーに限ったことではない。この先、こういう反応を向けられる場面は嫌と言うほどに増えていくだろう。
ミシェルと一緒にいる限り、避けられない反応なのだから。
エレヴェイターに乗り込むヴァレリーを、ミシェルが笑顔で見送る。そんな彼を見つめ、ミゲルは彼に気付かれないくらいの小さな息を漏らした。

「―――先に戻ってて!」

唇に軽くキスを残し、ミシェルがバスルームの方へと姿を消した。
その後ろ姿を見送ると、ミゲルはもう一度小さく息を吐き、リヴィングルームのほうへと踵を返した。








彼女が仕事の電話をようやく終えて廊下へ出ると、ちょうど寝室から夫が出てくるところだった。
夫はスーツを脱ぎ、先日彼女が拝借したあの淡いピンク色のカシミヤのセーターに着替えている。
そのピンク色のセーターは、クローゼットで見た女からのメッセージを思い出させるのに充分だった。
あの時のことを思い出すと、一瞬にして目の前の夫への不信と憎しみに似た感情が沸き上がってきてしまう。
いや、あの時のことを思い出さずとも、ここのところ、彼女の頭の中はあの女のことでいっぱいなのだが。

「レイはまだ起きてるよな」

そう言って息子の部屋へと向かう夫を見送る。咄嗟に笑みを張り付けたが引き攣ってはいなかっただろうか。
やがて息子を連れ、フィリップがリヴィングルームへと姿を現した。
大人たちに可愛がられ、楽しそうにはしゃぐ我が子の顔を見つめる時、その時だけは彼女はふっと柔らかな気持ちになれる。
リヴィングルームのすぐ隣、メインダイニングに行く途中の、部屋とも呼べないが通路と呼ぶには広すぎるスペースがあり、そこにピアノが置いてある。
レイを膝の上に乗せたミゲルがピアノを弾き、ラムカが隣に座って連弾のようなことを始めたので、ミシェルが瞳を輝かせてミゲルを見つめ、そんな彼をベティがからかった。
ベティには、ミシェルの瞳がハートの形に変形したように見えて仕方ないのだった。
そのうちに、空いた大皿を手に、ショーンがそのピアノの横を通り過ぎる。通り過ぎる時、ちらりと彼女を見ると、楽しそうに笑ってピアノを弾いていた。
こんな笑顔は未だに自分のために向けられたことがないな―――そんなことを頭の隅に思いながら、彼はキッチンに向かった。

「――――ねえ!あとひとり足りないよ!」

突然レイが大きな声を上げた。

「レイ?」
「あと一人?誰が?」

ミゲルとラムカがレイに声をかけると、レイはミゲルの膝を下りて父親の足元へと走った。

「ねえダディ!あとひとりなんだ!」
「What ?」
「もうひとりで『ぜんいん』そろうんだってバディが言ってる」
「全員揃う?」

時々こういう不思議なことを言い出す息子にキャサリンもフィリップも慣れてはいたが、正直言って対応に困ってもいた。
子供の頃には不思議なものが見える子もいる。成長するに従ってそういう不思議なものは見えなくなっていくはずだ。
まだ比較的、父親のフィリップはそう楽観していたが、キャサリンには『息子には何かしらの脳の障害があるのではないか』という気がしてならなかった。
それで病院で検査を受けさせたこともあったのだが、その結果、何も異常は見つからなかった。

「―――ポールだ!ねえ、ポールがここにいたら『ぜんいん』がそろうんだよ!」
「ポール? ポールって、あのポール?」

ベティとミシェルが顔を見合わせて瞳を丸くした。
そこへキッチンからショーンが戻ってきて、レイの髪の毛に手を置いた。

「Hey , 全員揃ったとして、俺たち一体何のチームなんだい?」
「それはわからないけど、だけどバディがとてもうれしそうだよ」
「バディね……」
「レイ、もうそろそろ寝る時間よ。皆さんにおやすみを」
「おやすみレイ」
「おやすみ」
「あ、私が……」

ラムカがレイの手を引き、寝室まで連れて行く。
毛布をかけ、髪の毛にそっとキスをすると、レイが真剣な眼差しでラムカの瞳をじっと見つめ返した。

「ねえシェリー、ぼくの言ってることしんじてくれる?」
「え?」
「ダディとママにバディのこと言っても、はんぶんしかしんじてくれないんだ。まじめにきいてくれないの。バディはぼくの『しんゆう』なのに」
「……ええ、信じるわよ、レイ」
「ほんとう?」
「Yeah !  実はね、私の弟にも小さい頃、バディみたいな親友がいたの。緑色の苔に覆われたような、体の大きな不思議な生き物だって弟が言ってた」
「バディは人間だよ。黒いかみのけに白くてみじかいふくをきて、きんぴかの『うでわ』をした男の子なんだ」
「そうなのね」
「きみのおとうとのバディはまだそばにいてくれる? さびしいときにあそんでくれる?」
「……私の弟のバディはもういなくなってしまったの。きっとおうちに帰ったんだと思う」
「いやだよシェリー!ぼくのバディはおうちに帰ったりなんかしないよね?ずっとぼくのそばにいてくれるよね?」

ラムカはレイの額にかかった前髪をかきあげて、彼に静かな微笑みを返した。

「ええ、きっとそばにいてくれる。何故なら、きっと彼にもあなたが必要なのよ、レイ」
「ひつよう?ぼくが?」
「そう」

あなたが彼を必要としている限り、彼もあなたを必要としてくれる―――ラムカの言葉に瞳を見開くと、レイは嬉しそうに笑った。









やがてパーティーはお開きの時間になった。ベティ達も、後片付けまでしてから帰る、と言うショーンを手伝うことになり、キッチンがいつになく賑やかだ。
そんな彼らをよそに、ミゲルはひとり、母親のナディアの部屋に向かっていた。
部屋をノックすると、ナディアは、ミゲルの顔を見て一瞬驚いたような表情を浮かべたが、入室を許すように首を軽くかしげてみせた。
母は眠る前の祈りを捧げるところだったのだろう。いくつかのキャンドルを灯し、祖母から持たされたというロザリオを手に巻き付けるようにしていた。

「―――そろそろ帰るよ」
「……そう。気を付けて帰りなさい」
「Thanks」

そう言うと、ミゲルは再び母親をハグし、白いものが割合を増してきた彼女の髪に、そっと唇を置いた。

「……マム」
「?」
「……失望させてばかりで……本当にごめん」
「……」
「でも―――」
「―――本気なのね?」
「……」

母の言葉に否定も肯定もせず、ミゲルは俯いて、ただ母親の腕をそっと撫でさすった。そしてそれは、『解ってほしいんだ』と訴えているように映った。
ナディアの瞳に、そんな息子を責めるような、それでいて、何かを諦めたような色が宿る。
彼女は小さく息を吐くと、息子の顎先をつかむように指をそこへ置いた。

「もう行きなさい」
「……Yeah」

I love you , Mom ―――もう一度母を抱きしめ、息子は静かにそう言うと、母の部屋を後にした。








Magnet 37. 「Love is stronger than pride - 愛はプライドよりも強く -」



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「―――んん……」

指が頬を滑る感触に、寝ぼけたまま、彼が子供のような甘い声を上げる。
頬から唇にその感触が移動した時、ようやく彼の瞳が開かれた。
彼の瞳を開かせた犯人が、罪作りな笑みを向ける。

「Hi……起きてたの?」
「とっくにね」
「ふぁぁ……あー、いい匂いがする」
「Yeah , エスプレッソを淹れたんだ。それと朝食も」
「No , it’s YOU !」
「Aw !」

ベッドの縁に腰かけるミゲルを引き倒し、男の上半身に自分の上半身を乗せるようにして、ミシェルが男の唇を奪った。
先にシャワーを浴びた男の髪からは甘く清々しい匂いが漂っていて、それが媚薬のような効果をミシェルにもたらすのだ。そのせいで彼は、口付けを止めることが出来ない。
男が笑いながら何とかそれを止めさせ、『シャワーを浴びて来いよ』と言ってベッドから出て行ってしまったので、ミシェルも仕方なくのそのそと起き上がり、バスルームへと向かった。
シャワーを浴び、男の洗いざらしのリネンシャツを借りて、素肌の上にそれを纏った。ケミカルな青白さを一切持たないそのリネンシャツの白みと、洗うだけで完成するまろやかな皺が、薄いカフェ・オ・レ色をしたミシェルの艶のある肌をいっそう引き立てている。
ミゲルのシャツを素肌に纏う。ただそれだけのことで、彼はミゲルに背中からぎゅっと抱きしめられている、そんな気になってしまう。そしてその思い付きは、胸のあたりできゅっと音を立てる甘い痛みを生むのだった。
そしてその甘い痛みには、何度恋をしても、少しも慣れることがない。

「―――このあと、出掛けるか」

朝食を食べている最中に、突然男がそう言い出した。
『このあとどうする?』 今そう言おうと思っていたのに。ミシェルは少し驚いて、すぐに返事をすることが出来なかった。

「えっと、それって映画とか……ショッピング?」
「No」
「じゃあ……美術館とかアート・ギャラリー?」
「No」
「じゃあ……」
「最後にマンハッタンを脱出したのは?」
「!」






「―――君って本当に僕を驚かすことが得意だよね」
「ん?」
「この車だよ。僕の周りで車を持ってるニューヨーカーなんて、二人くらいしかいないから」
「仕事でどうしても必要な時があるから、フィルに買わせたんだ」

そう言って片方の眉を上げるミゲルに、ミシェルが怪訝そうな表情を返す。

「ウォール街で働いてて車が必要? 運転手じゃないよね?」
「もちろん違う」

ここだけの話、と声を潜め、ミゲルが神妙な顔を向けた。

「俺の本当の職業はFed(FBI捜査官)だ。誰にも言うなよ」
「嘘! ちょ、マジで!?」

冗談に決まってるだろ? そう言って笑うミゲルの髪を、仕返しのようにミシェルがくしゃくしゃっと乱す。
窓から流れる景色も、車を運転するミゲルの横顔も、どちらもずっと見ていて少しも飽きることがなかった。
ただ時折、ミゲルがこちらに顔を向けるから、そのたびに彼は、ミゲルの顔を捕えて口付けてしまいたくなる衝動を抑えなくてはならなかったのだが。

シーズン前で、まだ少し風が冷たいからだろうか。日曜日だと言うのに、思いのほか渋滞に巻き込まれることもなく、昼過ぎにはロングアイランドのサウス・ハンプトンに辿り着いた。
なかなかまとまった休みの取れないミシェルは、ここハンプトンズでのヴァカンスを楽しんだ経験が、まだ、ない。
何となくここは、白人の富裕層だけが訪れることを許された町、そんなイメージを持っていたせいもある。
実際は決して富裕層ではないラムカやベティも、夏になるとここを訪れることがある。言ってみれば『ニューヨーカーにとっての避暑地』的な場所なのだが、ミシェルには何となく縁がない場所のような気がしていた。
自然と触れ合うよりも、街の喧噪や人混みから生まれる都会のヴァイブのほうが、彼の肌には合っていたのだろう。そして、そのことに何の疑問も持ったことがない、そんな生粋のニューヨーカーなのだ。
ミゲルお気に入りのイタリアン・カフェで軽めの昼食をとった後、海のそばにあるクリフォード家の別荘に車を停め、ふたりはそのまま砂浜へ降りた。
海から吹き付ける風は少し冷たかったが、とても心地よい。
犬を散歩させる老人とすれ違い様に軽い挨拶を交わし、しばらく砂浜を歩き続けていると、座るのにちょうど良さそうな大きな石が二つ、三つ、といくつか無造作に並ぶ場所に辿り着いた。
ミゲルがそのひとつに腰を下ろしたので、ミシェルもその隣に腰を下ろして、春の匂いを運ぶ潮風を思い切り吸い込んだ。

「海なんて何年ぶりだろ」

ミシェルが眩しそうに瞳を細める。

「君は?ここへはよく来るの?」
「たまにね。逃げ出したくなった時に」
「マンハッタンから?」
「……Yeah」

軽く笑ってミゲルが海の方へと視線を移した。
ミゲルの着ている、空と同じ色をしたブルーのシャツが、吹き付ける風に心地よさげに形を変える。それをぼんやりと眺めていると、懐かしい情景が浮かんで来て、ミシェルの頬を綻ばせた。

「うんと小さい頃、ママンが時々コニーアイランドに連れて行ってくれたことを思い出すよ。体に悪そうなさ、奇抜な色したチョコレート・スプリンクルがたっぷり乗っかったアイスクリームを食べて、メリー・ゴー・ラウンドや観覧車にも乗ったっけ。でも妹が生まれてからは、あまり行かなくなっちゃったけど」
「Why ?」
「わからない……どうしてって訊けなかったから。ママンと妹の父親が上手くいってた頃までは、そういう楽しいこともいっぱいあったんだけど……」

その後は、幸せな子供時代だったとは言えないかもしれない。そう喉元まで言いかけた言葉を飲み込んで、ミゲルの方へと視線を向けた。

「妹の父親がさ、マックスって男だったんだけど、君みたいな青いシャツを海で着てたんだ。それで思い出した」
「……実は俺も『マックス』だったかもしれない、そう言ったら?」
「! そうなの?」
「Yeah , 親父が最初、Maximiliano(マクシミリアーノ)って名付けようとしたらしいんだ」
「! Non ! それじゃ僕と同じ『ミカエル』由来の名前にならないじゃない!タイムマシンで過去に行って、君のダディを全力で止めるよ」
「Oh , じゃあ君が過去に戻って親父を説得してくれたのか」

瞳を丸くして、そうミゲルが笑う。つられて笑いながら、ミゲルに『マックス』と呼びかける自分を想像した。

「でも案外『マックス』も君に似合うかも。何だか強そうな名前じゃない?」
「どうかな」
「ああでも、やっぱり君は『ミゲル』でなきゃ。良かった、マクシミリアン?マクシミリアーノ?にならなくて」
「Yeah」

ミゲルがくつくつと愉しそうな声で笑う。

「その君のダディは? 今どうしてるの?」
「I don’t know , 長いこと連絡を取ってないから」
「!」
「7年くらい前はマイアミに住んでたけどね。根無し草だから、今頃どこでどうしてるんだか」
「僕のママンもそう。男が変われば住むところも変わるひとだから」
「今は?」
「カナダに住んでるよ。いけ好かないフランス男とね」

そうか、と言ったきり、ミゲルは再び海の方をじっと見つめていた。
昨夜、クリフォード家のパーティーから帰宅した後、ミゲルはいつもにも増して口数が少なかった。
母親のナディアと会ったことが原因なのだろうか。そう思ったが、何となく昨夜はその話をすべきではないように感じた。
だからそんな話をする雰囲気にならないように、彼はベッドの中にミゲルのラップトップを持ち込んで、ミゲルと一緒に適当に選んだ映画を観たのだった。(結局、彼は途中で眠ってしまったのだが。)
今なら話してくれるだろうか。ふっとそんな思いが沸いた。

「……訊いてもいい?」
「いいけど、質問による」
「君と君のマムって、何か問題を抱えてるの?」
「Oh , 直球だな」
「ごめん。不快な質問だったなら答えなくていいよ。忘れて」
「No , it’s ok」

ミゲルは言葉を探すようにしばらく海を眺め、やがて静かな眼差しをミシェルへと向けた。

「問題があるってほどでもない。ただ、過去にひどく母を失望させてしまって……それも一度じゃなく、何度も」
「Oh……」
「母にはどうしても理解出来ないことばかりしてきたから。だから時々、ぎくしゃくしてしまうんだ。昨日みたいに」
「……僕たちのこと?」
「……Yeah」

そう瞳を伏せた目の前の男は、ミシェルのように、ゲイであることに誇りを持って生きている類の男ではないのだ。そう改めて認識させられた。
そもそも、ミゲルはゲイと言えるのかどうかさえわからない。何しろ、ミゲルのような男は初めてで、時おり戸惑ってしまう。
それまで、過剰ともいえる愛情表現をする恋人ばかりだったから、それに慣れきってしまっていただけかもしれないが。
けれど、ミゲルからの愛情表現に、物足りなさや焦燥感はもう感じなかった。
愛されたい。彼の愛が欲しい。出会ってからすぐは、そんなことばかり思っていた。いつしか、そう願うことよりも、泉のように湧いてくるミゲルへの愛しさを、きゅっと噛み締めることが出来る瞬間こそ、言葉にならない幸せに満たされるのだと知った。そして、その瞬間を味わう毎に、彼の愛は強さを増している。

「―――Look」
「?」
「……君の家族や友人たちに僕たちのことを理解してもらえないとしたら……そう考えただけですごく悲しい。いや、もちろんあり得ることだけど、実際言葉にしてみると、やっぱり辛いよ」
「……そうだな」
「ねえ、それでも君は僕を遠ざけずにいてくれる………いや、本当のところ、君にはまだ迷いがあるよね。僕たち『おあいこ』だとはまだ言えないし、それはよく解ってる。だから君を追い詰めるようなことはしたくない。だけど……」

そこまで話して、ミシェルはその琥珀色の瞳を、真っ直ぐにミゲルへと向けた。

「これだけは知ってて欲しいんだ」
「?」
「君と一緒にいるだけで……それだけでとても幸せだよ」
「……」
「たとえ世界中を敵に回したとしても、君といられるならそれでいい」
「………ミシェル、俺は―――」
「―――Non , 何も言わないで」

言葉にしなくても、君は瞳で語ってくれるから。今はそれでいいんだ―――男の頬へ手のひらを置き、親指でそうっと男の唇を撫でた。
唇の代わりに眼差しを重ねる。互いの瞳の中に灯ったもの。それを互いに確信した時、男は眼差しを重ねたまま、頬に置かれたミシェルの指を絡め取り、そこへ唇をあてた。

「……Come」




ミシェルの手を引いて、クリフォード家の別荘へと戻る。
中に忍び込むのと同時に、貪るように口付け合った。
当然、ベッドまで行く余裕などない。すぐそこのカウチまでも待ちきれず、暖炉の前、床に敷かれたファーの上で身を重ねた。
広い邸内でミシェルが遠慮なく声を上げる。それを時折唇で吸い取りながら、ミシェルの中で、男も激しさを増した。
やがてふたりの声が、共に切羽詰まったものに変わり、その時を迎える。
息も絶え絶えに口付けを交わし、ふたりは床の上で、いつまでも固く抱きしめ合ったままで離れられずにいた。
やがて整った呼吸を取り戻した頃、男はミシェルの頬へと手を滑らせて、彼の瞳を自分の方へと向けさせた。
もう俺に迷いはないよ、ミシェル―――男のかすれた声に、ミシェルの眦から、澄んだものがあふれて零れ落ちた。




少し眠りに落ちた後、彼らはモントークの灯台まで足を延ばし、美しい夕陽に染まる世界を瞳に焼き付けた。
数時間の後、すっかり闇に包まれた都会に戻り、ミシェルのアパートメントの前にミゲルが車を停める。
忘れられない一日をありがとう―――ミシェルの言葉に、男が柔らかな笑みを返した。見つめ合い、互いの頬に手のひらを添えて、そっと唇を重ねる。
甘く優しいおやすみのキスは、時を忘れたようにいつまでも続いた。
そのうちに、名残惜しそうに男の頬から手を離し、ミシェルが車を降りる。彼が建物に入って行くのを見届けると、ミゲルは静かに車を発進させた。
離れた場所から、彼らの一部始終を見ていた存在に気付くこともなく。






Magnet 38. 「Make up your mind - 決心 -」




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ミッドタウン・ノース Café Dubois (カフェ・デュボア) 8:20 p.m.


カフェがその日の営業を終えて数分が経っていた。
彼は一足先に店から奥の事務所に引っ込み、ひとり、コンピューターの画面とにらめっこをしていた。
手元の紙を見てコンピューターに何かを打ち込んでは、時々、うーん、と声をあげて考え込むことを繰り返している。
オーナーであるデュボア夫人はもうすでに帰宅しており、あとは店の閉店作業を済ませた仲間から「終了した」という報告をもらい、今やっている仕事を済ませれば、彼自身も帰宅の途に就くことが出来るのだ。
1分でも早くそう出来るよう、尽力しているつもりだった。彼女が事務所のドアを開ける、その時までは。

「終わったわよ、ポール」
「Oh , Thanks , ジェニー」
「……」

ありがとう、とだけ言って、すぐに彼がコンピューターの画面に視線を戻す。そんな彼に何か言いたそうな顔を向け、ジェニーは入り口のドアを閉めた。

「……まだかかる?」
「うん……そうだね」
「ちょっと話せない?」
「今?」
「Oh , No no , 終わってからでいいの。続けて」
「……OK」

彼女は近くの椅子に座ってiPhoneをいじり始めた。正直言って気が散るし、カフェでベティと過ごした夜以来、ジェニーと二人きりになるのは居心地が悪かった。
けれど、1分でも早く仕事を片付けてしまいたかったし、『そこに居られると気が散るよ』だとか『帰ってくれない?』などと言うつもりもなかったから、黙ってそのまま仕事を続けた。
今ここで、争いの火種をわざわざ蒔くことはない。そしてその判断は賢明だったと言えるだろう。思いの外サクサクと仕事が進み、あと30分はかかるだろうと思っていたのが、15分も経った頃には終えることが出来たのだから。
コンピューターの画面から顔を上げてジェニーの方を見ると、彼女はiPhoneに何やら文字を打ち込んでいる。いつものように、友達とチャットでもしているのだろう。

「Uum……終わったけど……」
「―――お腹空いちゃった!何か食べに行こうよ」
「What ?」

勢いよくジェニーに腕を引っ張られ、断るタイミングを逸した彼は、素直にジェニーに付いていくことにした。何しろ彼自身も空腹で目が回りそうだったし、断ることで起こる彼女との気まずい会話に費やすエネルギーも、もうない。
ジェニーは彼をカフェから歩いて2分くらいの場所にあるレストランに連れて行った。何度か一緒に来たことがある店だ。
彼自身は特にその店が好きなわけではなかったが、それと同じくらい、嫌いなわけでもなかった。カフェから歩いてすぐの場所にあるから、時たま利用する。そんな店だった。
お気に入りの席があるわけでもなかったから、店員が案内した席に素直に腰を下ろした。
メニューに目を通してグラスに注がれた水をひと口飲み、乾いた口の中を潤していると、目の前のジェニーが突然「Oh my God !」と声を上げた。
見れば、近くのテーブルにいた、少し上の年代のカップルがジェニーに手を振っている。ジェニーはそのカップルの席へと行って2人とハグをすると、ポールの腕を引っ張って彼をそこへ連れて行った。

「ポール、兄のジェフと奥さんのルーシーよ。ジェフ、ルーシー、こちらポール」
「Oh ! Hi !」
「Hi !」
「はじめましてポール」
「はじめまして」

ポールとジェニーの2人は、彼女の兄夫婦に誘われ、彼らのテーブルに移ることになった。
ジェニーと2人きりで過ごすのは少し気が重かったから、それに救われたような思いもしたが、何の心の準備もないまま、彼女の家族と会って食事の席を共にするなど、今の彼にとっては負担でしかなかった。
兄夫婦だから比較的気楽に過ごしていられるものの、これが彼女の両親だったとしたら、そう思いついて、彼は心の中で身震いした。
ガールフレンドの両親に会うという経験が無いわけではなかったし、それで嫌な思いをしたこともなかったが、ジェニーに対して後ろめたい気持ちがあるからなのか、彼女の両親を前に堂々と振る舞える自信など、あるはずもなかった。
いや、誰に対しても、堂々と振る舞える自信など持ち合わせていないのが彼なのだが。









ミッドタウン・ノース 10:50 p.m.


それから2時間ほどが過ぎ、ジェニーの兄夫婦と別れた後、ポールはジェニーと仕事場であるカフェに向かって歩き始めていた。店の前に停めてあるポールのヴェスパを取りに戻るためだ。
ジェニーは大好きな兄夫婦のことを嬉しそうにあれこれと話している。それを聞きながら並んで歩いていると、ポールの停めたヴェスパが街灯に照らされているのが見え始めた。

「良かった。ジェフもルーシーもあなたのこと気に入ってくれたみたい」
「そう?」
「ええ、もちろんよ。きっとすぐにママに報告が行っちゃうわね。ルーシーったらお喋りさんなんだもの」
「Oh」
「ああでもママったら、どうして私も誘ってくれなかったの!なんて拗ねちゃうかもね。ふふっ、うちのママ、時々ちょっと子供みたいなところがあるから―――」
「―――Whoa whoa whoa , Wait a minute」
「Wha ?」

ジェニーの言葉を聞き、ポールが歩みを止めた。

「誘う……ってどういうこと?まさか……偶然じゃなかったの?」
「何のこと?」
「今夜のことさ。もしかして、彼らに会うように仕組んでたの?偶然のフリして?」
「……」

ようやく納得がいった。ジェニーの兄夫婦と握手をした時に、違和感のようなものを感じた、その理由を。
ジェフもルーシーも偶然に驚いたような顔をしていたが、どこか不自然な笑みを浮かべていたし、ルーシーとジェニーの、女同士のアイコンタクトが何となく心に引っかかっていたのだ。

「ジェニー?」
「偶然よ。決まってるじゃない」
「本当に?」
「なぜ私がそんなことする必要が?」

ジェニーは彼から瞳を逸らし、少し気まずそうな顔で下を向いた。

「Come on Jenny , 嘘つかないで。本当のこと言ってくれよ」
「―――嘘つかないで!?あなたがそれを言うわけ!?」
「!」
「あなたこそ本当のことを言ったらどう?具合が悪いだなんて嘘ついて私を追い返して、ベティとコソコソ遊んでたって」
「……What ?」
「知らないとでも思った?本当にびっくりよ。あなたでもあんなことするのね」
「……嘘はついてない。彼女とは偶然会っただけだよ」
「『偶然』ね。Hah」

そんなの信じられない、とでも言いたそうに、ジェニーが軽く鼻を鳴らした。
本当に嘘はついていない。しかし、そう口にしたことで、それが結局は『嘘』になってしまったと自覚してしまう感覚を覚え、彼は心の中で舌打ちしたい思いに苛まれた。
あの時は、本当に具合が悪くて帰ろうとした。だからあの時ジェニーに嘘はついていない。
けれど、自分の本当の気持ちに対しては?誰よりも自分自身に嘘をついているというのに。それはつまり、ジェニーに対しても嘘をついていることに他ならないではないか。

「―――Ok , ポール。認めるわ。彼らがあの店にいるのを知っててあなたを連れて行った。だけど信じて。騙すつもりはなかったの」
「Oh , God……」
「だけど普通に誘ってオーケーした?しないわよね?あなたは最近忙しい、疲れてるって私を避けてばっかりで、ろくに話もしてくれない。私たち、最近デートらしいデートもしてないし、最後にセックスしたのだっていつだった?」
「……僕だけの問題?この前デートに友達を呼んだのは君だよね?」
「彼らがあなたに会いたがったからよ。今日だってそう」
「彼らを優先したってこと?僕の気持ちはどうでもいいの?疲れてるのに、初対面の人間とずっと笑って話してなきゃいけない、その時間が僕にとってどれだけ苦痛か解らない?」
「じゃあ私の気持ちは?私に隠れて他の女の子と会ってた、それを知った私の気持ちが解る?」
「やましいことは何もしてないよ」
「そんな問題じゃない!何も解ってない!」
「じゃあ何?何が問題なの?」
「それは……」

ジェニーは口ごもり、彼から視線を外して俯いた。

「……相手が彼女だったからよ」
「? ベティのこと?」

ベティの名前を口にするだけで、心がひび割れてしまいそうになる。きっとそれは、ジェニーにとっても同じことだ。ただし、彼は、それを知らない。

「彼女は………ただの友達だよ」

彼は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
自分の言葉に自分で傷つくのは、これが初めてではなかった。けれど、『ただの友達』という言葉が、こんなにも胸を抉る言葉だったなんて。

「ただの友達?じゃあなぜいつも彼女を目で追うの?」
「!」
「私をあんな目で見てくれたこと、あった?」
「……」
「……私のこと、もう好きじゃないの?」
「……好きだよ」

―――でも、愛してはいない。

「Oh my God……」

彼の瞳の色から察したのか、ジェニーは口元を手で覆い、瞳から頬に流れ落ちる涙を彼に見せつけた。
『ねえジェニー、泣かないでくれよ。僕が悪かった。強く言い過ぎたよ』―――いつものように、彼のこんな言葉を引き出すために、無意識に。
それなのに。
今夜の彼からは、その言葉を引き出すことは出来なかった。

「……I can’t do this anymore」
「……What ?」
「もうこれ以上、自分に嘘はつけないよ。もう君とは……やっていけない」
「! No , Noo ! Oh my God……oh my God ! 」

『もう無理だよ、ジェニー』―――彼の言葉に彼女は泣き崩れた。

「きみのせいじゃない、ジェニー。僕が悪いんだ」

『It’s not you. It’s me』―――過去に何度か言われて傷付いた言葉を、自分が口にしていることが信じられなかった。
けれど他に何を言えば良かったのだろう。だって悪いのは、間違いなく僕のほうだ。
ごめんよ、ジェニー。そう何度も言いながら、彼も泣いた。
頬を伝うそれは、もしかしたら、いつの間にか降り出していた、雨の粒のせいだったのかもしれないけれど。













チェルシー 9:45 p.m.


―――「で?まだミシェルと繋がんない?」
「わざと電源切ってるのよ。今日も彼の家に泊まってくるつもりだな、ありゃ」
「まあ、彼が幸せならそれでいいじゃない」
「だけどどうするのよ、これ」
「私はもう無理。あとコーヒーしか入んない」

3人分、いや、それ以上のボリュームの料理やデザートが、テーブルの上に所狭しと並んでいる。
その日の夜は、3人でゆっくり話しながら夜食を食べようと、前もって計画を立てていたのだ。
昨夜のクリフォード家のパーティーの帰り道、ミゲルと並んでキャブまで歩くミシェルに『じゃあ明日ね』と声をかけていたのに、今日になってみれば、彼と一切連絡が取れないのだった。
ああ、苦しい、と言いながら、ベティが椅子にもたれるようにしてお腹を突き出し、『ふーっ!』っと大きく息を吐き出す。
もう動けないからコーヒーはあんたが淹れて。そういうアピールだ。
仕方なくラムカがコーヒーを淹れるために立ち上がった。ミシェルはいつも比較的高価なコーヒー豆を買っているので、それを期待して、勝手知ったるピノトー家のキッチンキャビネットを開けたのだが、そこにあったのはどういうわけか、どこのマーケットにも置いてある廉価品のコーヒーの粉だった。

「これ補充したのあんたでしょ」
「へへ、バレた」
「目の前にもっと美味しいコーヒー売ってるカフェがあるのに」
「給料前だったんだもん。言っとくけど、あんたんちで飲むコーヒーよりはずっと美味しいから」
「それ言わないで」

軽口を叩き合い、出来上がったコーヒーを飲みながら、彼女たちはたわいもない話を続けた。
ふと、手元のコーヒーを見て、ラムカが思い出したように声を上げる。

「そう言えば―――」
「―――ん?」
「……ううん、何でもない」
「何よ」
「ほんとに何でもないの。そう言えばうちのコーヒー、あとどれくらい残ってたかなーって思っただけだから」
「うんっと残っててもさ、もっとマシなやつに買い替えなよ」
「うるさい」

軽く笑いながら淹れたばかりのコーヒーを再び口にする。
本当は、泊めてくれた朝に、ショーンが淹れてくれたコーヒーを思い出したのだ。
彼もミシェルに負けないくらいに、質の良い、美味しいコーヒーを選ぶ人間だと知った。
あれ以来、コーヒーを飲むたびに、彼の部屋で過ごしたあの朝を思い出して、何故だか胸のどこかがちくちくとしてしまう。
もちろんそんなことはベティに言えなかったから、適当に言葉を濁して、たわいもない会話を続けたのだったが。


そんなふうにとりとめもなく女同士の話に花を咲かせていると、がちゃり、と玄関のドアが開く音が聞こえた。
ミシェルが帰宅したのだ。

「お、帰ってきた!」
「Hi , ミシェ―――」
「―――独りにして!」
「Wha ?」
「ちょ!ミシェル!」

帰宅早々、挨拶もなしに、ミシェルは逃げるように自室へと姿を消した。まるで旋風のようだった。

「なに今の、Flash* ?」
「ね……まさかミゲルと何かあったんじゃ!?」
「うそ!大変!」

ベティとラムカは急いで立ち上がると、ミシェルの部屋へと走った。2人してドアに耳を当て、中の様子を窺ってみる。
しかし、ため息のようなものしか聞こえてこない。これでは判断の仕様がない。ベティは恐る恐る彼の部屋のドアをノックした。

「Michel ? Are you alright ? 」
「……」
「開けるよ?」
「Non」

ミシェルの返事を無視して扉を開く。彼はベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めている。泣いているようだった。

「Oh my god ! どうしたっていうの?私の天使ちゃん」
「ミシェル!」

ベティとラムカは彼のベッドに腰を下ろし、彼を慰めようと、彼の髪を撫でたり、背中を撫でたりして様子を覗った。
が、ミシェルからの反応はない。彼女たちは不安げにお互いの顔を見つめ、心配そうな顔で再びミシェルへと視線を落とした。

「ね、ミシェル。彼と何かあった?」
「……」
「Honey ?何とか言って」
「………違うんだ」
「違う?何が」
「For God’s sake (まったくもう), 余韻に浸ってるのに!邪魔しないで」
「なんだ、そういうこと」
「何なに?何の余韻?ちょっと!詳しく話しなさいよ」
「聞くだけ野暮じゃない?」
「だって夕食の約束すっぽかしたんだからね。言わないと許さないよ」

God―――それすっかり忘れてた、というニュアンスの声を上げ、ミシェルはうつ伏せていた状態から、天井を見上げるようにと体勢を変えた。

「やだ!ホントに泣いてたの?」
「え?悲しいの?どっちなの?」
「はぁ……彼のこと好きすぎて辛い。死にそう」
「Aww……」
「ねえやっぱり聞いて!僕史上、最高に幸せな一日だったんだ。はぁぁ……まだ胸がきゅんきゅん痛いよ。きっとあちこち穴が開いてる。きっとこのまま死んじゃうんだよ」
「何?プロポーズでもされちゃった!?」
「Whoa !」
「まさか」

はーっと大きく息を吐き、ミシェルは目じりの涙を拭ってベティの顔を見返した。

「やっと彼がはっきりと気持ちを示してくれたんだ。初めて彼が愛を与えてくれたんだよ!ねえ解る?これって大きな大きな一歩だよ。僕たち、やっと同じステージに立てたんだ」
「そうなの!?良かったじゃない!」
「Ok , fine , でもそれがあんた史上いちばん幸せなこと?」
「なんで?」
「もーっと凄いことかと思っちゃったじゃん」
「解ってないなあ。いい?彼はゲイじゃなかったんだよ?ずっと女と寝てたんだ。そんな彼が僕とのことを決心してくれたのに、これ以上幸せなことってある?」
「! 知ってたんだ……」
「Wha ?」
「いや、彼が女と……ほら……」
「知ってるよ、もちろん。女と一緒に帰ってきてセックスしてたし」
「えっ、見たの?それとも―――」
「―――まさかのスリーサム(3P)!?」
「Non !」

もう!この素晴らしい一日をスリーサムなんて言葉で穢さないで!―――そう言ってミシェルは両手で顔を覆った。

「ごめん、ごめん。でもさあんたも今言ったよ?」
「Shut up !」
「Hey ! そんなことより、幸せの分けっこよ!」
「Oh !」

ラムカとベティは、ミシェルの両側にそれぞれ横たわると、げらげらと笑いながらぎゅっと彼に抱き付くのだった。


3人のうちの誰かが幸せに溢れている時、或いは不幸で悲しんでいる時、彼らはいつもそうやって、3人で分け合うのだ。
いずれ彼らは知ることになるだろう。この時分け合った幸せのかけらの、その行く末を。










Magnet 39. 「Midnight plot - たくらむ女たち -」




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アッパーイースト  1:15 a.m.



いつになく、遅い時間まで酒を飲んだせいだろう。バスルームに行くために夫がベッドを何度か出ていくから、彼女も眠りにつくことが出来ないでいる。
いや、仮に夫が隣でぐっすりと眠っていたとしても、彼女が眠れないことに変わりはなかった。あの日クローゼットで、夫の携帯電話に届いた女からのメッセージを目にして以来、また彼女の不眠の日々が始まってしまったのだから。
バスルームから戻り、ベッドに身体を滑り込ませたフィリップが、向こうを向いて眠る妻の頬に、後ろからそっと唇を寄せる。

「起きてたのか」
「……」

返事をする代わりに、彼女は夫の方へと向き直るように体勢を変えた。

「なかなか寝付けなくて。賑やかな夜だったせいね、きっと」
「そうだな」
「ねえフィル、今夜はありがとう」
「? 何のことだい?」
「だって、休日も出勤して疲れてるのに、招待客の相手までしてくれたんだもの」
「客って言ってもショーンやミゲルじゃないか。俺の友人でもあるんだし、いい気分転換になって楽しかったよ」
「そうだ!フィル、あなたミゲルがゲイって知ってたの?」

夫の出した男の名前を聞いて、思い出したようにキャサリンが声を上げた。

「Uum……この場合、どう答えればいいんだか……」
「?」
「……男とも寝たことがある、それは知ってた。だけど……」
「! バイセクシャルってこと?」
「いや、はっきりと聞いたことはない。だけど、彼はゲイじゃないと思う。少なくとも以前はそうだった」
「ふーん……彼、ヴァレリーといい感じだと思ってたのに。まさかの展開よね」
「ヴァレリー? そうなのか?」
「やだ、去年の創立パーティーの夜にあの二人、壁際でいい雰囲気になってたじゃない。あなた彼らと毎日一緒にいて、何も気付かないの?」
「気付くも何も、彼ら険悪なんだよ?」
「そうなの? じゃあやっぱり何かがあったのね……」
「Hey , 他人のことはいいよ。それより―――」
「―――きゃっ!」
「眠れないなら他のことをしよう」
「ん……」

甘いキスを重ね、首筋を滑る夫の熱い唇。いつもなら甘い吐息で応える彼女だったのに。夫の唇の温もりも、今の彼女には、苦痛を生む辛いものでしかない。
この唇が、同じように浮気相手の肌をさまよったのだ。幾度となく。そう考えただけで、吐き気がこみ上げた。

「……What’s wrong ?」

反応を見せない妻に、夫が小さく呟く。ふーっと息を吐いて、彼女は手のひらを青白い額の上に乗せた。

「ごめんなさい……そんな気になれなくて」

そんな気になれない。そんな簡単な言葉だけで言い表せる感情ではなかった。けれど、他に言葉が浮かばなかった。彼女自身、このどろどろとした感情に戸惑っていたのだ。とても便利な言葉だと、後に彼女はそう思い至ることになるのだが。
フィリップは視線を逸らしたままの彼女の頬に手を添え、自分の方を向かせるように軽く力を込めた。

「キャス、どうかしたのか?」
「……仕事でトラブルがあって、それにパーティーでしょ?とても大変な一日で疲れたの。それに……」
「? What ?」
「レイもまた変なこと言い出したし、ちょっと気になって」
「レイ? ああ、あのことか」

本当は、今夜の息子のあの発言を、彼女も心底気にしていたわけではなかった。夫を拒んだ言い訳のひとつとして、そのことをさも心配の種のように持ち出してみせただけなのだ。
そのくせに、『何だ、そんなくだらないことか』とでも言いたそうな夫の口ぶりが、腹立たしく思えてしまう。

「心配いらないよ。少なくとも、レイ自身は楽しそうにしてるんだ。きっと悪いことじゃないし、そのうちに成長と共に消えるよ」
「……本当にそう思うの? それって楽観的過ぎない?」
「かもしれない。だけど、検査では何も異常は見つからなかったんだ。大丈夫さ」
「……そうね」
「キャス、どこへ?」
「レイを見てくるわ。あの子も今夜は興奮してたから、眠れていないかもしれないし」

ベッドを抜け出し、静かに寝室のドアを開く。裸足のままで廊下に出たせいで、床の冷たさが彼女の足の温度を奪って行くのを感じるが、彼女は気にも留めずに子供部屋へと向かった。
いつでも君は心配しすぎなのさ―――夫にそう言われる前に、会話を止めてしまいたかった。この種の話になると毎回、まるで彼女が悪いかのようにそう言われてしまうから。
いや、夫は決して私を責めようとして言っているのではない、安心させようとしてくれているのだ、それは理解している。確かに彼女は必要以上に心配してしまうところがあって、考え過ぎだったと後になって思い至ることが多かった。
けれど、今、夫にそう言われて平静を保っていられる自信が持てなかった。
彼女は、今夜のレイの発言についてを話したい訳ではないのだ。かと言って、例の女の話を持ち出す覚悟も、まだ持てない。
少し前には開き直ったような、もうどうでもいいと言うような気持ちでいられたのに、携帯電話へのメッセージを目にしたあの日以来、怒りや不安と言ったネガティブな感情にとらわれてしまい、そんな自分が、自分自身嫌になってしまうのだ。



子供部屋の前で彼女は小さく息を吐くと、そうっとドアを開き、息子のベッドへとゆっくり歩みを進めた。静寂の中、小さい寝息が規則正しい音を立てている。
床にひざまずくように腰を落とし、静かに眠る息子の寝顔を見つめた。ほんの少しだけ開いた唇から、真っ白い小さな歯が覗いている。
このまま朝まで息子の寝顔を見ていても、少しも飽きることはないだろう。本心を言えば、寝る間を惜しんででもそうしていたいと思うことがある。
彼女の母親は、彼女の兄である息子を溺愛したものだ。そんな母親に反発したこともあったが、今なら解る。母親にとって、息子がどれだけ愛おしい存在であるかが。
彼女はふっと笑みを漏らし、息子の額にそっと唇を置いた。そして、再び息子の寝顔を見つめることに、決して短くはない時間を費やすと、やがてゆっくりと立ち上がり、子供部屋のドアを静かに閉めた。
夫婦の寝室に戻ると、夫は眠りに落ちていた。見れば、胸元に本を乗せたままで眠っていた。一応は彼女を待っていようとしたのだろう。
起こさないように用心しながら、夫の胸元からそっと本を持ち上げ、ナイトテーブルの上に置いた。
そして軽く逡巡した彼女は、再び寝室を出て、次はキッチンへと向かった。やはり眠れそうにないので、軽く一杯引っかけるためだ。
キッチンの傍まで来ると、中から物音がした。ナディアだった。
やはり彼女も眠れずにいたらしい。何か温かい飲み物でも作ろうかと、紅茶の置いてある棚を開けたところだった。
結局はモルドワイン*でも作って飲むことにした。彼女には詳しいレシピは解らなかったが、ナディアが時々それを作って夜中に飲んでいるであろうことは解った。慣れた手つきで赤ワインとスパイスを入れた鍋を火にかけたからだ。
出来上がりの最後、カップに注いだそれにグラッパ*を一滴、もしくは二滴垂らすのがナディアのこだわりらしい。
そう言えば、と彼女は手元のモルドワインにふーっと息を吹きかけて冷ましながら、ナディアの方へと目を向ける。

「今夜は驚かせてごめんなさいね、ナディア。ゲストのパートナーがミゲルだったなんて、私も知らなかったの」
「……いえ、奥様が謝ることでは……」

週末のパーティーのゲストのことなんだけど、その中に男性カップルが一組だけいるの。我が家でそれを目にするのはあなたにとって不快かもしれないから、前もって伝えておくわね―――あらかじめキャサリンはナディアにそう断りを入れていた。
敬虔なカトリック信者であるナディアへの配慮のつもりだった。それがまさか、あんなことになるとは。

「知っていたの? つまり……その……」
「息子の性的指向ですか?」
「ええ、まあ……そうね」

そのことに対しては、ナディアは曖昧な表情を返すのみだった。それがかえって、親子の溝の原因はそこなのだろうと推測出来てしまったのだが。

「私のせいなんです。あの子に歪んだ結婚観を植え付けてしまったから」
「歪んだ結婚観?」
「……話せば長くなります」
「Oh , いいのよ、無理して話してくれなくても」


ナディアの過去は、フィリップから聞いたことがあった。ミゲルがまだ子供の頃に、ミゲルの父親の浮気が原因で離婚したのだと。
フィリップもミゲルから聞いた話らしいが、詳しい経緯はよく知らないと言っていた。
彼女は、フィリップが子供の頃からの長きに渡って、クリフォード家に仕えているメイドのうちの一人で、キャサリンとの結婚の際に、フィリップが実家から連れてきた人間だ。
それ故に、夫婦の間に何かあれば、躊躇いなく夫の肩を持つ、そういう存在だと思っていた。だから、夫の不貞を打ち明ける相手としてふさわしいとは言えないだろう。そもそもメイドにそんなことを話すべきではない。
けれど、同じことを経験したであろうナディアにすがりたい思いが生まれたのも事実だった。誰にも言えず、一人で悶々と抱え込んでいたから、出来るものならばどこかで吐き出してしまいたかった。もしかしたら今がその時なのだろうか。それとも―――

「―――奥様? どうかなさいました?」
「え?」

どうしようかしら、と逡巡している顔つきが、余程思いつめたような深刻なものに見えたらしい。

「息子の件は奥様のせいじゃありませんし、どうかお気に病まないでください」
「ああ、違うの。いえ、もちろんそれもあるけど、その……何て言うか……」
「何かお困りのことが?」
「………そうね」

気遣うようなナディアの表情から手元のモルドワインへと視線を落とし、キャサリンは小さく息を吐いた。

「……彼が……私を裏切っていたの」
「!? 旦那様が、ですか?」
「ええ」
「ああ、奥様」

そう言ってナディアはキャサリンの腕をそっと撫で、小さく首を振った。

「今も続いているのですか? 旦那様と、その……」
「………わからない……もう会ってはいないように感じるんだけど」
「……そうですか」
「ごめんなさい、ナディア。あなたにこんなことを話すべきじゃないって解ってはいるの。でも、あなたなら、その……」

キャサリンの言いたいことを理解したように小さく頷き、ナディアはしばらくの間、何かを考え込むように視線を止めた。

「奥様、私は……旦那様や奥様、お二人のことに立ち入ることが許される立場ではありませんし、そもそも立ち入るつもりもありません。でも……この件に関してだけは言わせてくださいますか?この家のメイドとしてではなく、奥様よりうんと長く生きている女の言葉として」
「ええ……ええ、もちろん」
「時間はかかるでしょうが……もしこれが一度きりの過ちなら、どうか旦那様をお許しに」
「……」

ほら、やっぱりね―――夫を擁護するようなナディアの言葉に、彼女は軽い失望を覚え、心の中で小さくため息を吐いた。

「私のように、それが出来ずに後悔することだけは……」

だが次の瞬間、思いもよらないナディアの言葉に、先ほど生まれた失望はすぐにかき消された。後悔、というその言葉が、心に別の波を立てたのだ。

「……後悔、しているの?」

キャサリンのその問いかけに、ナディアはふっと軽く笑った。

「もちろん、今ではもう吹っ切れていますよ。もう20年以上も前のことになりますから。でも……別れたあとしばらくは、後悔の念に苦しみました。もう一度、彼にチャンスを与えるべきだった。許すことが出来なくて、修復する努力もせずに、一方的に彼を拒絶してしまったんです」
「……愛していただけに、裏切られて沸いた憎しみが大きかったのね」
「その通りです」

裏切られてもなお、本心では別れた夫をまだ忘れられずにいた、そうナディアは言った。

「私が間違っていた、まだ彼を愛してる、そう気付いた時にはもう、夫は違う女と新しい生活を始めていたんです。悔やんでも悔やみきれませんでした。息子が寝静まった後、酒を飲んでは泣き暮らしましたよ。今だから言える話ですけどね」
「Oh……」
「でも、このままじゃいけない、いい加減前に進まなければ……ある日息子の寝顔を見ていてそう気付いたんです。それでマンハッタンを離れて、クリフォード家に仕える仕事を……」
「そうだったのね……」
「奥様、私の目には、旦那様は奥様を深く愛しておられるようにしか見えませんよ。きっと何かの間違いです」
「……そう思いたいけど、でも……」
「そう信じるのです。どちらにしても、奥様のほうが立場上有利なんですから、堂々と構えていればいいんです。何なら旦那様にお仕置きの一つでもして差し上げればいかがです?」
「お仕置き!?」

ナディアのその提案に驚き、一瞬間を置いたあと、2人してぷっと吹き出した。

「……そうね、それも悪くないかも」
「私が奥様なら、そうですね……ある日突然、何も知らせずに旦那様一人を置いて、どこかカリブあたりにでもバカンスに行きますよ。飛行機をチャーターして、坊ちゃまと子守りと料理人も連れて、キッチンとプール付きの広いコテージでも借りて、当然費用は全額旦那様持ちで。ああ、もちろん私も連れて行ってもらいますけどね」
「ふふっ、それもいいわね」
「少しくらい懲らしめてやっても罰は当たらないと思いますよ」

ああ、今のは私のもう一つの後悔ですけどね。どうせ別れるならお仕置きのひとつでもしてやれば良かった―――そうナディアは笑った。





Magnet 40. 「Her - 彼女 -」



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日曜日  五番街  12:15 p.m.


翌日、早めの昼食をとったあと、レイを連れ、家族3人でミッドタウンへと出かけた。老舗のおもちゃ屋がじき閉店してしまうので、その店に別れを告げるためだ。
レイのみならず、母親であるキャサリンもこのおもちゃ屋には数々の思い出があった。映画やドラマにも幾度となく登場した、言わばNYの歴史的な名所でもあった。
そこで時を過ごしたその後、レイのための新しい絵本や図鑑など、何かしらの本を見繕うために、今度は本屋へと立ち寄った。
本屋では偶然、自然環境に関する本を出版した著書による読書会とサイン会が行われていて、かなりの人手で混雑していた。
3階の児童書のコーナーも通常よりも混雑していたが、運よく椅子が空いていたので、レイが興味を示した本をそこで開いて読むことが出来た。
フィリップは経済学関連の書籍を探しに、別のフロアーへと移動していたが、しばらくして夫がそこに置いて行った上着のポケットから携帯電話の音がした。
クローゼットで見つけた時と同じように、メッセージが届いたことを知らせる短い着信音だ。
堂々と構えていればいい―――昨夜ナディアにそう言われたばかりだが、やはりどうしても気になって仕方がない。そのメッセージが誰からのものなのかを知りたくなり、夫の上着に視線を向けた。
いけない、見ては駄目よ、そう言い聞かせてはみるものの、やはり居ても立っても居られない。意を決して上着に手を伸ばそうとしたところで、夫本人がそこへ戻って来てしまったので、彼女は笑みを貼り付けた顔で夫を見上げた。

「メッセージが届いてたわよ」
「そう?」

さり気なく無関心を装って彼が携帯電話をチェックするのを横目で盗み見た。仕事用の電話のほうだった。
フィリップは、会社のトップとして、休日でも何が起きるか分からないから、という理由でその携帯電話も持ち歩いている。
実際そのメッセージもヴァレリーからのものらしかった。昨日受け取った書類に関する確認のようだ。
彼がそのメッセージに返信しようとしていると、今度は着信音が鳴り、彼は反射的に携帯電話を耳にあてた。

「Hello ?」
“―――― “
「Who is this ?」
“―――― “
「! Oh……Um……その件なら、テキストを送ろうかと……Hold on」

外で話して来るよ―――電話で会話しながら仕草でそう伝えると、フィリップは向こう側へと歩き出した。

「―――レイ? ママ、パウダールームに行ってくるから、ここから動かないでね。いい子にしてここに座ってるのよ?わかった?」
「うん、わかったー」
「いいわね?ここにいるのよ?すぐ戻るから」

彼女は息子をそこに残し、こっそりと夫の後を追った。夫は電話で話すために外へ出るはずが、非常階段への扉をこそっと開いてそこへ消えた。
心臓がばくばくと音を立てた。この扉の先で一体何が起きているのか。彼女は息を止めて、ゆっくりとその扉を開いた。
階段の下の方から声が聞こえる。フィリップの声だ。
彼女は螺旋状に続いている階段の手すりにそっと摑まるようにして、下の方を覗き込んだ。
黒く長い髪の女とフィリップだ。女はキャサリンのほうからは後ろ姿しか見えなかったが、彼女はすぐにある特定の人物を思い浮かべていた。
息子の子守りであるシェリーだ。まさかそんな馬鹿な、そう思ったが、後ろ姿がシェリーと似ているように見えたのだ。

「―――解ってるのか? これはストーカー行為だ」
「ふふっ、どうしてそうなるの? 偶然ここにあなたがいたから挨拶しようとしただけじゃない。それともあの場に顔を出した方が良かった? 可愛い坊ちゃんと奥さんの前に」
「家族に近付くな!」
「Oh , あなたの家族になんか何の興味もないわよ―――」

違う、シェリーじゃない。そう気付き、彼女はホッとしたように瞳を閉じた。だが、次の瞬間、思わずあっと声を上げそうになり、息を呑んだ。
振り返った女の顔が見えたのだ。あれは、まさか……!?
動転した彼女は、その場を離れ、児童書のフロアーへと戻った。太い柱の陰に隠れ、胸に手を当てて呼吸を整えた。
間違いなくあれは、5番街で友人のアリーと一緒だった女、先日のパーティーで話しかけてきた、あのヤスミンという女だった。
つまりあの日、彼女を彼の妻だと知っていて、さも親し気に話しかけてきたということだ。
そして彼女への挑発として、あのキスマークと花束を差し向けてきたのもあの女なのだ。
あの日の屈辱を思い出し、沸々と怒りが込み上がるのを感じた。
でも、これでようやく相手が誰なのかを知ることが出来た。例えまた嫌がらせをされたとしても、見えない敵に怯える日々ではもうなくなるのだ。
それに夫のあの口ぶりから言って、やはりもう関係は終わっている。そう確信した。いや、そう信じたいだけなのかもしれないが。
瞳を閉じ、大きく息を吐き出したところに、4歳くらいと8歳くらいのお揃いの服を着た姉妹が、可愛らしい声で話しながら彼女の目の前を通り過ぎて行く。
その姉妹の声によって現実に引き戻された彼女は、ハッと思い出したようにレイが座っていた場所へと目をやった。

「レイ!?」

ここから動かないでと言ったはずなのに、レイが席にいない。彼女は慌ててそのフロアを見渡した。
彼女が身を隠したのと同じ太い柱や、更に配置された家具のレイアウトのせいで死角になった場所がいくつかあり、ざっと見渡したところではレイの姿を見つけることは出来なかった。

「レイ!? レイ!」

整えたはずの呼吸が再び乱れるのを感じながら、もはや先ほどの夫のことなど、頭から完璧に消え去っていた。
彼女の心配をよそに、座っていた場所から離れた場所で、レイは若い男といた。レイには背が届かない本棚から男が本を取り出して、レイに渡しているところだった。

「レイ!」
「あ、ママだ」
「あの椅子に座っててねってママそう言ったでしょ!? どうしてママのお願いが聞けないの!? 心配したじゃないの!」
「ごめんなさい。だってちがう本がよみたくなっちゃったんだもの」

レイに本を取ってくれた若い男が、所在なさげに彼女とレイの顔を交互に見て、額を指で掻く仕草をした。

「Oh , ごめんなさい。この子が何かご迷惑をおかけしたんじゃ……」
「No , No , とんでもない。見てて危なっかしかったんで、ついおせっかいを」

男はそう言って、上段の本を取るための、子供用の赤いプラスティック製のステップを指さした。

「上級生用の本を欲しがるなんて、とても賢い子だね」
「ありがとう。えっと……」
「ああ、僕はジョシュ、よろしく」
「―――レイモンドだよ!レイって呼んでね」
「OK , レイ」
「キャサリンよ。ご親切にどうも」

ジョシュと名乗った男は、キャサリンとレイと交互に握手を交わすと、じゃあ、と手を振って去って行った。

「レイ、いい?」

キャサリンは膝を床に着くように腰を落とし、レイの目線と自分の目線を合わせながら、息子の両腕を掴んだ。

「ママ、さっきは感情的に怒ってしまって悪かったわ。ママがあなた一人をここに残していなくなったことのほうが何倍もいけないことなのに。悪いのはあなたじゃなくてママなのに。ごめんね、レイ。でもね、よく聞いて」
「うん」
「ママはあなたがそこにいない、って気付いた瞬間、胸が張り裂けそうになってしまったの。どうにかなってしまいそうだった。わかるわね?」
「うん」
「レイノルド叔父さんの話はしたわよね?」
「うん、ママのいなくなった『おとうと』なんでしょう?」
「そうよ」
「だいじょうぶだよママ。ぼく、まいごになるのはいやだし、しらない人にもついていかないよ。それにあぶないときにはバディがおしえてくれるんだ」
「まあ、そうなの? それは頼もしい”相棒”ね」

いらっしゃい、そう言ってキャサリンが息子をぎゅっと抱きしめる。そこへフィリップが戻って来て、一体何事だ?と声をかけた。
ダディ!―――見上げる息子を夫が抱き上げる。息子の頬へ唇を寄せる夫を見つめながら、彼女は立ち上がってそっと息子の脚に手を置いた。
息子の小さい体から、温もりが手のひらに伝わる。その温もりに安堵するかのように、彼女は瞳を閉じて息を吐いた。




その夜、彼女は夫の腕の中で、甘くかすれた声を上げた。腕を彼の背中に、脚を彼の腰に絡ませて。
何故、そんな気になれたのかはわからない。ただ、純粋に、抱き合いたいと思った。
あの女への対抗心のようなものかもしれない。或いは、何かを証明したかったのかもしれない。彼に愛されている実感が欲しかったのか、それとも、自分の気持ちを確かめたかったのか。
答えはわからなかった。考えれば考えるほどに、心が混沌としてしまうのだ。
寝息を立てる夫の顔を見上げる。昼間の光景などなかったかのように、満ち足りたような、邪気のない顔だ。
彼女は少し呆れたように小さく息を吐き、こっそりベッドを抜け出して、キッチンへ向かった。目的はやはり、酒だ。
昨夜ナディアがモルドワインに一滴垂らしたグラッパをショットグラスに注ぎ、勢いよく喉に流し込んだ。強い酒に喉や胸が焼かれる感覚は心地良かったが、少々むせて咳込んだ。
夫と抱き合ってみても、あの女の顔が、昼間のあの光景が、頭から消えることはない。そう思い至り、苦々しい思いでグラッパを再びグラスに注いで、そこで彼女はハッと思い出したように瞳を開いた。
あの日、五番街で友人のアリーと一緒にいたヤスミンに会った時。『彼女』に似ているような気がしたことを思い出したのだ。
『彼女』を思い起こさせる女と浮気をしていた―――そのことがどういう意味を持つのか。
ああ、と彼女は思わず声に出し、指先で目の両端を押さえるようにして瞳を閉じた。
何故気付かなかったのだろう。浮気そのものは大して問題ではなかったのだ。そう覚った。
視界がぐらぐらと揺れ始めるまでグラスを何度も口に運び、しばらくしてようやく彼女は寝室に戻った。ベッドの横に立つと、夫はやはり静かに眠っている。
胸に暗い火が点った。彼女は再び夫の隣に身を横たえると、夫に背を向け、声を殺して泣いた。











ニュージャージー州  パーシッパニー・トロイヒルズ  2:40 p.m.


驚いた水鳥たちが一斉にバタバタと羽を広げるのを横目に、彼はバイクを止めてヘルメットを外し、しばらくの間、その湖を眺めることに時間を費やした。
彼が脅かして羽をばたつかせた水鳥たちは、再び呑気に水面をゆらゆらと漂い始めたが、彼がバイクのエンジンを吹かすと、大きな音に驚いて、またしても羽をバタバタさせながらヒステリックな声を上げ始めた。
Sorry , と水鳥たちに向かって手を上げ、彼はゆっくりとバイクをスタートさせた。
緩くカーブを描く道が続き、湖から距離が遠のくのに比例して住宅の数が増えていく。そのうちに、住宅が立ち並ぶ緑豊かな一角から少し進むと、さらに緑が増し、林が見えて来る。
その林を背に、焦げ茶色の屋根とベージュ系のレンガの壁を持つ一軒の家があり、その家の前で彼はバイクを止めた。
ヘルメットを外して髪の毛をかき上げるように整えていると、家の中から姉のケイトが出てきて、彼に手を振った。
姉に向かって片手を上げ、彼は久しぶりに実家のドアの前に立った。

「Hi , Sean」
「Hi ! Katie」

姉のケイトとハグして中に入り、リヴィングルームを見回す。

「ダディは今出かけてるの。アルとクリスも」
「Baseball?」
「Yeah , マムなら寝室よ」

早速2階に上がり、両親の寝室のドアをノックする。返事がしないので、そっとドアを開けると、ヘッドボードに背を預けるようにしてベッドの中にいる母親のスーザンが瞳を開いた。

「Oh , Sorry」
「No ! Come here ! My boy」
「Hi Mom !」

ベッドに腰かけて母親にハグし、挨拶のキスを交わす。温かい母の手が、すっかり広くなった末息子の背を何度も行き来する。

「ケイティったら大げさね。あんたまで呼び寄せるなんて」
「No , no , 寝てなきゃ駄目だよマム」
「ああ、でもこうして顔を見せてくれるなら、体調崩すのも悪くないわね」

母親のスーザンはそう笑って息子の頬を撫でた。
姉の電話ではとても気分が悪そうで心配したのだが、思っていたよりも母親の顔色が良かったので、彼はホッと息を吐いた。

「医者には?」
「いつもの目まいよ。前に処方された薬がまだあるし、わざわざ医者に行くまでもないのよ」
「本当に?ちゃんと検査とかしたほうがいいよ」
「Oh , あんたも心配性ね」
「マムに似たんだよ」
「まあ」

元気にしてるの? ああ、元気だよ。 新しい仕事のほうは?上手くいってるの? もちろん。順調にいってるよ―――そんな他愛もないやり取りをしばらく続けていると、姉のケイトがコーヒーとクッキーをトレイに乗せてやって来た。

「マムもダディも、あんたがあの店辞めちゃったから、もうあんたの料理を食べに行けないって残念がってるのよ」
「フィルの家に来れば?」
「馬鹿なこと言わないの。招待もされてないのに」
「Oh , 彼元気なの?」
「Yeah , すっかり大企業のCEOが板に付いてる。立派なもんだよ」
「へえー、子供の頃はよく泣いてたのにね」
「姉貴が泣かせるからだろ? 近所の男の子はほとんど全員、一度は姉貴に泣かされたはずだよ。ほんと男勝りだったよな」
「ふふっ、覚えてなーい」
「よく言うよ」

そんなふうに彼らはしばらく軽口を叩き合って時を過ごしていたが、母親を再び横にならせて休ませることにした。
1階に下り、ショーンがキッチンの冷蔵庫を開ける。そんな弟の背後を通り過ぎ、ケイトはキッチンの椅子へと腰掛けた。

「何か作ってくれるの?」
「What the fuck ! この家の冷蔵庫は何でいつもこう……カオスなんだよ。前回俺が整理してからまだ4か月しか経ってないのに」
「4週間でそうなったよ」
「マジかよ」
「……ね、ショーン」
「うわ、これ腐ってる。これもやばそう」
「ショーン、聞いて」
「Wha !?」
「まずは礼を言うわ。来てくれてありがとう」
「And ?」
「もっと頻繁に顔を見せてやって」
「Uum……冬はなかなか来れないって知ってるだろ?雪降るし」
「ここは南極大陸じゃないの。バイクが無理なら電車で来ればいいでしょ?」
「今時南極だろうが宇宙だろうが、スカイプとかFacetimeで顔見れるのに?」
「そういう問題じゃない。解ってるでしょ?」
「Oh , まさか……どこか悪いの?」
「No , そうじゃないけど……最近すごく不安がるの」
「不安?」
「マムらしくないわよね。でもそうなの。ダディの姿が見えないってパ二くって電話かけてくるし、今朝もめまいがするって、この世の終わりみたいに嘆いて電話してきて」
「じゃあ何でダディはマムを置いて出かけたんだよ」
「あたしが来たから、もう出かけていいって。あの子たちの野球があるから連れて行けってマムが」
「また更年期とか?」
「どうかなあ」

ふーっと息を吐き、冷蔵庫を閉めると、ショーンもキッチンのテーブルの椅子を引き、そこへどかっと腰を下ろした。

「歳のせいで不安になってるんだと思う。去年ビル伯父さんが亡くなったじゃない?その影響もあるかも」
「歳のせいって、まだ64だろ?」
「そうだけど、不安なものは不安なのよ。明日どうなるかなんて誰にも分らないし」
「不安ね……それならセラピストに診てもらうべきじゃ? 俺が顔を見せたところで、解決する問題だとも思えないけど」
「Are you serious ? マムにとってあんたがどんだけ大事な存在か解ってる?」

Oh God―――勘弁してくれよ、と言わんばかりに、彼は手のひらで顔を覆った。
長男と9歳も離れて出来た末の息子への、過度とも言える愛情と期待に、応えたい気持ちがないわけではなかった。両親を深く愛しているし、彼らから貰った無償の愛には感謝しかない。
けれど、それに時々プレッシャーや息苦しさを覚えるのも正直な気持ちだった。傍から見れば、愛情を一身に受けて育った、要領の良い苦労知らずに見えるかもしれないが、末っ子には末っ子なりの苦労や悩みがあるのだ。
特に彼のように、親の期待に応えているとは言えない人生を送っていると。

「ショーン……あんたがこの土地にあまり帰って来たがらない理由は解ってるつもり。あんたを責めるつもりはないの。ただ―――」
「―――解ったよ。冬も終わったし、もっと帰ってくるようにする。だからもうその類の話はやめてくれ」
「Oh , じゃあ何を話す?」
「I don’t know ……姉貴の尻に敷かれて可哀そうな彼氏の話とか?」
「失礼ね!そんなことしないわよ」
「早く彼に会わせてくれよ。そこんとこ確かめたいから」
「No ! あんたとは会わせない!今決めた!」
「Whaaat !?」

大丈夫だって、子供の頃、近所の男子全員泣かせてたなんて余計なことは喋らないから―――そう笑う弟を軽く睨み、姉のケイトは弟の手に自分の手を重ねた。

「真面目な話、本当に、本当に素晴らしい人よ。知っての通り、ろくでもない男ばっかりだったから戸惑うくらいにね」
「Oh , that’s good for you」

嬉しそうに微笑む姉の手を握り返すように包み込み、ショーンは笑みを収めて姉の瞳を見つめた。

「姉貴は幸せになるべき人間だよ。心からそう願ってるし、そのために俺に出来ることがあれば何でもする」
「ありがとう」

うっすらと瞳を潤ませ、ケイトは再び弟の手に自分の手を重ねて微笑んだ。

「あんたは? 本当に誰もいないの?」
「What ?」
「愛してる人。大切な人。ううん、ただ気になる子でもいいけど。いないの?そういう子」
「………」
「!」

いるのね!? と言いたげに驚いた顔を見せる姉に向かい、ショーンは軽く笑って首を横に振った。

「No no no , 今の沈黙は絶対誰かのこと考えてた。正直に言いなさいよ」
「Nope」
「Hey , come on !」
「No , I just ……」

そう言ったきり、小さく首を振る弟を見つめ、ケイトは辛抱強く言葉の続きを待った。いつもなら、何もないだの、ほっといてくれだのと言い切って話題を変えたがる彼が、言葉を探しているようだからだ。

「……先に姉貴の幸せを見届けたら考える」
「What !? またそうやって誤魔化す気?」
「誤魔化してないよ。順番は守ろうよって話」
「ふん、まあいいわ」

期待したような答えを弟はくれなかったが、それでも姉のケイトは内心満足していた。この間まで頑なだったはずの、弟の変化を感じ取れたからだ。

「Look」
「うん?」
「あんたにプレッシャーを与えるつもりはないけど、これだけは言わせて」
「何」
「あんたこそ幸せになるべき人間よ。長くて冷たい冬はもう終わったの。いつまでも怖がってないで、そろそろ前に進むべきってこと」
「……かもな」
「枯れるにはまだまだ若すぎよ!でももう遊びまくる歳でもないんだからさ」
「あー……最近遊んでないな、そう言えば」
「Oh ! That’s good for you !」

そうやって姉弟がキッチンで話していると、父親のヘンリーがケイトの息子二人を連れて帰宅した。
それからショーンは甥っ子二人を連れて買い出しに出かけ、さらに二人に手伝わせて、久しぶりに家族のために料理を作った。
そして夜にはマンハッタンに帰るつもりでいたのをやめて、その日はそのまま両親の家に泊まった。
翌朝、マンハッタンに戻る途中、再び彼に驚かされた湖の水鳥たちが、バタバタと羽を広げてヒステリックに声を上げている。Sorry , と水鳥たちに手を振り、彼はマンハッタンへとバイクを走らせ続けた。
交差点で信号を待つ間、彼は昨日の姉との会話を思い返していた。
あの時、心に浮かんだ彼女と、数時間の後に会うことになるのだ。その考えは、彼の気を重苦しくさせた。
本当は、心の反対側では、全く違う思いが生まれている。だが、彼がそれをはっきりと自覚するのは、もう少し先のことになるだろう。
やがて信号が青に変わった。彼は邪念を振り払い、気を引き締めて、ゆっくりとバイクをスタートさせた。