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Magnet 9.「 For the next stage -新たなステージへ-」

 

Magnet 9.   
「 For the next stage 」 -新たなステージへ-

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8:20 p.m. ミッド・ノース・『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・NY)

――「Sorry! I 'm late!」
「遅いよラムカ」
「げ、何よそのドレス、素敵!」
「ホント?ステイシーに借りちゃった」
「まじ?自分だけお洒落しちゃってずるいよ」
「でも爪塗ってくるの忘れた」
「もう間に合わないよ。残念でした」
「Mademoiselles(マドモアゼルがた) 、ご心配なさらずとも、お二方とも大変美しゅうございます。
さあ、それではお車までご案内いたしましょう」

ボルサリーノを外して胸にあて、ミシェルが軽くお辞儀をした。

「あら、そう仰る貴方が一番お洒落ですことよ、Monsieur Pinoteau(ムスィュー・ピノトー)」
「Merci bien (そりゃどうも)」

ベティの言葉ににんまりし、彼がふたりの背中に手を添え、車のほうへと導く。

店の外で待機していた車を見てラムカがOh my god!と声を上げた。
小型ではあるが、そこに立派な黒いリムジンが停まっていたからだ。

「リモに乗ってくの!?」
「そのようだね」
「Thank you、mister」

美しく着飾ったマドモアゼルたちが、運転手にとびきりの笑顔を捧げてリムジンに乗り込む。
郊外にあるクリフォード家の別荘へ向けて出発だ。

「本当にカジュアルなパーティーなの?」
「さあ・・・お友達も誘ってお気軽に、なんて言うくらいだからそうなんでしょ」
「お迎えの車寄越してくれるだけでも驚きなのに、それがリモなんて!」
「もっと胸の開いた服にすればよかったかな」
「充分だよ、ベティ」――ミシェルとラムカが声を揃えた。

初めて乗ったリムジンの中ではしゃぐラムカとベティに呆れながら、ミシェルも帽子を手でくるくると廻して遊んでいる。
マンハッタンでパーティー、なんてしょっちゅうあることだけど、郊外にこのメンバーでこうして出掛けるなんて多分
初めてのことだ。少しずつマンハッタンと日常とが遠ざかっていくのに比例して胸が高まる。



ミッド・ノースから40分も走っただろうか。
閑静な住宅街を走り抜け、ほどなくして車は木々の中に隠れているような大きな鉄格子の門をくぐった。
美しくライトアップされた噴水をぐるり、と廻りこむようにして、漸く屋敷の前に到着だ。
周りには高級車が溢れかえっていて、家の中からは音楽が低く流れている。
ミシェルは車を降りたあと、ぽかん、とした顔で立ち尽くすラムカとベティの背中を再びそっと押した。


「ミシェル!」
「Hi、キャサリン!お招きありがとう」

玄関に入ると直ぐにキャサリンがミシェルに気付き、3人を出迎える。

「キャース!」
「今行くわ!――バタバタしててごめんなさい。またあとで。ゆっくりし楽しんで行ってね、お友達も」
「Thank you so much.」
「紹介する間もなかったね」
「うわ、凄いお屋敷・・・」
「見て、あのランプ!ガレだよ」
「あっちにも!あの花瓶も!」


いかにもアッパー・イーストの住人らしい連中ばかりで埋め尽くされているのは覚悟して来たのだが、どちらかと言うとソーホーやチェルシーのギャラリー界隈で見かけるような、或いは、ひと目でファッション業界関係者と判るような、
つまり、ハイセンスな「業界人」っぽい連中が大半を占めている印象だった。
それに混ざって、いかにもウォール街で成功していそうな男たちもいる。
女性連れも多く、明らかに夫婦と判る連中もいれば、いかにもモデルといった感じの女性を連れた男たちもいる。
つまり、どのみち、ラムカにとっては何の接点も見つからないような連中ばかりだ。
ただひとつだけ、考え得る例外もあったが。
どうかこの中にセント・ジョンの父兄がいませんように。
そう祈りながら、とりあえずバーテンのトレイから適当にカクテルを選んで、ベティとミシェルとこの夜に乾杯した。


取りあえず空腹で目が回りそうな3人は、並べられた豪華な料理を楽しみながら「業界人ウォッチング」に興じることにした。
そのうちにミス・ベネットがやってきて、ベティとミシェルの働く 『 Bruno Bianchi NY 』 (ブルーノ・ビアンキ・
ニューヨーク)が先日のパーティーで大きな話題に上ったことを告げた。
キャサリンが偶然、その広告塔になったことが大きかったが、確かにあれから二週間の間にミシェルを指名する新客ばかりか、ベティの新客までも増えつつある。

考えてみればふたりはその「業界」に属すべき側の人間だ。
有名でない、ただそれだけの理由で、まだ『あちら側』に属していないだけのこと。
もちろん、大切な仲間であり有望な『アーティスト』でもある彼らの成功を心から願っているし、ミス・ベネットの報告は彼女にとっても喜ばしいものだったけれど、ラムカは自分ひとりだけが全く場違いな場所にぽつん、と立っているような気がして、何となく居心地の悪さを感じていた。

それでも、「違う世界の住人」に囲まれるのはやはり刺激的だ。
折角、上手くいかない職探しに溜め息ばかりの毎日の憂さを晴らしにやって来たのだから、うんと楽しまなくちゃ!
――そう思い直すことにした。
そのうちにミシェルが違う飲み物を取りに行く、と言って彼女たちの傍を離れ、バーカウンターのある場所へと向った。


ミシェルが通路へ出ると、そこに体の大きいアフリカ系の男が通路を塞ぐように立っている。
男の横を通り過ぎる際に目が合ったので、彼は軽く笑みを向けた。

「Hi 」
「Oh my god!」
「!!」

突然そう叫び、男はミシェルのシャツに手を伸ばして更なる奇声を上げた。

「んまあ!なんて可愛い子なの!」
「ど、どうも・・・」
「Wait!こんなふうに絶妙なピンクのドレスシャツを着こなす可愛いブラウン・シュガーはね・・・
そう、あれは、97年! アポロで観たマクスウェル以来よ! You know it? Like this! 」

指をぱちんぱちん鳴らしながらミシェルに体を摺り寄せて、そのマクスウェルの曲を歌い踊るハイテンションな彼に
固まっていると、「Excuse us 、Barnie」とキャサリンがミシェルの腕を引っ張った。

「あんもう!キャース!あたしの可愛いマクスウェルをどこ連れて行く気!?」
「Sorry! He's my boy!」

何よっ、旦那がいるくせにっ!とか何とか彼の悪態が追いかけて来たが、キャサリンはげらげら笑いながら
彼にひらひらと手を振った。

「助かったよ、ありがとう」
「そう?ふふっ。彼、あれで実はとってもいい人なのよ。でもそのキュートなお尻は隠しといたほうが無難かも」

それより紹介したい人達がいるの!――そう言ってキャサリンがミシェルの手を引いて、とあるグループの輪に
割って入った。

「Hi 、guys!楽しんでる?」
「Hi 、キャス」
「例の彼を連れてきたわ。ミシェルよ。 ミシェル、こちらジュリアン・ローレンスよ」
「Oh!まさか、あのジュリアン・ローレンス!?」
「そうだと思うよ」
「ああ!お会い出来るなんてとても光栄です」

彼女が口にしたのはあろうことか、高名なファッション・フォトグラファーの名前だった。
あなたの写真集は全て持っているんですよ!眼鏡をかけていらっしゃるから気付かなかった!
握手を交わした後、ミシェルが胸に手を当てて信じられない、というふうに首を振った。

「イアン」
「ステファニー」
「アルヴィン」
「よろしく、ミシェルです」

ジュリアンを始め、その場に居合わせた彼ら全員と握手を交わし、ミシェルは、一体・・・?と不思議そうな顔を
キャサリンに向けた。

「君が彼女をバルドーに仕立て上げた張本人だね」

イアンと名乗った男がそう言ってグラスを口に運んだ。

「イアンはね、『Avec』でエディターをしているの。ステファニーは『Avec』でも活躍してるスタイリストの
ダイアン・ウィードのアシスタントを、アルヴィンは・・・」
「電話番」

笑いが起こり、キャサリンがカモン、アルヴィン!と彼の背中を軽く叩く。

「彼はモデル・エージェンシーの副社長をしていて、キャスティング・ディレクターも兼ねているの。
キヤナ・ミナーリを見出したのも実は彼なのよ」
「本当に?彼女とても個性的で注目してるんですよ」
「君もやってみる気はない?モデルでも成功すると思うよ」
「あー・・・実は時々スカウトされるんだけど、裏方の仕事の方が好きなんです。
クリエイティビティ(創造性)のある仕事がしたくて」
「我々全員がそうさ」




―――盛り上がっているミシェルのほうをちら、と見やり、ベティがはあ、と息を吐いて
カクテルの中のチェリーを口に放り入れた。

「つまんない。スノッブばっかでさ。いい男はみんなゲイだし、そうじゃない男は夫婦連れか、
オツム空っぽのモデル連れたカスばっか」
「ちょっと!声大きい」
「あーあ。同じサロンで働いてるのに。そりゃネイリストになんか用はないですよね、そうですよね」
「私よりはずーっと需要あるじゃない!現に新客、増えたんでしょう?ほら、あそこの奥様方にでも
名前売りこんでみればいいじゃない。それに比べて私なんて全く縁のない世界でさ、ひとり浮いてるよ?」
「何言ってんの、こんだけ金持ち連中が揃ってるのよ?子守の依頼あるかもしんないじゃん。
元セント・ジョン幼稚園の先生でーす、って宣伝しときゃ――」
「――Oh my god! それ本当?」
「?」

声に振り返ると、たまたま通りかかったミス・ベネットだった。

「Hi 、ティナ」
「ベティ、彼女が幼稚園の先生って本当?」
「Yes 、she was.」
「あー・・・辞めちゃったんだけど・・・」
「今ほかにお仕事は?」
「いいえ、まだ何も・・・」
「ちょっと待ってて!」
「?」

ほら、言ったじゃない!そんなふうに両手を広げてベティが目を丸くした。
そっかベティ!そんな考えもあったのよね!今度はラムカが目を丸くする番だった。
その路線は今の今まで彼女の頭からすっぽりと抜け落ちていた。
もうベティ、早く言ってよ!だってあたしも今、思いついたんだもん――そんなことを言ってる間に、ミス・ベネットが
キャサリンを連れて彼女達のほうへ戻って来た。

「Hi 、ミシェルのお友達ね?」
「ベティです。こっちは・・・」
「シェリルです、よろしく」
「 "ベティ " に "シェリー "? ティナ、あの子の言ったこと本当だったわ」
「?」
「ああ、気にしないで。それよりシェリー、元幼稚園教諭って本当?」
「ええ、セント・ジョン幼稚園にいました」
「本当?うちの息子も最初はそこに通わせるつもりだったの。結局は近くのセント・ニコラの方になったけど」
「Wow! 名門ですね」
「So、今は何をなさってるの?」
「いえ、何も・・・」
「良かった!突然こんなお願いをしてお困りかもしれないけど、よかったらうちの子のナニー(子守)になっていただけない?」
「Oh、あー・・・」
「前任者が辞めてからなかなか良い人が見つからなくて、本当に困っているの。元先生なら家庭教師までお願い出来るし。どうか助けて、シェリー」
「それはあの・・・私としてもとてもありがたいお申し出ですけど・・・」
「じゃあ早速明日か明後日にでも、簡単な面接をさせてもらっても?」
「?」
「面接と言ってもただの形式的なものよ。一緒にお昼を食べましょう、シェリー」

詳しくは彼女から連絡させるわ――そう言ってミス・ベネットを残し、キャサリンがその場を去った。



その後、女性ゲスト陣に紹介するためにミス・ベネットがベティを連れ出した。
残されたラムカは、面接とやらに何を着て行こうか考えを巡らせたが、その前に帰ったら簡単な履歴書を作成しなきゃと思い立ち、そこで解雇された理由を正直に書くべき?と頭を悩ませた。
彼女、キャサリンはアッパー・イーストの住人にしては随分と気さくそうな女性だし、正直に答えても大丈夫そうな気はするんだけど。

そんなことを考えていると、ミシェルの笑顔が視界に入った。
今夜の彼はとても幸せそうに見える。良かった。彼はここのところ、ずっと元気がなかったから。
ラムカは、彼は「こちら側」にいるべき人間ではない、と常々思っていた。
彼が今夜をきっかけにして、成功への扉の鍵を手に出来るといいんだけど。もちろん、ベティも。
そうなったら本当に嬉しい。
わたしたち、今日という日を境に何かが変わり始めようとしているのかも――― そんな予感めいたものが彼女の中に生まれ、その思いつきは彼女をわくわくとさせた。

でもそれが一体何なのか、ってことまでは想像さえもつかなかったけど。



● 用語解説ページ


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Magnet 10.「Reunion -再会- 」

Magnet 10.   
「 Reunion 」 -再会-

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1:10 a.m.  アッパー・イースト

コンピュータの画面を目で追う彼の背後で、がちゃり、と響く扉の音。
相変わらずノックもしない女だ。もちろんそれを許されるのは、彼女、ただひとりしかいないが。

「・・・遅かったな」

彼が振り返りもせずに低い声で言う。彼女は壁にもたれながら、夫の背中をまじまじと見つめている。
そこにまた新しい傷でもこさえてきたかしら。私の居ない間に。
確かめてみる?あのカシミアのセーターを脱がせて?

「・・・うーん、寂しかった?ベイビー」
「酔ってるのか、キャス」

そうする代わりに、後ろから抱きついて耳を軽く噛む。
だが彼女に返されたのは温度のない声。

「ええ、酔ってるわよ。いけない?」

目の前に回りこんで夫の上にまたがり、にやり、とした笑みを彼に突き刺す。

「だってパーティーだもの」
「・・・最近、飲み過ぎだ、キャス。頼むから、また隠れて飲むのだけは―――」
「――― それよりね、フィル、喜んで! レイの子守が見つかったわ」
「・・・そう、それは良か―――」

唇を重ね、彼の言葉を遮る。不適な笑みを携えて。

「とても可愛い子よ。エキゾチック、大きな茶色の瞳、長い黒髪・・・・Oops!全部あなたの好みね」
「!?」

ふふっと笑ってもう一度夫の唇を貪り、膝を降りて、彼女が書斎を出て行く。
彼女の残した耳障りな笑い声と気配にうんざりしながら、彼は背中で彼女を見送った。





三日後  2:30 p.m. アッパー・イースト

彼女は今、何となく気後れしながらアッパー・イースト・エリアを歩いている。
狭いマンハッタンだが、彼女の人生には余り縁の無い地域だ (ただし、メトロポリタンやグッゲンハイムなどの美術館だけは何度か足を運んだが)。
高級ブランドのブティックが立ち並ぶマディソン街なんて、滅多に訪れることもない。
彼女だって女として生まれたからには人並みに憧れはある。
けれど、500ドル以上もする靴や2000ドル以上もするバッグだなんて、そんな贅沢など許されない身には、
高級ブランドなんてものは目に毒なだけだ。出来るだけ見ないにこしたことはない。

同じ高級住宅街でも、セントラルパークを隔てた向こう側のアッパー・ウエストの方がずっと、彼女にとっては
親しみやすい場所だった。
働いていた幼稚園があった場所だが、ゼイバーズやH&Hベーグルズにはよく通ったし、マンハッタン子供博物館や
アメリカ自然史博物館には園児を連れて何度も通った。
お気に入りのカフェも何件かあったし、それから・・・・
セントラル・パークのあちら側が急激に恋しくなってきたのと、同時に、思い出したくない男を思い出してしまったので、彼女はそれ以上、太陽の沈む方角に思いを馳せることを止めた。


セントラル・パーク東側沿いの5th Ave.(フィフス・アヴェニュー)から2ブロック東に通るPark Ave.
(パーク・アヴェニュー)。
70丁目あたりは高級住宅街として有名だが、キャサリンの教えてくれた住所もそのあたりだ。
ここら辺一帯に黄色いキャブが並んでいるが、時おり黒塗りのリムジンが横付けされていたりもする。
いかにも公共の交通機関とは縁の無さそうな人間の住む街、といった光景だ。

キャサリンの住む建物の入り口にはドアマンが居て、その人に顔を覚えてもらうまでは、クリフォード家に
出入りする者だと証明しなければならない。
彼女がキャサリンのくれた許可証のようなものをそのドアマンに見せると、「ああ、クリフォード夫人から
伺っておりますよ、ミス・テイラー」とドアを開けてくれた。
笑顔で礼を言って中に入ると、正面には赤い絨毯が敷き詰められた階段が美しく螺旋を描いていて、
階段の横、つまり入り口向って左側の壁側に、重厚な装飾のクラシカルなエレヴェイターがある。
暫く待ってようやく降りてきたそれに乗り込み、教えてもらった通りに15階のボタンを押した。

4階のボタンが上下逆さまになっているのに気付き、くすっと笑っていると、同時に「Wait!」という声がして、
箱を持つ腕が扉の閉まるのを阻み、背の高い男が「Excuse me」とエレヴェイターに体を滑り込ませて来た。

「ふー!どうも」
「何階ですか?」
「Oh、Ah・・・」

15階、と言おうとして、15階のボタンが既に押されてあるのに気付き、あれ?と言う顔で男が彼女の顔を見下ろした。
だが彼女は彼より少し前の方に立っていて、顔が良く見えない。
男がそれ以上何も言わないので、不審に思った彼女が男を振り返った。

「!?」
「!?」

互いに、あれっ?という顔をした後、ふたりして一回顔を前に戻して首を捻り、もう一度互いの顔を、
ひとりは見上げて、ひとりは見下ろして、今度こそ「あっ!」と言う顔で互いを指差す。

「シェリー?」
「ショーン?」

同時に名前を呼び合った時、ちーん、と音がしてエレヴェイターの扉が開いた。

「What are you doin' here!? (ここで何を!?)」
「あー、今日からここの息子さんの子守を・・・」
「For real!?」
「あなたこそ何を?」
「ここの家の料理番」
「Really!? じゃあ、Oh!!」

驚きの余り降りるのも忘れて話し続けたせいで、エレヴェイターがそのまま下降し始めてしまった。
笑う彼にぎこちない笑みを返すと、彼が右手を差し出した。

「ショーン・クーパー。トムから聞いただろうけど」
「Oh、シェリーよ。シェリル・テイラー。この間は美味しいワインをどうも」

自己紹介をしながら握手を交わすと、彼が目を丸くしていた。

「信じられない。本当に "シェリー " だったんだ」
「! そのことなんだけど、どうして・・・」

そこでエレヴェイターが開き、ひとりの白髪の婦人が乗り込んできた。行き先は1階。
最初からやり直しだ。そんな顔でショーンが彼女に目配せをしたので彼女が軽く笑うと、
白髪の婦人が自分を笑ったのかと誤解したのか、少し不快そうにふたりを振り返った。

「素敵なスカーフですね、マダム。よくお似合いだ」

彼がそう言って最後に片目を瞑ってみせると、その婦人は、まあ、嬉しいこと、とまんざらでもなさそうな顔をして
エレヴェイターを降りて行った。
あのトムさんと言う人が彼のことを女たらし、と言っていたのは本当かも。しかも全年齢対象。
彼のその『実力』とやらを目の当たりにし、何となく彼女は身構えて、再び15階のボタンを押した。
もう一度エレヴェイターが上昇を始める。

「・・・で、何だったっけ?」
「・・・あー、えっと、そう!どうして私の名前を知ってたの?ってことよ」
「あー・・・それについてはクリフォード家の坊ちゃんに聞いてくれ」
「はあ?」
「変てこなガキだよ。いつまで持つかな、君」
「どういうこと?」
「会えば解る」

再び15階で扉が開き、今度こそふたりはそのエレヴェイターを降りた。



ナディア、と言う名の、50代後半くらいのちょっと厳めしそうなメイドがふたりを出迎える。
入って直ぐのエントランスには真ん中に重厚そうな丸いテーブルが置かれ、大きな花瓶に花が活けられている。
薄暗い部屋の上を見上げると、昼間だと言うのに灯されたシャンデリアが、重厚な造りの部屋に柔らかな光と影の
コントラストを生んでいる。そこはまだほんの入り口に過ぎないと言うのに、美術品のような調度品が醸し出す雰囲気が既に彼女を圧倒していた。

そんなふうに突っ立ったままのラムカを置いて、じゃ、頑張って、とショーンはあっさりとひとりキッチンの方へと
行ってしまったので、彼女は急に心細くなってしまった。
ナディアというメイドがラムカを連れ、家のあちらこちらを案内しながらてきぱきと注意事項を伝え始める。
例えば、ここから先は夫妻のプライヴェイト・スペースだから許可なく立ち入ってはいけない、とか、使用人はメインの
バスルーム(トイレ)を使ってはいけない、とか、家族のプライヴァシーに立ち入るのは勿論のこと、それを外部に
漏らしてはならない、とか、まあそんな類のものだ。
先日のランチでキャサリンは「好きにのびのびと、あなたのやりやすいようにやっていいのよ」と言ってくれたけど、
このナディアという人はそれを許してくれなさそう・・・などと思いながら彼女の後をついて行くと、次の案内場所は
キッチンだった。


「Welcome to my restaurant!」

ショーンが軽く笑ってラムカを出迎え、彼女は引きつった笑みでそれに応える。
彼は仕事の手を休め、なんだか面白いことになってきたぞ、と言わんばかりに、シンクにもたれながら腕組みをして
面白そうに彼女達の様子を眺め出した。
冷蔵庫のドリンク類や、コーヒー、紅茶等はご自由に、とか(でもこちらの棚のものは奥様のものだから手を出さないで、とも言われたが)、坊ちゃんに余りミルクを飲ませすぎないで、とか、賞味期限と消費期限を必ずチェックしてね、とか、そういう細かい説明だった。
彼が、くすくす、と笑っているのが聞こえたので、ナディアの目を盗んでこっそりと『何で笑うの?』と抗議の視線を
彼に向けたが、彼は軽く肩をすくめてみせただけだ。


次にナディアが、そこはパントリー(食品庫)だと言って奥の扉を指差した時に、電話か何かの呼び出しの音が
聞こえたので、Excuse me、と言って彼女が席を外した。
ラムカがきょろきょろとしていると、中を見るかい?そう言ってショーンがパントリーの扉を開けてくれた。
そろっと顔を覗かせ、ダブルサイズのベッドが二台余裕で入るくらいの広さに面食らい、Wow!と思わず声を上げた。

食材のストックだけで無く、其処にはやミキサーやフード・プロセッサー、大きな鍋といった調理用の機械や器具、
冷凍庫、ワゴン、予備の椅子などの雑多なものが仕舞われていて、更に最奥のガラスの仕切りの向こうはワインセラーになっている。
パントリーの方が私のキッチンより広いなんて、この家って一体どうなってるの!?
下手したら、あのワインセラーより狭いかもしれない!

「驚いたろ?」
「全くだわ!うちのキッチンの5倍は広いんだもの!」

感に堪えない、というふうに彼女が溜め息を吐いて首を振る。

「・・・Yeah、本当に驚きだよ」
「?」

何だかしみじみとしたような声だったので振り返ると、驚いた、と言う彼の視線は、パントリーではなく
ラムカに注がれている。

・・・どういうわけか、心臓が0.5インチ(約1.3cm)ほど動いたような気もするけど、
気のせいだということにしておこう。

「・・・また会えるとは思ってもみなかった」

・・・・・今度は1インチ(約2.5cm)ほど動いたような・・・・・
やっぱり気のせいじゃなかった? ううん、気のせいに決まってる。


曖昧に笑って、ええ、私も、なんて適当に返事をしたところで、向うの方から賑やかな声が近付いてきたので、
彼女はそちらに気を向けた。子供の声だ。

「待ってたよ、シェリー!」
「?」

そう言ってキッチンに走って来た男の子の顔を見て、彼女は思わず、あっ!と声を上げた。

"はじめまして、シェリー。やっときみに会えた "

ラムカの脳裏に蘇る、あのどん底の日、セントラルパークでの不思議な出来事。
あれは幻かと思っていたのに。ううん、思いこんでいた、が正解だったけど。
レイ・・・だったわよね?
えーとえーと、私がセントラル・パークでこの子に会って、そのあとベティがこの子に会って、
ミス・ベネットとこの子が繋がりがあって、ミス・ベネットはキャサリンのアシスタントで・・・
で、キャサリンは・・・この子の母親・・・?
ちょっと待って、どこをどう結びつければキャサリンとこの子が繋がる?どうしてこうなった??
情報を処理しきれず、ぼーっと突っ立ったままのラムカにくすくす、とレイが笑う。

「あの日言ったでしょ?シェリー。君にはそのうちいいことがあるよ、って」
「!」
「それがこのことだとは僕もしらなかったけどね」

それからレイはあの日と同じように手を差し出し、少しかしこまったように彼女を見上げた。

「ちゃんとフルネームで "じこしょうかい " するね。レイモンド・ジョゼフ・クリフォードだよ」
「Oh、あー、シェリル・ラムカ・テイラーよ。よろしくね、レイモンド」
「ら、ん?」
「ラムカよ。 L-A-M-K-A、ラムカ」
「ラムカ?かわったなまえー!」
「そうでしょ?」
「どこのくにのことば?」
「あー・・・そうね、えっと・・・ママがインド人なの」
「ふうん。じゃあ・・・『ナマステー、ラムカ!』 」
「! そうよ!よく知ってるわね!」
「僕ね、いろんなくにの『こんにちは』が言えるんだよ!『ありがとう』や『さよなら』も!」
「Wow!凄いのね!じゃあ・・・お部屋でゆっくり聞かせてくれる?」
「Sure!」


ショーンは、信じられない、というふうにゆっくりと首を振りながらふたりの会話を聞いていた。
僕もミス・シェリーに出会ったんだよショーン!そう言っていたレイの言葉を彼はまるっきり信じていなかった。
いや、信じないようにしていた。信じてしまえば彼女やレイとの出会いを運命的なものだと認めてしまうことになる。
偶然の重なりに過ぎない、そう思い込んでこの数週間を過ごしてきたのだ。

レイは時折、未来を読むような変てこなことを言い出すが、きっと当てずっぽうのでたらめに決まってる。
たまたま偶然が一致するだけさ――だから彼女との再会もまた、ただの偶然だと思い込むことにした。
でなければやってられない。

シェリー、とレイが彼女を呼ぶ声を聞き、イネスのメッセージがふいに脳裏を廻る。
彼は、ああ、と頭を抱えたい心境になり、ふたりに背を向け、再び仕事に戻ることにした。



● 用語解説ページ


Magnet 11.「 Trick or Artichokes ? -いたずら?それとも、アーティチョーク?-」

Magnet 11.  
「 Trick or Artichokes ? 」 -いたずら?それとも、アーティチョーク?-

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赤毛の彼女の様子がおかしい。
そう気付いたのは、インフルエンザで約一週間仕事を休む羽目になった、あの直後だった。
一週間もの間、一度も彼女の姿を目にすることが出来ずに、彼は心底悲しかったのだが、
ある時をきっかけに、これを機に生まれ変わろう、とでもいうような妙な決意に目覚めてもいた。
最後に彼女に会った時、「一杯おごってよ、ポール」と言ってくれた、あのひと言を心のよりどころに
病気にも耐えた、と言ってもいいだろう。

彼女には一緒に暮らす恋人がいる、というのは知っていた。だから相当な覚悟がいることも解っている。
自分を受け入れてくれる確立なんて極めてゼロに等しい、と。
それでも彼はこのまま、毎日窓越しにカプチーノの注文を巡ってのやり取りを続けるだけの、
そんな不甲斐ない自分に甘んじる気はなくなっていた。
もちろん今のままでは振られるのは目に見えているが、いつか状況は好転するかもしれない。
少なくともこの思いを伝えることくらい、何の罪にもならないじゃないか!
でも一体どうやって?どのタイミングで伝える?どんな言葉を選べばいい?
彼はそこで必ず頭を抱えてしまうのだ。


久しぶりにいつもの場所にベティの姿を見るのはとても良いものだ。これこそが彼にとっての日常だった。
でも毎日毎日彼女を見つめ続けてきた彼だからこそ、ベティの変化に目ざとく気が付いてもいた。
仕事の合間、頬杖をついて溜め息を吐いたり、ぼうっと考え事をしていたり。
もう一人のネイリストのエミや顧客たちと談笑していても、どこか翳りを感じさせる笑顔だった。
何があったんだい?ベティ?――コーヒーを届ける度にそう声をかけようと思うのだが、彼の前ではいつも通りの彼女でいるものだから何となく声をかけ辛くて、気がつくとまた一週間余りが過ぎてしまっていた。

そしてそのうちに彼は驚愕の事実を知ってしまうのだった。

「ねえ知ってた!?お向かいのサロンのミシェルとベティ、同棲始めたらしいわよ!」

ジェシカがフレディに面白そうにそう言うのを耳にしてしまったのだ。

「ええ?彼ってゲイじゃないの?」
「きっとバイなのよ!ちょっと、面白いことになってきたと思わない?」

――何てこった!ぐずぐずしてる間にベティは恋人との同棲を解消して、あろうことかあのミシェルと
暮らし始めた、ってこと!?恋人を振って!?じゃあベティのあの溜め息の原因はそれだってこと!?
彼女と彼はただの友達だと思っていたのに!ミシェルが相手なんて、全く勝ち目ないじゃないか!
ああ、僕は本当にのろまで間抜けな意気地なしだ。
こんなことになるんならあの時、「じゃあ来週にでもどう?」ってベティを誘えばよかった。
もう遅かったかもしれないけど、少なくともそのことで後悔することはなかったのに。
あああ、今世紀最大のショックだ。
いや、まだ今世紀になって10年しか過ぎてないけど、少なくともこの10年で最大のショックだ!
ああ、また熱が出てきたような気がする――打ちのめされ、廃人のようにぼんやりとする彼を、またジェシカとフレディがくすくす笑っているのが聞こえる(もっとも彼らは、ポールが好きなのはミシェルだと勘違いしたままだったが)。
それがどうした。笑いたきゃ笑えよ。そんな顔を彼らに向ける。
思いがけない彼の反撃に、ふたりはこそこそ、と仕事に戻っていった。

とにかく落ち着け、ポール。
直接彼女の口から事実関係を訊き出すまでは、本当のことはまだ解らないじゃないか。
僕にだってまだ「ベティ・レース」に参加する資格は残ってるはずさ!


そんなこんなでひとり悶々としていると、夕方ベティがいつものようにマグカップを返しにカフェにやってきた。

「Hi、ポール」
「・・・Hi 」

その罪つくりな笑顔を向けないで、ベティ。
入り口近くのテーブルの上を拭きながら、彼女がカウンターのほうへ歩いていくのを見送る。
ちら、とカウンターを見やると、今ジェシカとフレディは席を外していた。
返却用のカウンターの上にマグを返し、ベティが再び彼の方へ近付いて来る。

「じゃ、またね、ポール」
「・・・・・待って、ベティ!」
「?」

意を決して彼は店の外のベティを追いかけた。ああ、心臓が壊れてしまいそうだ。
いや、いっそのこと壊れてしまえ!

「なあに?」
「あの・・・」
「Yeah?」
「あー・・・その・・・」
「?」
「さっ、最近、あの・・・えーっと・・・」

肩をすくめて一体何なの?と言いたげに笑うベティを見て、彼はすーっと息を吸った。

「僕がミシェルを好きだとかとんでもない妙な噂が蔓延してるみたいだけど決してそうじゃないから本気にしないで!
じゃ」
「・・・は?」

彼はその日、生まれて初めて「死んでしまいたい」、と思った。





ミッドノースいちのバリスタが自分の不甲斐なさに打ちひしがれている頃、そこより少し北、アッパー・イーストの
クリフォード御殿では、ひとりの料理人が野菜の山を目の前に、うーん、と頭を悩ませていた。
出来るだけ野菜中心のヘルシーな料理を、と望むクリフォード夫人に対し、好き嫌いの多いその息子。
毎回子供用に別のメニューを幾つか用意してはいるのだが、野菜嫌いのご子息にどうやったらそれらを口にして
もらえるか。それが毎回の彼のミッションであり、苦労の種だ。

ちらり、と背後のテーブルを見やる。
レイは何故か自分の部屋ではなくそこで勉強したがるので、今もそこに座って「お気に入りのナニー」と
算数の勉強中、というわけだ。
こいつはまだ幼稚園児だぜ!?と声を上げたくなる瞬間でもある。
レイは体が弱いせいか過保護にされ過ぎているように思う。
他所の家のポリシーに干渉する気など更々ないが、この歳の子供はもっと外の世界をのびのびと駆け回りたいだろうし、そうさせてあげるべきだ、と彼は内心でそう思っている。
甥のアルとクリスなど真逆の育ち方をしているからなのか、外で遊んでばかりでまるで勉強に身が入らず、
母親である姉のケイティはいつも嘆いているが。

さっさと答えを教えてしまいたくなるのを堪え、こうやって気長に根気強く見守りながら、自分で考えることの
道筋を与え、やがては答えを導き出す。 そんなふうに彼らの勉強を見てやることなど自分には出来そうもない。
外でバスケット・ボールやキャッチ・ボールをする方が、自分も彼らも楽だからだ。
子供の学習に付き合うのには相当な忍耐力が要るんだろうな―――そう思いながら感心したように彼女の様子を見つめていると、彼女が彼の視線に気付いて「何?」という顔を向ける。

「あー・・・実は買い忘れた食材があるんだ。ちょっと買いに出ようかと思ってるんだけど、レイを連れ出しても構わないかな」
「ほんとう?ショーン!」
「あー、どうかしら。ナディアに許可をとらなくちゃ」
「大丈夫、直ぐそこのマーケットだから」
「・・・じゃあいいけど。Oh、バイクは止めてよね」
「もちろん歩いて行くよ。君も一緒だし」
「何で私が?」
「俺ひとりだと、あのおばさん許してくれそうにないからさ」
「おば・・・」
「わぁい!」

レイが嬉しそうに椅子から元気よく下りて、ナディアー、ショーンとシェリーとマーケットに行ってくるねー、と
駆け出した。

「レイ!上着を着て!」

自分の上着は忘れて慌ててレイを追いかける彼女にくすっと笑い、彼は自分のものと彼女の上着とを手に
ふたりを追った。




クリフォード家のあるパーク・アヴェニューから1ブロック東のレキシントン・アヴェニューを過ぎ、
さらに東へ1ブロック進んだサード・アヴェニュー。
道を1本隔てただけでがらり、と街の雰囲気が変わる、そこがこのニュー・ヨークの面白いところで、
ここアッパー・イーストも東に進めば進むほどその色合いが濃くなる。

ここサード・アヴェニューが「貧富の壁」だと言われていたことをつい最近知った。
ここから東に行けば行くほど、家賃も安くなるし、ぐっと庶民的な街並みに変わる。
反対に、セントラル・パークに近ければ近いほど家賃は高くなるし、全身ブランド品を纏ったような人々が増えて行く。

そして、2ブロック歩いたそのサード・アヴェニュー沿いにそのマーケットがあった。
直ぐそこ、なんて言ってたくせに、2ブロックも歩かされちゃった、なんて思いながらレイと手を繋ぎ、
マーケットの中へ入る。
レイにとってみれば、おもちゃ屋だとかキャンディー屋に来た時と同じくらいにわくわくする「遊び場」なのだろう。
眼をきらきらさせながら、あっちからこっちへと走ってはしゃいでいる。

「ほらレイ、見てみろ。綺麗だろ?」

彼が野菜売り場を指差して言う。オレンジやグリーンやイエロー、白や赤や紫。
色とりどりの野菜やフルーツが所狭しと並ぶさまはポップアートさながらで、一枚の巨大な静物画のようでもある。

「うん、とてもきれい」
「野菜はただそこにあるだけで、それ自身がとても美しいんだ。それでいて、食べる人をも健康で美しくしてくれる、
そんな魔法の食材なんだぞ?」
「ふーん」
「触ってごらん」
「! つるつるしてる!パプリカってこんなにつるつるしてて硬いんだね」
「そうだ。皮を剥いたり火を通したりして、君が食べやすいようにしてるんだよ」
「これは何?フルーツ?パイナップルのはっぱみたいだね」
「これはアーティチョークという野菜さ。瓶詰めのものしか食べたことないだろ?」
「わかんない。きっと食べたことない」
「これは下処理が大変な食材のひとつなんだ。今は君の顔の半分ほどもあるのに、美味しく食べられる部分は
真ん中のほんの少しの部分だけなんだよ」
「ふーん。おいしいの?」
「ああ、美味いぞ。まだ子供には美味い、と思えるものじゃないだろうけど」


彼がレイを連れ出した訳を理解し、ラムカは少し彼を見直した気になっていた。
なるほど。テーブルの上で算数を勉強させるだけが学習じゃない、というわけね。
ついでに自分の買い物もして行こうかしら、とフルーツをあれこれ吟味していたラムカは、値段を見て、直ぐに手にしていたオレンジを棚に戻した。やっぱりアップ・タウン価格とは相容れそうもない。

ふと何気なく反対側のスペースに目を向けると、彼らをじーっと見ている女がいるのに気が付いた。
いかにもモデルか何かをしてるような風情の女だ。
ラムカは彼女に見覚えがなかったので、きっとショーンの知り合いだろうと思い、彼の肩を軽く叩いた。
ショーンがその彼女に視線を向けると、彼女はひらひらと手を振って彼に笑顔を向けている。

「・・・・あー・・・・ちょっと外していいかな」
「どうぞお好きに」

レイ、お魚でも見てこようか!そう言ってレイをその場から遠ざける。
ちら、と彼のほうを見ると、その女が笑いながら彼の頬を指先ですいっと撫でているところだった。
ショーンはいつになく軽薄そうな表情をしていた。
ふたりがどんな会話を交わしているのかなんて考えるまでもない。
フード・マーケットでの立ち話に相応しい表情ではなかったから。
やっぱりトムさんの言った通りだ。きっと彼が街を歩けば女に当たる。
そして彼女はそういう類の男が苦手だ。

「気にしなくてもだいじょうぶだよ、シェリー」
「えっ!?」
「かのじょは "こいびと "なんか じゃないよ」
「見ちゃだめよ、レイ!」
「だってほら、さっさとあっちいけよ、ってこころの中でそう言ってるよ」
「?」

いいからこっちいらっしゃい、そう言って魚売り場までレイを引っ張っていくと、やっとレイは魚の方に
興味を移してくれたようだ。

"こころの中で言ってるよ " ――? 
それって一体どういう意味?彼がそういう顔をしている、ってことよね?

「・・・ふふっ」

ラムカを振り返ってにやり、と笑うレイの瞳を覗き込む。まるで別人のような顔だ。
ちょっと意地悪そうな、何かを企んでいるような、少し大人びた顔。
初めて会った時みたいにその瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚え、彼女はほんの一瞬、
眩暈のようなものを感じた。



結局ショーンはアーティチョークを買って帰った。
そしてレイに説明しながら下処理をして、今度は真っ黒になるまで焼いたパプリカの皮を剥くのを手伝わせている。
あの時レイが一瞬だけ見せたあの表情は何だったんだろう。
ふたりを後ろから見つめながら、ラムカはその時感じた、畏敬にも似た感情を思い出していた。
こんな小さな子に対して抱く感情ではないのかもしれない。
でもあの時、レイはレイではなく、違う誰かだったようにも感じられたのだ。
・・・ううん、きっと彼の中にもそういう表情をするような部分があるのよ。
彼女はそう思い直した。あれはきっと、何か悪戯心を起こしていたのに違いない。

そんなことよりも、だ。
「気にしなくてもいいよ、シェリー。かのじょは "こいびと "なんかじゃないよ」
――そっちの言葉のほうが気にかかる。何であんなこと言われなきゃならないわけ?
マーケットからの帰り道、憮然としたような顔のラムカを見て、彼がくすっと笑ったのも気に入らない。
誤解のないように言っときますけど、私はただ付き合わされて疲れただけなんですからね!
そう言ってやりたかったけど、彼の本来の目的は、ああやって女とフード・マーケットの野菜売り場なんかでいちゃつくことなんかじゃなかった筈だし、こうして野菜に興味を持たせようとしてやったことだもの。
そう思い直すことにした。
いい匂いがしてきて、思わず目を細める。
心も少し柔らかさを増すようだ。そのうちに彼女のお腹も盛大に音を鳴らすだろう。

そうだ、明日は久しぶりにお菓子でも作ってレイに食べさせてあげよう。
そう思い立ち、彼女は何の材料があるのかを確かめるために、パントリーの扉を開けた。



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Magnet 12.「 Under the crescent moon -三日月の下で-」

Magnet 12.  
「 Under the crescent moon 」 -三日月の下で-

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0:20 a.m.  アッパー・ウエスト

暗闇にくゆり、とゆるやかに立ち上るライト・グレイの煙。
ベッドに肘をつくようにうつ伏せていた彼女が、自分の唇で愛撫していたそれを彼の唇に差し込む。
普段の彼に喫煙の習慣はないが、時折こうして、ことの終わりにそれを楽しんでいる。
楽しんでいる、と言うよりも、彼女に付き合ってそうしているのだが。
彼の唇からそれを抜き取り、再び彼女がそれを口に咥え、からかうように笑う。

「再試験、見事に合格。満点よ」

ふん、と鼻を鳴らして窓の外に目を向ける。ブラインドの隙間から月が輝くのが見える。
何だって月の美しい夜にこんなことをしているのだろう。
もっとも、彼女と美しい月を見ながら語る、なんてロマンティックな夜を過ごすなど、考えもつかないが。

「ふふ・・・」
「?」
「別れた夫が昔、言ってたわ。"ベッドで煙草を吸う女は嫌いだ " ――だからそうしてやったの。わざわざ煙草を
覚えてね。そうやって彼が嫌がることを片っ端からやってのけた」
「例えば?」
「そうね・・・酔った女も嫌いって言うから、だらしなく酔ってアパートメントの階段に転がってみたり、他の住人の前で
汚い言葉を使って喧嘩をふっかけてみたり・・・そうやって彼にさんざん恥をかかせて楽しんだわ。
それから彼の嫌いなスパイスを効かせて料理もしたし――」
「あんたが料理を!?」
「失礼ね。これでも結婚していた頃はキッチンに立つこともあったのよ」
「想像もつかないね。それより、彼に同情するよ。そんな嫌がらせまでして挙句、財産までせしめてさ」
「あら、正当な権利を主張したまでよ。最初に若い女を囲った向こうが悪いんだもの」

彼女は少しも悪びれずにふふっと笑い、またライト・グレイの煙を吐き出した。

「おかげで自由よ。好きなだけ仕事に没頭出来るし、料理もしなくていいの。
胸糞悪い彼の母親とも二度と会わなくて済むし。セックスだって、したい男としたい時にするわ」

短めの金色の髪を掻きあげ、彼の顔を見下ろしながら彼女が意味ありげに笑う。

「・・・もう寝るよ。何だか疲れた」
「もうギブ・アップ?あんたが?」
「何とでも言えよ」


本当は気乗りがしない夜だったのに、汚名挽回とばかりに持てる力の全てを一度に使い果たしたからだ。
我ながらそんな自分に呆れるが。
彼女に背を向け、眠る振りをして、もう一度ブラインドの隙間から月を眺めた。
それまで数え切れないほど目にしてきたはずの三日月が、何故今夜はこんなにも気にかかるのだろう。
今夜の月に何故だか懐かしさを憶えるのだ。それが何なのか、そもそも、懐かしいと言うべきなのか、
この感情を表現出来る言葉さえ見つからない。
懐かしい、とひと言で表現するには余りにも重苦しく、やり切れない思いだった。
遠い記憶の彼方に眠っていた何かを揺り起こされるような、或いは、身に憶えのない記憶と、それに付随する感情が呼び覚まされるような・・・或いは、まるで他人の心の中に侵入したような、そんな奇妙な感覚。
それは彼女、シェリーと出会ってから度々現れる、厄介な感覚だった。
彼女に会うと、眠っていた何かがむくむく、と心の奥底から起き上がろうとしている、そんな気がするのだ。

「・・・止めろ、イネス」
「う・・・ん、いいじゃない、たまには」

後ろから彼に抱きつき、彼の背中のあちこちに口付けながら彼女が甘えた声を出す。
彼はうっかり、「ちっ」と舌打ちをするところだった。
余計なスキンシップはしない。行為中やその前戯の時以外、キスはしない。
そういう暗黙のルールを自ら破る彼女に苛立ちが募った。
他の女と違い、こういうことをしない彼女だからこそ関係を続けているのに。
イネスの手が後ろから彼の体の中心部分に伸ばされる。
彼の意志に反して、その部分はイネスの欲望に忠実だった。まるで囚われの身だ。
自分の意志で制御することすら出来ない。

「んん・・・ふふっ」

気が付けばそこは、イネスの口の中で既におもちゃにされている。
そのうち彼女は完成したおもちゃの上にまたがり、好き勝手に遊び始めるのだろう。
されるがままに、彼はもう一度月を眺め、やがて、諦めたように瞳を閉じた。






遡ること約4時間前   8:10 p.m.  ミッドタウン・イースト レヴァーハウス

「で?まだ旦那さんには会ったことないわけ?」
「うん。毎日帰りが遅いみたい。でもリヴィング・ルームに家族の写真も飾ってないの。変だと思わない?」
「B、そのワイン味見させて。サンクス」

レイのナニー(子守)としてあの家に出入りを始めて一週間と数日。金曜日の夜だった。
帰りに『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク)に寄ったあと、ベティとミシェルと共にミッドタウンの
レストランで報告会と称しての食事会、というわけだ。
そこは新進気鋭の若手インテリア・デザイナーが航空機の客室をモティーフにデザインしたという、ミッドセンチュリー・モダンな内装のレストランで、たまたま予約が取れたので、久しぶりに3人でやって来たのだった。

「相変わらずろくなワイン置いてないね」
「そう?特に何とも思わないけど。ワインのことよく解んないし」
「ゲイは何にでも好みがうるさいのよ。ね、それよりさ、彼の作った料理とどっちが美味しい?ふふっ」

まただ――ラムカはうんざりした顔で、その話はしたくない、とばかりに右手のナイフの先をベティに向けた。

「今度『彼』とか『ショーン』って口にしたら、今日はあんたのおごりだからね」
「Amen to that!(いいねー!)」
「あんたも今言ったよ」
「つべこべ言わない!」

たった数日でラムカの顔つきが違って見えるのに他のふたりは何度も顔を見合わせていた。
目に力が宿り、表情も生き生きとしていて、かつてのラムカを取り戻したようだった。
ただ、仕事の内容なんかより、ベティはやたらとショーンのことを聞きだそうと躍起になっていて、
今もその日何度目かのショーンに関する質問をラムカにぶつけ、彼女をうんざりとさせたばかりだ。
「だってあり得ないでしょ!運命の出会いとしか言いようがないって!」――そう言ってはラムカの心を
煽り立てようとするが、彼女は相手にしなかった。


彼女は今日キッチンで、彼とメイドのメアリーがくすくす笑いながらパントリーから一緒に出てきたのに遭遇した。
彼は平然とした顔で、やあ、シェリー、なんて言ってたけれど、メアリーは明らかに一緒のところを見られたことへの
動揺を隠しているふうで、じゃあクーパーさん、そういうことでよろしく、なんてわざとらしく彼に言ってキッチンを
出て行ったのだった。
一体何してたの?そんな呆れ顔のラムカに彼はくすっと笑っただけだ。
何って解るだろ?、とでも言いたげに、軽く片方の眉を上げて。
この人、絶対私を馬鹿にしてる!余裕ある彼の態度に何故かカチン、ときたので憮然としていると、そんな彼女に
またくすくす、と笑い、やれやれ、といった顔で仕事に戻った彼。
子ども扱いされてる、そう感じた。
実際、子供じみた態度だと自分でも思ったけれど、彼の態度に彼女は何故だか少しだけ傷付いていた。
だから彼女は、仕事場でこんなことして余計な気遣いをさせる男なんて最悪!そう思って溜飲を下げることにした。
まさにベティが喜んで飛びつきそうなネタだ。
だから、絶対言うもんですか、と彼女は心にシャッターを下ろしたのだった。






10:45 p.m.  ブルックリン

彼らと別れたあと、ラムカはいつものように地下鉄でブルックリンに戻った。
もう一件飲みに行こうよ、とベティに誘われたが、彼女の住むプロスペクト・ハイツは治安の良い場所とは言え、
これ以上遅くなると流石に夜道の一人歩きは避けたほうがいいからだ。

駅からの帰り道、彼女は何の気なしに空を見上げ、そこに美しい月が輝いているのに気付いて思わず顔を綻ばせた。
鋭い鍵爪みたいな金色の三日月だ。
満月にはない魅力、というのか、どこかミステリアスともいえる美しい光を放っている。
どうしてだろう。その月を眺めていると、ふいに胸がちくり、とした。
この月をどこかで見たことがある。悲しい出来事と共に――ふいにそんな確信めいた思いが湧いた。
そりゃ、何度も目にしてきた月に違いないもの。嫌なことがあった時に三日月を見たことが何度かあったでしょうよ。
そう言い聞かせてみるのだが、そういう曖昧なものではなく、確かに何かの記憶と結びついている、そんな気がするのだ。
それが何なのか、どうしてそんなふうに思ってしまうのかは解らない。何故だか胸がちくり、と痛かった。

でも、きっと単なる思い過ごしよね。
そんなふうに思い直し、いつもの角を曲がり、辿り着いたアパートメントの入り口の階段を上った。

「――ラムカ」
「Oh!!!」

突然の声に彼女は驚き、階段を踏み外しそうになった。
暗闇の中から突然姿を現した男に思わずひゅう、と息を飲む。

何てこと!?ハリーじゃない!

「もう!脅かさないでよ!」
「ごめん」
「ここで何してるの!?」
「ベティに会いに来た。君の処だと思って」
「・・・残念ね。ここには居ないわよ」
「待って!ラムカ!」

彼女はうんざりしたような困ったような顔でハリーを振り返った。

「君と一緒じゃないならどこ?」
「さあね。自分で訊いてみれば?」
「着信拒否されてるんだ」
「それはお気の毒」
「まさか仕事場まで押し掛けるわけにもいかないし、頼むよ、ラムカ!」
「はっきり言わせてもらうけど、今頃来て何言ってるの? ベティが家を出てからどれくらい経つと思ってるわけ?」

何か問題でも?――ラムカの大きな声に、隣のアパートメントの3階の窓から男が顔を覗かせた。
問題があるなら警察を呼ぼうか?ということだ。

「No problem!Thank you!」
「問題ありよ!ねえ、こんなことやめて、ハリー。これはベティが決めたことなの。あなたは彼女の意志を尊重すべきよ」
「なあ、ベティとやり直したいんだ。話を聞いてくれよ、ラムカ。君なら力になってくれるだろ?」
「・・・・・きっとあなたは同じことを繰り返してまたベティを傷つける。
悪いけど、力になってあげられない」
「違う、今回は本当に魔が差しただけなんだ。クライアントの女に誘惑されてさ・・・つい・・・
解るだろ?断れないんだよ」
「Oh yeah?会社のために寝たわけ。恋人を裏切って、恋人とのベッドの上で。見上げた忠誠心ね」
「後悔してる。もう二度としないと誓うよ!本当だ―――」

垂れ流される誠意のない弁明と懇願に、ノー、と首を横に振り、彼の言葉を拒絶し続ける。
そんな彼女の瞳の色を見て、ハリーがようやく口を閉じた。

「・・・・・解ったよ」
「I'm sorry、Harry.」
「・・・・・You bitch!」
「What!!?」

信じられないひと言を吐き捨て、ハリーがその場を去った。

「ちょ、ま、あっ!ちょっと! Hey、mister!やっぱりお巡りさん呼んでよ! 聞いたでしょ!? 侮辱罪よ!?」

ずっと彼女らを見下ろしていた隣の3階の男は、冗談だろ?わはは、と笑って窓を閉めた。
何なのもう!!!信じられないっ!!!
プリプリ怒りながらベティに速攻で電話すると、ベティはげらげら笑ってこう言った。

"そりゃ、奴の顔見た瞬間にコップ(警官)呼ぶべきだったね "
「やっぱりゾンビだよ、彼!ああもう、ほんとムカつく!!!」
"まあまあ、落ち着きたまえよ "
「ちょっと!誰のためだと思ってるのよ」
"ごめんって!あんたがそんなに怒るの珍しいから面白くてさ "
「笑い事じゃないんだけど」
"Ok、じゃあこうしよう!かけ直すからちょっと待ってて "




10:55  p.m. チェルシー

――「ミシェル、ちょっと音楽消して」
「? いいけど」

ふと見ると、外した固定電話の受話器がテーブルの上に置かれている。電源が入ったままだ。
切り忘れてるよ。 そう言ってそれに触れようとすると、駄目駄目、触らないで、実況中継するんだから、とベティから声が飛んだ。
ベティの言葉を無視して受話器を耳に当て、ハロー?と言うと、ハイ、ミシェル、とラムカの返事が返ってきた。

「一体何ごとなの?」
"ショーの始まりらしいよ "
「いいからラムカに聞こえるように受話器置いて。あ、こっちに向けて」
そう言ってベティが立ったまま携帯電話を耳に当てた。

「――ハーイ、ハリー!あたしの可愛い元彼ちゃん! ちょーっといいかしら?」

うわ、嫌な予感・・・。ミシェルは恐る恐るソファーから立ち上がって自室に引っ込もうとしたのだが、
逃がさないよ、とばかりにベティにシャツの裾をぐいっと引っ張られ、ソファーにひっくり返った。

「そんなにあたしに会いたかったのね? んん、突然消えたりしてごめんなさい、ハニー」
"―――――"
「そう・・・うん・・・うん・・・そうね、そうだと思ったの。誰にでも魔が差すことはあるんだもの」
"―――――"
「・・・・Alright、あなたのことは誰よりもよく解ってるつもりよ。だって2年も一緒に暮らしてきたんじゃない。
だからよーく聞いてね、airhead(おバカさん)」

そこまで言って、ベティがすーっと息を吸い込んだ。

「今度現れたらそのお粗末なくせに節操のないペニス切り落としてケツの穴に突っ込んでやるから覚悟しなさいよ!
二度とあたしとラムカの前に顔出すんじゃないわよ、このクソったれのbitch-ass! (女の腐った野郎!)
今度ラムカを屈辱してごらん、その情けない粗チン写真をあんたとその女の会社、両方にばら撒いてやる!
解ったらさっさと右手とファックして寝ちまいな!」

・・・・・・。

ミシェルがあんぐり、と口を開け、固まってベティを見上げている。
ブチッと電話を切り、あースッキリしたー!と息を吐き、今度はテーブルの上の受話器を取って耳に当てた。
「ご清聴ありがとう!ムスィュー・ピノトー、アンド、ミス・テイラー!」
ぱち・・・ぱち・・・ぱち・・・・・あんぐりとしたまま、ミシェルがゆっくりとベティに拍手を送る。
彼女はそれににっこりと笑顔で応えた。

「―――ところでラムカ、これって脅迫罪になる?」






0:20 a.m. 再び、ブルックリン

その後、彼女は寝付けずに、ベッドの中で寝返りをうつことを繰り返していた。
静かな音楽でも流そうか、それとも眠くなるまで本でも読んで起きていようか。
あれこれ思い悩み、もう一度寝返りをうってベッドから窓を見上げた。
あの金色の月が、再びラムカの瞳の中に輝きを映す。

そうやってしばらく月を眺めていると、彼女の心にとある小さな思い出がふっと蘇った。

"月が小さくなっていくのはね、ぼくがときどき、こっそりとかじってるからなんだよ "

――小さい頃、弟がそう言ってたっけ。

" ふーん、どんな味なの? "
" おとなりのおばさんがやいてくれるココナッツ・クッキーとにてるよ "
" じゃあどうやって真ん丸の月に戻すの? "
" んーとね、お水をあげるの。マー(ママ)がお花にあげるみたいにね。
そうしたらね、おねえちゃんがおこったときのほっぺたみたいに、ぷーってふくらんでいくんだよ "

―――あの子の想像力には毎回笑わされた。
・・・元気にしてるかな。明日、久しぶりに電話してみようかな。
大きな丸い瞳をくるくるさせて、いつも家族のみんなを笑わせてくれていた弟のことが急に恋しくなった。
一番呑気で、幸せでいられた頃だ。マー(ママ)がいて、弟がいて、私がいて、そして、ダディがいた。

三日月の夜はきっと人をおかしくする。
一般的には満月の夜こそがそうなんだろうけど、色んな感情に振り回された一日だったし、ベティの毒舌も
冴えまくってた・・・ってあれはやり過ぎだったけど。
だからきっと、三日月の夜にもそんな妖しい魔力が潜んでいるに決まってる。

そう思い、もう一度月を見上げる。駅からの帰り道に感じた、あの胸の痛みは何だったんだろう。
どんな記憶と結びついていたんだろう。
何故だかそれを知りたい、と強く感じた。思い出したい、と。 
・・・でも一体どうやって?

あの三日月の端っこを齧ってみればそれが解るかな?――彼女の顔に再び笑みが戻った。
やっぱり明日、弟に電話しよう。
そう心に決め、彼女は考えるのをやめて瞳を閉じた。



● 用語解説ページ


Magnet 13.「 Tears of a Honeybee -ミツバチの涙-」


Magnet 13.   
「 Tears of a Honeybee 」-ミツバチの涙-

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 冒頭部分がR18気味です。お気をつけください。





0:45 a.m.  アッパー・イースト


遠慮なく大きな声を出した彼女が、夫の上でがくり、と崩れ落ちる。
独り勝手にのぼり詰めた妻を呆れたように見上げる夫。
悪びれずにふふっと笑い、彼女は夫の上で再び動きを再開させる。
「あぁ・・・」
「・・・・」
「・・・んっ・・・」
今達したばかりだと言うのにまだ足りないのか、この女は。
むくむくと沸き起こる残虐心。彼は体を起こして彼女を自分の下に敷いた。
乱暴に脚を肩に担ぎ、激しく彼女を突き上げ始める。
彼女が再びのぼり詰めそうになると彼は動くのを止め、お願い、と懇願する彼女を冷ややかな目で見下ろした。
お願い、ともう一度彼女が懇願して、漸く彼が動きを再開させる。
そんなやり取りを数回繰り返し、やがて共に真っ白な世界へと達していく。
「素敵よ、フィル。とても感じたわ」
「・・・」
褒美のように彼の唇を貪り、彼女がにやり、と笑う。


クローゼットで抱き合った夜。あの夜を境に彼女は変わった。酒の量が増え、挑戦的な言動が増え、
自ら貪欲に夫を求めるようになっていた。
あの夜、パントリーで酔い潰れた彼女を見つけて寝室まで運んだが、あのまま、彼女は深い酔いの世界から
醒めていないのかもしれない。或いは醒めてしまうことを拒絶しているようにも見える。
その証拠に毎晩のように酒を飲み、上機嫌で彼に唇を重ねてくるのだ。

それは彼が本来の彼女に対して求めている姿では決してないが、少なくとも、以前のように縋るような眼で
じっと待っている、そんな彼女よりはましかもしれない、そう思うことにしていた。
きっと彼女は全てに気付いている。
他の男と寝る私を想像して興奮する?そう訊いた後でこう言って不敵に笑うのだ。
私は興奮するわ、あなたが他の女と寝る、ってことにね。
彼女が心底そう思っているのか、何故急に態度を変えたのか、彼はまだ彼女の真意を掴みかねている。
ただ、彼女が変わってからというもの、それまでの言い争いや無言の非難、というものから解放されたことは確かだ。
不思議なことにあれ以来、夫婦仲は上手くいっている。表面上は、と言うべきではあるが。


「見て、綺麗なcroissant(三日月)」
いつの間にかベッドを抜け出した彼女の声。裸のままで窓辺に立ち、月を見上げ、あなたとパリで食べたcroissantが恋しいわ、などと呑気な声で言う。
耳に心地よく響く美しい言葉の波、スモーキーなカフェの薫り、雨に濡れた石畳を照らす街灯り。
パリか―――彼の心に蘇る、あの旅の記憶の断片。

「・・・行きたいかい?パリに」
「・・・ええ、もちろん」

じゃあ行こうか、とは決して言ってくれない。それは彼女も嫌と言うほどに解っている。
そんな時間をどこから捻出するんだ?そう答えが返ってくるだけなのだから。
彼女だって思いつきで言ってみただけだ。
ハネムーンで巡ったヨーロッパの中の、ある一つの都市の一つの思い出。それだけのことに過ぎない。
クロワッサンなんてそこらへんどこにでも売っている。同じ味にはひとつとして出会えないけど。


「・・・行こう」
「!」
「夏にパリに行こう、キャス」

気付けばそう言っていた。信じられない、という顔をして、彼女が彼を振り返る。
だが一番信じられないでいるのは、そんな言葉を口にした、彼自身だ。

「・・・本気で言ってるの?」
「Yeah、この街のクソ暑い夏にはもううんざりだ」

クソ暑い夏・・・夫がそんな言葉を彼女に使ったのは何年ぶりだろう。思わず彼女はぷっと噴き出していた。

「パリだって暑いわよ。夏のパリは空っぽよ。誰もいないし、きっとなんにもない」
「その時は地中海にでも逃げ出せばいい」
「地中海・・・」

不思議な体験をした旅に彼女が思いを馳せている。
彼はベッドを抜け出してガウンを引っ掛けると、裸の彼女にもガウンを掛けて傍に立ち、同じように
月を見上げた。

「・・・きっといい旅になるよ」
「・・・そうね・・・」
「レイにフランス語の特訓をするか」
「ふふ・・・」

彼が彼女の肩を抱き、彼女が彼の手に自分の手を重ねる。
月を見上げながら、二人は自然に寄り添っていた。







1:15  a.m. チェルシー 

喉が渇いて眠れずに、彼はベッドを抜け出して水を飲むためにキッチンへと行った。
外食をした夜は大概そうだ。思っていた以上に塩分を摂取してしまうからだ。
冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出して乾いた喉を潤し、それから部屋に戻ろうとして、ふとベティの部屋から煌々と灯りが漏れているのに気付く。
電気を消し忘れて寝ているんじゃないか?家主としては見逃せない事態だ。
そうっと隙間から中を窺うと、彼女は彼に背を向け、机の上で開いたラップトップのコンピュータを前にうつ伏せて眠っていた。
こんなことだろうと思った。やれやれ、全く世話が焼ける。

「ベティ」

部屋の入り口で声をかけてみる。ベティの返事はない。
仕方なく彼は彼女の傍まで行って彼女を揺り起こす。

「ベティ、風邪をひくよ?」
「――」
「ほら、ちゃんとベッドで寝なきゃ。ベティ?」

ベティの手が "あっち行って " と言わんばかりにミシェルの手を振り払おうとする。

「ベティ?」

ミシェルはピンときたのか、腰を落として下から彼女の顔を覗き込んだ。やっぱり!

「どうしたんだい?Honey B」

Honeybee(ミツバチ)をもじった、Honey B。
それは毒舌家の彼女に親しみを込めて彼がつけた呼び名だった。
何てことだろう。彼女は誤って自分に針をチクリ、と刺してしまったようだ。
どうしたんだい?なんて訊くまでもないことはミシェルにも解っていた。
だから彼は彼女の手を取って椅子から立ち上がらせると、ベッドまで手を引いてそこへ座らせた。
隣にゆっくりと腰を下ろして彼女の肩を抱き、腕をさする。


毒舌家で気が強くてとことん男勝り。
一見すると男が恐れて逃げ出すタイプの彼女だが、実際それは傷付きやすい彼女が外敵から身を守るための
分厚い鎧なのだ。
ミシェルにはそれがよく解っている。
あんなふうに男を散々にこき下ろしたその裏で、こうしてひとりこっそりと泣くような、そんな女の子なんだってことが。

「・・・全く・・・手先は器用なのに」
「・・・うるさい」

やっとベティが口を開いた。彼女の腕をさするのを止め、顔を覗き込むようにして彼が静かな笑みを向けると、彼女は問うような瞳を彼に返した。

「・・・ねえ、信じられる?自分の恋人だった男にあんなこと平気で言えちゃう女なんだよ、あたし」
「・・・後悔してるの?」
「・・・ううん。むしろ清々した」
「じゃあ何で・・・」

よく解んない、そう言ってベティが息を吐く。

「何だか泣けてしょうがないの。あいつ、ほんとに頭にくるよ。どうしてちっとも成長出来ないの?
言い訳すらまともに出来なくて、何がよりを戻したいよ。クライアントの女に誘惑されて断れなかった?
普通それで恋人とのベッドの上で浮気する? そんな見え透いた呆れた言い訳で許して、なんて言うような大馬鹿な男とあたしは2年も暮らしてたの? ねえ、時間の無駄遣いだったよ、ミシェル。この2年をあいつに返して欲しい」

一気に吐き出すように言う彼女にティッシュペーパーを渡し、ミシェルが再び彼女の隣に静かに腰を下ろした。

「・・・はっきり言うけど・・・よりを戻したいなんて、結局は家賃をシェアしてくれる相手が必要だからさ。
君に出て行かれて、現実として一番困るのは当面のところ、そこでしょ?」
「・・・うん・・・」


痛いところを突かれた、とベティは思った。浮気される度に何度も出て行こうと思ったのに出来なかったのは彼女自身もその勇気が持てなかったからだ。 そもそも同棲を始めたのは家賃の節約のためでもあった。
引越しの費用、部屋を見つける労力、その後のコストの負担、それらを受け入れる覚悟が出来なかった。
腹は立つけど、許してしまえばそれで済むことだから。
ベッドで「メイクアップ・セックス」をして、暫くの間、彼女をちやほや持ち上げて機嫌を取ってくれれば、
それでことは済んだ。自分が我慢して彼を許してしまえばそれで終わり。
だから、出て行ったら彼が可哀相・・・心の奥でそう思う甘い自分がいた。
一人で家賃を払っていけるのかしら?誰かルームシェアしてくれる相手が直ぐ見つかるかしら?
そんなふうに。

けれどもう無理。愛情も情けも何もかも、彼のためのものはもう、全て使い果たしてしまった。
彼女の心はもう、見事なまでにすっからかんだ。
彼の浮気を目撃してからずっと、怒りで自分を保ってきた。
それを爆発させてしまった今、明日から何を支えにしていけばいいんだろう。

「彼は君に甘えすぎていたんだよ。何をしても結局は許してくれる、ビッグ・ママみたいな存在になってしまったのかも」


そうかもしれない、と彼女は思う。
出会った頃、べったりと甘えていたのは自分のほうだったのに、どんどんだらしなくなっていく彼に対して、いつの間にか母親みたいに彼の尻を叩いて小言ばっかり言っていた。
そしてそれがいつしか日常になっていた。それに甘んじてきた結果がこれだ。
つまり、彼女にも負うべき責任の一端がある。
何てこと!あたしは彼のママになっちゃってたのね?しかも、育て方を間違えちゃったってこと?

「・・・そりゃママとはセックスしないよね」

ぼそっと言って自嘲的に笑うベティに、ミシェルは静かな視線を向け続けた。

「どうして彼は成長出来ないの、って言ってたけど、君自身はどうなの?彼と暮らし始めた頃から成長したと思う?」
「・・・解んない・・・」
「僕は変わったと思う。エミがうちの店に来て以来、君が陰でもの凄く努力していたのを僕は知ってる。
彼女みたいなさ、手先の器用なアジア人ばかりの業界の中で、実際君は死にもの狂いで努力してきたじゃない。
高い金を払ってセミナーを受けたり店に残って練習したり。朝行ったら店のソファーで君が寝てたこともあったよね」
「・・・そんなこともあったっけ」
「君だけがどんどん大人になっていってしまったのかも。彼が成長したかしてないか、なんて僕には解らないけど、
ベティ、少なくとも君は2年前の君よりずっと成長してるよ」
「本当?」
「Yeah! まず第一に、その頃より毒舌が減った」


ちょっと!それ、褒めてない!そう言ってベティがミシェルのわき腹を指先でつつく。
Oh!そう言って彼が身を捩ると、ようやくベティの顔に笑みが戻った。

「ねえHoney B、彼みたいな甘ったれた男はきっと懲りないよ。また同じことをして君を傷付けるに決まってる。
それでも君が彼を求めるならそれで仕方ない、ってずっと思ってきたけど、やっと彼から離れる決心がついたのなら、
もう彼のために涙なんか流しちゃ駄目だ。次の男のために大事に取っておいて」
「・・・うん・・・」
「あ、"喜びの涙 " のためだからね」
「そんなもの、何年も流した覚えないや・・・流したいなあ、その喜びの涙ってやつ」
「・・・うん・・・そうだね」
「・・・ミシェル」
「うん?」
「・・・ありがとう」


返事の代わりに彼が拳を突き出す。拳でタワーを作るみたいに、彼の拳の上に彼女の拳が乗って、
その上にまた彼が拳を乗せて、最後に拳同士をかつん、と突き合わせてお仕舞い。
まるで男同士だね。ふふっと笑った後、ベティが溜め息を吐いた。

「あーあ、また悲しくなってきた。何であんたゲイなのよ」
「またその話」
「だってこれが映画ならさ、ここでピティ・セックス始めるとこだよ?」
「残念、これが現実」
「あっそ」
「・・・B、誰かとセックスしたいの?」
「したいよ!当たり前じゃない!どんだけご無沙汰してると思ってるの?」
「・・・僕も・・・」
「あーもう!ほんとジレンマ!」
「そうだ!今度ラッセルを紹介するよ。凄くいい奴なんだ」
「・・・ひとついいかなピノトー君。あたしの経験上、男がいい奴、って言って連れてくる男は大抵、
つまんないカスなんだよ。何しろ脳みそがスポーツとビールと女の裸だけで出来てんだから」
「Non non、見くびってもらっちゃ困るよエリザベス。この僕をそこらへんの男と一緒にしないでくれる?
とびきりのゲイがお薦めする、とびきりのストレートの男だよ?」
「うーん、それは未知の世界だね。試す価値、ありそう」


本当はラムカに紹介しようかな、と思ってたんだけど、ということは黙っておいた。
ラムカはどうやら新しい仕事先で運命的な出会いがあったみたいだし。今のところ、彼女は否定してるけど。
ポールの気持ちを考えると躊躇われるけど、ポールがあんな調子じゃ、ベティはそのうちに飢え死にしてしまう。
悪いね、ポール。彼女を飢え死にさせるわけにはいかないんだ。

「じゃあお返しに、あたしもとびきりのゲイを探しとくよ」
「Oh、 Come On! (やめてよ!) その必要はないよ」
「ほー、たいした自信だね」
「あら。あたし、今は恋よりキャリア優先なの。解る?」
「うげ、ファゲット・トーン(オカマ口調)、やめなよ」
「J.C.のお決まりの台詞だよ、知らないの?」
「ぶはは!まじ?」
「Yeah!まだあるよ」


ああ、彼の悪口言い始めたら夜が明けちゃうよ―――そう笑い、おやすみ、とベティの髪にキスをして、
ミシェルが部屋を出て行く。
ありがとう――― 彼女は彼の後ろ姿に向い、声を出さずにそう呟いた。



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Magnet 14.「 The Prince of a vegetable garden -野菜の国の王子様-」

Magnet 14.  
「 The Prince of a vegetable garden 」 -野菜の国の王子様-

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9:45 a.m.  アッパー・イーストへ

土曜日の朝の地下鉄は、いつもと違う人々でごった返していた。
いつもは平日の昼間2時半くらいに利用しているから、仕事に向うビジネスマンや子供連れと一緒になることも殆ど
ないけれど、その日はアップタウンに数多くある美術館や博物館に向おうとしているのか、家族連れが多かった。
時折、遅めの休日出勤と思しきビジネスマンらしい姿も見受けられる。

今日の彼女は朝から夕方まで、半日レイの相手をすることになっていた。
毎週ではないが、キャサリンが休みを取れない土曜日はそうする契約になっている。
その方が彼女にとっても好都合だ。その分懐は温まるし、デートの相手もいない、と嘆かずに済む。
今日はレイを連れてセントラル・パークでお散歩でもしようかしら。
いつもの6番線でなく、うっかり5番線に乗ってしまったために、ひと駅分、つまり9ブロックも余計に歩かなくては
ならないのに、それでもお散歩がしたい、と思えるくらいに天気の良い、暖かな土曜日の朝だった。


クリフォード家に着くと、出迎えてくれたのはメアリーだった。
昨日のキッチンでの気まずさを誤魔化そうとしているのか、彼女・メアリーはまるで親友を迎えた時のように
満面の笑みを浮かべている。

「シェリー、ちょっと」

その後早速レイの部屋に向おうとするラムカの腕を引っ張り、メアリーが彼女を直ぐ近くのバスルームに引き込んだ。
一体何事?という顔を向けるラムカにメアリーは懇願するような眼差しを向けた。

「その・・・昨日のことなんだけど・・・」
「Yeah?」
「ナディアに言ってないわよね?」
「・・・言う理由もないけど・・・」

ラムカの答えにメアリーは、ああ、良かった!と息を吐き、思いのほか大声を出してしまった自分に、Oh!と肩をすくめている。

「あの、誤解しないでね。クーパーさんとはその・・・本当に話をしていただけなの」
「・・・Oh yeah?」
「本当よ、信じて。そりゃあ彼って凄くホットじゃない?正直、そういう幻想が湧いちゃったことは確かよ」
「・・・・・」
「Oh、ふふっ。そんな顔しないで。実は私、以前の料理人ともそういうことになっちゃって・・・」
「・・・パントリーの中で、ってこと?」
「あー・・・そこだけじゃないんだけど、まあ・・・そういうこと」
「それとナディアとどう関係が?」
「彼女、そういうの大嫌いなの。実際のとこ見られたわけじゃないんだけど、昨日みたいに一緒にパントリーから
出てくるところを何度か見られて気付かれて。何もしてません、って咄嗟に言い訳したんだけど、今度そんなことしたら旦那様や奥様に言って辞めてもらいますからね、って釘を刺されてるの」
「・・・Ok、もちろん黙っておくわ。言う必要もないし」

ナディアでなくとも普通、知られたら即辞めさせられると思うけど、と内心ではそう思ったけど、ラムカはそれを隠して
メアリーに笑顔を向けた。
ちょっと意地悪なことを言えば、少なくとも彼女は "そういうタイプ "の人間で、懲りずにショーンともそうしようと
その機会を窺っている、そんなふうに見える。
何しろ彼女はラムカをけん制したいのか、こんなことを言いたげな顔つきだったのだから。
ショーンに手を出さないでね、私が先に目をつけたんだから、と。
安心してメアリー、頼まれなくたってそんなことしないわよ、そう返したかったけど、面倒臭いので気付かない振りをして黙っておいた。だって、私には関係ないことだもの。




その後レイの部屋に行って絵本を読み聞かせていると、開け放たれている部屋の扉をノックする音がする。
ふたりしてその音に振り返ると、その日現れるはずのない顔が部屋の中を覗いていた。

「ショーン!」
「!」
「ヘーイ、チビ」

レイがベッドを飛び降りてショーンに駆け寄る。
彼の足に纏わりつくように抱きつくのを、よいしょっと持ち上げて荷物みたいに肩に担いだり、
わざと落っことそうとする彼に、レイはきゃあきゃあと子供らしい嬌声をあげてはしゃいでいる。

「今日は休みじゃなかったの?」
「ああ、そうなんだけど――」
「――遊びに行こうよ、ショーン!」
「そのつもりで来たんだよ、レイ。今日は89丁目のマーケットに行くぞ」
「!」
「ええー?公園で遊ぼうよー」
「それは最後にな」

レイを床に下ろすと、ナディアー、と嬉しそうに叫びながらレイが部屋を走って出て行った。

「わざわざ休みの日に?」
「あー・・・週末にしかやってないイベントもあるし、時間があればユニオン・スクエアまで足を延ばせるかな、と思って」
「ユニオン・スクエア?」
「グリーン・マーケットさ。行ったことない?」
「あー・・・一回だけ行ったかな・・・」
「そんなわけで、今日もお供をお願いしますよ、Miss Sherry(シェリー先生)」
「どうせ嫌だって言っても連れてくんでしょ?」

そういうこと、とショーンが軽く笑う。 彼女は昨日のことや、さっきのメアリーの言い訳を思い出して何となく気まずい気持ちになり、彼の顔から視線を逸らして、レイの上着を取るためにベッドから立ち上がった。
クローゼットからレイの分厚いダウンジャケットを取り出すと彼が、今日は暑いくらいだからそれじゃかえって汗をかいてしまってよくないかも、と言うので、もう少し薄手のものを選んでそれをレイに着せた。
念のために彼女のバッグの中にレイのマフラーとニット帽を忍ばせ、挙句、こまめに手を消毒するための消毒用ジェルや、汗をかいてしまった時のためのタオルや下着の替えや何かをナディアに持たされたので、彼女のバッグははちきれんばかりになってしまった。



ナディアから坊ちゃんを地下鉄には乗せないで、ときつく言われたので、彼は渋々キャブを拾った。
どんなウィルスが蔓延しているか分からないから、ということらしいが、地下鉄に乗せてあげることも今日の目的の
ひとつでもあったのでレイはとても残念そうだったが、それでもキャブの中でマスクを外しては、窓の外を眺めて、
ひとりはしゃいでいる。
York Ave.(ヨーク・アヴェニュー)、89丁目でキャブを降り、そこから1st Ave.(ファースト・アヴェニュー)のほうへ向って少し進んだところにそのマーケットがあった。

「ヴィネガー・ストアー?」
「そんな酸っぱいもの食べたような顔して、レイ」

だってお酢、嫌いなんだもん、そう言うレイを笑いながら、彼が携帯電話を取り出した。

「――Hi、ゴードン。ショーンだ。今着いたよ」
「?」

彼が誰かと話をしている。どうやら店の関係者らしい。直ぐにゴードンという名のでっぷりとした、人の良さそうな顔をした男が店の前に現れて、彼らを奥の従業員用のドアの方へと案内してくれた。
ヴィネガー・ストアーという名前から浮かぶイメージとは違い、高級なフード・マーケットがその正体だ。
その店内を奥へと進みながら、どこへ連れて行かれるんだろう?そんな顔のレイの手を引き、ラムカもドキドキしながらゴードンとショーンの後を追うように扉の奥の階段を上る。

「さあ、着いたよ」
「うわあ!」

そう言ってゴードンがドアを開くと、そこは一面に菜園が広がっていた。
所狭しと野菜や果物が植えられ、何人かの従業員が水をやったり収穫したりしている。

「ここってマーケットのおくじょうだよね?」
「そうだよ。ここで野菜や果物を有機栽培しているんだ」
「ゆうきさいばい?」
「体に良くない農薬を一切使わずに、野菜や果物が本来持っている、生きようとする力を助けてあげるんだ。そうやって体に優しい野菜や果物を心を込めて育てているんだよ。それらを2階のカフェで使ったり、1階で売ったりしてるんだ」
「ふーん」
「今はまだ少ないけど、もう少し暖かくなってきたらもっとたくさん収穫出来るんだけどね」
「凄い・・・」

ラムカも一緒になって一面の畑を見渡していた。
レタスが土の中から生えているのを見たのは実は初めてだったし、土の匂いを感じたのも久しぶりのことだ。

「ねえゴードン、これはなあに?」
「これは芽が出てきたばかりの野菜たちさ。えーっとこれは何の豆だったかな。こっちはキュウリかな」
「これからおっきくなるんだね」

ビニールハウスの方へと歩きながら、ゴードンがレイへ手招きをしている。

「レイ、こっちに来てごらん」
「なあに?」
「この葉っぱ、何だと思うかい?」
「うーん・・・わかんないや」
「引き抜いてごらん」
「ええ?いいの?」
「いいよ」

ゴードンがにこにこ笑いながら葉っぱを指差し、腰をかがめてレイが引き抜きやすいように、土を少しほぐすように
手助けをする。

「あっ!わかった!ニンジンだね!?」

オレンジ色の部分が見えてきて、よいしょっと言いながらレイが人参を引き抜いた。

「わあ、お風呂に入れてあげなきゃ!」

土の付いたニンジンを見たレイの言葉に、ラムカは思わずショーンと目を合わせて、くすくす、と笑ってしまった。

「こっちも抜いてごらん」
「こんどはなにかなあ?」

またよいしょっと声を上げてレイが葉っぱを引っ張ると、今度は赤いラディッシュが顔を覗かせた。
それからゴードンが貸してくれた鋏を使い、熟れたトマトを枝ごと切ったり、ゴードンがレタスを切り取るのを手伝ったり、ラムカと一緒にイチゴを収穫したり。
イチゴはゴードンが「食べてごらん」と言ってくれたので、ラムカとせーの、でパクッと齧っては甘ーい!と声をあげ、
ショーンの口にもはい、と言って大きなイチゴを食べさせたりしている。

「見て、レイ。こんなに!」

気が付くと、ゴードンが用意してくれたバスケットに、レイの収穫した野菜がたくさん詰め込まれている。
早生の春キャベツやブロッコリー、ラディッシュ、ニンジン、レタス、ネギ、トマト、バジルやルッコラのハーブ、
そして真っ赤なイチゴたち。

「レイ、これは全部君が収穫したんだよ」
「うん!いっぱいだね」
「ちょっと預からせてもらうよ」
「?」

レイの収穫した野菜の入ったバスケットをゴードンが部下らしい女性従業員に手渡すと、彼女はそれを持って建物の中へと姿を消した。

「楽しみにしててくれよ、レイ」
「うん!」



それから3人は暫くのんびりと菜園を見て周った。ショーンは従業員にあれこれと質問をしたり、何やら真剣な顔で
野菜の味見をしたりしている。
ラムカはレイと一緒になって、やってきた鳥を追いかけたり、土の中から虫を見つけてそれに触れたり。
そんなことをしているうちに、腹の虫の方が鳴り出す時間になっていた。



ゴードンが、そろそろ準備出来たかもと言うので、レイの手を綺麗に洗わせてから、3人は2階のカフェへと移動した。
このマーケットの2階のカフェでは週末限定でランチ・バイキングをやっている。
ショーンが言っていた週末だけのイベント、というのはどうやらこのことだったらしい。
本来ならそこに並べられた料理を食べることしか出来ないのだが、ゴードンの計らいで、レイの収穫した野菜を特別に調理してくれた。
アンチョビとキャベツとブロッコリーのフジッリ、ニンジンや玉ねぎやパプリカのグリル、ルッコラと生ハムとチーズの
サンドイッチ、そして、オーヴンで焼いたミニトマトにフレッシュなバジルを添えたサラダ。
上からはチーズがたっぷりとふり掛けられている。

「うわあ、おいしそう!」
「レイ、これさっきのトマトよ」
「んー、美味い!」

トマトを手で摘んだショーンが目を見開いて少し大げさに言う。

「食べてみろ、レイ」
「うーん・・・」

ラムカがレイの皿にトマトやバジルを取り分けてやると、レイは恐る恐る、といった感じでそれを口に運び、ん?といった顔でショーンの顔を見上げた。

「甘い!」
「そうだろ。バジルと一緒に食べてごらん」

言われたとおりにバジルの葉とトマトを口に入れ、今度はさっきよりも大きく目を見開いて、美味しい!と
声を上げている。

「パスタも美味しいわよ、レイ。キャベツもブロッコリーもほら、とっても甘い!」
「ほんとうだ、おいしい!」


やがてレイはバイキングの料理にも興味を示し、ラムカと一緒になってそれを幾つか皿に載せて戻って来た。
いつもなら敬遠する野菜のマリネをぱくぱくと頬張る姿を見てショーンが苦笑している。
ラムカは正直、料理の味付けそのものはショーンの方が美味しい、と思ったけれど、とにかく野菜の美味しさそのものが格段に違う、ということにレイ同様に驚いていた。
普段食べている野菜に比べて、甘さも風味も全てが力強い気がする。
パンも評判どおりとても美味しくて、彼女もついいつも以上に食べ過ぎてしまった。

それなのに、デザートに並んでいたイチゴのタルトの美味しいことと言ったら!
もう料理だけでお腹がはちきれそうだと思ったのに、ぺろり、と平らげてしまった。
コーヒーもちゃんとマシーンが設置してあるので、淹れたての美味しいものを飲むことが出来るのだ。
もちろん、お代わり自由。
2杯目のコーヒーを持ち、ラムカが興奮気味に席に着いた。

「やばい、ここ。ハマりそう」
「そう?」
「本当にこれで12ドル?ここってアップタウンの高級マーケーットのカフェよね?」
「Yeah、D&Dもいいけど、ここのデリもなかなかだよ。Eli 's Breadもかなりの美味さだったろ?
何より、とにかく野菜が美味い」
「ほんと!色々買って帰ろうかな」
「・・・ねえ、シェリー・・・」
「?」

レイがお腹を押さえてもじもじし始めた。

「Oh、トイレットに行きたい?」
「うん・・・」
「いいよ、俺が連れてく」
「でも・・・」
「いいって。レイ、こっちおいで」


ショーンがレイを連れて席を立つ。二人の後ろ姿を見送っていると、隣のテーブルの女性と目が合ったので、
Hi、と笑みを向け、彼女はコーヒーの入ったマグカップを口に運んだ。
周りからは家族連れに見られている気がして、何だか妙な気分がする。
この間もそうだったけど、レイはこうしてお出かけをする度に本当に嬉しそうだ。
家族でこうして出かけることは余りないのかしら。
幼稚園に迎えに行ったらそのまま家で過ごしているし、友達と遊んでいる様子もないし。
レイは決してそんな言葉は口にしない子だけど、本当は寂しいのではないのかしら。
何となくそんなふうに思えて、彼女は少し考え込んでしまった。



そんなふうにしばらくぼんやりと考え事をしていると、そこへさっきのゴードンがやって来たので、
彼女は笑顔で彼に椅子を勧めた。

「今日は本当にお世話になりました。レイもびっくりするくらい野菜をたくさん食べてくれて」
「そう、それは良かった」
「評判は聞いてたんだけど、実は初めて来たんです。想像以上にとっても素敵な店!今度また友達を連れて
来てみます」
「友達と? あいつとじゃなくて?」

ゴードンが悪戯っぽく笑うので、ラムカは笑いながら手のひらを彼に向けて首を振った。

「彼とは?もう長いんですか?」
「そうだね、大学の頃からだから10年以上になるかな。歳は俺のほうが2つ上になるんだけど」
「そうなんだ」
「いい奴だよ。ちょっとばかし、女たらしだけど」
「ふふ、そうみたいですね」
「まあ・・・それも仕方ないけどね」
「?」
「ああいや、何でもない。それより、もう少し暖かくなってきたらまたレイを連れてくるといい。
もっとたくさん収穫出来る筈だから」
「ええ、是非!」
「しかし子守だけじゃなく、お抱えの料理人を引き連れてとは随分とセレブリティな子供だけど、でもとっても
いい子だね」
「ええ、本当に。いい子すぎるくらいで」
「実を言うとあいつから連絡もらった時にはさ、どんな生意気な子供を連れて来るのかと思ってたんだけどね。 
まー、うちのチビのほうがよっぽど言う事きかないよ」

そう言ってゴードンは肩をすくめて笑ってみせた。

「本当は彼、今日は休みだったのにわざわざ連れて来てくれて。何だかんだ言ってあの子が可愛いみたい」
「休みだったのか。ふうん、あいつらしいな。 そういやあ、この間は甥っ子達も連れて来たよ」
「本当?」
「あいつの姉さん、シングル・マザーなんでね。時々面倒見てやってるらしいよ」
「ふうん・・・」
「ま、ガキ放ったらかして女といちゃいちゃ喋ってたけどね」
「ええ?また?」
「―――俺の悪口で盛り上がってるだろ」


ゴードンにつられて笑っていると、ショーンがレイを連れて戻って来た。

「Yeah、お前の昔の悪事を彼女に色々と話してやってたとこさ」
「あくじ、ってなあに?」
「あー、華々しい経歴のことさ。でも聞くのはやめとけよ、レイ」
「レイ、もうお腹は大丈夫?」
「うん!」
「美味しいものいっぱい食べたもんねー。きっとお腹がびっくりしちゃったのね」
「ショーンったらね、僕のパンツおろして、おしりがきれいにふけたかどうかまでチェックするんだよ!
もう!まるでナディアみたいだよ」
「ぷっ!」
「だってうちの甥っ子ときたら、これくらいの歳の頃までクソまみれだったからさ」
「Hey!」
Mr.Cooper!まだ周りは食事中よ!そう言ってラムカが彼に人差し指を向ける。
「Oh!Sorry、 Miss Sherry(シェリー先生)」




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Magnet 15.「 The quarrel theater - (ちょっと大人げない)口げんか劇場 -」

Magnet 15.  
「 The quarrel theater 」 - (ちょっと大人げない)口げんか劇場 -

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結局、使い切れなかった残りの野菜とイチゴをお土産にもらい、1階で買い物をして、3人はヴィネガー・ストアーを
後にした。ショーンがナディアには内緒だぞ、と言って、セントラルパークまでの道のりをバスに乗って移動したので、
レイは大喜びだ。
セントラル・パーク内でバスを降り、3人はそのままグレート・ローンと呼ばれる芝生広場の周りを何となく歩き続けた。


そのうちに歩道を外れるようにして、緩やかな傾斜の方へと足を進める。そこを上って行くと、「Delacorte Theater(デラコルテ・シアター)」という野外劇場がある。
毎年夏になると、その劇場では何かしらのシェイクスピア劇が上映されるのだが、その劇場の前にラムカの大好きな像がある。見つめあい、抱擁を交わすふたり。ロミオとジュリエットだ。
カメラを持ってくれば良かった、と言いながら彼女は携帯電話で彼らを撮影した。
まだ芽吹いたばかりの木々が寒々しく、余計に悲しそうなふたりに見えてしまう気がしたけど、それはそれでやっぱり素敵、と彼女の写真コレクションに加えることにした。


そのまま緩い傾斜を上り、頂上付近にある「Belvedere Castle(ベルヴェディア・キャッスル)」という名の古い小さな城を通り、79丁目通りを横切って、「Ramble(森の中の散歩道)」と呼ばれるエリアを散策した。
まだ漸く芽吹いたばかりの木々の中での散歩だったが、レイは途中あちらこちらに出現するリスに大興奮で、つい
大声を出して追いかけようとするので、リスたちはビックリして直ぐに逃げてしまい、レイはそれをとても残念がった。



その後、彼らはベンチで休憩することにした。
そのうちにレイがうとうとと眠たそうにしていたので、ラムカはレイを膝の上に寝かせてやった。
ショーンが上着を脱ぎ、それをレイの体の上にそっと掛ける。向ける眼差しは優しく静かで、でもすぐにそれを誤魔化すみたいに、ふぁーっとあくびなんかしてみたり。


ラムカはここのところ、彼のこういう部分を目にする度に戸惑うようになっていた。
出来れば昨日のキッチンでのやり取りの時や、この間のマーケットでの出来事みたいに、こんな人、最悪!とそう思っていたほうが気が楽だ。
本当はこうして一緒に過ごすことは避けたいと思っている。メアリーの視線も痛いし。
けれど、心のどこかで、彼とレイと一緒に過ごす時間を楽しみにし始めている、そんな自分を自覚していた。
何故ならレイがそんな時間を過ごすことを心から楽しんでいる様子だから。それは彼女にとっての喜びでもあった。
レイが幸せそうにしていると、自分まで幸せな気持ちになれる気がするから。
だから困っている。


「・・・レイのやつ、気持ちよさそうだなー。 ふぁぁ・・・・俺もそこで寝たい、シェリー先生」
「! ・・・残念でした、子供限定です」
「あっそ」
「・・・膝の上に寝る相手なんて・・・いくらでもいるくせに」

しまった!と後悔したけれど遅かった。この手の話題を彼とは話したくないのに!
でも彼は、ふん、と鼻で笑ってそっぽを向いただけだ。また彼に子供扱いされたような気がして、彼女は膝の上のレイの寝顔に視線を落とした。

「・・・Yeah、確かに俺は女好きに見えるかもな。 だけど仕事仲間のお堅い女まで漁るようなことはしないから。
安心しろよ」
「!」

思いがけず少し怒ったような彼の声。何だか嫌味な物言いに彼女もカチンときて、思わず彼の顔を見返した。

「よく言うわよ。仕事場であんなことしておいて」
「あんなこと?」

しまった!私ったらまた!

「・・・・忘れて。私の勘違いだから」
「Oh、 wait!昨日のこと言ってるのか?」
「だから忘れてって言ってるの!」
「うーん・・・」

そう言ってレイが動いたので、彼女は慌てて唇に指先を当てた。

「・・・話をしてただけでそんなふうに思うんだ。 君さ、被害妄想の気(け)、ない?
それか、もしかしてレズビアン?」
「はあ!?」
「その愛想の悪さは、よっぽど男で酷い目に遭ったとしか思えない」
「! 随分と飛躍した勝手な妄想をどうも!仮にそうだとして、レズビアンのどこがいけないの?」
「いけないなんて言ってないだろ?むきになるなよ」
「あなたこそ!」
「・・・・・ちょっと待てよ。何で俺たち喧嘩してんだよ?」
「・・・・・そう言えば・・・・・」


あなたが意地悪言うからじゃない。 意地悪なんか言ったっけ? ・・・お堅い女とか被害妄想とか。 
俺、そんな酷いこと言った?  はぁ!?発言にはちゃんと責任持ってくれない!? 
君こそ意地の悪いこと言ったろ? 
片方が責めると片方はいい加減に言い逃れ、むきになってまた責め立てる。まるで子供の言い争いだ。
ついさっきまで楽しく過ごしていたのに。何でこんなことになっちゃうの?
彼女は再びレイの寝顔に視線を落とした。
・・・そうか。レイが間に居てくれないと、私たち、相性最悪なのかも。


「・・・・ごめん」
「!」
「酷いこと言って。 大人げなかったよ」
「・・・・」
「・・・・あまりにも気持ち良さそうに寝てるから・・・ちょっと妬けた」
「!」
「だけど別に・・・女の膝の上なんて興味ないよ。 ・・・それをさ・・・」


そうぶっきらぼうに言って、彼がまたそっぽを向く。まるで拗ねた子供みたいに。
ああ、まただ―――彼女が「その気持ち」に戸惑う瞬間だ。
こんな気持ちになるくらいなら、喧嘩していたほうがずっとましだと思う。
でも彼にだけごめん、と言わせるのはやっぱり気が咎めたので、彼女は彼に向き直った。

「・・・・私こそ大人げなかった。 ・・・ごめんなさい」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・ふっ」

突然可笑しそうに噴き出して、彼がやれやれ、というふうに首を横に振った。

「?」
「何でもない」
「! 何なの? 」
「何でもないって」
「ずるいわよ、そういうの。気になるじゃない」
「だから本当に何でもないんだよ。ただ可笑しくなっちゃってさ。俺たち一体、何やってんだろう」
「・・・・何って・・・子守でしょ?」


じゃあ俺、明日から 『 Manny(マニー) 』 として別に給料貰うかな。 あ、人の仕事、奪わないでくれる?
じゃあ交代しようよ。美味いカレー食わして。 絶対に嫌です。 ちぇっ!
気が付くと、膝の上のレイが口に手を当ててクスクス、と笑っていた。
こいつめ、聞いてたな。 ふふふ、ショーンってやきもちやきだね、シェリー。 ええ?
ショーンはベンチから立ち上がると、また朝みたいにレイを捕まえて担ぎ上げては落っことそうとしたりして、
芝生の上でレイとじゃれ始めた。
笑いながらふたりを眺めていると、心の中にまた「その気持ち」がこみ上げるのを感じ、彼女は慌てて
彼らから視線を外した。

私・・・一体どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。
自分の言動すら理解出来ず、戸惑いは増すばかりだ。
そもそも、どうしてこんふうに憎まれ口ばかり叩いてしまうのか。
思いもよらない彼の反撃もきつかった。お堅い女だなんて酷い。結構傷付いたんだから!






3:35 p.m.

少し気温が下がってきたので、ユニオン・スクエアはまた今度にしよう、ということになり、71丁目の
クリフォード家まで歩いて帰ることにした。
南に3ブロックほど歩き、東に2ブロック歩いて漸くパーク・アヴェニューに辿り着く。
徒歩でセントラル・パークに行き来出来るなんて羨ましい、と思う瞬間だ。
それから15階のクリフォード家に帰り着くと、早速ナディアが手を洗わせるためにレイをバスルームに連れて行った。

ラムカはヴィネガー・ストアーで買ってきたものを冷蔵庫に入れるためにキッチンに行こうとして、ダイニング・ルームの入り口で立ち止まってしまった。見知らぬ男がそこに座っていたからだ。

「フィル!」
「!」
「ああ、ショーン。お前今日休みなのに出てきてくれたんだって?」
「あー、まあ・・・」

君は? 一瞬そう言いたげな顔を向けたあと、ああ、と思い出したように立ち上がり、フィリップがラムカへと
右手を差し出した。

「フィリップだ。 君がシェリーだね?」

うわ・・・すっごいハンサム!

「は、はい、初めまして、ミスター・クリフォード。シェリル・テイラーです」
「よろしく。いつもレイが君の話ばかりしているよ。とても優しくて綺麗で素敵な先生だって」
「あー・・・ありがとうございます。でもそれ、褒め過ぎです。やめて下さい」
「息子は嘘は言わない子だよ」
「・・・Oh・・・」

フィリップが眩暈のしそうな笑顔を彼女に向ける。
こそばゆそうな顔でぽりぽりと耳をかくショーンを横目に、ラムカは漸く会えたレイの父親にうっとりと見とれていた。
こんなに美しい男の人を見たのは多分、生まれて初めて! そう思った。
ミシェルもハンサムだし、プロムの相手だったハイスクール時代のボーイフレンドも結構なハンサムさんだったけど、
比べ物にならないって言うか、人としてのレベルを遥かに超越してる!

「あー、シェリー先生、ミスター・クリフォードが困ってますけど」
「Oh!Ah・・・Excuse me!」

真っ赤になって握手をほどき、ラムカはひとりそそくさとキッチンに逃げ込んだ。

「・・・あーあ。またお前の毒牙に蝶が掛かった。可哀想に」
「ふん、お前にだけは言われたくない」
「――ダディー!!!」

ふたりが立ち話をしていると、バスルームからレイが走ってきて父親の懐に飛び込んだ。

「どうしたの!?ダディ!今日は早かったんだね!」
「ああ、今日はもうさっさと切り上げて帰ってきたよ」
「ダディ、きょう僕ね、いーっぱいやさいを食べたんだよ!」
「本当か?レイ。ママが聞いたら喜ぶぞ」


ショーンは軽く笑いながらふたりの様子を見ていたが、すっとその場を離れてキッチンへと彼女の後を追った。
キッチン入り口の壁をこんこん、と叩くと、水を飲んでいたラムカが驚いて、げほげほっ、とむせている。

「・・・君って結構、わかりやすいタイプだね」
「何が」
「ま、いいけど」
「?」

冷蔵庫を開けてペリエを見つけた彼がキャップを捻り、ごくごく、と喉を鳴らす。

「!」

言い返そうとして、ふと何気なく下から見上げた彼の喉のあたり。ちょうど音を立ててごくごく、と蠢いていたその横のあたりに、彼女は赤黒い小さな痕を見つけてしまった。
その瞬間、彼女の胸が音を立てて揺れた。まさか彼に聞こえたはずもないだろうけど、彼女は慌てたようにもうひとくち水を飲み込み、少し零れた水滴を手の甲で拭った。
子供じゃあるまいし、今どきそんなhickey(キスマーク)ごときで動揺するなんて馬鹿みたい。


「ショーン」
「あ?」
「?」

振り返ると、キッチン入り口にフィリップが立っていた。

「今日は世話になったな。ありがとう」
「いいって。一応、これも仕事の一環のつもりだから」
「そうか・・・俺がなかなか相手してやれないから・・・これからも時々こうやって相手してやってくれないか」
「・・・ああ、喜んで」
「シェリー、君も今日はもういいよ」
「Oh・・・」
「早く帰って来れた時くらい、相手してやりたいんだ」
「そうですね。そのほうがレイも喜ぶと思います」
「じゃあな、ショーン。また・・・」
「ああ」

ショーンと握手をしたあと、ラムカにじゃあ、と目配せをしてフィリップがキッチンを出て行く。

「・・・・素敵・・・・」

ぽーっとした顔でフィリップを見送るラムカにやれやれ、という顔をして、ショーンは残りのぺリエを飲み干し、がちゃん、と音を立ててゴミ箱に空瓶を投げ入れた。
乱暴な人ね。そんな顔でラムカが呆れたように彼の顔を見上げる。
対して彼は、そりゃどうも、と言うような顔を向け、すぐにまた怒ったような顔をしてそっぽを向いた。
そんな彼の態度に、また彼女はカチン、となる。
一触即発。
何でこうなってしまうのか訳がさっぱり解らないが、今日のふたりは何故だか互いに好戦的になっていた。
・・・まさか・・・公園の時みたいに、妬いた、ってこと?
一瞬、そういう考えが彼女の頭を過ったが、彼女は即座にぶんぶん、と頭を横に振った。
何考えてるの!?有り得ない。絶対に!

「・・・じゃあ」

そう言ってラムカが逃げるように彼へと背を向ける。彼の瞳の端っこに映り込む彼女の後ろ姿。
彼女の残した気配と気まずい空気と共に全てが消え、彼はシンクにもたれて息を吐いた。
俺は一体どうしちまったんだ。胸の裡がもやもやと燻るように煙たくて、どうにもこうにもスッキリとしない。
こんな面倒臭い感情はまっぴらなのに。くそっ!




レイとフィリップに別れを告げ、彼は苛々とした気持ちを抱え込みながらエレヴェイターの到着を待っていた。
漸く15階に戻って来たエレヴェイターの扉が開き、顔を上げる。
そこには、彼に背を向け、先に帰った筈の彼女が、彼と同じように目を見開いて立っていた。
忘れ物。そう言って彼女がエレヴェイターを降りる。入れ替わりにそこに乗り込み、扉の方へ、つまり、
彼女の方へと向き直る彼に彼女が振り返った。
どうぞ、行って――― そんな顔で。



彼女はうっかりバッグに入れたままのレイの着替えやマフラーを返し、冷蔵庫に入れ忘れていた食材を代わりに
バッグに仕舞い、もう一度レイとフィリップにさよなら、と言って、やって来たエレヴェイターに乗り込んだ。
いつもならあっという間に1階に到着するはずのエレヴェイターなのに、どういう訳か今は恐ろしく長い時間に
感じられる。
漸く1階に到着したエレヴェイターの扉がゆっくりと開く。
彼女はいつも通りに螺旋階段の横を通り、ドアマンの立っている入り口へと足を進めた。
お気をつけて、ミス・テイラー。ありがとう。さよなら、ミスター・ジェンキンス。
いつものように笑顔で挨拶を交わし、真っ直ぐに前を向いた彼女を待ち受けていたのは―――




「・・・Hi 」
「・・・Hi 」
「・・・家まで送るよ」
「!」
「今日は何だか・・・随分と君に酷い態度をとってしまったからさ。 そのお詫び」
「・・・お詫び?」
「Yeah」
「・・・でも・・・」

バイクを見て彼女が不安そうな顔を向ける。

「大丈夫。ちゃんと安全運転で行くからさ」

彼はそう笑うと、手にしていたヘルメットを彼女へと手渡した。

「寒くなるからジャケットの前はきちんと閉めて。あと、マフラーはもっと短くなるまで首にしっかりと巻き付けて。
うっかりバイクに巻き込むと、首を絞めて危ないから」
「・・・はい」
「それからどんなに怖くても、カーブで俺が体を傾けたら、出来るだけ君も俺に合わせて同じように体を傾けて。
俺が体を右に傾けてるのに左に傾けたりしないで。心配しなくても、絶対に転んだり落ちたりしないから。俺を信じて」
「・・・はい」

身振り手振りで説明する彼に素直に返事を返す。
これじゃあ、お詫びというより罰ゲームじゃない?と内心では思ったけど、何故か断ることも出来ず、彼女は
気が付けば彼のバイクの後ろにまたがっていた。

「しっかり掴まってて」

そう言って彼が彼女の手を自分の腰のあたりにぎゅっと巻き付ける。
その瞬間、彼女の心拍数は一気に上昇した。それは初めてのタンデムへの恐怖心からか、それとも―――

Trust me(俺を信じて)―――振り返り、もう一度彼女にそう言って、彼はゆっくりとバイクをスタートさせた。



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Magnet 16.「 Nothing is real  - すべては夢  -」

Magnet 16. 
「 Nothing is real 」   - すべては夢  -

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土曜日
イースト・ヴィレッジ  10:15 a.m. 

彼は今、ちょっとしたパニックに陥っている。
腕の中の、甘い匂いのする、白くて柔らかな生き物のせいだ。
左の腕が痺れきっていたが、どうすることも出来ず、噴き出した冷や汗のせいで体中に寒気のようなものが走るのを
感じていた。
どうしてこんなことになった? 
冷静に昨夜の出来事に思いを馳せようとすればするほど、冷や汗はどんどん滝のように噴き出してくる。
これは夢だ。昨夜の出来事も、目覚めた場所も、白くて柔らかな生き物も、この気だるさも、きっと全てが夢なんだ。
そう言い聞かせてみる。
瞳を閉じて次にそれを開いた時には、いつもの僕のベッドの上で、いつもの朝を迎えることが出来るはずさ。
けれど、何度瞳を閉じてそれを開くことを繰り返してみても、状況が変わることはない。
いや・・・いい加減、認めなければ。腕の中ですやすやと寝息を立てている白くて柔らかな生き物が、赤毛のボブカットの彼女ではなく、薄茶色をした長い髪の持ち主だ、というその事実を。


「――んん――」

小さい子みたいな甘い声を立てて、腕の中の白くて柔らかな生き物がゆっくりと瞳を開く。
彼は諦めにも似た気持ちでそれを眺めていた。

「おはよう、ポール」
「・・・おはよう・・・ジェニー・・・」
「起きてたの?」
「うん、少し前にね」
「やだ、寝顔見てたのね?」

少し恥ずかしそうに笑って、彼を上目遣いで見上げてくる彼女。
こんな時、やっぱりおはようのキスをすべきなんだろうか。
そんなふうに躊躇っていると、彼女のほうから唇が近付いてきて、彼のそれと重なった。
昨夜のきっかけと同じ、彼女からのキス。

「ねえ、今日どうする?」
「どうする、って?」
「折角ふたりとも休みなんだもの。どこか出かけない?」
「出かけるって・・・どこに?」
「んー、例えば・・・お昼を食べに行って、それから・・・そうだ、映画でも観ない?」
「・・・あー・・・どうかな・・・」

彼からの気乗りしない返事の連続に、彼女の真ん丸な瞳が悲しそうに翳っていく。
それを目にした彼は、慌てたように顔面に笑みを貼り付けた。

「だってとてもいい天気だからさ、映画より、外を歩きたくないかい?」



彼女がシャワーを浴びている音が聞こえてくる。
彼は彼女のベッドに寝転んだまま、頭の下に腕を組んで、考えを巡らせることに没頭していた。
考えてみたところで、ジェニーと一夜を過ごした事実は変わらないのに。 
そう。もう後戻りすることは出来ないのだ。
彼は冷静に、昨夜の出来事を順に思い出してみた。
仕事の後、食事に行こうと彼女に誘われ、いいよ、と彼は即座に返事をした。
ベティとミシェルとラムカの3人が、連れ立って向かいのサロンから出て行くのを見届けたばかりだった。
何となく疎外感を味わっていたから、対抗心のようなものもあったのかもしれない。
ヴェスパを店の前に停めたまま、彼女と食事をして、場所を変えて酒を飲んで、少し飲みすぎた彼女をこの部屋まで
送り届けて、それから・・・
ドアの前で彼女にキスをされ、シャツの襟元を引っ張られるようにして、彼女に部屋に引き込まれたんだった。
あなたが好き、と言葉で、全身で訴える彼女に、彼の理性は見事に吹っ飛んだ。
何しろ彼も彼女と同じくらい酔っていたし、彼女のキスは、それは情熱的だったから。


勢いでこうなってしまった、そう言うとジェニーは傷付くかもしれないけど、ベティのことを吹っ切るにはこれでよかったのかもしれない。
ジェニーと居るのは楽しい。緊張することなく自分自身のままで居られるし、僕の話すこと、ひとつひとつに瞳をきらきらさせて、熱心に耳を傾けてくれる。
何より、彼女は、こんな僕のことを好きだと言ってくれる。
彼女みたいな可愛くて心の優しい女の子が、僕みたいな冴えない男を好きだと言ってくれるんだ。
・・・・ベティは相変わらず、僕のことなんか眼中にもなさそうだし・・・・


バスタオルで髪を拭きながら彼女が部屋に戻って来た。
ノーブラに薄いブルーのキャミソールとローカットのショーツを穿いただけの姿で。
体に張り付いたキャミソールの胸元には、彼女のnipple(乳首)がくっきりと浮き上がっている。
それを目にして、むくむく、と欲望が起き上がってくるのを感じる。
Hey、ポール。君もいっぱしの男だったんだな。 
彼は自分で自分を嘲るように笑った。再び諦めに似た思いで彼女を見つめながら。

これでいいんだ、ポール。きっとそのほうが、何もかも上手く行く。

彼はそう自分に言い聞かせると、ベッドから起き上がり、バスルームへと向った。







セントラル・パーク  3:05 p.m. 

ランチを食べた後、アップタウンにあるメトロポリタン美術館で時を過ごした彼らは、その後セントラル・パークへ行き、のんびりと散策していた。
メトロポリタンを出て何となく南下しながら歩いていると、ジェニーがストロベリー・フィールズに行きたい、と言い出したので、西のほうにあるそのエリアまで足を運んだ。
本当のことを言うと、彼はそこに行くのは気が進まなかった。
でもその訳を説明する気はなかったし、何よりもそう言って彼女が悲しそうな顔をするのを見たくなかった。

ストロベリー・フィールズ。
その場所から直ぐ近くのウエスト72丁目にあるダコタ・アパートメントにかつて住んでいて、そしてそのエントランス前で命を落としたジョン・レノンを偲んで作られたメモリアル・プレイスだ。
名前の由来は勿論、説明すべくもなく、ビートルズのあの名曲だ。
中心に " Imagine " の文字が刻まれた有名なモザイクはオノ・ヨーコがデザインしたもので、そのモザイクの上には献花が絶えることなく飾られている。
この日もそこはピースマークの形に花が並べられていた。
ジョンの命日でもないのだが、ギターを弾きながら " Imagine " を歌う若者がいて、それに合わせてちょっとした
合唱が起こっていた。

ベンチに座ってそれを眺めていると、そう言えば、とジェニーが笑いながら彼のほうへ視線を向けた。

「ね、やっぱりあなたはポール派なの?」
「うーん、別に・・・どちらでもないよ」

気のなさそうな彼の返事にジェニーは残念そうだったが、彼はビートルズには大して興味がない振りをしてその場を
やり過ごした。余りこの話題で話をしたくなかったからだ。
統計学的にどうなのかは知らないし、全くの思い込みかもしれないが、彼の持論としてはこうだった。
父親がクリスチャンで、かつビートルズの大ファンだと、名前はジョンかポールか、そのどちらかになる確率が高い、ということだ。
勿論ジョージもいるだろう。リンゴもいるのだろうか。残念ながらお目にかかったことはないが。


子供の頃は、" ジョン " になりたかった、と常々思っていた。あいにく、先に生まれた兄がその名前を既に貰っていた為に弟である彼は " ポール " になったわけだが、父はどちらかと言うとジョン派だったから、父が兄のほうを可愛がっているような気がして仕方がなかった。ましてやこんな足の障害を持って生まれてきたものだから、余計に父親の愛情が兄に向いている気がして、子供の頃にはそれが彼のコンプレックスのひとつだった。
何しろ兄は " スーパー・スター " だったから。ハンサムで優秀でスポーツ万能で、友達も多かったし、女の子にもよくもてた。両親にとってみれば、それはそれは自慢の息子だったことだろう。
それで嫌な奴だったなら彼の溜飲も下がったのだろうが、これがまた困ったことに、素晴らしい内面を持つ、心の優しい兄だった。
つまり、あれだ。非の打ちどころのない、という表現がぴったりの男だった。
自分がこんなに引っ込み思案で冴えない印象なのは、兄がいい部分を両親から先に全部譲り受けてしまったからだ、そう思っていた。
ああ・・・またこんなことを思い出して気分が滅入ってしまうのだけなのに、どうしてこの場所に来てしまったんだろう。
ジェニーと一緒ならそんな気持ちになることもないだろう、と思っていたのに。


そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ジェニーは彼の手を取って立ち上がると、北の方へ向って歩き出した。
確かこの先にBelvedere Castle(ベルヴェディア・キャッスル)やシェイクスピア・ガーデンがあったはず、と言いながら、彼の手を引いてずんずん歩みを進めている。
気付けば昨夜からすっかり彼女のペースで時間が進んでいる気がするけど、気が楽と言えば気が楽だ。
女の子の喜ぶデート・プランを考えるなんて、経験がないわけではないけれど、決して得意なほうではなかったから。
ただこうして手を繋いで歩いているだけで、ジェニーは嬉しそうな顔をして彼のほうを見上げてくる。
正直、昨夜初めて一緒に過ごしただけで、恋人としての自覚がある訳でもなく、彼はとても気恥ずかしかった。
けれど、それを伝えて彼女が悲しむのを見るのは嫌だったので、彼女には静かな微笑みを返した。



そして予想もしない出来事が起こった。79丁目通りに差し掛かった時のことだ。
シェイクスピア・ガーデンのほうへ向って傾斜を登ろうとしたところで、少し東側にあるベルヴェディア・キャッスルの
方向から、どこかで見たことのある少年が駆け下りてくるのが目に留まった。

「レイ!飛び出すと危ないわよ!」

その少年を慌てて追いかける人物に彼は目が釘付けになった。
ラムカ!? ラムカじゃないか!
それから続いて目に入るのは、笑いながら彼女の後ろを歩く、背の高い、見知らぬハンサムな男。
ポールは咄嗟に顔を背けるようにして傾斜を勢いよく登り始めた。
平地なら少し目立ってしまうかもしれない彼の歩き方も、そこは傾斜だったからラムカに気付かれずに済んだかも
しれない。

「ポール!?」

突然手を離して先を行く彼にジェニーの声が飛び、彼は、ああ、と盛大な溜め息を吐きそうになった。
ラムカの耳に、今のジェニーの声が届かなかったことを祈るのみ、だ。 
ジェニーが再び、ポール、と声を上げないよう、彼は振り返るように立ち止まって、彼女が追いつくのを待った。

「突然どうしたの?」
「ごめんよ、ジェニー」

彼はそう笑い、自分から彼女に手を差し出した。




僕は卑怯だ。
ベティを諦めて、僕を好きでいてくれるジェニーと時を過ごすことを選んだ。
そのくせ、ジェニーとのことを後ろめたく感じている。最低の男だ。
僕とジェニーが手を繋いでいたのをラムカに見られたかもしれない。そう思うと気が気じゃなかった。
ラムカの口からベティに漏れるのが怖い。

ベティは僕のことなんて全く眼中にない。だからこんなふうに思うのは間違ってる。そう頭では解っている。
でも・・・・


「見て、ポール!凄くいい眺めよ!」

城の展望台ではしゃぐジェニーの声が彼を現実に引き戻す。
朝、ゆっくりと瞳を開く彼女を見つめた時の、あの気持ちが再び彼の胸に湧き上がる。
少しだけ悲しくて、それでいて、少しホッとしたような、諦めにも似たあの感情が。






その後、イースト・ヴィレッジまで帰るジェニーと一緒に地下鉄に乗り、彼はジェニーに手を振って、途中の駅で
電車を降りた。店の前に停めたままのヴェスパで帰るためだ。
たった一日で、自分を取り巻く状況が激変してしまった、なんて信じられない。
それはもしかしたら、ヴェスパを停めたままにしておくことを決めた瞬間から始まったのかも。そんな気もする。
もしもあの時、酒は飲まない、と決め、ヴェスパを置いたままにせずにいたら。そうしたら、違う朝を迎えていたかもしれない。違う朝、というよりも、いつも通りの朝、と言うべきなのかもしれないけど。
後悔はしていない。そう思いたい。今はまだ、ジェニーが僕を好きでいてくれるほど、同じくらい彼女を想っている、とは正直言い切れないけれど。
あれこれと考え事をしているうちに、カフェに辿り着いてしまった。
ポケットから鍵を取り出し、ヴェスパにまたがってそれを差し込む。

その時、カフェの入り口が開き、中から出てきた赤い髪の彼女が、階段を下りて顔を上げた。
ああ・・・何てタイミングが悪いんだろう。今この瞬間、君に会いたくなかったのに。

「Hi !」
「・・・Hi 、ベティ」
「あーあ。あたし明日休みなの。つまり、あんたのカプチーノを飲めるの、明後日になっちゃうってことよね?」
「・・・あー・・・そうだね・・・」
「やっぱり、あんたのカプチーノが一番だわ」
「!」
「じゃあまたね、ポール」


ベティが笑顔で手を振ってサロンに戻って行く。それを見送る彼の胸が、きゅるきゅる、と音を立てる。

・・・ベティ・・・

テーブルについた彼女が彼の視線に気付き、もう一度、Bye、と笑顔で手を振る。
そのうちに彼女の手が止まり、少しずつ笑顔が失われていくのを、彼はじっと眺めていた。
彼女の笑顔が消えたのは、思いも寄らない、彼の真っ直ぐな視線のせいだ。
彼は今、初めて瞳を逸らすことなく、想いを込めてベティを見つめていた。
戸惑った顔のベティが瞳を逸らす前に、ポールはヴェスパを静かに発進させた。

さよなら、ベティ。

――心の中でそう呟いて。



● 用語解説ページ



Magnet 17.「 Night of the fallen angels - 堕天使たちの夜 - 」


Magnet 17. 
「Night of the fallen angels 」 - 堕天使たちの夜 - 

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        ごめんなさい、ショーン。

        出て行ってくれ。

        お願い、話を聞いて。

        いいから出て行け!



「――― ! 」 
びくん、と脚が揺れて目が覚めた。辺りはトンネルの中のように真っ暗だ。
一瞬自分がどこに居るのかも理解出来ず、早朝なのか翌日の夜なのか、時間の感覚もない。
いつの間に眠ってしまったのだろう。ゆっくりとソファーに起き上がり、スタンドの紐を引いて灯りを点すと、
その刺激で額の辺りにずきん、と軽い痛みが走リ抜けた。
暫く額に手を当てたままでそれをやり過ごし、ゆっくりと時計に視線を向ける。
彼の街は丁度、夜の9時を迎えたばかりのようだ。
彼はゆっくりと立ち上がってバスルームに行き、それから冷蔵庫を開けてビールを手に取った。
暫く考えた後でそれを冷蔵庫に戻し、フリーザーから淡いブルーの四角いボトルを取り出すと、
ロックグラスにほんの少量注ぎ入れ、天井を見上げるようにしてそれを一気に喉に流し込んだ。
ふーっと息を吐いてそれが臓腑に沁みる感覚を味わい、再び少量グラスに注ぎ入れて同じように天井を仰ぐ。
椅子に腰掛けることもしないでそれを2、3度繰り返してから、漸くダイニング・チェアーに腰を落とし、
今度は先程よりも多めにそれをグラスに注ぎ入れた。

何で今更、「彼女」の夢なんか―――テーブルの上に両肘をつき、頭を抱え込むようにして髪をかき上げる。
ああ、本当に今日の俺は、何かがどうかしちまってる。
そう思いながら顔を上げると、テーブルに置かれたバイクの鍵が目に留まった。
それを目にした瞬間、数時間前の記憶が蘇る。

バイクを降りた時、彼女は腰を抜かしたようにへたへたと道路に崩れ、二度と乗らないわよ!そう最後まで
憎まれ口を叩いていたっけ。ぎゅうっと何度もしがみ付いてきたくせに。
その時の彼女を思い出すと、知らず知らずのうちに笑みが零れてくる。
だが直ぐにそれを消し去り、彼はああ、とまた頭を抱えて髪をかき上げた。
どうして昼間、あんなにむきになってしまったんだろう。あれじゃまるでガキの喧嘩だ。

"膝の上に寝る相手なんていくらでもいるくせに " ――― ああ言われて、何故不快な気持ちになったんだろう。
いつもなら冗談のひとつでも言って軽くやり過ごすはずなのに、そう出来なかった。
この俺が冗談も返せずにむきになるなんて一体どういうことだ。全く訳が解らない。
何しろ、あんなふうに向ってくる女は初めてだ。声を掛ければ予想外の反応を返してくるし、笑みを向ければ
警戒したような表情を返す。メアリーみたいに適当にあしらうことが出来ない。
鍵を掛けて仕舞い込んだ素の自分を、気付かぬうちに勝手に引き出されているような感じがする。

彼はグラスの中のジンをまたひと口、舐めるように飲み、ふうと息を吐き出した。
空腹で目が廻りそうだったが、何となく食欲もない。
冷蔵庫にはドリンクしか入っていないし、自分のために料理をするなどまっぴらごめんだ。
寝てしまうには早すぎるし、第一、夕方から眠っていたのだから眠れる訳がない。
一瞬、イネスの顔が浮かんだが、彼女とは昨夜抱き合ったばかりだ。自分から彼女に連絡したことはないし、
そもそも、2日続けて彼女とそんなことをする気にはなれなかった。
気付けばフリーザーから出していたジンのボトルが汗をかき始めていた。
つう、と滴が幾つかの筋を描いて流れ落ち、テーブルの上に小さな水溜りを作っている。

ボンベイ・サファイアか―――今じゃその都市は確か 『 ムンバイ 』 と呼ばれているんだっけ。
『 ボンベイ 』 のままでいてくれたらよかったのに、と彼は思う。そちらのほうが好みだし、何より、響きが美しい。
他所の国の都市名についての勝手な言い分を、無責任にもあれこれ思い描くことに暫し時間を費やした。
彼女・シェリーの中に半分流れているという国の都市。 
・・・ああ、またかよ。結局はまた彼女のことに考えが戻るのに彼は苦笑した。

彼はそうやってぼうっと過ごしながらグラスの中のジンをゆっくりと体の中に流し込み、
ほろ酔い気分で再び上着を引っ掛けると、夜の喧騒に逃げ込むためにドアを開けた。








ウエスト・ヴィレッジ  11:45 p.m. 

「彼」を探して数軒の店を巡った。
通りで誰かに尋ねればことは簡単だったが、流石に夜のクリストファー通りの、「あの場所」に立ちたくは無い。
幾らだい?ベイビー。 「売り」はやってない。人を捜してるだけ。 Fuck off ! (失せろ!)紛らわしい奴め。
きっとまたそんなことの繰り返しになるだけだし、勝手に縄張りに立つな、と脅され、ビルの隙間に押し込められるのも御免だった。

羽振りの良さそうなアジア系の男が、さっきからミシェルにちらちらと視線を送ってくる。ねっとりとした嫌な視線だ。
やっぱり誰かと一緒に来るべきだった。そう後悔したが、今夜は「彼」を捜すことが目的だから、やはりひとりで
いるべきなんだろう。
しなやかな長い指で持ち上げたグラスに、ふっくらと形の良い唇を押し当てる。
中の液体を喉に流し込むと、カラン、と氷の澄んだ音が心地良く彼の耳に滑り込んだ。
面倒を避けるために、こうして「男の選ぶ酒」なんかを口にしている自分を、滑稽だと思った。
そんなことをしたところで、まるで無駄だったのに。
今夜だけで一体、何人の男が彼に熱い視線を送ってきたことか。あのアジア系の男みたいに。
自分の見目にうんざりとする瞬間だ。彼は人目を惹き過ぎる。その美しさ故に。

アフリカ系の父親から受け継いだ、野性的で均整のとれたカフェ・オ・レ色のしなやかな身体、無意識にそこから
放たれている濃密なエロス。
フランス人の母親から受け継いだ高貴な美貌、上流階級の出だったというその母親に仕込まれた、エレガントな物腰と確かな審美眼。
そして、彼自身が自分の中で熟成させてきたもの。その材料は、例えば苦悩や痛み、悦び、悲しみ、怒り。
それらのものが複雑に絡み合って作り出された、ミシェルというひとりの魅力的な青年が、本人の望まないうちに
人目を惹いてしまうのはもっともなことだ。そしてそれに男女の区別は無かった。
彼は、男からも女からもねっとりとした視線で視姦され、彼らにひと時のファンタジーを与えてしまう存在だった。
やがてファンタジーだけでは我慢し切れなくなった輩に、そのうち声をかけられる羽目になる。

無論、彼自身がそれを待ち望んでいる時もある。彼らの世界は特殊だ。 映画やテレビで見かけるような、普遍的な「Boy meets girl 」など存在し得ない。極めて動物的で即物的だ。
獲物を定め、視線を絡め、互いの身体に生まれる欲望が一致すれば身体を繋ぎ合わせる。
そこから恋が始まることもあれば、刹那の快楽に身を投じて終わることもある。
彼はいわゆる「あばずれ」ではないから、その場で欲望を満たすようなことはしない。その経験がない訳ではなかったが、後に残されるあの虚しさは彼の趣味ではなかったし、病気やトラブルのリスクも高すぎる。
自棄を起こしていた若い頃にはそれを求めたこともあった。自分を貶めてしまうようなことだ。クリストファー通りの、
「あの場所」を舞台にして。

それを救ってくれたのが「彼」だった。留守がちな母親のせいで孤独だったミシェルに温かい食べ物を与え、
洗練された衣服を着せ、レストランや夜の街でのしきたり、振る舞い、酒、実にさまざまなことを彼に教え込んだ。
そして勿論、快楽も。
シュガー・ダディ。
人は「彼」のことをそう揶揄したが、そんな俗っぽい言葉で片付けてしまうには、あまりにも大きな存在だった「彼」。
そんな「彼」を裏切り、「彼」の下を飛び出してからのこの10年余り、一度も「彼」に会ったことはなかった。
チェルシーからどこか他所へ移ったらしい、と風の噂では聞いていた。
それでも、今だに時折この界隈に現れている、という話も。
この界隈で「彼」を知らない人間はいない。少なくとも10年前はそうだった。
「彼」自身に出会えなくても、見知った顔に出会えれば連絡先を入手出来るかもしれない、そう思っていたのに、
そんな時に限って誰にも出会えないものだ。
久しく顔を出さないうちに、馴染みの店の名前もバーテンダーも、何もかもが変わっていた。


ふと壁際のほうから視線を感じ、反射的にそちらのほうへと目を向けた。
緩い癖のあるダークヘアーの、背の高い男が壁にもたれるように立っていて、グラスを口に運びながらミシェルをじっと見つめている。
その日何度目かの、男からの熱い視線。 またか―――ミシェルはその男の視線から逃れようとした。
それなのに。何故だかその男から目を逸らすことが出来ない。
一体どうしたというのだろう。男の強烈な視線に抗うことが出来ないのだ。
今夜それまで何人もの男たちから向けられた、ねっとりとした嫌な視線とは違っていた。
男の向けるそれには何故だか嫌悪を感じない。
全身を駆け巡る「何か」が彼をじりじりと追い詰め始める。いけない。今日の目的は「彼」を捜すことだ。
そう自分に言い聞かせ、何とか男から視線を外して、彼は再びグラスの酒を口に流し込んだ。
鼓動が早まったことと関係しているのだろうか。グラスに押し付けた唇が少し震えていた。


その時、カタン、と音を立てて、さっきのアジア系の男が席を立った。
獲物<ミシェル>に狙いを定め、ゆっくりとした足取りで男がミシェルの許へと移動し始める。
カウンターはいっぱいで、端っこに座るミシェルの隣の席は空いていなかった。
それで安心しきっていたのに、タイミング悪く、隣の男が金を置いて席を立ってしまった。
自分もそうしようと上着のポケットに手を突っ込んだところで、その男がミシェルの隣に身体を滑り込ませて来た。

「・・・Hi 」
「・・・・」
「さっきから君に見とれていたよ。余り見かけない顔だね?」

アジア系特有のアクセントで男が微笑んだ。それには答えず、男に顔を背ける。

「誰かを待っているの?」
「・・・Yeah」
「それは酷い。こんなに美しい人を待たせるとは、なんて酷い 『 男 』 だ」
「!」
「そんな男は放っておいて、この美しい夜を僕と一緒に過ごさない?」
「・・・あー・・・悪いけど―――」
「―――金ならいっぱい持ってる」
「!」

ミシェルの耳元で男が囁く。
にやり、とした顔で彼の答えを待つ男に、ぐつぐつ、と腹の底から不快な感情が沸騰し始めた。
あの男もあの男も、こんなふうに下卑た薄ら笑いを浮かべていた。でももう、僕はあの頃の僕じゃない。

「そういう子が欲しいならクリストファー通りへ行けば? 金の欲しい子たちがあんたみたいな男を待ってるよ」

そう言ってカウンターの上に金を置いて席を立つと、男がミシェルの腕を掴んだ。

「待ってよ! 」
「放せよ!」
「―――待たせて悪かった、ミシェル」
「―――!?」

さっきの壁際の男だった。アジア系の男をひと睨みし、その男の腕を引き剥がして捻り上げている。

「痛い!痛いっ!」
「!」
「Back off ! (失せろ!)」

何事か、と周りの人間の好奇の視線に包まれながら、そのアジア系の男が何か悪態を吐きながら出て行く。
恐らく母国語だろう。
呆気に取られたように男の顔を見つめるミシェルに、まあ座って、と仕草で促し、男が隣に腰を下ろした。

「・・・ありがとう・・・」
「彼と同じものをくれ」

バーテンダーにそう声をかけ、男がミシェルに向き直る。


威圧感とも言える、独特の存在感を放つ男。
ミシェルの中で恐れのような、焦りのような、得体の知れない何かが生じていた。

「あの・・・」
「?」
「助けてくれたのに、こんなこと言うのは間違ってるけど・・・」
「Yeah ? 」
「・・・勘違いしないで」
「What !? 」
「これで今夜、僕を落とせる、なんて思わないで」

ミシェルの言葉に男は天井を仰いでははは、と笑った。

「なるほど。見返りに今夜の君か。それも悪くないな」

男の向ける笑みにそういう邪(よこしま)なものは感じられない。
さっきはあんなに熱い視線を向けてきたくせに、古い友人か何かみたいな呑気な顔で彼の横に居座っている。
不思議な男だ、そう思った。彼はつい傲慢な言葉を向けてしまったことを悔いた。

「! そうだ、どうして僕の名を?」
「・・・君を知っているからさ、ミシェル」

男が意味ありげな笑みをミシェルに向ける。
男の低い声もその視線も、ぞくぞくとするほどに艶めいていて、彼はまたしても、とくん、と大きく波打つ
胸の音を聞いた。
だが彼はそれを隠し、何食わぬ顔をして飲み残していたグラスの酒をあおり、男へと向き直った。

「・・・君は誰?」
「・・・ミゲル」
「!」
「つまり我々は、同じ大天使の名前を持つ者同士、出会うべくして出合った堕天使・・・そんなとこかな」
「!」

それは「彼」がミシェルを抱きながらよく言っていた言葉だ。ミシェル、我々は堕天使なんだよ、と。
何故なら「彼」も偶然にして、大天使ミカエルの名前を授かった男だったから。
「彼」を捜してやって来た店で、「彼」と同じ言葉を囁く、「彼」と僕と同じ意味の名前を持つ男。
これは単なる偶然だろうか。それとも、何かを意味しているのだろうか。
僕を知っているのなら、もしかしたら「彼」のことも知っているのかもしれない。根拠はないが、何となくそう感じた。

「・・・So・・・」
「・・・?」
「さっきの男に何を言われた? 君のあの怒りから察するに、金、だろうけど」
「!」

どうして解るんだい?そんな顔をするミシェルに、ミゲルが再び笑みを向けた。

「"彼ら"は金を持ってることが一番のステータス・シンボルだ。女を口説く時、車や仕事を自慢する男がいるように、
"彼ら"にとっての最大の武器を君にアピールしてみせただけだ。別に君を買おうとしたわけじゃない。
そうカッカするな」
「・・・Oh・・・」

確かに彼は、さっきの男に男娼の扱いを受けた、と憤っていた。それを見透かしたような男の言葉に耳が熱くなる。
いや、とっくに彼の耳は熱を帯びていた。何しろさっきからずっと、地を這うような、低く艶かしい声が
彼の耳をくすぐっていたから。
それを誤魔化すようにミシェルは軽く笑った。

「勝手に熱くなったってことか・・・馬鹿みたいだ」
「気にすることはない。・・・俺にも経験あるよ」
「!」

それはつまり、自分を売ったことがある、そういうことだろうか。
それともさっきのミシェルのように、男娼の扱いを受けて憤ったことがある、そういうことだろうか。
それとも・・・

「ヘーイ、ミゲル!」
「?」

酔った足取りで女と一緒に店に入ってきた男が彼に声をかけ、ミゲルが呆れたような顔をその男に向けている。

「何てザマだ、ショーン。ヴィレッジいちの色男が台無しだぞ」

ミゲルの言葉を気にも留めず、男は連れの女と空いた席に並んで腰を下ろした。
座るなり、女は男に身体を預けるようにべったりとし始めている。
やれやれ、といった顔を男に向け、彼がミシェルへと向き直る。

「出ないか?」
「え?」
「女といちゃつく男を見ながら飲みたいかい?」
「あ・・・」


気が付けば、ミシェルは彼に誘われるままに席を立ち、連れ立ってその店を後にしていた。
「彼」を捜す気など、とうに失せていた。今更会ってどうするつもりだったのだろう。もうその目的さえも思い出せない。
流れに身を任せるようにブリーカー・ストリートを北のほうに向いながら、ミゲルが彼を振り返る。

「それで? どこか行きたい場所は?」
「・・・・・・」
「・・・ひとりになりたい?」
「・・・・・・」

どちらの問いかけにも無言のまま静かに首を横に振るミシェルを見て、ミゲルが肩をすくめた。

「・・・無理強いするつもりはない。帰りたいならそうすればいい」

静かに微笑んでそう言うと、ミゲルは彼に背を向けて歩き出した。

「待って!」

ゆっくりとミゲルが振り返る。まるでそれを見越していたような表情で。

「・・・連れてって」
「・・・」
「連れてって」
「・・・どこへ?」
「・・・君のところへ」

ミゲルは何も言わず、彼の真っ直ぐな視線を静かに受け止めていた。

「お願い・・・」



                                      
以下、男性同士のR18描写です(短いし、そうたいしたもんじゃないですが)。苦手な方はご遠慮ください。



Magnet 18.「『 What's eating Gilbert Grape 』- 『ギルバート・グレイプ』のあと・・・ - 」



Magnet 18. 
「 『 What's eating Gilbert Grape 』 - 『ギルバート・グレイプ』のあと・・・ - 」

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日曜日  
ブルックリン  9:45 a.m. 

みぃうー。お腹空いたよー。みぃうー。ねえってばー。

「・・・ん・・・」

みぃうー。ねえ、起きて。
胸元の重苦しさに目を開くと、デーヴィーが彼女の胸の上で毛布越しに「もみもみ」をしている。

「Hi、Devi・・・」

まるで母親みたいに容赦なく起こしにかかるデーヴィーに、かすれた声をかける。ゆっくり起き上がると、
ベッドだと思っていたそこはソファーだった。
目の前のテーブルには、チップスが入っていたボウル、ハーフ・サイズ・ボトルのワインの空き瓶とグラス、
食べ残して「かぴかぴ」に乾いたチーズと、茶色くしなびてしまった林檎のスライス、ステイシーから借りたDVDの
パッケージが幾つか。
そして、テーブルの先には点けっぱなしのTV。 God ! 私ったら、途中で寝ちゃったんだ!

それから彼女はバスルームに行って用を足し、キッチンで待ち構えるデーヴィーに朝食を与え、コーヒーをセットして
椅子に腰掛け、ふああ、と何度目かの欠伸をした。
確か最後に時計を見た時には夜中の2時を過ぎていた。えーと、映画はどこまで観たんだっけ。
そもそも何を観ていたんだっけ。1本目は確か、昔のジョニー・デップの映画を観たんだったけど。
ジョニー・デップが朴訥とした普通の青年を演じているのも新鮮だったけれど、少年時代のレオナルド・ディカプリオの演技がとても素晴らしかった。ああ、それにジュリエット・ルイス!彼女の何もかも、全てが可愛かった!
流石はステイシーのチョイス・・・と言いたいところだけど・・・

ステイシーはラムカの家の直ぐ近所で、小さなアクセサリー・ショップを営んでいる友人だった。
商品は殆ど全てが彼女の手作りで、アクセサリー以外にも少し風変わりな帽子やバッグなども置いている、
個性的だけれど、いかにもブルックリンらしさの漂う、とてもセンスの良い小さな店だ。

そのステイシーから昨日の夕方に電話があった。
"ちょっとラムカ!今の彼、一体誰よ? "
昨日、ショーンにバイクで送って貰ったところを見られていた、というわけだ。
その後、今夜一緒に出かけない?というラムカの誘いに、悪いけど今日はデートなんだ、と言った彼女は、
代わりに幾つかの映画のDVDを貸してくれた。客が全く来ず、暇を持て余している時に時々観ているのだと言う。
ああ・・・土曜の夜に出かけることもしないで、家に篭って独り映画鑑賞なんて! 
そりゃあ、恋人の居ない期間にはよくやることだけど・・・・


ぼうっとした顔でコーヒーを啜り、満腹になってしゃなり、しゃなり、と満足げにキッチンを出て行こうとするデーヴィーの姿を見つめ、彼女はぼんやりと昨日のことを思い返した。
楽しかったような・・・わけの解らない一日だったような。感激したり怒ったり、美味しかったり怖かったり。
怖かった、というのは最後のバイクのことだけど、とにかく、何だか感情の起伏の激しい一日だった。

"二度と乗らないわよ!" ――私ったら、彼に対して最後までそんな言葉しか出てこなかったなんて。
"送ってくれてありがとう " って言わなくちゃ。彼の背中にしがみついている間中、そう思っていたのに。
それなのに。バイクから降りた時、腰が抜けたみたいに「ふにゃ」っとなってしまって、それがとっても恥ずかしかった。
だからなのかどうか、気付いた時にはそんな憎まれ口を叩いて、さっさとアパートメントのほうへ向ってしまっていた。
"今日は本当に・・・色々とごめん " ―― 再び謝る彼の声を背中で聞き、彼女はようやく素直に "送ってくれてありがとう " と口にすることが出来たのだ。
"私こそごめんなさい " という言葉と共に。
その後、"じゃあ、また " そう言って彼が去って行くのを見送った、あの時の気持ち。
それを思い出してしまい、彼女は否定するようにゆっくりと首を振り、マグカップのコーヒーをごくん、と飲み込んだ。
まるでその思いを飲み込むように。
あっさりと帰ってしまった彼に、何故だか拍子抜けした。がっかり、という言葉でもいいかもしれない。
もっと言うと、小さくなっていく彼の姿に、寂しさみたいなものを感じていた。
もう帰っちゃうんだ・・・そう心の中でこっそりと思ったことを、彼女は頑としてまだ、認めてはいなかったけれど。
馬鹿みたい。「何か」を期待してたのかしら。そうチラリ、と思ったことも彼女は「無かったこと」にした。



プルルルル―――日曜の朝の、まったりとした空気を震わせて鳴り響く、電話の音。
彼女はコーヒーの入ったマグカップを手に立ち上がると、受話器を取ってソファーに腰掛けた。

「Hello ? 」
"Lamka ? "
「Oh ! Daddy ? 」

今はワシントンに暮らしている父親の声だった。

"元気にしているのか? "
「Yeah、元気よ。ダディこそ元気にしてるの?マギーも」
"私たちは変わらず元気だ、ありがとう。それより、たまには電話をしなさい、ラムカ "

ダディこそ、そう言いたかったけれど、実際は余り話をしたくなかったから、曖昧に笑って返事をした。
父親が何を言いたくて電話してきたのか――声を聞いた瞬間、何となく嫌な予感がしたからだった。


"アイシュから聞いたが、幼稚園を辞めたそうだな "
「あー・・・Yes, daddy 」

ほら来た! 昨日の夜、早速弟に電話をして、お互い近況報告をしたばかりだった。
一夜明けた途端、早速父親から電話だ。 もう、アイシュのお喋り!

"どうして辞めたりなんかしたんだ?まだほんの3年だというのに。折角―― "
「――ダディ、そのことだけど、今は話したくない」

恋愛関係が原因で解雇された、なんて口が裂けても言えない。父の取り成しであの仕事に就けたようなものだったし、何よりも、英国人である父の硬苦しく気の滅入るようなアクセントで、日曜の朝っぱらからお説教されるなんて
まっぴらだった。

"子守なんかで食べていけるのか?家賃は払えるのか?住み込みじゃないとアイシュが言っていたが・・・ "
「それは大丈夫。何も心配要らないわ、ダディ」

実際は家賃を払ってしまうと、その残りでは極めて質素に生活するしかなさそうだけれど、彼女は父親に心配を
かけまいと虚勢を張った。
何しろ平日の夕食は、クリフォード家のためにショーンが作る豪華ディナーの "おこぼれ " に与ることが出来る。
時折ナディアがフルーツや残りものをお土産に持たせてくれることもある。
つまり、贅沢は出来ないけれど、決して食い逸れる心配も今のところ、ない。だから決して嘘はついていないはずだ。



父親からの奇襲攻撃を何とかかわし、彼女は再び弟に電話をかけた。クレームを言うためだ。

「よくもダディに喋ったわね」
"だってあの後、偶然ダディからも電話がきたんだ。 それに、どうせいつかは知られることだよ? "

弟のアイシュはもっともらしいことを言って笑った。
確かにそうよね。そうなんだけど。それは解ってるんだけど。

「私の可愛いラーイシュリヤ。よく聞いて頂戴。
これからは私のことを、勝手にあれこれとダディに話さないでくれると嬉しいんだけど」
"ジー・ハーン、マー(はい、ママ) "

姉がいつものように母親の口調をまね、弟が「はい、ママ」と素直に返事を返す。
それは子供の頃からの姉弟間でのお遊びでもあった。
彼は、叱る時にも褒める時にも「私の可愛いラーイシュリヤ」と最初に優しく呼びかけてくれた母の記憶を、
何よりも愛していた。
それはラムカにも毎回向けられていた言葉だった。「私の可愛いラムカ」と。


弟と一緒になって、在りし日の母を思い出すこと。それは彼女を春の陽だまりのような優しい気持ちにさせてくれる。
と同時に、とてつもなく深い悲しみを呼び覚ましてしまうことでもある。
もう10年近くにもなるのに、彼女の心の中の母親のための部屋は少しも、綺麗に片付いたためしがない。
そこはいつでも散らかっていて、絹のように柔らかなものも、薔薇の棘のように尖った痛いものも、何もかもが
一緒くたになって仕舞いこんであるものだから、あるものを取り出そうとする度に、何か違うものが引っ掛かって
「くっ付いて」来る。

"私の可愛いラムカ、いらっしゃい " ――この上もなく優しい笑顔で抱きしめてくれる母が、その笑顔の裏で
ひとりこっそりと涙する姿や、深夜、両親の寝室から聞こえてくる諍いの声。
擦り切れてぼろぼろになっても何度も何度も読み返していた、今は亡きインドの祖父母からの手紙の束。
それを目で追う時の、満ち足りたようでいて寂しそうな母の顔。
全く、何ひとつ片付けられやしない。もっとも、端から片付けるつもりなんてないのかもしれないけれど。



弟との電話を切った後、彼女はチェストの上に飾ってある母親の写真をふたつ、手に取った。
どちらも彼女のお気に入りの写真だ。
そのうちのひとつは、何気ない普段の日の母の姿だった。
サリーを着けてソファーに座り、こちらへと微笑んでいる写真。
そしてもうひとつは、インドの伝統的な盛装に身を包み、いつもより派手な化粧を施した、ゴージャスな母が余所行きの顔で微笑んでいる。インドに里帰りした際に写真屋で撮ったものだ。
インドの映画女優みたい! そう言うと、母は何故だか少し困ったような顔をした。
普段の飾り気のない母のほうが好きだったのに、そう言えば、一度もそれをちゃんと母に言ったことがない気がする。
彼女は母が盛装しているほうの写真をチェストの上に戻し、普通のサリーを身に着けているほうの母へ微笑みを向けた。

「・・・綺麗よ、マー(ママ)・・・」

まるでデーヴィーのみぃうー、という鳴き声みたいな、小さい子供みたいな、頼りない甘えた声。
やがて彼女は、指先に移したキスをそうっと写真の母に捧げ、それを静かに元の場所へと戻した。











ミッドタウン・ノース、五番街  2:30 p.m. 

友人とランチをとった後、彼女は五番街でぶらりとショッピングに興じていた。
レイは夫が見てくれている。ゆっくりしておいで、と送り出してくれた彼の顔は昔の彼のようで、
少し照れくさい気持ちで彼にキスをした。

昨日も休日出勤をしておきながら、早々に戻り、レイの相手をしていた夫。
「パリに行こう」と言っていた彼の言葉を半ば冗談だと思っていたけれど、本気なのかもしれない、と漸く彼女は
思い始めている。
罪滅ぼしのつもりなのね。そう言ってやりたかった気持ちをぐっと堪え、あの夜彼に寄り添った。
たとえそうだとしても、嬉しかったから。
そのせいか、まだまだ先の話なのに、こうして着て行く服を探しに、五番街をぶらぶらしている自分が
可笑しくて堪らない。
ウィンドウには春から初夏にかけての服ばかりで、バカンス向けの服や水着を探すには時期尚早過ぎたから。

それでもやはり、ひとりきりのショッピングは楽しい。
つまらなさそうに付き合う夫も居ないし、トイレットだジュースだ何だと気忙しくさせる息子も居ない。
そして彼女が今立っている場所は、世界でも指折りの、超高級ブランドの集まる場所だ。
東西に走る東57丁目通りと、南北に走る五番街の交差する4つ角にはそれぞれ、ヴァン・クリーフ・アンド・アーペル、ブルガリ、ルイ・ヴィトン、そして五番街の顔とも言えるティファニーが、競い合うように堂々と鎮座している。
いずれは私もあの場所で・・・と彼女を奮い立たせてくれる場所でもある。
彼女はそこから東に向い、イヴ・サンローラン、バーバリー、シャネル、クリスチャン・ディオール、とそれらの店を
順に巡り、次にエミリオ・プッチへ行こうと通りを少し入ったところで、女性の二人組とすれ違った。

「キャス?」

すれ違いざまに掛けられた声に彼女が振り返ると、それは友人のアリーだった。

「Hi ! 」

挨拶のキスを頬に交わし、互いの格好を褒め合い、友人の連れの女性に「始めまして」、と挨拶を交わす。
どこかで会ったことがあるような気もしたが、そのまま彼女らに別れを告げ、キャサリンは再びショッピングを楽しむために歩き始めた。
そしてエミリオ・プッチに辿り着き、ウィンドウのマネキンに視線を移した時、彼女はハッと瞳を見開いた。

「彼女」に・・・似てた・・・?

アリーとその友人を振り返ってみたが、ふたりはもう彼女の前から姿を消していた。
会ったことがあるような気がしたのは、そういうことだったのか。
アリーは連れの女性を、ヤスミン、と紹介していた。
どことなく似ている、と思ったのは、殆ど黒とも言えるダークカラーの髪に、浅黒いブロンズ色の肌をしていたからだろう。
髪は染めたものかもしれないし、肌も焼いたものかもしれない。
そういった容姿の女性なんて、この街には数え切れないほどいる。シェリーもそうだし、友人の中にも数人いる。
それなのに、いまだに「彼女」の姿と重ねてしまうなんて・・・本当にどうかしてる。


立ち止まっていた彼女は小さく首を振ると、気を取り直したように、エミリオ・プッチのウィンドウを再び
その青い瞳に映す。
薄いブロンズ色の肌をしたマネキンが、彼女を静かに出迎えようとしていた。
暫く逡巡した後、彼女は何かを思いついたように、通りで携帯電話を取り出した。


"こちらは『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク)、お電話ありがとうございます "
「キャサリン・クリフォードよ。ミスター・ピノトーの予約を―――」


Magnet 19.「 Raindrops keep fallin' on their heads - 雨にぬれても (明日に向って行け) - 」

Sequel Ⅱ  後日談 : その2

Magnet 19.
「 Raindrops keep fallin' on their heads - 雨にぬれても (明日に向って行け) - 」

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ミッドタウン・ノース 『 Bruno Bianchi NY 』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク)  3:40 p.m. 

昨日まで続いた、春の訪れを思わせる陽気が嘘のように、彼のカシミアのセーターと同じ色をした空から、
窓ガラスに小さなドットがひとつ、ふたつ。
やがてそれらは融合して大きなドットになり、そのうち歪んだストライプへと姿を変えて流れ落ちてゆく。
形良いふくよかな唇から幾度となく吐き出される溜め息。その日何度目かのそれはまるで、窓の外の突然の雨に
向けられた憂いのように、仲間達には聞こえただろう。
彼のあめ色の瞳には雨粒のひとつすら、映っていないというのに。


" また会える・・・? "
" ・・・Maybe "

つれない答えが切なくて、男の首に思わず伸ばした指。
一晩中彼の身体を這い続け、恍惚とさせた唇に、別れの時間(とき)を自分から重ねた。
" ・・・ありがとう・・・ミゲル "
男は何も言わず、返事の代わりのように彼の唇をただ優しく貪り返した。湿った音の連続に混ざる、甘い息遣い。
彼の髪を乱し、頬を滑る、指先。男の愛撫に敏感になってしまった身体が悲鳴を上げ始める。
"やめて。仕事に行けなくなる "
そうすれば?とでも言うように片方の眉を上げる男を残し、石碑のように重いドアを開けた。

それからどうやってここまで来たのか憶えていない。
彼としたことが、2日続けて同じ服で出勤するなんて、普段なら絶対に有り得ないことだった。
と言うことは、家に帰らずにそのままキャブでここまで来た、ということだろう。
身体のあちこちが痛かったけれど、そんなのはどうってことない。
さっきからずっとズキズキと疼いている、胸の痛みに比べたら。
唇を噛むと、そこに最後、男がくれた甘い口付けを思い出して、また胸が疼いた。
ああ、と額に手をあて、瞳を閉じる。何てこった。これじゃ仕事にならないよ。

「――ミシェル、予約入ったわよ。ミセス・クリフォード。30分後よ」



「――もう、突然降り出してくるんだもの」

そこからそこなのにキャブを拾っちゃったわ、と笑う彼女につられて彼も笑みを返す。
相変わらず綺麗に手入れの行き届いた肌は、彼にクリエイティブな欲求を甦らせてくれる。
そろそろパーク・アヴェニューをピンク一色に塗り替える筈の桜のように、彼女を春の女神に仕立て上げてしまいたい。
それなのに今日の彼女ときたら、無下にも彼の欲望をあっさりと封じ込めてしまった。

「元気ないわね」
「そう見える?」

そう。キャサリンの予約とはヘア・メイクでも何でもなく、ミシェルを拘束することだった。
彼女たちは今、向かいのカフェで椅子に座り、コーヒーを飲んでいる。

「Yeah ! 酷い顔してる。でも、翳のあるあなたもセクシーで素敵よ」
「あー・・・ありがとう、と言いたいところだけど・・・」
「―― Lovesick (恋患い)」
「?」
「顔にそう書いてある」
「!?」

窓ガラスで顔を確認するミシェルをふふっとからかうように笑い、彼女はマグカップを口に運んだ。

「キャス」

もう、からかうのはやめてよ、そう言いたげに苦笑したミシェルの眉がほんの少し、切なげに歪むのを彼女は見落とさなかった。

「・・・言えない恋でもしてるみたい。人妻と恋に落ちた男、みたいな顔よ」
「Me and Mrs.・・・Clifford ? *」

ビリー・ポール*の古いソウル・ミュージックを引き合いに出し、ミシェルが悪戯っぽく眉をくい、と上げる。
ミシェルの頬にいつもの "えくぼ " が戻った瞬間だ。

「ふふっ、あなたみたいな人とならそれも悪くないかな」
「Really ? それは光栄だよ」
「Tell me ! どんな人なの?」
「あー・・・・」

顎の下で指を組み、彼を見上げる青い瞳に自分の姿が映し出されるのをぼんやりと見ながら、
彼は暫し考えを廻らせた。
彼女とは知り合って間もないし、本来彼はプライバシーを簡単に他人に打ち明けるタイプではない。
けれど、彼女には何でも話せそうな気がしていた。初対面の時から不思議と彼女には居心地の良さを感じるのだ。

「・・・ねえ、キャス。運命の出会いってあると思う?」
「ええ、思うわ。ただの偶然と言う人も多いけど、その偶然こそが運命だって思わない?」
「・・・僕ね、恋をする度に毎回そう思ってきたんだ。これは運命の出会いに違いないって。だけど・・・」
「・・・?」
「・・・どうやら今までのそれは・・・違ったみたい・・・」
「! 出会ったのね?本当の運命の相手と」
「・・・判らない・・・何しろこんな感覚は初めてで・・・・まだ上手く言葉に出来そうにもないよ」

また彼の唇から深い溜め息が吐き出される。伝染したように、彼女の唇からも同じように吐き出される溜め息。

「残念だわ」
「どうして?」
「あなたに紹介したい男性がいたんだけど、そんな相手に巡り逢ってしまったんじゃ彼の出番はなさそう」
「はは・・・まさかあの彼じゃないよね?」
「Who ?」

ミシェルが指をパチンパチンと鳴らしながらMaxwellの曲を歌い、リズミカルに身体を揺らす。
彼は、クリフォード家の別荘でのパーティーで、踊りながら彼に身体を摺り寄せて来た、あのオカマのバーニーの
ことを言っているのだった。

「あははは!」

仰け反って大笑いする彼女に、どう?というふうに笑って彼が両手を広げる。

「OH , もうこんな時間! そろそろ話の本題に入るわ」
「本題?」
「今日はあなたに依頼したいことがあって来たの―――」







ブルックリン  10:25 a.m. 

プルルルル―――

「Oh ! 」

母の写真から手を離した瞬間またしても電話が鳴り、驚いた彼女の指がビクッと宙を舞った。
またダディかも。
彼女は再びソファーに腰掛けてぞんざいに受話器を取り上げた。


「Hello ? 」
" おっはよー、ミス・テイラー "
「Oh , ベティ!おはよう。今日休み?」
" Yeah !  ねえ、あんた今日も暇よね? "
「失礼ね。今日も、って何よ」
" わはは "
「で?」
" ショッピング行こうよ "
「Yeah , いいわよ」
" ミシェルがとびきりの男を紹介してくれるって言うからさ、とびきりの服をゲットしなきゃ! "
「何それ!自分だけずるい!」
" あんたは間に合ってるでしょ "
「何が」
" ステイシーから電話来たよ。彼に送ってもらったんだって?進展したじゃん! "
「What !? もう!みんなしてお喋りなんだから!」
" みんな? "
「その話はいいから! ・・・で?何時にどこで?」



ベティとの電話を切り、早速彼女はシャワーを浴びた。
バスタオルを2枚、それぞれ頭と身体に巻き付けたら、気分はひと昔前のエリカ・バドゥ*。
" On & On " を口ずさみながら、そんなしどけない姿で着ていく服を選び始めた。
歩き回るから疲れないようにムートン・ブーツを履いて行く?じゃあボトムはジーンズ?
それとも、いつもジーンズだからやめとく?

プルルルル―――

そんな調子であれこれ思い悩んでいると、またしても電話が鳴った。
God ! 今日は一体どうしちゃったの? 朝から電話ばっかり!
彼女は手にしていた服を持ったまま、再び受話器を取って耳に当てた。

「Hello ? 」
" ・・・Lamka? "
「Yeah ? Who is this ? 」
" ・・・It's me ・・・Neville・・・"

――― !?

思いがけない人物の声。彼女の身体と心は石のように固まり、それが解けるのに暫し時間を要した。

" Hi "
「・・・・あー・・・Hi , ずいぶん久しぶりね」
" 元気にしてた? "
「Yeah , 元気よ」
" 何年ぶりかな "
「あー・・・3年とか、そのあたり?」
" 突然電話なんかして・・・迷惑だったかな "
「No , 迷惑だなんて」
" 彼と一緒かもしれないし、迷ったんだけど・・・ "
「彼?」
" ・・・実は昨日、君を見かけたんだ "
「Really !? どこで?」
" 『ヴィネガー・ストアー』で "
「Oh ! あー・・・」
" 色々と想像を掻き立てられたよ "

ショーンとレイのことを言っているのだろうか。まさか家族に見えたわけじゃないだろうけど、もしかしたら、
彼ら二人が父子に見えたのかも。

「・・・それで電話を?」
" ・・・今夜、会えないかな "
「!」
" 久しぶりに食事でもどうだい? "
「・・・・Oh・・・・」
" 古い友人として・・・"
「・・・・あー・・・ごめんなさい・・・今夜は約束してるの」
" ・・・昨日の彼? "
「・・・Yes・・・」



ソーホー  2:40 p.m. 

「――Wow ! これなんかどう?」
「・・・見え見え」
「じゃあこれは?」
「もっと見え見え」

ベティときたら、「今直ぐにあなたとベッドに行きたいわ」と主張しているようなドレスばかり手に取るので、
ラムカの首は横に振られるばかりだ。

「うーん、やっぱりあからさま過ぎるか」

その後、違う店に行くために通りへ出ると、ベティが思い出したように「あっちにすっごいセクシーな
ランジェリー・ショップがあったよね!」と彼女の手を引いて歩き出した。
ヴィヴィアン・ウエストウッドの息子*がデザインしているというブランドだ。
かなりセクシーなイメージだけれど、ランジェリー自体は決して下品なものではなく、クラシカルな気品さえ漂わせるものが大半だった(中には " プレイ用 " のどぎついものもあったけれど)。
ただし、やたらと扇情的なアプローチを見せていて、店内に流れるモニターに映し出されるコマーシャル映像を観て、
ラムカは目を丸くしてばかりだ。

「流石はヴィヴィアンの息子だね。アヴァンギャルド!」

ノリノリでセクシーな下着を身体に当ててはしゃぐベティをよそに、ラムカはさっきからずっと、何となくぼんやりとしてばかりで気のない様子だ。
その上、ベティが手に取るもの全てに否定的で、何だか楽しくなさそうにも見える。

「・・・彼と何かあった?」
「彼?」
「送ってもらったんでしょ?」
「Oh , あー・・・」
「いい男だったってステイシーが言ってたよ・・・Wow ! これ可愛い!How much――」
「――ネヴィルから電話がきたの」
「!」
「今夜会えないかって・・・」
「! 駄目だよ、ラムカ!解ってるよね?」
「I know ! もちろん断ったわよ」
「Oh my gosh ! 150ドルもするソング*を握り締めてる時に脅かさないでくれる?危うくレジに持ってくとこだよ」
「買えば?」
「Nah ! 出よう、それどころじゃなくなったよ」


やっと見つけたカフェは満席で、20分も待って漸く席に着くことが出来た。
五番街もそうだけど、ここソーホーも、気の利いたカフェはブティックが集中している場所から離れた場所にしかない。
10分以上も歩いた挙句、20分も待って漸く口に出来たカプチーノだった。
ラムカから昨日の一連の出来事や今朝のネヴィルからの電話の件を聞きながら、ベティは大好きなはずのカプチーノを、半分も飲まないうちに飲む気が失せてしまっていた。
お世辞にも余り美味しいとは思えなかった。エスプレッソの部分は薄くて香りも弱いし、ミルクの温度も高すぎて
泡のきめが粗い。いかに普段レヴェルの高いそれを口にしているかを改めて感じずにはいられなかった。
あーあ・・・ポールのカプチーノが恋しい。やっぱり彼のがいちばんだわ。
いつものようにそんなことを思いついた途端、ふっと昨日の夕方の、ポールの表情を思い出してしまった。
ドキッとした時にはもう、彼は視線を外し、ヴェスパを走らせ始めていた。
あれは何だったんだろう。ポールは一体どうして・・・あんな目であたしを・・・
今度はベティがぼんやりとする番だった。

「――聞いてる?刑事さん」
「は?」
「まだ尋問に答えてる途中なんですけど。それとも、もう釈放してくれる?」
「あー、ごめん。続けてくれたまえ、ミス・テイラー」
「もういい」
「・・・しかし気になるなあ、ミシェル」
「はあ?」
「あ、言わなかったっけ?彼、昨日帰って来なかったんだよ」
「あんた、話飛びすぎ」
「そうかな」
「一体どうしたの?」
「だってカプチーノ、いまいちなんだもん」

ネヴィルの誘いを断った時、ショーンとの約束がある、と嘘をついたことをラムカはベティに言えなかった。
一方ベティも、昨日のポールの件をラムカに言わなかった。
代わりに話したことは、一昨日の夜、ミシェルにハリーとのことをぶちまけて慰めてもらったことや、彼が紹介してくれると言っていたラッセルという友人のこと。
ふたりの話題はいつの間にかミシェルのことに移り、気付けば外は雨が降り出していた。
残念なカプチーノのせいではないのだろうけど、何だかショッピングする気まで削がれてしまった。
とは言え、ラムカを今夜ひとりにしておくのは危険な気がしたので、今夜一緒にミシェルをとっちめよう、と提案して、
彼女をチェルシーのミシェルの家まで付き合わせることにした。





アッパー・イースト  3:25 p.m. 

その日の昼、久しぶりに息子のために料理をした。料理、と言っても、冷蔵庫にあった残りもののカポナータ*に
チーズを載せて焼いた、ピザ風のオープン・サンドウィッチとフルーツだけだが。
更に厳密に言うならば、そのカポナータはショーンが作ったものだし、フルーツも切って皿に並べただけだ。
それでもレイはとても喜んで、口の周りをトマトソースで汚しながら、嬉しそうにぱくぱくと食べていた。
それから一緒にジムに行き、軽く運動をして、戻ってきてから着替えをさせた後、今度は一緒にテレビのクイズ番組を観た。
そのうちにレイがうとうととし始めたので、彼の部屋のベッドまで運んだ。
そして現在、彼は久しぶりに我が家で「独りきり」の時間を過ごしているところだ。
コンピュータを立ち上げようかとも思ったが、なかなか出来ることではないから、久しぶりにソファーに寝転がって
本を読むことにした。
本と言っても文学ではなく、結局は経済学者の著書になってしまうのだったが。
本に集中し始めた頃、テーブルに乗せたままの携帯電話が鳴った。キャサリンからの電話かもしれない。
起き上がって携帯電話を取り上げ、ディスプレイに点滅する名前を見た彼は硬直した。
出るべきじゃない。そう言い聞かせ、テーブルの上に携帯電話を戻す。直ぐにもう一度、着信音が鳴り響いた。
耳障りでヒステリックな音だ。逡巡した彼は、意を決して電話を耳に当てた。

「・・・Yeah・・・」
" ・・・You missed me , hah ? "
「・・・No」

からかうように笑う声が、彼を苛つかせた。

" さっき、あなたに脱がせてもらうための新しいソングを買ったの "
「・・・」
" その後、誰に会ったと思う? "
「!」
" 初めまして、ですって。彼女、何も憶えてないのね。がっかりよ "
「・・・君とは終わりだ。そう言ったはずだが」
" んー、留守電は聞かない性質なの "
「だから今も言った」
" 直接、あなたの唇から聞きたいわ "
「・・・No , 本当にこれで終わりだ。二度とかけてこないでくれ」
" 後悔するわよ "
「とっくにしてるさ」

そう言い放って電話を切り、それをテーブルの上に乱暴に置いた。

窓の外の景色と比例するように、彼の心にも灰色の雲が広がって行く。
やがてぽつぽつと降り出した雨にキャサリンを思った。
彼女は今、どこで過ごしているだろう。傘を持たずに出かけたはずだ。
ふとレイの様子が気になり、彼は子供部屋へと向った。
レイはぐっすりと眠っていた。一度ぐっすりと寝たら、最低でも3時間は起きない子だったことを思い出し、
彼は苦笑した。

「*+#+:*・・・・」
「?」

聞いたこともない言葉の寝言だ。
ファンタジーの国の王子か勇者にでもになって、ライオンや豹を従えて冒険でもしているのだろう。
どこか懐かしさを憶える言葉だったが、彼は気に留めるでもなく、レイの上掛けを直し、子供部屋を後にした。







ミッドタウン・ノース  4:30 p.m. 

美しいふたりが楽しそうに笑い合う姿に、幾度となく目をやった。
ミシェルがゲイだと知らない人間には恋人同士に見えているかもしれない。それくらい絵になるふたりだ。
また後ろの方からくすくす、と笑い声が聞こえた。どうせまたジェシカとフレディだろう。
ミシェルとあのブロンドの女性に嫉妬してる、とでも思ってるに違いない。
知ったことか。勝手にそう思っていればいいさ。彼は声に振り返ることもせず、仕事に没頭することを続けた。

今日もジェニーは休みだった。正直、あんなことになってしまった彼女と仕事場で顔を会わせるのは気まずかったから、今日彼女が休みだと思い出した時には心底ホッとした。
遅かれ早かれ、明日になればその時はやってくるわけで、今更逃げ出す訳にもいかないことは解っているのだけど。

その後、紙ナプキンの補充を取りに奥の倉庫へと行った彼は、隣の事務所から大きな音が聞こえたので慌ててそこの扉を開いた。

「――!」
「あいたたた・・・」
「マダム・デュボア!」

彼は慌ててマダム・デュボアに駆け寄った。どうやら脚立から落ちてしまったらしい。

「お怪我はないですか?マダム?」
「ああ、ありがとう、ポール。嫌だよ、あたしったら。うっかり脚を踏み外しちゃったらしいよ」
「本当にどこも何ともない?足首は?捻ってないですか?」
「ああ、大丈夫。お尻をしこたまぶつけたようだけどね。あいたたた・・・」

彼はマダム・デュボアの手を取ってそっと立ち上がらせ、ゆっくりと椅子に座らせた。

「本当に大丈夫ですね?」
「大丈夫だよ。そうだ、ポール、悪いけどそこの落ちたファイルを棚の2段目に戻して貰えるかしらね。
・・・ああ、ありがとう」
「お手伝いが必要な時はいつでも呼んで下さい、マダム」
「ありがとう」
「ああ、そうだ。新しいベーグル・サンドが今日は一番人気で、昼過ぎにはもう売り切れちゃいましたよ、マダム」
「おや、そうかい。それは良かった」


ここのところ、急に足腰が弱くなり始めたマダム・デュボアが心配で仕方がない。
本人は太りすぎだよ、と笑うけれど、決してそんなことはない。
むしろ食が細くなり、以前よりかなり痩せてしまったのに。
彼女には身寄りがない。夫を早くに亡くし、子供も居ない、と聞いている。
もし病気になってしまったら誰が彼女の面倒を看るのだろう。
ふいにミセス・バレットのことが頭に浮かんだ。彼女は今朝も徘徊していたらしい。アパートメントの住人たちが
入り口でその話をしていた。
彼女とのこれまでのやり取りを思い返し、何となく悲しい予感に包まれてしまった。
彼らが「施設」という言葉を口にしていたからだろうか。
いずれにせよ、自分に出来ることは何もない。ミセス・バレットにとって何が最善なのかは判らない。
ただそれを願うことしか出来ない。
ジョンの振りも必要なくなる日が、いつかきっとやって来る。
僕はこんなにも無力な人間だけれど、少しは彼女の心の支えになれたのかな。
いや、まだまだその日はうんと先じゃないか。
彼はそう自分に言い聞かせ、気を取り直して、店への入り口の扉を開けた。

店に戻ると、ミシェルの目の前にいたブロンドの女性は姿を消していて、独り残された彼が頬杖をつき、ぼうっと
外を眺めていた。
彫刻のように美しい彼を眺めるのは良いものだが、きっとまたあらぬ誤解を招いてしまうのは必至だろう。
彼は直ぐにミシェルから視線を外し、仕事に戻った。
ふっといつもの癖で、向かいのサロンの窓へと目をやってしまった。今日そこに赤毛の彼女はいない。
昨日、心の中で、彼女にさよならを告げた。
まだ暫くはこうやって無意識に、あの窓に目を向けてしまうのかもしれない。
そのうちいつか、そんな日もなくなる。ベティを忘れられる日がきっとやって来る。
彼は自分にそう言い聞かせ、サロンの窓から視線を外した。
その瞬間の瞳の色を、ミシェルに捉えられていたことを知らずに。






MPD (ミート・パッキング・ディストリクト)  9:15 a.m. 

強烈に喉が渇いて目を覚ました。ゆっくりベッドに起き上がると、そこは知らない場所だった。
昨夜のことは殆ど何も憶えていない。
近くのバーで飲んでいて、そこで昔一度だけ寝た女と会い、それから一緒に店を出たまでは憶えている。
とするとここは、あの女の家か。名前さえもはっきりと思い出せない。
確か・・・レイチェル、とかそんな名前じゃなかったか。
最悪の頭を抱えて起き上がり、彼女の冷蔵庫を勝手に開けると、ミネラル・ウォーターが入っていなかった。
オレンジ・ジュースを飲む気にはなれず、彼は水道水を喉に流し込んだ。

テーブルには彼女からの手紙が置かれている。イネスの時みたいに、どうせろくなことは書かれていないだろう。

" おはよう、酔っ払いさん。キスしか出来なかったなんて最低!今度会ったら押し倒してやるから覚悟して!レベッカ "

どうやら彼女はレイチェルではなかったようだが、また途中で寝てしまったのか。どうりで服を着たままだ。
イネスの時のように途中で力尽きてしまったよりはマシか。
いや、女をふたりも立て続けにがっかりさせてしまったなど、どちらにしても不名誉なことに違いはない。


空腹で目が廻りそうだったので、帰る途中で見つけたダイナーに飛び込んだ。昔、時々通った店だ。
カウンターに座ると、でっぷりとした白髪のウェイトレスが「おはよう、ハンサムさん」と言いながら薄いコーヒーを入れてくれる。
コーヒーも料理も、決してお世辞にもそう美味しいとは言えないが、この好ましい時代遅れさを、彼は殆ど愛していた。
この街の開発が幾ら進んだとしても、こういう場所は決して失くしてはならない、と心から思う。

「ショーン?」

ふいに肩を叩かれて振り返る。懐かしい男の顔がそこにあった。

「ニック!」
「久しぶりだな」

握手やハグの 『 男同士の挨拶 』 をした後で、ニックという男が隣の席へ腰を下ろした。

「So , 今何してる?まだあの店に?」
「いや、今は 『 Amilcare (アミルカーレ) 』 に居るよ」
「Really ? 」
「Yeah , やっぱりオーソドックスな南イタリア料理が作りたくてさ。自分のルーツだからね。
訳の解らんオブジェみたいな料理はもううんざりだ」
「はは・・・確かに」
「お前は? Oh , そう言えば、でかい仕事をするはずだったろ?寸前で駄目になった、って・・・」
「Yeah , 不景気とやらの煽りでね。スポンサーが怖気付いちまって、あえなくおじゃんさ」
「そうか・・・それは残念だったな。それで今は何を?」
「今か?そうだな・・・強いて言えば・・・『 宮廷料理人 』、ってとこかな」
「何だ、それ」
「アッパー・イーストのパレス(宮殿)で 『 王と女王と王子の晩餐 』 のために日々、命を削ってるってことさ」
「Really ? 」
「Yeah , 今日から俺を 『 Vatel (ヴァテール) *』 とでも呼んでくれ」
「Ok , ヴァテール。まあお前ならまたそのうち、でかいチャンスを掴むさ。悲観するのはまだ早すぎるだろ」
「・・・Thanks・・・」
「・・・ショーン・・・その・・・」
「?」

軽い話をしたあとで、ニックが急に何か言いにくそうな顔をして俯いた。

「・・・いつかお前に謝りたいと思ってたんだ」
「謝る?何を?」
「・・・その・・・」
「? 何だよ、言ってくれよ」
「・・・お前に " あのこと " を言ったこと・・・ずっと後悔してるんだ」
「・・・あのこと?」
「・・・彼女のことさ」
「!」
「俺が・・・見たものを心に秘めたままにしておけば・・・」
「Hey , Nick ! お前が気に病むことじゃない。謝るだなんてよしてくれ。 それに・・・」
「・・・?」
「・・・もうずっと昔に終わったことだ。俺はもう忘れたい。だからお前もきっぱり忘れてくれないか」
「・・・Yeah・・・解ったよ・・・」
「俺のほうこそすまなかった。お前にそんな思いをさせてたなんて」
「いや・・・いいんだ」



今度店に顔を出すよ――そう言って彼はニックに別れを告げた。
雲が時折太陽を覆い隠し、顔に当たる風に少し湿り気を感じる。この後、雨が降り出すかもしれない。


" お願い、話を聞いて "
" いいから出て行け! "

――あの日、土砂降りになるとも知らずに「彼女」を追い出した。
行く宛てもなく、街を彷徨った後、家の階段の下でずぶ濡れになった「彼女」を見つけ、そして、抱いた。
確かあれが「彼女」と交わした最後だった。
昨日の夢、ニックとの再会、雨の気配。
忘れていたはずの日々を思い出させる偶然の重なりに、彼の足取りが急激に重さを増して行く。


・・・俺は一体、何をしているんだろう。
見上げた空には不気味な色をした雲が居て、ゆっくりと風に乗って流れていた。
あの雲のように、風に流されるまま生き、やがては散れ逝く運命なのか。
綺麗さっぱり散ることが出来るのなら、それも決して悪くない。
時折湧いては歩みを止めさせる虚無感を、彼はいつものように酒で誤魔化して、また自分の中に封じ込めることに
なるのだろう。
やがてアパートメントの下に停めたバイクが見えてきて、少しずつ彼の視界の中の割合を増して行く。

「よう、相棒」

もちろん、相棒の返事はない。 " 二度と乗らないわよ!" そう憎まれ口を叩いた、彼女の残像が見えた彼の唇の端が持ち上がるのを、ただ静かに見届けただけだ。
彼の中に生まれていた "何か" も相棒には見えていただろうか。そしていつか、彼がそれに気付く日は来るだろうか。
もちろんそれも相棒には解らない。
今はただ、くすんでいく街の空気をその磨かれたボディに映し、西の街に静かに佇んでいた。




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