Magnet 20.「 Chai party at the Palace - 宮殿でお茶会を  - 」



Magnet 20.

「 Chai party at the Palace - 宮殿でお茶会を  - 」


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愛用のルイ・ヴィトンのメイクアップ・ケースを持つ右の手も誇らしげに、彼はキャブを停めるため、勢いよく
左の手を上げた。
赤毛の助手と連れ立って颯爽とキャブに乗り込み、ターバンを頭に巻いた運転手に行き先を告げる。
「パーク・アヴェニュー、71丁目まで―――」



「ラムカ、びっくりするかな?」
「それもそうだけど、『彼』に会えるほうが楽しみー!ふふっ」

クラシカルなエレヴェイターの中で赤毛の助手がはしゃぐ声が響き、彼はやれやれ、と言った顔で隣の助手を
見下ろした。

「・・・B、胸元開きすぎ」
「そういう服だもん」
「で?どっちの『彼』目当て?」
「Both ! (どっちも!)」
「・・・Ah・・・」

彼が呆れて首を振った時に、エレヴェイターが15階に到着した。


「奥様がお帰りになるまで、どうぞこちらでごゆっくりと」

出迎えたメアリーが二人をリヴィング・ルームのソファーに案内した。
座ることも躊躇われるほどの高級そうなソファーだ。
堂々とした態度のミシェルとは対照的に、ベティは落ち着かない様子で、あちこちきょろきょろしながら何度も
紅茶のカップを口に運んでいる。

「いかにもアッパー・イーストの住人の家、って感じ」

でもあたしの趣味じゃないや、ベティの声にはそんな思いが感じられる。

「髪の毛一本、ううん、まつ毛一本落とせないよね、これじゃ」
「そう思うなら "まばたき"やめれば?」
「ひえー、ラムカって毎日こんな空間で過ごしてるんだ」
「君だってあと5分もすれば慣れるよ」

ミシェルが軽く笑って紅茶をひと口、喉に流し込んだところで、賑やかな声が聞こえて来た。キャサリンの声だ。
二人は立ち上がって少し緊張した面持ちで彼女の到着を待った。

「Hi ! お待たせしたわね」
「Hi , キャサリン」

ふたりは続けてキャサリンの頬にキスを重ねた。
向こうのほうでは、彼女のアシスタントであるティナ(ミス・ベネット)の姿や、カメラ・バッグを抱えた男や
その助手とみられる男、おそらくライターだと思われる女性などが賑やかに話を続けている。
それぞれと挨拶を交わし、早速ミシェルとベティの『仕事』が始まった。
今日のふたりの仕事。それは、雑誌の取材を自宅で受けるキャサリンが、ヘア・メイクとネイルをそれぞれふたりに
オーダーしたものだった。ベティにとっては、初めての「出張」というやつだ。
ダイニング・テーブルの椅子に腰掛ける彼女と雑談しながら、ミシェルが彼女の顔にブラシを走らせ、ベティが指先に色を載せる。
彼女らの周りでは、ジェイク、と名乗ったフォトグラファーの男がカメラをセッティングしたり露出のチェックなどを
していて、エマ、と名乗った雑誌のライターはティナと雑談を続けている。
始終リラックスしたムードで、どこからともなく冗談や笑い声が飛び交っていた。



ヘア・メイクとネイルが終わり、ジェイクがまずはデジタル・カメラでテスト撮影を始めた。

「もう少し、唇の色を濃い目に出来る?」
「Sure ! 」

デジタル・カメラをチェックしたエマがミシェルにそうオーダーし、彼がキャサリンのルージュの色を手直しする。
皆であれこれ意見を言い合い、それをかたちにしていく作業を見守るようにベティとティナが話をしていると、子供のはしゃぐ声が聞こえてきたのでそちらに目を向けた。

「ママ!ただいま!」
「お帰り、レイ。さ、皆さんにご挨拶して」
「ちょっと! どうしてここにいるの!?」

レイとキャサリンの会話を横目に、ラムカがすっとんきょうな声を上げた。
「今日、ママが家で『ざっし』の『しゅざい』をうけるんだって」――レイからそう聞いてはいたけれど、まさかミシェルと
ベティがそれに参加してるなんて!
昨日ふたりと電話で話したばかりだったのに。さては彼女を驚かそうと秘密にしていたらしい。


「初めまして、レイ。僕はミシェル。よろしくね」
「はじめまして、ミシェル!ママを "へんしん" させたひとだね?」
「ハーイ!また会えたわね、レイ。元気にしてた?」
「うん!君こそげんき?ベティ」

リヴィング・ルームに移動したクルーの邪魔をしないよう、ラムカたちはダイニング・ルームで彼らの様子を
覗き見するように時を過ごしていた。
レイと初めて会ったミシェルは早速彼に懐かれ、メイク道具に興味津々のレイを膝の上に載せながら、
レイの手にした道具の説明をしている。
レイは大きなフェイスブラシを頬にくるくる、と滑らせたり、ビューラーで遊んでみたり、くるくると細かくねじったミシェルの髪の毛を更にねじってみたり。
それを見て笑いながらラムカとベティが立ったままお喋りをしていると、そのうちに飽きたのか、レイがミシェルの膝を降りた。

「ママのところへ行ってくる!」
「邪魔しちゃダメよ、レイ!」
「うん、わかってるー」

リヴィング・ルームのほうへ駆け出すレイを見送ると、入れ替わりのように「Hi , guys ! 」とリヴィング・ルームのほうから声が聞こえた。ショーンの声だ。
思わず、ラムカは友人達の前で、身構えるように背筋を伸ばした。
ダイニング・ルームに入って来た彼に、ラムカを除く二人の視線が一気に向う。
あれ?この間の酔っ払いの男?―――ラムカから聞いていた "ショーン " と先日バーで見かけた "ショーン " が
同一人物だった偶然に、ミシェルは思わずあっと声を出しそうになった。
どう挨拶しようかと一瞬思案した彼に、むくむく、と悪戯心が湧き上がった瞬間だ。

「Oh」

Hi , guys と言いかけるショーンに、ベティが早速右手を差し出した。

「Hi , ベティよ。あなたがショーンね?よろしく」
「Hi , よろしく、ベティ」
「ラムカからいつもあなたのこと聞い――痛っ!」
「――ショーン、こちらミシェル。ミシェル、こちらショーン」

わき腹を突付かれたベティがちょっと!という顔をするのを無視して、ラムカがミシェルをショーンに紹介すると、
ミシェルはゆっくりと優雅な物腰で椅子から立ち上がった。

「Hello , gorgeous !* (ハロー、ゴージャス!) ミシェルよ。ラムカとはキスはしたけど、それ以上はなし。
つまり、友達以上恋人未満の仲なの。よろしく」
「・・・よろしく」

「オネエ言葉」で小首をかしげるミシェルにショーンは一瞬面食らったようだが、先日出会った酔っ払いはどうやら
ミシェルを全く憶えていないようだ。
ミシェルがこんなことをするのはもちろんわざとだ。
ラムカが呆れた顔で彼を見たが、彼は意に介せず、どう?と言わんばかりに眉をくい、と上げた。
ベティは笑いを堪えて肩を震わせている。
女友達の前にしつこく誘う男が現れた時、彼は彼女たちのためにキスをしたり恋人の振りをしたりして男を追い払うことがあるのだが、逆に誤解を解くために、ゲイだと解らせようと今みたいにそれらしく振舞うこともある。
それとは別に、ストレートのいい男を前にした時に、からかうようにこうやって反応を楽しむこともある(彼によると、時々バイ・セクシュアルが混じっていることもあるので、決して無駄にはならないそうだ)。
さて、彼が今「オネエ言葉」を使ったのは一体どの理由からか。
いずれにせよ、ラムカがうんざりとした顔でいるのは、ベティとミシェルがふたりとも、わざとらしくうっとりとした顔で
ショーンを見つめて彼を困らせているからだった。

「・・・あー・・・じゃあ、仕事があるんで・・・」

そう言って彼がキッチンに逃げて行くと、早速ベティがラムカを捕まえて小声で耳打ちした。

「Oh my gosh !! He's sooooo―― hot !! 」
「・・・あっそ」
「ふーっ!」

息を吐きながら手のひらでベティが顔を扇ぐ。いちいちわざとらしいんだから。
ああ、と呆れて天井を見上げた彼女がベティとミシェルのほうに視線を戻すと、二人してにやにやしながら
目配せをし合っている。

「Wha ? (何よ)」
「あー、何だか喉が渇いちゃったー。ね?ミシェル」
「Yeah , そうだ、マサラ・チャイ*なんか欲しいとこだねー」

ミシェルにウィンクされて嫌だと言える人間がいるだろうか。何と言っても彼は大天使なのだし。

「・・・仰せの通りに、大天使様」



コンコン、とキッチンの入り口の壁を叩くと、その音にショーンが振り返った。

「入っていい?」
「? もちろん。何で訊くのさ」
「あなたの聖域に邪魔をしに来たから」
「聖域?」

軽く笑う彼につられて彼女も軽い笑みを返す。

「本当に邪魔をしに来たんだけど、いいの?」
「どういうこと?」
「ここにあるスパイス全部、見せてくれない?」


野菜の下処理をする彼の横で、彼女が小さい鍋に紅茶を煮出し始める。
シナモンやクローブや何かの良い匂いが漂い始めていた。

「・・・友達以上恋人未満の彼のため?」
「え?」

ああ、と彼女が彼のその言葉に呆れたように笑う。

「さっきはごめんなさい、友達があなたをからかったりして」
「あれってからかってたの?てっきり・・・」
「?」
「・・・」
「Wha ? (何よ)」
「・・・Nothing (別に)」

そこで会話はあえなく終了した。


あれから二週間。相変わらずこんな調子で、ふたりの会話ときたら何の進歩もなく、依然ギクシャクとしたままだ。
ラムカの笑顔と、ありがとうやごめんなさい、といった素直な言葉は増えたようだったが、そこから長い会話に
発展することはなかった。
口を開けば喧嘩になりそうな気がして、互いにそれを回避するために会話自体を避けている、そんな感じの毎日だ。

けれどその日はいつもと少し違う展開を見せ始めようとしていた。
スパイスの香りが心までも開かせるのかもしれない。

「・・・んー、いい匂いだ。気がそっちに行っちゃうよ」
「飲む?結構甘いけど」
「Yeah , thanks 」

ティーストレーナーで茶葉やミルクの膜を漉して、インド風にグラスに注いだチャイを彼に差し出す。
ふわり、と香るスパイスが彼の鼻腔を優しく刺激した。

「Oh , too sweet ! (甘すぎ!)」
「言ったでしょ?」
「あー、でも美味い!」
「本当?」
「Yeah」
「マサラ・チャイは絶対に甘い方が美味しいの。そうしないとお茶がミルクに負けてしまうから、
ぼんやりとした味になっちゃう」
「なるほど」
「どうしても甘いのが嫌なら、ミルクなしで飲んでも美味しいのよ。これも本当はもっとスパイスが効いてるんだけどね。カルダモンがなかったから、香りが弱くて残念」

そう言ってマグカップを二つ手に持ち、彼女がキッチンを出て行く。鍋を覗くと、彼女の分が残されていなかった。
どうやら自分がそれを奪ってしまったらしい。
甘いものは苦手な彼だったが、これはいける、そう思った。

飲み干してしまうかしまわないかのうちに彼女が戻ってきて、今度は大きな鍋を取り出した。
リヴィング・ルームで取材をしているクルーやキャサリン親子、メアリーの分までもう一度マサラ・チャイを淹れるのだと言う。
普段自分で料理をしていると判る手付きだった。たとえそれが料理でなくチャイを淹れる、というだけでも、一連の動作を横目で見ていればそれ位のことは判る。
セントラル・パークで言い争ってしまった時、半分冗談で「美味いカレーを食わしてくれ」と彼女に言ったことがあったが、ふっと、本当に食べてみたい、とそう思った。
ただしそれはあくまでも、インド料理という彼のレパートリーにはない領域に対する興味からであって、「彼女の手料理が食べたい」という理由からではない。
だがそれを口にする勇気はない。この間そう言うと「絶対に嫌です」と返事が返ってきたし、純粋に料理に対する興味だけだ、と言い訳するのも何だか失礼な気もする。
ごちゃごちゃと頭の中で勝手に言い訳がましいことをこねくり回している間に、出来上がったマサラ・チャイをトレーに載せて彼女がキッチンを出て行く。


ラムカと入れ替わりに、ミシェルが空いたマグカップを手にキッチンへ入って来た。

「Hi 」
「? 」
「さっきはごめん、からかったりして」
「? ああ、いいんだ。面白かったよ」

そうショーンが笑うのにつられ、ミシェルの顔にも笑みが浮かぶ。
まさかここであの日の彼に出会うとは思いもしなかった。ここのところミシェルの心を蝕んでいる男のことを、
嫌が上でも思い出してしまう。

「・・・ミゲルと・・・知り合いなんだね」

彼はつい我慢出来なくて、そう訊いてしまった。

「? ミゲル? ミゲルって・・・あのミゲル?」
「きっとそのミゲル。ラスト・ネームは知らない。この間、ウエスト・ヴィレッジのバーで会ったこと、憶えてない?」
「? いつのこと?」
「二週間くらい前。君はかなり酔ってて、セクシーなブルネットの女性と一緒だった」

ああ、と漸く腑に落ちた。レイチェル、いや、レベッカと会った夜のことか。

「あー・・・・残念ながら何ひとつ憶えてなくてね。とんだ失態を犯してなかったかな」
「さあ。直ぐに店を出たから・・・So , あの後ブルネットの美女とは?上手く行った?」
「ああ、それについては訊かないでくれ。飲みすぎ、酩酊、記憶喪失・・・君にも解るだろ?」

ああ、なるほど、と身に憶えのある顔でミシェルが頷きながら笑っているとラムカがキッチンに戻って来て、怪訝な顔で彼らふたりを交互に見ていた。

「楽しそうね」
「ラムカ、ハニー、美味しいマサラ・チャイをありがとう」
「Umm ・・・」

ミシェルがラムカをぎゅうっとハグし、まるで恋人にそうするように頬や髪に甘いキスをして出て行く。
別に特別なことでもなんでもなく、彼らにとっては日常のスキンシップだが、どうやらショーンの目には
奇異なものに映ったらしい。

「・・・」
「Wha ? (何よ)」
「・・・Nothing (別に)」

その日2度目の、「何よ」「別に」の応酬。
含みを残したような顔で彼が首を傾げるのが気に入らないけれど、また言い争いに発展するのは嫌だったので、
何も言わずに彼女はチャイの後片付けを始めた。

「・・・マジで美味かった」

予想外の彼の言葉に一瞬言葉が出て来ずに、鍋を洗う彼女の手が止まる。

「・・・そう、ありがとう」
「今度・・・」
「?」
「カルダモンを買っておくよ」

だからまた飲ませて欲しい――彼の言葉にそういうメッセージを感じる。
気に入ってくれたんだ。何だかくすぐったいような気恥ずかしいような妙な気分がしたけど、嬉しかった。

「じゃあ粉じゃなくてホールのものを買ってね」

照れ隠しのようにそう軽く笑う彼女に「Ok , miss Sherry」と彼もつられて軽く笑う。


横に立つ彼の気配が、何となく、以前とは違うように感じられるのは気のせいだろうか。
彼の醸し出すものが以前と違うのか、それとも、そう感じる彼女自身が変わったのか、それとも、
互いに何かが変わったのか。
大した内容ではないけれど、彼とこんなふうに会話を続けたのは久し振りな気がする。
それを素直に嬉しいと感じている自分に、彼女は内心穏やかではなかったけれど、少なくとも言い争いをしているよりはずっと気が軽かった。


そろそろレイを連れてこなきゃ――そう言って彼女がキッチンを出て行く。
その後ろ姿を見送る彼の顔には静かな笑みが浮かんでいた。
ミシェルとの会話を彼女に聞かれなくて良かった、と思う自分に慌てたのは何故だろう。
そう言えば、さっきベティが「彼女からいつもあなたのことを聞いている」と言いかけていた。
彼女は一体、何を話していたんだろう。
考えるまでもないか。どうせろくなことじゃないんだろ? 
少しばかり気に掛かったが、直ぐに彼はふん、と鼻を鳴らすように軽く笑って仕事に戻った。



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Magnet 21.「 Sex and the " Betty " - セックス・アンド・ザ・"ベティ" (ベティと性事情) - 」



* 冒頭部分がR18仕様に、その後も若干下ネタ系が続きます。
コミカルなシーンではありますが、苦手な方はご注意下さい。



Magnet 21.
「 Sex and the " Betty "  - セックス・アンド・ザ・ " ベティ "  (ベティと性事情) - 」

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チェルシー  8:15 a.m. 

月の美しい夜だった。柔らかな風が窓辺の白いカーテンを揺らし、彼女の身体の上をくすぐるように通り過ぎる。
彼女は裸のままで眠っていた。裸の理由・・・はどうでも良いことだが、とにかく、何故だか彼女は今、裸のままで気持ちよく眠っているところなのだ。
突然暗闇の中から男が現れ、ベッドの彼女に圧し掛かる。男は彼女をベッドに磔にしたかと思うと、甘く乱暴に彼女の唇を貪り始めた。
やがて唇から首すじへ、そして胸元へと男の唇が滑り落ちていく。

" あ・・・ "
思わず漏れる甘い声。彼女の全身を這う男の唇がやがて一番敏感な場所へ辿り着き、彼女は大きな声を上げて身体を仰け反らせた。
" いや、やめて・・・あっ! "
どうしてこんなことをするの? あなたは一体誰?
" 誰なの? やめ・・・・"
抵抗の言葉を吐きながら、その実彼女は身体を仰け反らせ、男の髪を激しくかき乱している。
" ―――っ! "
呆気なく達した彼女の脚の間から、男が満足げに顔を上げた。
" ・・・Oh , Baby , It's you ・・・(あんただったのね、ベイビー) "
その言葉に男はニヤリ、と笑うと、再び彼女に覆い被さって唇を奪った。
" 愛してる、ベティ "
" あたしも愛してる・・・ミシェル・・・ "



・・・・・ミ・・・?



飛び起きようとして足がもつれた彼女はベッドから転がり落ちた。何故ならスウェット・パンツが両の足首に引っ掛かっていたからだ。
God ! ――誰かに見られている訳でもないのに、彼女は恥ずかしさにかーっと耳を熱くしながらそれを上に引き上げた。
どうやら昨夜、自分を慰めている間に(彼女はそれを『ひとり遊び』と呼ぶ)、途中で力尽きて寝てしまったらしい。
それであんな夢を!? だけど何で相手がミシェルなのよっ!不毛すぎる!
たっぷりと睡眠を貪ったので、膀胱がぱんぱんだ。部屋を出た彼女はノックもせずにバスルームの扉を開け、その瞬間、石のように固まった。
目の前に有り得ない程の高い位置から始まる、真ん丸できゅっと引き締まった、カフェ・オ・レ色の美しい双丘を見つけたからだ。
・・・ごくり。

「うわっ!」
「・・・・」
「ちょっとベティ!ちゃんとノックしてよ!」
「・・・・は?」

咄嗟にバスタオルを巻いて下半身を隠したミシェルが非難するようにベティを振り返る。
今度は思いの外厚みのある、まるでギリシャ彫刻のように美しい胸板が彼女の目に飛び込んで来たので、彼女は反射的にモジモジし始めた。

「漏れちゃうー」
「はいはい、僕が出ていけばいいんでしょ」

ミシェルがバスタオルを巻いた姿のまま、バスルームを彼女に譲るために扉を開けた。
共同生活にうんざりする瞬間のひとつでもある。
用を足している間もベティはぼうーっとしていた。
何、あのお尻!男でもないのに、身体のどこかが天を向いておっ立ってしまいそうだ。
いや、きっとどこか勃起してる。間違いなく。 
God ! あたしったらどんだけ欲求不満なのよ! しかも何でミシェル相手に!?
ゲイの男相手に欲情するほど餓えてるのかと思うと、自分が情けなくてしょうがない。

「・・・くっそー・・・」


それからダイニング・ルームでコーヒーを飲みながらぼうっとしていると、無事にシャワーを浴び終えたミシェルが水を飲みにそこへ入って来た。今度こそちゃんと服を着ている。
夢の中の出来事と、その直後に見てしまった彼の裸とが混ざり合い、夢の中での彼の肌の感触を妙にリアルに思い出してしまって、居た堪れない気持ちになってしまった。
だから気まずくてミシェルの顔を見れないでいるのに、彼ときたら呑気な顔をして首から下げたタオルでごしごし、と髪の毛を拭いながらこんなことを言う。

「あ、そうだ。B、ラッセルからあさってならいいよ、って電話があったよ?」
「・・・んー」
「? 聞いてる?」
「・・・は? 明日でしょ?」
「あさってだってば。金曜の夜」
「金曜?解った」
「ネイキッド・ドレス*なんて着て行っちゃ駄目だからね、ベティ。 彼、知的な雰囲気の女性の方が好みだよ?」

ちぇ、見抜かれてたか。

「Oh , それは紹介する相手を間違えたね、ピノトー君」
「Non , non , 予想外のケミストリーを期待してるのさ」
「ね、ホントにあんた一緒に行かないつもり? 今どきブラインド・デート*なんてダサくない?」
「Non , そんなことないでしょ。 それに・・・」
「?」
「僕が一緒だと、うっかり本性が出て猛毒吐いちゃうでしょ? Honey B 」
「What ?」
「わはは・・・」

つられて笑いながらテーブルの上の雑誌をミシェルに投げ付ける。
その瞬間、さっきまでの気まずい思いが吹っ飛んで、少し気が軽くなった。


「そうだ、この間のキャスの取材、載るのは来月号だったよね?」

ミシェルが雑誌を拾いながら言う。

「うん」
「・・・ねえ、ベティ」
「んー?」
「もし・・・」
「?」
「もしも、さ・・・」
「Yeah ? 」
「・・・いや、何でもない」
「Wha ? 」
「ごめん。忘れて」
「? ・・・いいけど」

言いかけといてやっぱり何でもないだなんて、何だかもにょもにょっとするし納得いかなかったけれど、彼女はその思いをコーヒーと一緒にごくん、と飲み込んだ。
彼女だって彼に朝の夢のことはとても言えないわけだし、おあいこ、ってことにしておいた。






ミッドタウン・ノース  3:15 p.m. 

仕事の合間、ふっと顔を上げると、ミシェルの後ろ姿が彼女の目に何度も飛び込んで来る。
今まで何度となく目にしてきた彼の後ろ姿なのに、ついつい今日は彼のお尻にばかり目が行ってしまう。
ベティの視線を意識したわけじゃないだろうけれど、今日の彼はここのところお気に入りの、腰周りのぶかっとしたジョッパーズふうのパンツを穿いていた。だからお尻の形が目立つことはない。
けれど、不本意ながら、彼女の眼にはくっきりと中身が透けて見えてしまっている。同じく、シャツの中身も。
細身だと思っていた彼が、想像以上に筋肉質で男らしい身体つきだったのに驚いた。
随分着やせして見えてるってことよね?あんな細い腰つきであのお尻か。 
・・・あのお尻に・・・あのキースが・・・・・ああ、いかんいかん。仕事中だよ、ミス・クレンツ。
ついつい妙な妄想が湧き、彼女はぶるぶると首を振った。・・・やばい。
ちょうど暇な時間だったし、彼女は気分転換にコーヒーでも飲むことにした。

「エミ、カプチーノ頼むけど、どうする?」
「あ、飲みたい!」
「Ok」

彼女は受話器を取り上げ、外線の短縮ボタンの3番を押そうとして一瞬躊躇い、受話器を置いて直接カフェへと出向くことにした。
ここのところ、どういうわけかポールが余りこちらを向いてくれないので、彼女は電話で注文することが多くなり、時にはこうして直接カフェに出向き、自分でマグカップをサロンに持ち帰ることも多くなった。
本来配達なんてしてくれる店じゃないのに、ポールの好意でそうしてくれていただけなので、スタッフが減ってここのところ忙しそうにしている彼にそれを頼むのは流石に気が引けた。
それに、あの視線の件があったから、ほんの少しの気まずさもあった。何より、ポール自身が彼女を避けるようになってしまったのだ。
最初は単純に忙しさのせいだろうと思ったけれど、どうやらそうでもなさそうだ。
と言うのも、ジェニーとか言う女の子が、ポールとベティが話をするのを憮然とした顔で見ていたり、ポールに頼んだカプチーノを、彼に代わって配達して来ることが増えたからだ。

ベティは以前から何となく彼女・ジェニーが苦手だった。彼女は会えば「ハイ、ベティ!」と笑顔で挨拶してくれるけれど、笑顔の裏に何かを隠し持っているような、そんなふうに思えてならなかったから。
それが何かはさっぱり解らないし、彼女にも上手く説明は出来ないのだけれど。
ただハイスクールの時に苦手だった女の子と何となく顔立ちやタイプが似ているような気がしたから、勝手に苦手意識を抱いてしまっているのかもしれない。
そうだとしたらジェニーには申し訳ないことだけれど、でもやっぱり彼女のベティに対する態度はどこか首を捻りたくなるもので、ついついそんなふうに思ってしまうのだ。


「カプチーノ2つ、1つはエスプレッソを1ショット追加でお願い」
笑顔で接客するジェニーと、彼女の後ろでカプチーノを入れる彼・ポール。
「サンクス、ポール。何だか最近、忙しそうね」
出来たカプチーノを彼から受け取る時に、ベティはそう彼に声をかけた。
「Yeah・・・ごめんよ、ベティ。なかなか配達してあげられなくて」
「Oh , No no no ! いいのよ。忙しいのはいいことじゃない!あたしはどうせ暇だし・・・ははっ」
「・・・」
そこで彼女は、はた、と気が付いた。そうか。ポールがあの日、あんな顔であたしを見ていたのは、これからは今までのようにサービス出来なくなるから申し訳ない、ということだったのね?

・・・こんな具合で、どこまでもおめでたい発想の彼女だった。
ジェニーがジロリ、と睨むように彼女を見ていたことにも気付かずに、トレイにマグカップを2つ乗せると、ベティは颯爽とサロンへと戻って行った。









アッパー・イースト  マディソン街   4:40 p.m. 

先日までまだまだ春は遠いと思っていたら、突然の陽気に汗ばむ一日になった。
彼女は今、アッパーイーストのマディソン街から、自宅近くのオフィスへと帰る途中だ。
とあるセレクト・ショップが彼女のブランド「Louise(ルイーズ)」のアクセサリーを新たに扱ってくれることになったので、顔を出して来たところだ。
母の代のクラシカルなイメージは守りつつ、最近の流行りを意識したカジュアル・ラインを新たに打ち出してからというもの、ここ2年ほどで「Louise」は新興ブランドとして勢いを取り戻しつつあった。
ブランドの若返りの成功、と言えるだろう。
当然、昔ながらの保守的な顧客からは一部反発もあった。ここのところ主流になっているファスト・ファッション*に迎合するようで、ブランドの価値が下がった、とまで言う客も居た。
勿論彼女にそんなつもりはない。今後も彼女が良いと思うものを送り出していくだけだ。

オフィスまでの道のりを散歩がてら歩いていると、バッグの中の携帯電話が鳴った。
ディスプレイを見ると、5番街南にある彼女のブランドのショップからだ。
とある客がキャサリン宛に贈り物を届けて来たのだと言う。
ご自宅に届けさせますか?と言う言葉に一瞬躊躇したが、今日のスケジュールは余りタイトなものではなかったので、今からそちらへ取りに行く、と告げて電話を切り、彼女は通りでキャブを拾った。
店に贈り物を届けた、ということは、おそらく顧客の誰かなのだろう。
プライヴェイトな知り合いならば、直接自宅かオフィスに届ける筈だから。
ここのところ少し忙しくて店舗の様子もチェックしていないし、丁度いい機会だと思った。


彼女のブランド・「Louise」は、ロックフェラー・センターの広場の向いにある高級デパートメント、サックス・フィフス・アヴェニューの1階にテナントを構えている。
母の代の頃には五番街に路面店を構えていたが、地価高騰でやむなく今の場所に移転した。
それでも賃料は馬鹿高いが、路面店の経営に必要なコスト(例えばガラスの清掃費用であるとか警備会社への費用など)を考えれば仕方がない。
フィリップがその費用は出すから路面店で続けるようにと言ってくれたが、彼に頼りたくはなかった。
彼の事業の傘下に収まれば、確かにもっと良い状況を望めるだろう。
五番街どころか、パリのシャンゼリゼ通りに店を構えることだってきっと夢ではない。
けれど、自身のセカンド・ネームでもあるこの「Louise」は、例え規模は小さくともリヴィングストン家の誇りでもある。
彼女はそれを自分自身の手で守り、育てて行きたいと強く願っている。

店に到着すると、数人の客がリングやネックレスを試着したり店員と話をしていた。
そのため手の空いた人間が今は居ないようだったが、それは大変に喜ばしいことなので、彼女は経営者らしく、さっとディスプレイや店員の応対をチェックすることに没頭した。
イヤリングを見ていた一人の客が彼女に気付いたので、直接セールス・トークをして、結果、985ドルの売り上げに貢献することになった。
そして店員が彼女に渡した例の贈り物とは、花束と小さな紙袋だった。
中はオフィスに戻ってから見ることにして、彼女はディスプレイで気に掛かった点と褒めるべき点を伝え、店を守る彼女らに激励の言葉を贈り、そしてようやく店を後にした。


オフィスに戻ると、ティナがキャサリンの留守中にあった電話のリストをいつものように彼女に手渡した。
それを見ながら椅子に腰掛け、デスクの上に受け取って来た贈り物を置き、中を確かめるために紙袋を開けた。
テープで口を塞いだ紙袋の中には、さらに小さな布製の袋が入っている。
何の気なしにそれを摘み上げ、中身を取り出そうと口を開いた。
「!」
出てきたのは見覚えのあるカフ・リンク(カフス・ボタン)*。それもペアではなく、片方のみ。
彼女は息を飲んでそれを手のひらに乗せた。
これは確か彼女の母親のエリザベスが数年前、夫のバースデイに贈ったものではなかったか。
メッセージ・カードらしきものが添えられているはず、と彼女は花束と紙袋をごそごそ、と漁った。
カフ・リンクが入っていた布袋に小さな紙切れが入っているのを見つけた彼女は、恐る恐るそれを取り出した。

―――!?

" To P " ―― そこには、たったそれだけの文字が記されている。そしてべったりと添えられた、ピンク色のグロスの跡(キスマーク)。
次の瞬間、彼女は衝動的に花束をダスト・ボックスへと放り込んだ。



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Magnet 22.「 Fighting on friday - 決戦は金曜日 - 」

Magnet 22. 
「 Fighting on friday - 決戦は金曜日 - 」

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ミッドタウン  9:20 p.m. 

いよいよラッセルとのブラインド・デートを迎えた金曜日。
ラムカとミシェルのふたりはベティを送り出した後、バーに移動して共にグラスを傾けていた。
ふたりで酒を飲むのは久し振りのことだ。

「しかし初デート前にあんなにいっぱい、よく食べれるよね」
「彼女、肉食だからね」
「ぷぷっ!」

居なくなったベティを餌にしてげらげら笑い合う。
彼女たちの前で彼はいつもと変わらない様子を醸し出しているつもりだろうけれど、ラムカは彼が食事中から
時折ぼんやりしたり、反対に落ち着かない様子できょろきょろするのに目敏く気付いていた。
まるで誰かを探しているようだったからだ。

「誰を探してるの?」
「うん?」
「さっきからずっときょろきょろしてる」
「そう?」

ラムカは、ふっと笑ってグラスを唇に運ぶミシェルの横顔をちら、と盗み見た。

「・・・ここのところ、何だか妙に色っぽいのよね」
「誰が」
「私の大天使様が」
「Me ? 」

ミシェルが肩をすくめて怪訝な顔をラムカに向けた。

「絶対秘密の恋してる。いい加減白状しなさい」
「何でそうなるのさ。馬鹿馬鹿しい」

ミシェルがこんなつれない返事を返す時は、篭絡するのは難しい。しょうがない。また今度にするか。

「君こそ彼とどうなってるの」
「彼?」
「パレスの料理人」
「何でそうなるわけ?」
「Come On , ラムカ。いい加減素直になろうよ」

ミシェルの反撃に遭い、ラムカはAh ! と息を吐いて天井を見上げた。

「ベティもあんたもしつこいなあ。彼とは何でもないったら」
「ねえ、ラムカ。ハンサムな男に惹かれたからって、後ろめたく感じる必要はないんだよ?」
「どういう意味?」
「君のその 『 ハンサム・アレルギー 』 にも困ったもんだ、って言ってるのさ」
「 『 ハンサム・アレルギー 』 ?」
「そう。自覚、あるでしょ?」

ミシェルが眉をくい、と上げた。

「いくら人格が素晴らしくても、その彼がハンサムな男だと、それだけで彼の全てを否定しようとする」
「!」
「もしもショーンがあそこまでグッド・ルッキング・ガイじゃなかったら、きっととっくに恋に落ちてる。違う?」

むむむ・・・!
ミシェルにそう言われて答えに詰まり、ラムかはぷう、と頬を膨らませた。

「何か今日、意地悪じゃない?」
「そんなことないでしょ」
「そうかなあ」
「ねえ、彼に惹かれてるっていい加減認めたらどうなの」
「Ok , あんたが秘密の恋を白状したらね」
「Yeah ! バーで出会った男と寝たよ。これでいい?」
「ぶっ!」

突然のミシェルのやけっぱちな告白に、ラムカはカクテルを噴き出しそうになった。

「ちょっと!びっくりするじゃない!」

してやったり、という顔でミシェルがにやり、と笑う。

「白状したよ?今度は君が白状する番」
「God ! やっぱり今日のあんた、すんごく意地悪」
「・・・・」
「?」

冗談でそう言ったのに、ミシェルが思いつめたような顔で俯いてしまい、彼女は慌てて彼の顔を覗き込んだ。

「ねえ、今日本当におかしいよ?ミシェル。一体どうしたの?」
「・・・確かに意地悪だよね。 ・・・ごめん・・・」
「?」
「・・・・会いたい人がいるんだ」
「!」
「彼のことばかり考えてる。会いたくて会いたくて・・・でも勇気が出なくて・・・それでここのとこ、苛々してた」
「さっき言ってた人?」
「・・・うん・・・」
「Oh , honey ・・・」

ラムカがミシェルの肩を引き寄せて、そっと腕をさする。

「そんなに辛い思いしてたのね・・・茶化してごめん」
「・・・ううん」
「私に出来ることは?」
「・・・あー・・・・まだベティには黙っててくれる?」
「どうして?」
「彼女も今それどころじゃないし・・・ラッセルと上手くいって欲しいから、今は心配かけたくない」
「解った」
「君にも言うつもりなかったんだよ?それなのに・・・」

してやられたよ――そう言ってミシェルが肩をすくめて苦笑した。

「それはね、意地悪言うからよ」
「ふふ」

ばつが悪そうに笑うミシェルの顔を見て、彼女は大好きな彼のえくぼにキスをした。

「Umm・・・どうしよう。可愛くて食べちゃいたい、このえくぼ」
「はー・・・いつもそうやって君たちは僕をおもちゃにする」
「ふふ」

彼の頬についたグロスを拭い、ラムカが何かを思いついたように瞳を見開いた。

「一緒に行ってあげる」
「Wha ? 」
「その彼のところ。行こう!」
「Oh ! Wait wait wait !」

立ち上がってミシェルの腕を引っ張ろうとするラムカを引き止め、彼は彼女をカウンター・スツールにもう一度座らせた。

「いきなり何言い出すかと思ったら・・・」
「ひとりで会いに行く勇気が出ないんでしょ?だから一緒に行こうって言ってるの」
「・・・・」
「ねえミシェル、こんなところで私相手にうだうだしてたって彼には会えないよ?」
「そりゃそうだけど・・・」
「あんたはね、ごちゃごちゃと色々なことを考えすぎなの!会いたいなら会いに行く!ほら!」
「金曜の夜だし、きっと居ないよ」
「いいから!」

ラムカに手を引っ張られ、彼は渋々カウンター・スツールから立ち上がった。



キャブを拾い、行く先を告げて、流れていく街の景色をラムカと共に見送る。
まるで冒険にでも向うみたいに瞳を輝かせる彼女に苦笑した。
一見するとベティのほうが強引そうだけれど、案外ベティも彼と同じように弱腰な部分を持っている。
何か問題が起きた時、芯が強いな、と思えるのは、実はラムカのほうなのだ。
時折こうやって弱気な彼の尻を引っ叩いては勇気をくれる。
全く・・・自分のこととなると、ちっとも素直じゃないくせに。

「―――彼女をブルックリンのプロスペクト・ハイツまでお願い」
「!?」
「じゃあ、ラムカ」
「ちょ、ま、ミシェル!」

彼女の膝の上に多めに金を置いて、ついでにキャブの中に彼女も置いて、彼はひとり、グリニッジ・ヴィレッジでキャブを降りた。









同じくミッドタウン  9:30 p.m. 

ミシェルが指定したバーで彼女は今、少しだけ緊張しながらカクテルを飲んでいる。
彼の助言に従い、露出の多い服はやめて、一番上のボタンまできっちりと閉めた白いジョーゼットのブラウスに、
去年ミュウミュウで買った赤いハイウエストのタイト・スカートを合わせた。
その代わり、清楚な白いブラウスからは黒いブラが透けて見える、というわけだ。
ドラマの中ではキャリー・ブラッドショー*がピンクのブラを透けさせていたけれど、ここはオーソドックスに黒にしておいた。
グラスの中にはマラスキーノ・チェリー*ではなく、生のチェリーが沈められている。
チェリーが大好きな彼女はそれを摘み上げ、ぱくり、と口に含んだ。

「ベティ?」
「Oh ! 」

突然の声に驚いて種を飲み込んでしまい、彼女はげほげほと咳込みながら席を立った。

「げほっ・・・え、Excuse me ! 」
「No , no , no , 僕こそ驚かせてごめん。大丈夫?」
「げほ・・・Yeah , 大丈夫。 Oh , ベティよ。よろしく」
「ラッセル・チェンバース。よろしく」


ポール・スミスを肌の一部のように軽々と着こなす目の前のラッセルは、ミシェルの言うとおりの、いや、それ以上の男だった。
初対面だということを忘れてしまいそうなほどに弾む会話に、ベティの笑顔は引っ込む暇もない。
なるほど、とびきりの男だ、とミシェルが薦めるだけのことはある。
こんな良い男がどうしてシングル?――そんな疑問が突如湧いた。これはマンハッタンの奇跡じゃないの?
彼女は舞い上がっていた気持ちが急速に不安げなものへと変わるのを感じていた。
だって有り得ない!こんな良い男が恋人もなしだなんて!

「――納得いかない」

突然ベティがそんなことを言い出したので、ラッセルが怪訝な顔をして彼女の瞳を覗き込んだ。

「? 何が?」
「どうしてあなたみたいな素敵な人がブラインド・デートなんか?本当にシングルなら女が放っておかない筈よ?」
「それ、そっくりそのまま君に返したいよ。君こそ何故?」
「・・・ミシェルに聞いたでしょ?」
「いや、彼は何も言わないよ」

そう言えば彼のこともミシェルは特に何も言っていなかった。
先入観を持たずに会ったほうがいいだろ?と言って。

「そう言えば・・・」
「?」
「ミシェルとは?長いの?」
「Yeah , えーと、あれは11か12の頃かな。父の仕事の関係でボストンから転校してきたんだけど、彼と席が
隣になってね。以来、付き合いがずっと続いてる」
「本当?」
「ここだけの話・・・」
「?」
「僕のファースト・キスの相手は彼なんだよ」
「What !? 」

ラッセルが笑いながらグラスの酒を口に運ぶ。

「あ、でも僕は正真正銘のストレートだから安心して」
「ふふ、あたしも女の子同士でキスしたことあるから解るわ。興味本位と言うか・・・」
「興味本位も何も、僕の場合、彼に奪われたんだけどね」
「What !? 」
「僕のことが好きだったらしいよ」
「!」

ぶはっとベティが大声で噴き出すのにつられ、彼も笑いながらその時のいきさつを彼女に話した。
何てこと!ミシェルったら子供の頃好きだった男をあたしに紹介したってわけ?
酒の所為かどうか判らないけれど、彼女は笑いが止まらなくなってしまった。

「あたしも何度か彼とはキスしたわよ。・・・と言っても、しつこい男を追い払うのに恋人の振りして貰ったとか、
挨拶代わりとか、不意打ちの悪戯とか、まあ色々・・・」
「ははは・・・さてはおもちゃにされてるんだな、あいつ」
「まあね。彼は女嫌いだけど、あたしたち女にとって彼は天使だから。ほら、小さい子とか可愛くて堪らないものには
キスしたくなるでしょ? そんなふうにとにかく彼が愛しくて・・・つい、ね」

愛しくて・・・自分のその言葉に、突然ふっと蘇る夢。


" 愛してる、ベティ "
" あたしも愛してる・・・ミシェル・・・ "


おとといの朝に見た夢の中で交わした愛の言葉。 それが蘇った瞬間、彼女の胸がキリリ、と音を立てて軋んだ。

「・・・? どうかしたかい?」
「!」

ラッセルの声にはっと我に返り、彼女は慌てたように顔の上に笑みを貼り付けた。

「でもあなた、優しいのね。普通、ストレートの男がゲイにキスされたら凄く嫌がるでしょ?
それなのに彼との友情を守ったのね」
「あー・・・もちろん戸惑ったよ。まだ子供だったし。でも・・・」
「?」
「彼を失うほうが嫌だったから。彼のことは親友として大好きだったしさ」
「・・・いい話ね」
「でもいまだにくだらない幼稚な軽口ばっかり叩き合ってるよ」
「ふふ、ミシェルもあなたの前じゃ男の子のままでいられるんだ」
「そうかもしれない。幼馴染なんて大概そんなものかもしれないけど」
「Yeah・・・」

彼女の知らない彼を知っているラッセルに対し、何故か強烈な羨望が湧き上がるのを感じる。
いつの間にか彼女は、ミシェルを独り占めしてる気になっていたけれど、彼女の知っている部分なんて、
彼のほんの一部にしか過ぎないのだ。
気が付けば互いのことからミシェルのことばかりが話題に上っている。
彼女は心の中で舌打ちしたい気持ちでいっぱいだ。
どうして最高の男と過ごしているのに、心に浮かぶのはミシェルのことばかりなわけ? 
ミシェルのことを話題にして、そこに逃げようとしてる?
――もしかしてラッセルもそうなの?
そう思いついた瞬間、彼女は心の中で盛大な溜め息を吐いた。





―――「送ってくれてありがとう。今夜はとっても楽しかった」

ミシェルのアパートメントのドアの前で、彼らは今、「初デートのお約束」の時間を迎えていた。
初デートの成功と今後の行く末を決める大切な時間だ。互いに男と女として相手を気に入れば、その証として
おやすみのキスをして(場合によってはそのままベッドインまで行くだろう)、何となく駄目だと思ったら、
友人としてのキスを頬に重ねてそれで終わる。
その場合、「電話するよ」と言って帰った男が本当に電話をかけてくることは殆どないが。
少し緊張した面持ちでベティがラッセルの顔を見上げる。
彼の手のひらが彼女の頬を包み、唇が近付いてきてそっと重なった。

「――待って!」
「!」

突然キスの途中で彼の唇を指先で塞ぎ、ベティが申し訳なさそうな顔で首をゆっくりと横に振った。
どうしてだい?そんな顔で見下ろす彼に、彼女は意を決したような顔を向けた。

「・・・正直に言うわね。このままベッドまで行きたいくらい、あなたのこと気に入ったのは本当よ。
この右手を切り落としてやりたいわ。こんなことしてる自分が信じられない」
「・・・じゃあ何故?」

彼の静かな声にベティが解らない、と再び首を横に振る。

「・・・このまま流されてしまうのは間違ってる気がするの」
「・・・・・」
「正直に言って。あなたも何かが違うって思ってる。そうでしょう?」

ベティの問いかけに、参ったな、と言う顔で彼が苦笑した。
やっぱりね。きっと彼もあたしと同じ気持ちなんだ。彼の表情にベティはそう確信した。

「・・・あたしね、馬鹿な恋人と別れたばかりなの。勿論、彼に未練は全くないの。ただ人恋しくて・・・つまり・・・」
「セックスしたかっただけ?」
「・・・ぶっちゃけて言うと・・・そういうこと」
「なら僕も同じだ」
「!」
「半年前に手痛い失恋をしたんだ。でも・・・なかなか彼女を忘れられなくて」
「!」
「初めて会った女性と寝ることはしない主義だ。でも君とならそうしてもいいって思えたけど・・・」
「・・・けど?」

ラッセルがベティの髪を梳きながら微笑みを向けた。

「ミシェルの時と同じだよ」
「!?」
「とても君が気に入ったよ。だからこんなふうに軽々しい関係になりたくない」
「・・・あたしも。 もし今夜、このままあなたと寝てしまったら、あなたとはそれきりになる気がする」
「・・・それって・・・また会いたい、って思ってくれたってこと?」
「もちろんよ!」
「・・・僕たち、いい友達になれるかな」
「Yeah ! ああ、もっと早く出会いたかった。この数年間、無駄にした気分」
「でも今夜、出会えたじゃない」
「ふふっ、そうね」

唇が重なった時、違う、彼じゃない、そう感じた。
彼は恋人にするなら最高の男なんだろうけれど、『 あたしにとっての最高の男 』 はきっと彼じゃない。
そして彼にとっても。

「ねえ」
「うん?」
「今度ミシェルを誘って一緒に飲もうよ」
「Yeah , 是非そうしよう」
「あたし、本当は毒舌家なの。驚かないでね」
「知ってる」
「What ? 」
「ミシェルが言ってた。 『 口は悪いけどいい子なんだ 』 って」

Ah ! と息を吐いてばつが悪そうに笑うベティにつられ、彼もくすくすと笑っていた。

「僕だって本当はもっと口が悪いんだよ?」
「ふふっ、あたしには勝てっこないわよ」
「じゃあ今度、試してみよう」
「Yeah , ミシェルを餌食にね」

男同士の挨拶みたいに固くハグして、彼らはその日の夜を終わらせた。
ドアを後ろ手に閉め、暫く考え込むようにした後、彼女はミシェルと暮らすこの家を見渡した。

――― 『 ほんとうに大切な人はすぐそばにいる 』 ―――

その時、突然ふっとレイのあの言葉が浮かんだ。
まさか!そんなはずはない。それだけは有り得ない。 彼女は浮かんだレイの言葉を消し去ろうと頭を振った。
彼はまだ帰って来ていなかった。気を利かせてラムカと遅くまで過ごしているのだろう。
すぐにでもラッセルとの素敵な夜を報告したいのに、という思いと、彼が今ここに居なくて良かった、という思いとが
彼女の中でせめぎ合っている。

・・・・あたし・・・・どうしよう・・・

瞬きすることも忘れ、部屋の入り口で彼女は呆然と立ち尽くした。





* → ● 用語説明ページ



Magnet 23.「 The intruder - 侵入者 - 」



* 最後に男性同士の描写があります。R18というわけでもありませんが、念のため。苦手な方、ご注意を。



Magnet 23.
「 The intruder - 侵入者 - 」


stock-magnet23.jpg



金曜日  

アッパー・イースト  1:15 a.m. 

こそり、と扉を開くと、かちゃかちゃ、とキーボードを叩く音だけが薄暗い部屋に響いている。
時折考え込みながらキャスター付きの椅子を左右に振るように身体を動かし、またキーボードに向うことを繰り返す夫。
その後ろ姿を暫くの間、彼女は後ろから眺めていた。
やがて気配を感じたのか、フィリップがドアの方を振り返った。

「・・・眠れないのかい?」

そう優しく声をかける彼に曖昧な笑みを返し、彼女は彼の元に歩み寄ると、ことり、と音を立ててそれを机上に置いた。

「!」
「・・・クローゼットに落ちていたそうよ」
「・・・Oh ・・・」
「隅の方まで転がっていたみたいで、ナディアもずっと気付かなかったんですって」
「・・・」

言いながら夫の膝の上にまたがる。
ありがとう、と言いかけた夫の唇を指先で塞ぎ、彼女は静かな視線を夫に向けた。

「・・・ママがあなたに贈ったものだし、失くした、と正直に言い出せなかったのは解ってるつもりよ。 でも・・・」
「・・・」
「・・・隠し事はやめて、フィル。あなたのことだからきっと、このカフリンクを失くしたことも気に病んでいたでしょうけど、どんなに小さなことでもいいの、あなたの心の負担になっていることがあるのなら私に話して欲しい。
一緒にそれを解決していきたいの。だって私たち、夫婦でしょう?」
「・・・・・・キャス・・・」

夫の低い声に、彼女は覚悟を決めたように唇をぎゅっと固く結んだ。

「・・・・実は・・・・」




宙を舞うカフリンクが窓ガラスに当たり、跳ね返って床に落ちる。
そのカツンという乾いた響きは、彼女の心に入ったひび割れの音かもしれなかった。
今しがた「一緒に解決していきたい」と告げたばかりなのに、あろうことかその思いをやすやすと裏切ろうとするなんて。
目の前の夫に一瞬、激しい憎しみが湧いた。

「・・・本当にごめん・・・この夏は無理でも、必ず何とか時間を作るから・・・」
「・・・いいの。バカンスなんて・・・最初から無理だと思っていたもの」
「キャス――」
「――話してくれてありがとう」

こわばった笑顔で夫の膝を下り、彼女は静かに書斎を後にした。
そしてひとり寝室へ戻ると、再びベッドに横たわり、すぐに瞳をぎゅっと閉じた。
さっさと眠りの中へ逃げ込んでしまいたかったのだ。何もかも忘れて。
そのうちに、つう、と流れ出たものが右の耳の穴をくすぐるのに気付き、彼女はそれを枕に吸わせるために横を向いた。


あくまでもしらを切るつもりなのね。
それが彼女や家庭を守るための彼の選択だと解っている。彼女だって今更詮索するつもりはなかったのだ。
彼が夫婦関係をやり直そうとしてくれている、もう一度私のほうを向いてくれている、それだけで彼を許す気になっていた。
きっと女とは切れている。ここのところの彼の態度が、そう信じさせてくれたからだ。
それなのに、女のほうがあんなふうに挑発してくるなんて考えもつかなかった。一体どういうつもりなのか。
心の中に黒い染みを拡げさせる不気味な影。ぞっとした寒気が彼女を襲った。
何より、自分のことを知っている人間だ、という事実に吐き気がする。知らない相手なら良かった。


彼女はベッドから起き上がり、不気味な感情が黒い影となって渦巻いている寝室を抜け出した。
そうして足早にキッチンへと向い、パントリーの扉を勢いよく開けた。
瓶類を漁り、透明な液体をグラスに少量流し込み、ぐい、と勢い良くそれをあおる。
勢い余って口元から零れ落ちる滴。それを手の甲で拭い、再び透明な液体を勢い良く喉に流し込んでは、げほげほ、とむせることを繰り返した。
冷たい床にぺたりと座り込むと、その感触と視界に入るものたちが、あの夜のことを呼び覚ます。
彼女はぼんやりと床を見つめ、少し前にここで酔い潰れた夜のあれこれを思い出すことに時間を費やし始めた。










グリニッジ・ヴィレッジ  11:30 p.m. 

その夜何度目かのエレヴェイターの音に顔を上げ、そちらの方へと視線を送る。
またしても彼が待ち望む男ではなかった。
エレヴェイターから降りて来た白人の女が、廊下の壁にもたれて座る彼に一瞬ぎょっとした顔をして、彼の前を足早に通り過ぎる。
二つ隣の自分の部屋へそそくさと逃げ込む彼女を、ぼんやりと視界の端っこで見送った。
腕を上げて時計を確認する。もうじき日付が変わろうとしていた。


あの夜から三週間ほどが過ぎた。
ずっと心の中を蝕んでいる男にもう一度、会いたい。
ただそれだけを渇望して手をこまねいている間に、気付けば数週間もの月日が過ぎ去っている。
格好悪くてラムカには言えなかったけれど、何度も仕事の帰りに遠回りをしてはこのアパートメントの前に立ち、
上を見上げ、けれどブザーを押す勇気も出ず、逃げ帰るようにして踵を返すことを繰り返してきた。
ラムカのお節介のおかげでまたここにやって来たはいいけれど、どうせ今夜も何も出来ずに逃げ帰るんだろう。
そう不甲斐ない自分を嘲りながら6階の窓を見上げた時、他の住人と思しき男がエントランスのロックを外そうとするのに遭遇した。
気が付けば男の後を追って身体を滑り込ませ、住人の振りをして建物の中に入り込んでいた。

一夜限りの戯れと割り切ることが出来ない。あんなふうに初めからひとつに溶け合えた相手は初めてだった。
男を思い出す度に胸は疼き、温もりを記憶したままの身体は男を求めて起き上がる。
どれほど男を想いながら自分を慰めたことだろう。
もはやキースのことなど、思い出すことすらもない。あんなにも、彼をまだ愛している、そう思っていたのに。
もう顔もうっすらとしか思い出せない。肌の記憶も今ではすっかり消えてしまった。
今のミシェルには男のことしかない。彼に会いたい。彼を感じたい。
時が過ぎるのにつれ、その思いは狂おしいほどに募るばかりだった。


何度も溜め息を吐きながら、そのまま暫くの間座り込んで男を待っていると、エレヴェイターが到着する音が聞こえたので反射的にそちらに目を向けた。

「んん・・・ふふっ」

――!

キスを交わしながらこちらへ向ってくる男女に愕然とした。
ミシェルの存在に気付いた男が歩みを止め、男の視線を辿った女がミシェルを見てぷっと噴き出した。

「やだ、だあれ?」

男は平然とした顔で、座り込んだまま動けずにいるミシェルの前を通り過ぎ、部屋の鍵を開けた。

「可愛い坊やね。一緒に楽しまない?」
「Don't touch me ! 」

けらけらと笑って彼の頬を撫でる女の手を払い除ける。
Oops ! そう肩をすくめた女がドアの中へ逃げ込み、男がミシェルを振り返る。

「・・・帰るんだ」
「・・・Non (嫌だ)」
「じゃあ耳を塞いでおけ」
「!」

そう言い放ち、男は無情にもドアの向こうへと消えた。




拷問のような時間が暫く続いた。ドアの隙間から微かに漏れ聞こえてくる、甘く腐ったような、女の媚びた声。
反吐が出そうだ。
座り込んだまま髪を掻き毟り、もたれていた壁を拳で殴り、後頭部をがんがんとそこに打ち付ける。
そうやって耳障りな女の声を掻き消した。
iPodか何か持ってくればよかった。あの頃みたいに。

彼は子供の頃、今と同じように外の廊下に座り、ヘッドフォンを耳に当ててポータブルのCDプレイヤーで
音楽を聴きながら、母親の情事が終わるのを待っていた。
母に強要されたわけでは決してなかった。自らそう望んで廊下で時を過ごしていたのだ。
ドアの向こうで繰り広げられる情事を連想しないよう、騒がしいロックばかりを聴きながら。
あの頃と同じこの状況に自分を嘲り笑いたくなる。
何故立ち去ることを選ばないのだろう。彼の言うとおりだ。帰ったほうがよかったに決まってる。
よりによって女とベッドを共にしている男を、どうして―――彼は壁を殴り続けていた。
その手が大事な商売道具であることも忘れて。


暫くの間そうやって自棄になっていると、突然さっきの二つ隣の部屋の女がこそっとドアを開いた。
ミシェルの様子を怪訝な顔で窺っている。彼が壁を叩く音が彼女の部屋まで響いたのだろう。
知ったことか。彼は女から目を背け、壁にもたれるように上を向いた。

「止めなさいよ」
「・・・・」
「あんた通報されるよ」
「・・・・」
「聞いてんの?」
「・・・ほっといてくれ」
「God ! 」

女は廊下に出てミシェルの上着の襟を掴むと、彼を引っ張り上げて自室のドアに引き込んだ。

「何するんだよ!」
「あんたこそ!いい?よく聞いて。ここにはね、困った人種差別主義者が住んでるの。クレイジーな奴よ。
あんたみたいな肌の色の人間がちょっとでも騒ぎ起こしたら "こと " なんだよ。
ここには色んな肌の色の人間が住んでて、みんな色んな事情を抱えてる。だからあたしたちも面倒はごめんなわけ。解った?」
「何もしてないよ!」
「解ってないのね。住民でもない黒人の男が廊下に座り込んで壁を殴ってる。それだけで奴は警察にあんたを
突き出すよ。不法侵入者だってね。実際そうなんでしょ?」
「・・・」
「もしそうなったら6-Cの彼にも迷惑が掛かるわけ。あたしにもね。解ったら大人しく帰るのね」

そう言って女がドアを開けた。

「・・・」
「さあ」

立ち尽くしたままでいるミシェルに業を煮やし、出て行って、と女が仕草で彼を促した時、ミゲルの部屋のドアが開いた。
女に背中を押されて廊下に放り出され、ミゲルの部屋から出てきた女と鉢合わせになる。

「やだ、まだいたの?」

彼の視線に怖気づいたのだろうか。再びOops ! と肩をすくめ、女は彼の前から逃げるように去った。
少し行ったところで女が興味深そうに、ちら、と彼のほうを振り返る。
男の部屋の前で項垂れたままの彼を見て、はあ、と短く息を吐くと、女は戻ってきて男の部屋のブザーを押した。

「開けて。忘れ物しちゃった」

がちゃ、とロックが解かれた音が響き、女がミシェルを振り返る。

「ほら」
「・・・?」
「入らないの?」

早くしなさいよ、とでも言いたげな顔を彼に向け、女は戸惑う彼の背中をドアの中に押し込んで、
がちゃん、とそれを閉めた。
ドアの向こうで女の足音が小さくなっていくのを背中で聞き、彼はゆっくりと男の部屋の中へ足を進めた。
男の纏う香りがそこかしこに漂い、その記憶に彼の胸が再びキリキリと音を立てる。
部屋には男がシャワーを浴びている音だけが響き渡っていた。
視線の先では、もみくちゃになったシーツが彼の胸を抉る。

馬鹿なことをしている。つくづく自分でもそう思う。
彼を女と共有するなんてまっぴらだ。頭ではそう解っているのに、足が言うことを聞いてくれない。
シーツを恨めしげに睨み付け、劣情が大きな欲望に変わっていくのを感じながら、ただ呆然と立ち尽くした。


やがてシャワーの水音が止み、バスタオルで髪を拭きながら、男がミシェルの前に姿を現した。

「!」

彼がそこに立っていることなど予測もしていなかったのだろう。驚きを隠し切れずにミゲルが瞳を見開いた。

「・・・さっきの・・・彼女が入れてくれた」
「・・・・・」

困った奴だ、というふうにミゲルが息を吐く。ミシェルは所在無さげに立ち尽くしていたが、とり合えず手持ち無沙汰な両手を上着のポケットに突っ込んで肩をすくめてみせた。
帰れ。そう言われると思ったのに。
男がもみくちゃになったシーツを引き剥がして床に投げ捨てる様子を、彼はぼんやりと眺めていた。
女との短い情事を終え、男は何事もなかったような顔で日常の続きを始めようとしている。
シーツを引き剥がしたのも、ミシェルのためという訳では決してないだろう。
たとえここに今、彼が居なかったとしても、同じようにシーツを引き剥がして床に投げ捨てたに違いない。
その様子は彼を少し気落ちさせたが、彼は上着を脱いで、当たり前のようにミゲルのベッド・メイクの手助けを始めた。

「・・・・・」

馴れた手付きでベッド・メイクをするミシェルに、戸惑いを含んだ男の視線が貼り付く。
僕は一体何をしているんだろう。自分自身にそう呆れながらも、次第に彼はこの状況を楽しみ始めてもいた。
ミゲルが女と寝たシーツを引っ剥がす様子はまるで、何かの犯罪の証拠隠滅を謀ろうとしているようにも見えたから。
それならば、僕はその共犯者、ということになる。
その思いつきは彼を高揚させた。さっきまでの、自棄を起こしていた自分が嘘みたいに。
君となら罪を犯すことも厭わない。だって僕たちは堕天使なのだから。

「出来た!」

ベッド・メイクを終えたばかりの、ぴん、と張ったシーツに、ミシェルが子供みたいな笑顔でごろん、と無邪気に寝転がる。
証拠隠滅、終了。女の匂いも気配も、これで全て綺麗に消え去った。
彼は満足げにシーツの上をそうっと撫で、ベッドサイドに立ち尽くしたままのミゲルを見上げた。

「・・・ねえ・・・」
「・・・・・」
「まさか・・・女とも寝るなんて、思ってもみなかった・・・」

下から見上げるミゲルの身体。あんなに長いこと渇望していたものが、今は彼の手の届く場所にある。
証拠隠滅は終わっても、最後の仕上げがまだ残ってる。
君の身体から記憶を消してあげる。さっきの女の、いや、僕以外の総ての肌の記憶を。
彼は身体を起こし、欲望を灯した琥珀色の瞳をミゲルへと向けた。




* Read more 以降、男性同士の描写になります。そうたいしたもんじゃないですが、平気な方だけこの先どうぞ。
         ↓       ↓       ↓

Magnet 24.「 Backstage - 小芝居の舞台裏 - 」


* 冒頭が男性同士の描写になります。会話が主であり、決してR18ではありませんが、念のため。
苦手な方、ご注意を。




Magnet 24. 

「 Backstage - 小芝居の舞台裏 - 」


stockx-magnet24.jpg



グリニッジ・ヴィレッジ  1:15 a.m. 


君を知りたい。
身体だけじゃなくてもっと、色々なことを。
例えば君に与えられた名前の総て。例えば君が心を動かされるもの。君が心から大切にしているもの。
君が愛するもの。君が苦手なもの。
君がどんなことに興味を持ち日々を過ごしているのか。君がどんなことに怒りを感じ、どんなことに幸せを感じ、
どんなことに安らぎを求めるのか。
―――君が何故、僕を知っていたのか。

そうっと男の寝顔を見上げる。まるで答えをせがむかのように。
けれど、男の瞳が開かれることはなく、唇がそれを語ることはない。
それでも彼は、満ち足りた思いで、男の腕の中に、いた。
こうして君の傍で眠ることを許されたのは、あの女じゃない。この僕だ。
この厚い胸元に残された赤黒い痕も、この僕が付けたものだ。
彼は満足げにそれを見つめ、もう一度、そこへ柔らかな唇を当てた。

そして男を起さないよう、裸のまま、そっとベッドを抜け出して窓辺に立ち、眠らない街の景色をそこから眺めた。
彼の暮らす町よりも少し賑やかな場所だったからなのか、それとも、昂揚がまだ治まらないのか、
ミゲルのように眠りに落ちることが出来ない。
でもだからこそ、ミゲルの思いのほか柔らかな寝顔や、まだ幾分か濃密さを残した甘い静寂をひとり味わう贅沢を手に出来たのだ。
サイレン、クラクション、通りに響き渡る男女の大きな笑い声。
眠らない都会の夜に付き物のそれらが、ミシェルの意識をふっと現実に引き戻した。

そういえば、ベティはラッセルと上手く行っただろうか。もしかしたら今頃は彼の腕の中かもしれない。
僕と同じように彼の腕の中からこっそり抜け出して、窓の外を眺めてたりして。
その思いつきにくすくす、と笑い、彼は窓に映りこんでいるベッドへと、何の気なしにふっと目を向けた。

「!」

眠っていると思っていた男と、窓ガラス越しに視線がぶつかる。
ごめん、起こした?――そう振り返ると、男は首を横に振った。

「・・・何を笑ってた」

ミゲルが唇の端と片方の眉を軽く上げる。間の抜けた顔を見られてたかな。
彼はばつが悪い思いで、何でもない、そんなふうに肩をすくめてみせた。
軽い笑みを浮かべたまま、ミゲルはずっと彼に視線を注いでいる。
熱が消え去ったはずの身体に再び火が点くような気がして、彼はベッドのほうから再び窓の外へと視線を向けた。
背中越しに、ぎしり、とベッドが軋む音が聞こえる。
夢中になっていた時には気にも留めなかったそれが、今は彼の胸をとくん、と揺らしていた。
何故ならそれは、男が、窓辺に立つミシェルの傍へ行くために立てた音だったから。
窓ガラスに映りこんだ男がゆっくりと近付いてくる。
その気配と甘い期待に、彼の背中の羽がぞわり、と逆立つように揺れた。

「向いのビルから丸見えかな」
「構うもんか」

後ろから廻された腕に手のひらを沿わせ、男の肩にもたれるようにして一緒に窓の外を眺める。
向いのビルや周りの景色から窓ガラスの自分たちに焦点を戻すと、そこにはあの日、
バーでミシェルを熱く見つめていた時と同じ瞳が見えた気がした。

「・・・ねえ」
「・・・ん?」
「さっきの彼女は・・・恋人? まさかね」
「・・・Yeah・・・大昔の女だ」
「!」
「恋人と別れて欲求不満だって言うから、相手してやった」
「・・・他にもいるの?」
「寝る女か?」
「・・・うん」
「・・・訊いてどうする」
「・・・君を・・・女と共有したくない」
「・・・」
「ねえ、解るでしょ」
「・・・彼女だけだ。他の女とは寝ない。今のところはな」


"・・・嫌だよ。他の誰とも寝ないで " ――そう喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
その代わり、振り返り、男の首に腕を廻し、思いのたけを彼の瞳に注いだ。
君を知りたい。君をもっと愛したい。
君を―――僕だけのものにしたい。


「ねえ、教えて」
「・・・?」
「どうして・・・僕を知ってたの?」
「・・・さあ」
「教えてよ」
「・・・君を知っていた・・・ただそれだけじゃ、答えにならないか?」
「ふふ、強情だね」

そう笑って男の唇を撫でると、すぐに指先は剥ぎ取られ、唇を塞がれた。もう何も訊くな。そう言わんばかりに。

「・・・ん・・・」

甘い声を漏らしながら、蠢き始めた男の指先に身を委ねる。




溺れていく。深く、深く、どこまでも。
僕を味わい尽くして。身も心も血も、何もかも総て。
願いが通じたように、男の立てた歯が彼の喉元に突き刺さる。
男の髪をかき乱し、身体を仰け反らせ、彼は恍惚を貪った。

やがて総ての体液を吸い取られ、からからに乾ききった彼は、いつしか意識を手放していた。










ブルックリン  10:05 p.m. 

ミシェルにしてやられた彼女は今、キャブの中で窓の外を眺めてぼんやりとしていた。
ずっと辛い失恋を引き摺っていたミシェルの新しい恋。
その彼の紹介で今夜、とびきりの男だというラッセルと会っているベティ。
ふたりとも手痛い別れを経験しちゃったし、今度は上手くいってくれるといいんだけど。
金曜日なのに、こんな時間に帰るのも少し癪な気もするけれど、なに、また独り寂しくDVD鑑賞会でも開けばいいか。
そんなことを考えているうちに、いつの間にかキャブは彼女の住むプロスペクト・ハイツを走っていた。
いつもの角を曲がったところで、キャブがアパートメントの前に停まる。
キャブを降りて入り口の階段へ向おうとしたところで、道路に停車していた車からクラクションが鳴った。

「!」

音に振り返ると、思いがけない人物が窓から顔を覗かせていた。


「ネヴィル!?」
「お帰り」
「Wha ・・・What are you doing here !? ( ここで何してるの!?)」
「君を待ってたに決まってるだろ?」
「・・・Oh god ! 」
「乗って」
「!」
「ちょっと話がしたいだけだ」
「・・・・・」

はぁ、と呆れたように溜め息を吐いて暫く逡巡したが、結局彼女は昔の恋人に請われるまま、彼の車へと
身体を滑り込ませた。

「・・・・・」
「・・・怒ってる?」
「・・・呆れてるの。 一体どういうつもり?」
「言ったろ?話がしたいだけだって」
「・・・・・」
「少し走っていいかな」
「・・・どうぞお好きに」

彼がゆっくりと車を発信させる。どうして断らなかったんだろう。彼女は今頃になってそう後悔し始めていた。

「・・・綺麗になったね」
「!」

突然彼が前を向いたままで言う。

「彼のせいかな」
「・・・あなたのほうは・・・車を変えたのね」

彼の言葉には何も応えず、彼女は強張った笑みを彼に向けた。

「Yeah , でも車だけじゃない。色々なものが変わったよ」
「・・・そう・・・」

それを聞きたくはなかった。彼の人生をぶち壊してしまったのは、他の誰でもない自分だったから。
突然の風にはためく窓辺のカーテンのように、心が揺れる。
それを隠すように、彼女は窓から見える景色へと顔を向けた。
たった今キャブで通ってきたばかりのブルックリン・ブリッジを、今度はマンハッタンの方へと戻るように走っている。
突然の電話も待ち伏せも、三年前の彼女ならきっと、飛び上がるほどに嬉しかったはずなのに。
何故断らないの? 今更何を話すと言うの? 
昔と同じだ。私ったら何も成長してない。結局はこうして彼の言葉に流されてしまう自分の弱さに嫌気が差した。

「突然ごめん」
「・・・」
「ただ話がしたかったんだ。君を見かけて懐かしかったから」
「・・・」
「懐かしかった? いや、違うね。男と一緒だったから妬けた」
「!」
「そしたら居てもたってもいられなくなった・・・それが本音かな」
「・・・ネヴィル――」
「――でも彼は恋人じゃない」
「!」
「そうだろ?」
「・・・だったらどうだって言うの?」
「僕にもチャンスがあるってことだ」
「! 気は確か!? 自分が何を言ってるか解って――」
「――エレンとは別れた」
「!」

その名を耳にしただけで、今でも心臓に針が突き刺さるみたいに鋭い痛みが走り抜ける。
嫌が上でも思い出してしまう。あの不毛な日々を。


会う時間を作ることさえもままならない関係だったから、会えた時には、一秒でも長くこの人と一緒に居たくて
堪らなかった。
待つ人のいる場所へ帰らなければならないこの人を引き留めたくて、さんざん我が儘を言い、困らせ、
気付けば嫌な女に成り果てていた。
愛していたのか、それとも、ただの執着だったのか。今ではもう、思い出すことも出来ない。
いや、思い出したくもない。

「・・・私のせいなのね」
「いや、違うよラムカ。君と出会った時にはもう、どのみち、彼女と終わるのは明らかだったんだ」
「――停めて!」

見覚えのある通り。そこがノリータだと気づいた瞬間、彼女はハッとしたように声を荒げていた。

「停めて!」
「Oh ! 」

ちょうど赤になりかけた信号を突っ切ろうとしたネヴィルだったが、横から車が飛び出したので
慌ててブレーキペダルを踏んだ。
その隙にラムカはドアを開き、逃げるように車を降りた。

「ラムカ!」
「おあいにくさま!今から彼とデートなんだから邪魔しないで!」
「!?」
「嘘じゃないわよ!約束してたの!忘れてただけなんだから!」

全くとんちんかんなことを言っている。そう気付いたけれど、もう止められそうもない。
それだけ言い捨てると、彼女は走って通りを渡った。
彼が車を乗り捨てて追ってくるのが判る。あのカフェはすぐそこだ。記憶にいまだに鮮明に残る場所。
お願い、彼がいてくれますように!――そう願いながら、彼女はその店に飛び込んだ。


カラカラ、バタン。扉の閉まる大きな音に、店中の客の目が一斉に彼女へと集まる。
その中に、いてくれますように、と願った男の驚いた瞳を瞬時に探し出した彼女は、カウンターにいた彼に駆け寄り、
その腕を掴んだ。

「助けて!ショーン!」
「Oh , Wait wait !  どうしたんだよ!?」
「恋人の振りして!」
「What !? 」
「お願い」

突然のことに眼を丸くしているうちに、扉が開いて、ラムカを追いかけるようにして男が店に入って来た。
ラムカのすがるような目を見たショーンは、立ったままの彼女の手をさっと取ると、自分の首に巻き付けて、
ネヴィルに見えないようにこっそりと彼女に片目を瞑ってみせた。

「笑って」
「え?」
「いいから」

ラムカが慌てて引き攣ったような笑みを浮かべると、待ってたよ、ハニー、そう言って、彼は今まで一度も見せたことのないような、艶やかな視線で彼女を見上げた。
そしてぐいっと彼女を引き寄せたので、彼を抱きしめる形で、彼女は入り口に立ち尽くしたままのネヴィルを
振り返った。
ネヴィルに見せ付けるように、ショーンが彼女の手を取って、絡めた指先に口づける。
彼女は内心ぎょっとしたけれど、早くこの時が過ぎ去ることを祈りながら、仕方なくそのまま彼に身を任せていた。
ふたりの様子を暫く見ていたネヴィルが、やがて諦めたように店を出て行く。
それを見送ると、ラムカは直ぐに彼から身体を離し、ああ、と額に手をやった。

「何だよ、もうお仕舞いかい?」
「はぁ?」
「まあ座りなよ。せっかく来たんだから」
「・・・」

ハニーだのキスだの、やり過ぎよ! そう唇を尖らせながら、彼女が渋々彼の隣に腰を下ろす。
二度と乗らないわよ!――あの時と同じ反応だ。
ショーンはくすくすと笑いながらカウンタースツールをくるりと廻して、彼女のほうへと向き直った。

「何か飲む?」
「・・・」

こくん、と頷く彼女を置いて、彼は忙しそうな友人の店主の代わりにカウンターの中へ入っていくと、
彼女のためにカクテルを作り始めた。

「Here」

彼女の目の前にグラスが差し出される。彼は両手をカウンターに置いて、じっと彼女の瞳を心配そうに見つめている。
その視線に居た堪れなくて、彼女は差し出されたグラスを手に取った。

「・・・ありがとう」

どういたしまして、という顔で、彼が軽く首を傾ける。
隣に戻って来た彼と軽く乾杯し、彼女は彼の作ってくれたカクテルを喉に流し込んだ。
知らず知らずのうちに何度も溜め息を吐いている。それを自覚した時、大丈夫?と彼の静かな声が降り注いだ。
この席で彼から以前、大丈夫?と同じ声が注がれたのは、一体どれくらい前だったかしら。
確かまだ、冬物のコートを着ている時だった。

「ええ・・・本当にごめんなさい、変なこと頼んじゃって」
「いや、光栄ですよ、Miss Sherry (シェリー先生)」
「あー・・・あの・・・」
「?」
「助けてもらっといて言うのも何だけど・・・」
「うん?」
「・・・何も訊かないでくれる?」
「・・・Sure」

ありがとう――そう言って再びカクテルを唇に運ぶラムカを、じっと観察するように見つめる。
ラムカの表情とこの状況に何故だか憶えがある気がして、そんな筈はない、と自分に言い聞かせ、
彼は彼女から視線を外して前を向いた。
少しだけ、とくん、と心が揺れた気がしたのはきっと、ほんの数時間前、仕事場で一緒だった時よりも、彼女の睫毛が長く黒々と艶めいて見えるのと、唇に残ったカクテルが、彼女のふくよかな唇を濡らしていたから。
何も訊かないで。彼女はそう言うが、本当のことを言えば、さっきの男とのことが気にかかって仕方がない。
突然現れて、あんな芝居をさせられたのだ。気にならない方がどうかしてる。
男は彼女よりもだいぶ歳上に見えた。仕立ての良さそうな服を着て、いい靴を履いていた。
ひと目でリッチな層だと判る風貌の男だ。
一体どういう関係なのか。普通に考えれば、恋人、ということになるのだろうか。
恋人――浮かんだ言葉に心がざわり、と音を立てる。それを掻き消すように、彼は言葉を探して考えを巡らせた。

「・・・So・・・」

よくここにいるって判ったね――彼女にそう言いかけた時、彼の携帯電話がメールの着信を告げる音を鳴らした。
彼はそれを見ようとはしない。そのことが、女からのメッセージなのだと彼女に直感させたのだが。

「行けば?」
「ん?」
「誰かが呼んでるんでしょ」
「さあ・・・」
「私なら大丈夫。これを飲んだら適当に帰るから」

またネヴィルが家の前で待っていたらどうしよう――本心ではそう思って不安で仕方がなかったが、
彼女は虚勢を張って彼に笑みを向けた。
彼女の言葉を否定も肯定もせず、彼は軽い笑みを浮かべたままだ。
そんな彼から視線を外し、彼女はカウンターの向こうへと顔を向けた。
ネヴィルを追い払うための芝居に付き合ってくれた彼の、あの艶かしい視線を思い出してしまったからだ。
不可抗力とは言え、私ったら彼を胸に抱きしめてしまった。
とたんに、彼が口付けを落とした指先が熱く痺れ始めた気がして、彼女はその手を膝の上に置いて、
ぎゅっと拳を握った。


その時、再びドアがバタン、と閉じる音がして、はっとしたようにラムカがそちらへと目を向けた。
良かった。ネヴィルじゃない。入って来たのは女だった。

「・・・ " Shi " ・・・」

遅れてそちらの方へ目を向けたショーンから小さく漏れる息。 " Shit " という悪態なのは明らかだ。
ショーンに気付いた女が、Oh ! と大げさな声をあげて彼のもとへと歩いて来る。

「Hi , ショーン! 」
「・・・Hi , レベッカ」

挨拶のキスを頬に重ねると、レベッカというその女は無遠慮に彼の頬に手を滑らせた。

「あんもう、ここじゃあんたを押し倒せないじゃない」
「!」
「レベッカ――」
「――言ったでしょ?今度会ったら押し倒してやるって!ははっ!」
「あー・・・」
「冗談よ」

レベッカという女がラムカに向かって笑いながら肩をすくめる。邪魔をしてごめんなさい、そう付け加えて。
珍しいものでも見るような彼女の目つきに、ラムカは普段彼がどういう種類の女と過ごしているのかを
教えられた気がした。
つまり、私みたいなタイプと並んで酒を飲んでるなんて、きっと本来の彼には有り得ないことなんだろう。

「Hi , guys!待った?」

レベッカが奥のテーブル席にいた数人のグループのもとへと去って行く。
彼ときたら、平然としたふうを装っているけれど、動揺を隠しているのはありありだ。馬鹿みたい。

「・・・Wha ?」
「・・・別に。随分とワイルドな " お友達 " を持ってるなと思って。ただそれだけ」
「・・・ " お友達 "ね」
「相手が私だったからからいいけど、もし本当のデートだったら最悪ね」
「・・・ふーん・・・妬いてくれたとは光栄だね」
「・・・はぁ!?」

抗議の目にふっと軽く笑って彼は椅子を廻し、再び彼女の方へと向き直った。

「何でそうなるのよ。馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿とはご挨拶だね」

また諍いを起こしそうな雰囲気になりかけたが、会話はそれ以上、怪しい方へとは流れて行かなかった。
いつもなら真向から向かって来るくせに、馬鹿馬鹿しい、と言った彼女の表情は、どこかばつが悪そうな、
気恥ずかしそうなふうにも見えた。
" もしもショーンがグッド・ルッキング・ガイじゃなかったら、きっととっくに恋に落ちてる "
――彼女がさっきミシェルから言われた言葉を思い出してしまったことなど、彼が知る由もなかったのだが。

「・・・行かなくていいの?」
「何で」
「誰か待ってるんでしょ?」
「いや」
「・・・・・」
「・・・送って行くよ」
「!」
「さっきの彼が待ってたら困るだろ?」
「・・・・でも、飲んでるじゃない」
「ああ、これ?酒じゃないよ」
「?」
「手伝いに来た時は飲まない」
「手伝い?」
「Yeah , 時々ね。君が来るちょっと前までバーテンダーやってた。肉も焼いたけど」

手伝う代わりに時々ただで飲ませて貰うんだ。そう軽く笑って、彼がカウンターの向こうを指差した。

「トム一人で大変だからさ。俺も暇潰しにちょうどいいし」

またあの恐ろしいバイクに乗るのだろうか。
彼女はぎょっとしたけれど、彼の言うとおり、ネヴィルが待っているのはもっと怖い。
それで彼女は、彼の申し出に素直に甘えることにした。



「トム、ちょっと出てくる」

彼の言葉を誤解した店主がにやり、と笑うので彼女はほとほと困ってしまったが、違う、と弁解するのも
彼の仕事の邪魔をしそうだったので、黙ってショーンと一緒に店を出た。
二度目のバイクの乗り心地は、というと、やはり楽しむ余裕は出なかったけれど、一度目のような恐怖感は
余り感じない。
それどころか、夜風に吹かれてブルックリン・ブリッジの上を走るのは、爽快な気分ですらある。
風とひとつになる感覚―――ショーンが言っていた言葉を、何となくだけれど、少しだけ体感出来た気がした。

やがてバイクは彼女の住む町に差し掛かり、あっという間に彼女のアパートメントの前に到着した。
彼の肩に手をかけて身体を支え、彼女がバイクを降りる。ヘルメットを外し、乱れた髪をかき上げる彼女の顔には、
軽い笑みさえ浮かんでいた。

「彼、居ないみたい」
「そう。良かった」

あたりをきょろきょろと窺い、ホッとした顔で彼女がヘルメットを彼に渡す。

「ショーン」
「うん?」
「・・・ありがとう」

どういたしまして。そういう顔で彼が首を軽く傾げる。
そう言えば彼は、ありがとう、と言うと、いつもこんな表情を返してくる。
そう気付いた彼女だったが、ショーンのその表情を好ましく感じていることまで気が付いているだろうか。

「・・・じゃあ・・・気をつけて」
「ああ・・・・・・Oh , シェリー!」

背を向けた彼女が、再び彼を振り返る。

「?」
「・・・・・ああ、いや、何でもない」
「?」

肩をすくめ、じゃ、と再び彼女が彼に背を向ける。
彼女の姿が見えなくなり、やがて2階の窓に灯りがともる。それを見届け、彼は再びバイクのエンジンをかけた。




―――何を言おうとしたんだろう―――

同じ思いを胸に、互いの夜が終わろうとしていた。
ブルックリンのプロスペクト・ハイツにある、とあるアパートメントのとある部屋から灯りが消えた頃、
マンハッタンのノリータにある、とあるカフェの灯りが落とされた。
店主に別れを告げ、バイクに跨った男が、ようやく思い出したように携帯電話のメッセージを開く。
" 今夜、どう? " ―――イネスという女からの短いメッセージを消し、彼はゆっくりとバイクを発進させた。
女の住む町ではなく、彼自身の住む、ウエスト・ヴィレッジのアパートメントへ向って。





Magnet 25.「 Temptation of a "Big Apple"pie -アップル・パイの誘惑-」


Magnet 25.

「 Temptation of a " Big Apple " pie  - アップル・パイの誘惑 - 」



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ブルックリン   1:30 a.m. 



見上げた夜空には舟のような形をした三日月が浮かんでいた。弟のアイシュが、大人になった今も毎日少しずつ、月の端っこを齧っているのかもしれない。
三日月よりも大きいから正確にはそう呼ばないのだろうけれど、それはいつか見たあの夜空を思い起こさせ、彼女の心にまた、ちくり、とした痛みを呼び覚ました。
相変わらず、そのちくりとした痛みの理由は分からない。何故だか泣きたいような、少し悲しい気持ちになってしまうのだ。
そして彼女を眠れなくさせているのはそれだけではなかった。じんじんと痛いほど、いまだに指先に残る熱。彼の手の温もりも、唇の感触も、まだそこに残っている。彼女を見上げた艶かしい瞳も。
またしてもそれを思い出してしまった。その度に胸のどこかがじりじりと焦げつくようで落ち着かない。
風邪で熱が出た時みたいに、宙にふわふわと浮かび上がってしまいそうだ。彼女はそれらを振り払うように何度目かの寝返りをうった。
心なしか、少し汗ばんでもいる。そろそろブランケットだけで寝るようにしたほうがいいかも。
そんなことを思いながら、ベッドサイドの小さなチェストの上に置いた携帯電話を取って、時間を確認した。
もうこんな時間になってしまった。そう思い、チェストの上に電話を戻すと同時に着信音が鳴った。
こんな時間に誰だろう。携帯電話の方は番号を変えたから、まさかネヴィルじゃないだろうけど。
彼女はもう一度それを手に取ると、恐る恐るディスプレイを確認した。

・・・!
咄嗟にがばっと起き上がり、彼女は慌てて携帯電話を耳に当てた。

「――ベティ?」
「・・・Hi 」
「Hi !」
「ごめん、寝てた?」
「No、起きてたよ」
「・・・・ミシェル、まだ一緒にいるの?」
「あー・・・No , もう別れた」
「・・・そっか・・・」
「どうかしたの!?」
「眠れなくてさ」
「私も・・・Oh , No no no , そういうことじゃなくて・・・」
「・・・Yeah ・・・」
やっぱりデートは失敗だったのかしら。そう思わせるような、ベティらしくない沈んだ声だった。
「Oh・・・Honey、元気出して。きっとまた素敵な人に出会える――」
「―― No no no ! 凄く素敵な夜だったの。最高だったよ」
「ほんと!?」
「うん。とっても素敵な人だった」
「Oh ! じゃあ・・・」
「でも・・・」
「?」
「いい男すぎて・・・何て言うか・・・・」
「??」
「いい友達になりたい、って立候補して別れてきたよ」
「!? 何よ、それ」
「うーん・・・・上手く説明できないよ」
「OK、そうだ、明日の夜会おうよ。ミシェ・・・・」
ミシェルも、と言いかけて彼女は口をつぐんだ。そっか!帰って来てないってことは、ミシェルったら例の彼と上手くいったんだ!
思わず喜びの声を上げそうになり、彼女はハッとしたように気持ちを引き締めた。
そうだった、ベティにはまだ内緒にしなきゃいけないんだったっけ。

「――OK , じゃあ明日ね」
簡単な約束をして電話を切り、ふーっと息を吐いてそれをチェストの上に戻すと、部屋の隅に置いた小さな猫用のベッドから、そろり、と抜け出したデーヴィーが部屋を出て行った。
それをちら、と見送り、暫くの間彼女はベッドの上で身を起こしたまま、あれこれと考えを巡らせていた。
ベティの報告を早く聞きたい。ミシェルの報告も早く聞きたい。でも・・・私の報告は?すべきなんだろうか。
ネヴィルの待ち伏せ、ショーンとの小芝居・・・どちらももの凄く疲れた出来事だった気がする。
はぁ・・・・――大きく息を吐き、彼女はもう一度携帯電話のディスプレイで時間を確認した。
とても眠れそうにない。起きてまた何か映画でも観ようか、それとも本でも読もうか、それとも・・・・・
彼女はベッドから抜け出して、とりあえずキッチンに行くと、冷蔵庫を開けた。
そして、冷やしておいたミルクなしのチャイをグラスに少しばかり注ぎ、こくこく、と喉を鳴らした。
ふっと目を遣った小さなテーブルの上には、2、3日前に買ってきたリンゴが幾つか入った、深さのあまりない木製の平たいボウルが置かれている。
それは木をくり抜いて作られたもので、母親がインドから持ってきた古いものだ。そこに載せたフルーツがことさら美味しそうに見える、と言って母がそうしていたように、彼女もそこにフルーツを欠かさないようにしている。
そこからリンゴをひとつ手に取り、裏側の窪みに鼻先を当てて香りを嗅いだ。食べ頃を迎えた、甘酸っぱい澄んだ香り。心が安らぐようで、ほうっと息を吐いた。
同時にまたしても、ちくり、とした痛みも甦ったけれど。香りの記憶は、いつでも思い出と直結してしまうから。
マー(ママ)とはよく一緒にリンゴのお菓子を作った。パイやタルト、マフィンやケーキ。
うっかり切らしたシナモンの代わりにマサラを試したら、弟がパイを吐き出してしまったこと、サモサ*の中身をリンゴにしたものが、近所で「インド風アップルパイ」と評判になったこと。
彼女の脳裏を駆け巡るそれらの思い出が消えるか消えないかのうちに、彼女は気付けば戸棚から小麦粉やボウルを取り出していた。
こんな時間からお菓子を焼くなんて馬鹿げてる、とも思ったけれど、どうせ眠れないのだし、何かをしていたかったのだ。
出来るだけ大きい音を立てないように注意しながら、久し振りの「インド風アップルパイ」をたくさん焼いた。
必ず一緒に入れていたクルミがなかったので、代わりに朝食用のシリアルを少し入れてみたりもした。
たくさんのパイを焼き、へとへとになってソファーにぱたり、と転がったのは、明け方近くになった頃だった。
数時間後、お腹を空かせたデーヴィーに起こされ、テーブルの上を埋め尽くすパイに、こんなにたくさん、一体どうするの!?と呆然とすることになるのだが、
今のところ、彼女は作り終えた満足感に包まれて、ぐっすりと眠りを貪っているのだった。











翌日・土曜日  アッパー・イースト   3:15 p.m. 


通りでふざける甥っ子ふたりをドアマンのジェンキンス氏に委ね、彼はひとり、ドアを開いてエレヴェイターへと向かった。
姉のケイトが持って来た、たくさんのミートパイを、クリフォード家へ届けに来たところだ。姉ときたら毎回考えなしにたくさん持って来るので、その度に彼は処分に困っていた。
何しろ高カロリーなミートパイを喜ぶような知り合いなど、ここマンハッタンには殆ど居ないからだ。
出迎えてくれたのがナディアだったことに少しホッとしながら、ついでに昨日置き忘れてしまったiPodを取りにキッチンに行くと、テーブルの上に何やら三角系のドーナッツのようなものが入った籠が置かれている。
一瞬、チャイニーズ・レストランで食べたことのあるあれか、とも思ったし、インド料理屋で食べたサモサっぽくも見えた。
ナディアによれば、それはさっきシェリーが持って来たもので、どうやらサモサ風のアップルパイらしかった。
何だ、彼女も同じようなことをしていたのか。ふっと笑って、そのうちのひとつを手に取り、ふーん、と眺めてみる。
サモサ風のアップルパイだって?甘いものは苦手な彼だが、その響きとこの形状は、料理人である彼の興味を惹いた。
そのうちの幾つかをワックスペーパーに包んで、パントリーに置いてあった、どこかのスウィーツショップの紙袋に放り込み、彼はクリフォード家を後にした。



それから暫くして、用事を済ませた姉のケイトがセントラル・パークまでやって来て、彼らに合流した。
ショーンと姉のケイトはベンチに腰掛けて、他の子供達と一緒になって芝生の上でボール遊びをする、クリスとアルを見守っているところだ。
姉は疲れているようにも見えるが、充実した表情にも見える。
シェリーの作ったアップルパイをひと口齧って、美味しいわよ、あんたも食べなさいよ、と差し出す姉に首を振ると、姉のケイトは肩をすくめて子供達の方へ目線を向けた。
「・・・・・で?」
「?  何よ」
「そろそろ白状しなよ。ここんとこしょっちゅう俺に怪獣どもを押し付ける理由をさ」
「・・・・」
「・・・・男、なんだろ?」
「・・・・」
「あいつら、知ってるの?マムには?」
「・・・・」
「・・・・何だ、言えない関係なのか・・・」
「・・・・」
無言でアップルパイを齧り続ける姉が口を動かすのを止め、抗議の視線を弟に向ける。
「今ふひんなふぁ、あっふるふぁいれいっふぁいなの!(今口ん中、アップルパイでいっぱいなの!)」
「Hey ! 飛ばすなよ」
「Oh , sorry 」
「Oh !」
ケイトが笑いながら彼の口の中に食べかけのアップルパイを無理やり突っ込んだ。甘いものが苦手な弟への仕返しのつもりだろう。
「マムのアップルパイが恋しくなったでしょ?」
「・・・・」
「あんた、あれだけは食べてたもんね」
「・・・・」
「たまには帰って来なさいよ、すぐそこなんだからさ」
「話、誤魔化す気?」
「ふふ・・・」
姉に呆れた顔を向けながら、彼は内心、シェリーの作ったアップルパイに心を奪われていた。
フィリングにはリンゴの他にシリアルらしいものが入っていて、そのぶん甘さも食感も軽めなのも彼の気を惹いた。
母親のそれとも姉のそれとも違う、少し不思議なスパイスの香るそれはいかにも彼女らしくて、いつか飲ませてもらったマサラ・チャイと、それを淹れる彼女の姿を思い出させた。
成り行きとは言え、彼女の恋人の振りをして、彼女の胸に抱き締められたのは昨夜のことだったろうか。
抱き締められた、と言うよりは、抱き締めさせた、と言ったほうが正しいのかもしれないが。
昨夜のあの出来事が、もう数日も前のことのように感じられるのは気のせいだろうか。
あれからまだ半日と数時間しか経っていない筈なのに。
一瞬ふっと湧いた感情が彼を焦らせた。何日も会っていない恋人や友人に、急に会いたくて堪らなくなったような、そんな感情だったのだ。

「・・・大丈夫、心配しないで。とても素敵な人よ。まだあの子達にも紹介してないけど、ゆっくり時間をかけたいの」
「・・・それならいいけど」
姉の言葉が彼の意識を目の前の現実に引き戻した。離婚以来、姉が「素敵な人よ」と口にした男は初めてだったからだ。
「で?俺に出来ることは?怪獣どもの相手だけ?」
「今のとこね。あの子達もマンハッタンに来れるのを楽しみにしてるのよ」
「あっそ・・・仕方ないか。どうせ週末は暇だしな」
彼は、ふぁー、と大きくあくびをして、芝生の上ではしゃぐ甥っ子二人に目を向けた。
「・・・ショーン・・・」
「んー?」
顔を姉に戻すと、笑いを収めた姉の視線が彼を待ち受けていた。これは苦言しようとしている時の顔だ。思わず彼は身構えた。
「あんたはどうなのよ。まだふらふら遊び歩いてるの?」
「・・・さあ・・・」
「・・・いつまでそうやって・・・自分を傷つけるような生き方、続けるつもり?」
「・・・・」
ほら来た。彼は姉の言葉にうんざりした顔で息を吐いた。
「ねえ、もういい加減、忘れていいのよ?」
「・・・・」
「あんたは悪くなかったんだから」
「・・・はいはい、解りました」
「ちょっと!真面目に聞きなさいよ」
「――人のことより自分の心配しなよ。あいつらがその男に懐くかどうか判んないんだしさ」
「大丈夫よ。いい人だもの」
「そんな単純なことじゃないだろ?」
「そりゃ単純じゃないわよ。もの凄く大変だと思う。でもね、あたしはあんたみたいにはなっから何もかもを放棄したりしないの。幸せになりたかったら、ある程度は努力しなきゃ」
「・・・・・」
「もう一度、幸せな人生、手にしたいと思わないの?」
「・・・・・そんなもの、一度だって手にしたことなんかないね」
「Oh , Come On ! 」
「俺はハッピーだよ、ケイティ。今の生活に満足してるし、それに・・・」
「・・・?」
「・・・いや・・・」
" そんな努力なんかしたって無駄だしね " ―――彼は喉元まで出掛けた言葉を飲み込み、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。
姉が幸せになろうとしているのを否定する気などなかったからだ。姉には幸せになって欲しい、心からそう願っている。
だが自分は・・・・・・
「・・・まあ、あんたがそれでいいならいいけどさ」
「俺のことはいいよ。それより・・・」
「?」
「頼むから今度からミートパイはやめて、酒にしてくれ」
「はぁ?」
「もう一生分のミートパイ食べ尽くした気がするよ。もういい!」
「何よ、夜中にマムのミートパイ食べたいって泣いたくせに」
「はぁ? 一体いつの話だよ」
「ふふっ、教えなーい」


結局、姉に早めの夕食まで付き合わされ、彼は一日の大半を彼らのために費やした。
姉と甥っ子達を地下鉄の駅まで見送った後、駅の階段を上って通りに出たところに観光バスがやってきて、彼の目の前でぷしゅーっと音を立ててドアが開いた。
鮮やかなブルーのバスのドアーに描かれた、大きな赤いリンゴと「NEW YORK」の文字。
ここNYが「Big Apple」と称されているからなのだが、いつもの彼なら、それを目にする度に思い出すのは、ミッドタウンに出来たガラス張りの巨大なApple Storeだった。
それなのに、今日の彼がすぐさま思い出したのは、あの三角形の形をした不思議な味のアップルパイと、昨夜、彼女の腕の中でふわり、と香った甘い匂い。
昼間、突然湧き上がったあの気持ちがまたそこで甦り、再び彼を落ち着かなくさせた。
どうかしてる。彼女に会いたい、だなんて。
彼はバスのドアの赤いリンゴから視線を外し、そこから逃げるように歩き始めた。
行く宛などなかった。馴染みのバー、深夜までやっている友人のレコードショップ、トムのカフェ、行く場所ならいくらでもあったのに、行きたい場所がどこにもない。
何をしたいのか、何をすべきなのかもまるで分からないまま、ただひたすら足を前に進めて歩いて行く。
気付けばグランド・セントラルからタイムズ・スクエアまで来ていた。色とりどりのネオン、巨大な電光掲示板、真っ直ぐに歩けないほどの人の群れ。
行く宛てもないまま、ブロードウェイ通りを北へ向って歩く。
やがて歩き疲れてきた頃、彼はとあるビルの前で足を停めた。そこにはかつてイタリアン・レストランがあり、駆け出しの頃、彼はその店で一年ほど働いていた。
店はバーへと姿を変えていて、昔の面影は残されていなかったが、懐かしさに思わず顔が綻んだ。
過去を振り返ることも、未来へと思いを馳せることも、どちらも普段の彼の好みではない。どちらからも逃げるように、刹那的な毎日を生きている。
だが、昔の未熟な自分の残像と酒を飲むのも、たまにはいいかもしれない。
少しばかり躊躇らった後、彼はその店の扉を開いて中へと消えた。







Magnet 26.「Sleeping beauty - 眠れるブルックリンの美女-」

Magnet 26.

「Sleeping beauty - 眠れるブルックリンの美女-」



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アッパー・イースト  p.m. 3:30





彼女は昼間、友人でもあるフォトグラファーのジェイクと、同じく友人であるファッション・スタイリスト、イザベルと共に昼食を楽しんだ。
友人たち、とは言え、一応ビジネス・ランチを兼ねていて、冬期カタログの撮影のために二人に仕事をオーダーしていたところだ。
昨夜の夫とのことなどなにひとつ思い出すことなく、彼女はふたりとのやりとりに没頭した。
その後オフィスに戻ると、彼女の帰りを待つ客が居た。モデル・エージェンシーの副社長をしている、友人のアルヴィンだ。
彼にもその冬期カタログ撮影のために、モデルの手配を依頼していたのだが、彼は数人の候補のプロフィール・ブックを持参していたのだった。



「――うーん、ちょっと若すぎるかな」
「そう?」
「あ、こちらの彼女、いいわね。私のイメージしてる感じに近いみたい」
「彼女はエリン。最近人気が出てきたから、決めるなら早くしないと」
「本当?じゃあ・・・この子は? ・・・あら?」
最後の候補の写真を手にした彼女が、添付されたプロフィールに瞳を丸くした。
「アルヴィン、この子・・・」
「Yeah , アン・ピノトーの娘だ。そして君の友人、ミシェル・ピノトーの妹」
「!」 
彼女は驚いて瞳を大きく見開いた。そして、ミシェルと出会ったあの日のことを即座に思い出した。
あの時、彼はアンとは一切何の関わりもない、と言っていたし、自分としても彼女の名を出したのは単なる思い付きだった。別のスタッフが「彼の母親だ」と言い出した時も驚きはしたけれど、結局それは冗談としてあの場は収まったはずだった。
でも、と彼女は今になって思い出す。あの時、頑なに「違う」と主張するミシェルに違和感のようなものを感じたことを。
「彼、違うって言い張ってた。でもね、確かに否定の仕方が尋常じゃなくて、ちょっと引っ掛かってはいたの。 ねえアルヴィン、一体どこでそれを?」
「Well , アン・ピノトーがキャリアを捨てて黒人の男と結婚、引退した、ってことは、業界ではよく知られていた話だからね。
君のパーティーで彼に出会った時、ピノトーの名にもしや、と思って調べてみたんだが、案の定、彼はアンの息子だったってわけさ」
「! じゃあやっぱりそれを隠していたってことよね。 それで、この彼女はどうやって見つけたの?」
「それが偶然、去年パリでスカウトした子だったんだ。ほら、パリ支社の連中と年に数回、あちこちスカウトに出かけてるのは知ってるだろ?
もちろんアンの娘だってことはその時知ったんだけど、君のパーティーの後で彼女に聞いてみて驚いたよ。彼の妹だって言うじゃない」
「Oh my ・・・」
彼女は手にした写真をもう一度まじまじと眺めた。白い肌に明るい真っ直ぐなライトブラウンの髪。ミシェルとは父親が違う、ということか。
兄妹だと言われてもピンと来ないが、もう一枚の笑顔の写真はどことなくミシェルに似ている気もする。
そうか、肌の色で一見判りにくいけれど、彼は顔立ちが母親のそれに似ているのだ。

「彼女、今幾つ?」
「19歳」
「19歳?ふーん・・・写真によって随分雰囲気変わるのね」
「Yeah・・・ああキャス、実はアンの娘だってことはまだ世間には内緒にしているんだ。名前もただの " ソフィー " で活動してる」
「どういうこと?」
「彼女はまだ大きなランウェイ*を経験していない新人だからね。そういう情報はタイミングを見計らって公表しなきゃ、ウォーキングもろくに出来ないうちに、話題ばかりが先行してしまうと思ったものだから」
「そうね・・・ねえ、ミシェルはこのこと、当然知ってるのよね?」
「いや、ソフィーは彼にまだ内緒にしてると言っていた。驚かせたいんだそうだ。彼は妹がパリの大学で真面目に勉学に専念してる、そう信じているらしいよ」
「!」
「キャス、考えたんだが・・・」
「Yeah?」



母娘共演のアイデアはどうだろう?―――アルヴィンが帰った後も、彼のその言葉が彼女の頭の中をぐるぐると何度も巡っていた。確かに、今すぐに飛び付きたいほどの素晴らしいアイデアだと思う。
母から娘へと受け継がれるジュエリー。そういうコンセプトに繋がるし、実際自分も母からこの「Louise(ルイーズ)」を引き継いだのだから、まさにブランドのイメージにぴったりのアイデアではないか。
そして、アンとソフィー母娘のメイクアップをミシェルに担当させ、その様子を「Louise(ルイーズ)」のウェブサイト上で、メイキング映像として公開する、という彼のもう一つの提案にも賛成だった。
アン・ピノトーが数十年ぶりに人前に姿を現す。ゴシップ誌のネタでもなく、パパラッチによるスナップ写真でもなく、愛娘と共にこの「Louise(ルイーズ)」の来季ミューズとして、正式に、公の場に。そのことが世間の注目を集めるのは間違いないだろう。
だが、果たしてミシェルが了承するだろうか。母親のことを隠そうとしていたミシェルを思うと気が咎める。きっと隠したい訳があってそうしているのだろうから。
けれど、このプロジェクトを実行出来れば、間違いなく素晴らしいものになる予感がするのだ。いや、そう確信出来る。この「Louise(ルイーズ)」がアン・ピノトーの復活と、娘のソフィーの本格的なデビューを同時に手がけることが出来るなんて!そう考えただけで、今すぐにでも行動を起こしたくてむずむずする。心なしか、興奮のあまり、少し手のひらが汗ばんでもいる。
ミシェルに話をしよう。とにかく彼に話してみないことには何も始まらない。
彼女は時計を見て時間を確認すると、机の上の電話機に目をやった。そして受話器に手を伸ばそうとした時に偶然鳴った呼び出し音に、少しばかりビクッとしてしまった。
それは第2アシスタントのカレンからの内線電話で、今夜のパーティーについて確認の電話だった。
Oh god ! 彼女はそう小さく呟いた。今夜は夫のフィリップと共に、とある慈善パーティーに顔を出さなくてはならないことを失念していた。

・・・フィル・・・

今の今まで仕事に没頭していたおかげで思い出さずに済んでいた、夫との昨夜のやり取り。
彼女はデスクの横に並べてあるチェストの、真ん中の引き出しを開け、チョコレートが入っているような美しい平箱を取り出した。中にはあの日、女から贈られた花束に添えられていた紙切れが入っている。ピンク色のグロスで作られたキスマークと、" To P "の文字。
いつかこれを夫の目の前に突き付け、追及する日が来るのだ。そう思いながら引き出しにこっそりと仕舞ったあの日。あの時の屈辱的な気持ちを、この先ずっと、忘れることは出来ないだろう。
夫は、こんなくだらない嫌がらせをするようなBitch(クソ女)相手に浮気をしていたのだ。腹立たしさに沸騰しそうになる。
だがある意味、そんな女が相手なのはむしろ、せめてもの救いだと言えないだろうか。
何故ならば、手の届かないような、私など足元にも及ばないほどの完璧な女が相手ではない。そう思えるから。
遠慮なくBitch!と蔑むことが出来る、自分よりも数段格下の女が相手なのに違いないのだ。
そこまで考えて、彼女は苦笑を浮かべた。
馬鹿ね、私ったら。たとえひれ伏してしまうような、女神のような完璧な女が相手だったとしても――いいえ、たとえ女神そのものが相手だったとしても、「Bitch!」と罵り、蔑むに違いないのに。
息を吐いて、視線を少し左に移すと、アルヴィンが置いていった、ソフィーのプロフィールブックが目に入った。
相手の女について今ここで考えを巡らせることは時間の無駄だ、そう自分に言い聞かせ、彼女は先程の箱を再び引き出しに仕舞った。
仕事に没頭することで問題から逃避することが出来る。それは彼女も嫌というほどによく知っていた。今、私は、再びそうする必要があるのだ。
今私がやらなければならないことは、デザイナーのエヴァにEメールを返信すること、会計士のジャスティンに電話をすること、クリーニング店からドレスが配達されたかどうかをナディアに確認すること、それから、ミシェルに電話をして――
いえ、彼に話をするのは週が明けてからにしよう。
そう色々と考えを巡らせると、彼女は仕事に没頭するために、デスクのコンピューター画面へと意識を集中させた。









ミッドタウン・ウエスト  p.m. 10:30


店の中を見渡し、カウンターに幾つかの空席を見つけた彼は、そこへ腰を落ち着けることにした。
バーテンダーにタンカレー*を使ったジン・ライムを頼み、それが出てくるまでの間、バーテンダーの背後に美しく並べられたリキュール類のボトルを眺めてその間をやり過ごす。
重厚な木のカウンター・テーブルや背後の鏡など、今彼が目にしているものは、ここがまだ彼の働いていたレストランだった頃のものがそのまま使われていた。
その時のバーテンダーとは親しくしていて、たくさんのカクテルや酒を教えてもらった。酒だけでなく、女のあしらい方も教わったが。
そんなことをぼんやりと思い出していると、ひとつ空けて隣の席に座る女性と目が合ったので、Hi 、と軽い挨拶を交わした。
目の前にジン・ライムが置かれ、それをひょい、と持ち上げたところで、その彼女が彼に向い、「乾杯」とばかりに自分のグラスを持ち上げて軽く首を傾けた。
今夜は何となく女っ気なしで飲みたい気がして、隣の彼女が少し面倒だとも思えたが、とりあえずそれに応えるように彼女と乾杯した。



「―― ショーン・クーパーね?」
「Oh!」
乾杯の直後のことだった。ジン・ライムに少しばかりむせながら、驚いた彼は彼女へと視線を向ける。
「・・・どこかで会った?」
「ふふ・・・」
ありがちな口説き文句の常套句みたいで陳腐だとは思ったのだが、確かにどこかで見かけたことがある女だと感じたのだ。
過去に寝た女だとしたら厄介だな、と構えたところで、彼女がカウンターチェアをくるり、と廻し、彼のほうへと身体ごと向き直った。
「アマンダ・ウェンブライト。 " Foodiesjournal " のライターよ」
「Oh!君があのアマンダか。容赦ない辛口の批評で、幾つかの店を閉店に追い遣った、って噂の」
「あら、そんな噂は初耳だわ」
しれっとした顔で不敵そうな笑みを浮かべる彼女と軽く握手を交わす。
「Well , そのアマンダ・ウェンブライトが俺なんかを知っていたとは驚きだね」
「そう?まあ確かにあなたは今のところ、ビル・ハーパーみたいな、誰もが知るスター・シェフだとはとても言えないわね。でもこの業界に深く携わる人間なら、誰もがあなたを知ってる」
「Really? ワーストリストじゃなきゃいいけど 」
「ふふ、それは違うわ、安心して。こういうことよ」
「?」
「知ってるかしら?マンハッタンの料理人っていい男揃いなの。その中でもショーン・クーパー、あなたはトップクラスのミスター・ハンサムとして、隠れた有名人ってとこね。それだけじゃない。短期間で名店『 ジジ 』のスー・シェフ*に抜擢された1年後、突然業界から姿を消した謎の男。そして、あのイネス・アルドリーノの歳若い恋人」
「・・・Wow・・・」
「とりあえずはこんなところかしら」
「さすが一流雑誌のライターだ。そう言いたいとこだけどやめておく」
「Ooh、反論ね。 どうぞ遠慮なく」
「Yeah 、まず第一に、料理に顔の良し悪しなんて全く関係ないが、俺なんかよりハンサムな料理人はいくらでもいるし、俺は謎の男でも何でもない、ただのいち料理人だ。そしてこれが一番重要だが、イネス・アルドリーノは恋人なんかじゃない」
「Oh yeah ? 」
あらそう、信じないけど、とでも言いたげに眉を上げる彼女に呆れたように軽く笑い、どうでもいいか、とジン・ライムを再び口に運んだ。
「MPD(ミート・パッキング・ディストリクト)にニュー・レストランがオープンするはずだったのよね」
「・・・ああ・・・」
「あなたがそこに引き抜かれたって噂を聞いて、誰があなたの取材に行くか、女同志揉めたのよ」
「それは光栄だね。 で?君がそのcat fightに勝利したってわけ?」
「もちろん! でも結局、その取材が実現することはなかったけど」
「だろうね」
「残念だったわ。期待していたのに」
「・・・そう。それは俺に会えることを? それとも、ニュー・レストランのオープン?」
「もちろん、両方よ。でもあなたには今、ここで会えた」
Yeah , と軽く笑みを返し、ジンライムを喉に流し込む。
誰かと話したい、決してそんな気分ではなかった。だが、彼女のペースに巻き込まれるようにして進むこの会話を、彼自身、楽しみ始めてもいた。
夜のバーで、女と会話らしい会話を交わすのは実に久しぶりな気がする。悪くない。
「それで?業界から消えたあなたは今、何をしているのかしら?ミスター・クーパー」
「Well ・・・才気溢れる、魅力的だが手厳しい女性の横で、クソ美味いジン・ライムを啜ってる」
「ふふ・・・」

目まぐるしく変わる食のトレンド、人気レストランの世間的評価とアマンダの評価の温度差、ショーンの抜けた後の『 ジジ 』の評判(ショーンは本気にしないが、アマンダは店が衰退し始めていると力説していた)、どうやら共通の知り合いが少なくないこと、そしてその中に、キャサリン・クリフォードも含まれていること。
そしてそのことは、アマンダがとある企画を思いつくのに十分すぎるほどの偶然だった。
「―――そう、クリフォード家のプライヴェイト・シェフをね―――」










―――「ミシェルが言ってた店、ここじゃない?」
「空いてる?」
「Wait・・・」
扉を少し開けて中を覗き込んだベティが、空席が見えるよ!と手招きをする。
連れ立って中に入り、空いていた席に腰掛けて、ふうっと息を吐いた。
「良かった、やっと座れた」
「Hey !」
「?」
ベティがカウンターの方へと目配せをした。そちらのほうへ目を向けると、偶然「彼」がそこにいて、横の女と楽しそうに話をしているところだった。
「!」
「Wow!」
「しっ!気付かれるじゃない!」
小声で眉をひそめるラムカに視線を向けると、彼女はカウンターの彼に背を向けて座りたいのか、席を代わって、というジェスチャーをベティに返してきた。
仕方なくラムカと席を代わる。カウンターのふたりが目に入る場所だったが、当のふたりは話に夢中でこちらのほうには気付いていないようだった。
「・・・店、変えようよ」
「だーめ。脚がもう限界!やっと空いてる店見つけたんだからテコでも動かないよ!」
「Oh god ・・・」
ラムカがそう呟いて項垂れた。実のところベティには、歩ける余力はまだ十分に残されていたのだが、何だか面白い展開になりそう!と内心わくわくでラムカに意地悪をしているのだ。
不服そうなラムカの鋭い視線がベティに突き刺さったが、同時に鳴った携帯電話が彼女を救った。
「あらやだ電話だすぐ出なきゃ家が火事って連絡かも――ハーイ、ミシェル。 今?ブロードウェイ通りのあんたが話してた店よ。そう、50丁目あたりの」
「1分以内に来ないと帰るって伝えて」
「オーケー、プリンセス・Lがご機嫌斜めだからすぐに来て。あはっ、訳はお楽しみってことで」
「Uhh・・・」
「Yeah!そのご自慢の羽ですぐに飛んできて」
昨夜のラッセルとのいきさつは、さっき食事をしながらベティから聞いた。だからそれは任務終了。
ミシェルと例の彼の件はまだミシェルから聞いていないけど、ベティも同席していることだし、きっとここで話題に上ることはないだろう。
つまり、私がここに居る必要、ある?
ミシェルが合流する前に何とか逃げ出してしまわないと。
「ねえ――」
「――すぐそこまで来てるってさ。すみませーん、マンハッタンとモヒートくださーい」
「しっ!声大きい!」
「大丈夫、話に夢中みたいだし、彼」
「・・・・・」
「はぁー、彼ってマジHotだわー。絶対腹筋割れてるタイプよね。Gosh!シックスパック*男とやるのが夢なんだけど!」
「お願いすれば」
「どうかなぁ。今夜は無理そう。だって横の彼女以外、誰も眼中にないって感じ」
「・・・・・」
「・・・ね、気になる?」
「What !?」
「ちょっと待った!彼女、どっかで見たことが―――」
「―――やっぱり帰る!」
「ちょ、ラム―――」
「―――Hi!My Angels!」
Oh honey!どこ行くのさ!―――そこへようやく現れたミシェルが、席を立とうとするラムカを捕えて、頬にキスをしながら椅子に座らせた。
「お待たせ」
ベティの頬にもキスをして、ミシェルがラムカの横に腰を下ろす。
「どうしたの、プリンセス・L、ふくれっ面なんかしちゃって」
「別に・・・」
「そんなに僕が恋しかった?待たせてごめんよ、Honey」
ミシェルがそう言って、ラムカの頬に軽くちゅっと音を立ててキスをした。
「Wow ! プリンス・チャーミングのキスでも起きないなんて、こりゃプリンセス・L最大のピンチ」
ミシェルにキスされても憮然としたままのラムカをベティが揶揄する。
「今度プリンセスって言ったら本当に帰るから!」
「Oh oh oh !一体何事?」
「さあ。西の方向に原因があると推測してるんだけど」
「?」
ベティが目配せをした方へと目を向ける。
あれは―――!

「―――アマンダ!」
「!」
「アマンダだよ。挨拶してくる」
「ちょ、ミシェル!」
「Wow!びっくりな展開」
「Oh・・・god・・・」
ラムカは頭を抱えるようにテーブルに両肘をついて息を吐いた。
ベティがラムカから視線を上げると、ちょうどミシェルがカウンターのアマンダに声をかけ、二人が笑顔でハグをするところだった。
横の男を見て驚いたミシェルが、彼と握手をしながらこちらのテーブルを指差している。
誘え!誘うんだ!連れて来い!――ベティがミシェルに念を送っていることなど知る由もないラムカの耳に、ミシェルの信じられない言葉が飛び込んだ。
「一緒にどう? もちろん、お邪魔でなければの話だけど」
「!」
「――Yeah ! 喜んで」
冗談でしょ!?という表情でミシェルを振り返ったラムカと、ショーンの瞳がぶつかる。
Yeah ! と即答して席を立ったアマンダに、やれやれ、という顔で息を吐くと、彼も渋々カウンターチェアから立ち上がり、飲みかけのグラスを手にラムカたちのテーブルへと移動した。
二人に席を譲るためにベティが移動したので、ラムカの目の前にアマンダ、その横にショーンが座る形になった。
愛するミシェルを呪いたくなったのはこれが初めてだ。彼ったら新しい恋に浮かれて、考えなしの行動に走ったとしか思えない。
ベティもベティだ。何か言いたそうに私の方へ目配せしてきたりして。
「Hi、ショーン、私のこと覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ。ベティだよね」
「いやーん、覚えててくれたなんて嬉しーい」
「・・・・・」
「・・・Hi、Miss apple pie」
「・・・What・・・?」
「――アマンダ、ほんと久しぶりだよね?最後に会ったのいつだった?」
「一年くらい前じゃなかった?」
ショーンがラムカに「apple pie」と声をかけた途端、ラムカの声のトーンが変わったので、不穏な空気を感じ取ったミシェルが慌ててアマンダに話を振った。
気付けば、ラムカが酒を飲むペースが尋常じゃない。ベティもミシェルもそれに気付いていたが、お互い考えていることは一緒だったので、何も言わず、こっそりと目配せをするだけだった。
案の定、しばらくすると、酔い潰れたラムカがテーブルに突っ伏して動かなくなった。
さて、うまいこと酔い潰れた彼女をどうしようか。ミシェルがベティに指で作った「C」の文字をこっそりと見せる。
そう、プランCの発令だ。
「Oh!もうこんな時間!行かなきゃ遅れちゃうよ、ミシェル」
「そうだよね――ああでも、ラムカがこんなんじゃあ・・・」
「―――ショーン、彼女をお願い出来ない?」
「Wha?」
「それからアマンダ、突然で悪いんだけど、彼女の代わりに一緒に来てくれない?」
「どこへ?」
「あー、僕の友達が今オフブロードウェイ*で舞台に出てて――」
「――レイトショーやってるのよ。チケット3人分買っちゃってて。もう行かなきゃいけないんだけど」
「Oh、それは楽しそうね。あいにく私はもう帰るところだけど」
「Really?」
「Sorry」
「Wait wait wait!俺一人でどうやって――」
「――彼女の家なら知ってるでしょ?」
「ここからブルックリンまで行けってのか!?」
「頼むよ、今度ヘアカットただでやってあげるからさ」
「ネイルケアもつけてあげる。今やゲイじゃなくても、いい男にネイルケアは必須よ」
「Oh・・・」
「ごめんね、よろしく」
勘弁してくれよ、という表情のショーンを残してベティとミシェルが席を立つ。
「連絡するわ」――そうショーンに言い残し、アマンダも二人に続いて席を立った。
何てこった!何で俺がこんな目に!?
「・・・・・」
「?」
よく聞き取れないが、ラムカが寝言のようなうわ言のような、何かむにゃむにゃとした言葉を発している。
彼はうんざりしたような、恨めしい顔で彼女を見下ろすと、はぁーと盛大なため息を吐いてテーブル上で頭を抱えた。








Magnet 27.「Another Saturday - もうひとつの土曜日 - 」




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ミッドタウン 11:50 p.m.

「ラムカ、上手くいくかな」
「どうだろう。彼本気で困ってたみたいだし。ちょっとやりすぎたかも」
「でもあれくらいしなきゃ、あの二人の距離ちっとも縮まらないじゃない。毎日顔合わせてるのに」
「ラムカはともかく、彼の気持ちがいまいちよく解らないんだ。迷惑かけて彼女が嫌われちゃったら台無しだよ」
「その時は別のプラン考えるわよ」
「おっと、やる気満々」
「そりゃあもう!」

ミシェルとベティのふたりは、バーを出たあと、流れのままブロードウェイ通りを歩いていた。
土曜日の夜のせいもあったのだろう、タイムズ・スクエアに近付くにつれ、他人と肩がぶつかりそうになる頻度が増していく。
ラムカとショーンの話をしつつも、彼女の頭の中は、昨夜のラッセルとのことをまだ何もミシェルに報告していない、そのことでいっぱいだった。
ミシェルは今日サロンの仕事を休んでいて、一日顔を合わせていなかったし、さっきのバーでも話しそびれてしまったのだ。
まあ家に帰ってからゆっくり話せばいいか、そう思い、昼間仕事中に起きたあれこれを業務連絡のように話したりしている。
そもそもミシェルのほうこそ、ラッセルとのデートをセッティングしたくせに、そんなことは忘れたような素振りなのが彼女は気に入らない。
もしかしたらラッセルのほうから連絡があったのかもしれないけど、それでも何かしらひと言あってしかるべきじゃない?そんなふうに思ってしまうのだ。
本当のところ、何故ラッセルを拒んでしまったのか、上手く説明出来る自信はなかったのだが。
そしてあの夢の1件以来、何となくミシェルに対して気まずい思いを抱いてしまう。
そんな彼女の複雑な思いをよそに、彼はポケットの中で鳴った携帯電話を取り出すと、ごめん、電話、と言ってベティから離れ、道の向こう側へと行ってしまった。
いつもなら彼女が隣にいようが、気にも留めない彼だったのに。
こそこそしたようなミシェルの様子に彼女は苛立ち、ミシェルを置いてそのまま歩き出した。

「―――Hey, B!」

しばらくして、後ろからミシェルが彼女を追いかけるように声をかけた。

「Betty!」
「…何」
「I gotta go ! (行かなきゃ)」
「…あっそ」
「ちゃんと鍵かけといてよ。じゃあね!」

はぁ、と息を吐いて振り返ると、何だか嬉しそうな軽い足取りで彼が向こうの方へ歩いて行くのが見える。
ラッセルとのことを訊くそぶりすら見せないなんてどういうことよ。それとも上手くいったと勝手に思い込んでる?
何の言葉もないなんて、あたしのことなんてどうでもいいってことなの?
彼女は何だか自分が透明人間になってしまったように感じ、その後ろ姿をぼんやりと見送った。










ウエストヴィレッジ 0:20 a.m.


やっとのことで彼女を3階まで担ぎ上げ、部屋の鍵をがちゃがちゃ、と開けているところで彼女が「気持ち悪い」と言い出した。
慌てて部屋に入り、急いで彼女をバスルームに運び込むと、すぐに彼女がトイレットへ吐き始めた。
女の酔っぱらいの世話は久しぶりだが、決して初めてではない。何をしてやれば良いのかは、大まかにだが覚えがある。
だから、彼女が吐き始めてすぐに髪の毛を持ち上げてやったのだが、間に合わなかったようで、髪の毛を少しばかり汚してしまった。
それで彼は洗面台でタオルを濡らし、彼女の汚れた髪をそれで拭いた。
何度か吐いてすっきりしたのか、彼女が「水、水」と小さい声で繰り返した。
洗面台にある古ぼけたホーローのマグカップに水を入れて渡してやると、彼女はその水で口をゆすぎ、それをまた吐き出すことを数回繰り返し、やがてふらふらと立ち上がった。

「Devi? どこなの?」
「おっと!」

足がもつれて倒れそうになる彼女を支え、バスルームから部屋に戻ると、ベッドを見て安心したのか、彼女は「No!No!No!」と言う彼の手を振り切ってそこへバタン、と倒れ込んでしまった。

「Hey!ソファーで寝てくれよ!」
「zzzzz……」
「Come on , come on , come on !」

彼女を揺り起こそうと何度も試みたが、全くもって起きる気配がない。

「…For God’s sake*!」

そう恨みがましく呟くと、彼は仕方なく彼女の靴を脱がせ、そしてうつ伏せに倒れ込んだ彼女をひっくり返すようにして横を向かせると、同じベッドに腰掛けて彼女を見下ろした。
初めはブルックリンまで送って行こうと思っていたのだが、よくよく考えてみたら、彼女のアパートメントのロック・パスワードを知らない。
かと言ってエントランス前に彼女を置き去りにするわけにもいかないし、あのまま店に置き去りにするわけにもいかないし、でほとほと困り果てた彼は、仕方なく、自分のアパートメントに連れ帰って来たのだった。
抱き上げてソファーまで運ぼうかとも思ったが、思いの外すやすやと静かに眠る彼女を見ていると、それも気が咎めた。
ちょっと待てよ、ここは俺の家だ、何で俺が気兼ねしなきゃならない? そもそも何でこんなことになった?
「じゃあね」と席を立ったミシェルとベティの顔を思い出し、やれやれ、と呆れたように首を振り、もう一度彼女の寝顔を見下ろした。
鼻や口元に垂れる髪をそっと払いのけてやると、横を向いて眠る彼女の、耳の下の大きいピアスに目が留まった。痛そうに見えて何だか気にかかる。
外してやるべきか放っておくべきか少し躊躇したが、やはり外すべきなんだろう、そう思い、そっと両耳から輪っかになったピアスを取り外して、ベッド脇の小さいチェストの上に置いた。
余計なことをするな、と目覚めた彼女が怒り出しそうだが仕方がない。女の耳から飾りを外すのは、男の仕事と決まっている。彼がそれを知っていたかどうか定かではないが。

「…んん」

子供のような甘えた声を出し、気持ちよさそうに眠る彼女。まったく……人の気も知らずに、暢気なもんだ。
昨夜から連日、彼女には振り回されてばかりいる。そう思えて仕方がない。実のところ、彼は男を振り回す類の女は苦手だ。
彼女ときたら、いつでも予想もしない反応ばかり見せるし、他の男の前で恋人のふりをしてくれ、などという難題を与えてくるのだから始末が悪い。
正直、困ったと言うよりは、存外に楽しんだハプニングではあったのだが。

「……」

何故そうしたのかは解らない。気が付けば、眠る彼女の頬を、手の甲でそっと優しく撫でていた。
不思議なことだが、何故だか彼女の寝顔にとても懐かしいような、愛おしいとも言えるような情が湧いたのだ。それは、言ってみれば「慈愛」とでも呼ぶべき感情かもしれなかった。
だが、それもほんの一瞬のことに過ぎなかった。次の瞬間、それは動揺に取って代わった。

「…No……Devi…no…」

やめて、というふうに彼女が彼の手を振り払おうと動く。

―――デイヴィ……ッド?

彼の耳には彼女の発した「デーヴィー」が、「デイヴィッド」と言ったように聞こえたのだった。

―――昨夜のあの男か?

そう言えば彼女はついさっきもバスルームでその名を口にしていた。やはり昨夜のあの男なのだろうか。
そう思いついた途端、何かもやもやとしたものがこみ上げ、気付けば彼女に唇を寄せていた。
あと少し、唇が重なりそうなところで、彼はハッとして顔を離した。ちょっと待て、彼女、ついさっき吐いたんだぜ?
ほんの少し残されていたらしい自制が、彼の衝動を押し止める。
突然湧いた感情と衝動。それらを追い出すように天井を仰ぎ、ふーっと息を吐いた。
本当にどうかしてる。 …いや、きっと自分も酒を飲み過ぎたんだろう。
彼は再びふーっと大きく息を吐いた。そしてベッドから立ち上がると、眠る彼女にそっとブランケットをかけてやった。







ミッドタウン 11:15 p.m.


その日も彼はじっとりと嫌な汗が噴き出すのを感じながら、それでいてどうすることも出来ず、目の前のソーダをひっきりなしに口に運んでばかりいる。
隣に座る彼のガールフレンドが、友人たちとのお喋りの合間に時おり彼の方を向いてにっこり笑うから、安心させるために同じように笑みを返すことに少々疲れてきている。
ガールフレンド。彼自身はまだ彼女をそう呼ぶ心構えが出来てはいないが、彼女が彼を目の前の友人たちに「私のボーイフレンド」と紹介してしまったから、彼のほうも彼女をガールフレンドと認識しなくてはならないらしい。
彼は決して反社会的な人間ではないが、社交的だとも言えないし、自分のことを見ず知らずの人間にぺらぺら話すのもあまり得意ではない。
それにここのところ、スタッフが減ってしまった穴埋めをしていて、少し疲れが溜まっていた。出来ればこの日もジェニーと過ごすことはしないで、ゆっくり休みたいと思っていた。
何故なら明日は久しぶりに遅番で、たっぷりと眠りを貪ることが出来そうだったからだ。

「―――作家を目指してるんだって?ポール」
「―――えっ」
「Wow ! 第2のポール・オースター*ってわけね。あ、それでコロンビア大*行ったとか?」
「ううん、彼ならきっともっとすごい作家になれると思う。まだ読んだわけじゃないけど」
「―――ちょっと、ジェニー!」

何で勝手にそんな話を彼らにしたの!? そんな表情をジェニーに向ける。
彼女は意に介す様子もなく、得意げな顔で友人たちに彼がどんなに素晴らしいかを訴えていた。
ジェニーの機嫌を損ねないよう、場の雰囲気を壊さないよう彼らが振る舞いながら、内心ではきっと彼を小馬鹿にしているのだろうことはありありだった。
コロンビア大を卒業したのに、しがないバリスタなんかやっている変わり者―――そんなふうに見られることはもう慣れっこだったし、そう思われてもこちらとしても少しも気にもかけないことなのだが、ジェニーがそれを打ち消そうと彼を褒めれば褒めるほど、何だか居た堪れない気持ちになってしまう。
変わり者でさえない僕のことを好きだと言ってくれて、こうして懸命に持ち上げてくれようとしているのに。
ありがとう、ジェニー――――本当ならそう彼女に感謝すべきなのに。
いや、感謝の気持ちがないわけではなかった。ただ彼はあまりにも「褒められること」に慣れていないのだ。
素直にそれを嬉しいと感じることが出来ず、身の置き所がなくなり、冷や汗が吹き出てくるような感覚に陥ってしまうのだった。
それで彼はその場から逃げるために席を立ち、レストルームへと向かった。
しばらくして席に戻ると、ポールの憂いをよそに、いつの間にか話題は他のことへと移っていた。
帰るなら今かな。一瞬そう思ったが、ジェニーがきっと悲しむに違いない、そう思えて、やはりこの場へ留まることにした。




しばらく続いた拷問のような時間のあと、ようやく彼らと別れ、彼はキャブを拾おうと広い通りに出た。
そして数台のキャブに拒否されること数分、ようやく一台のキャブが彼とジェニーの前に停車してくれた。
ドアを開けてジェニーだけを乗車させ、ポールはそのままドアを閉めた。

「えっ、来ないの?」
「ごめん、今夜は帰るよ」
「What !?」
「本当にごめんよ。ひどく疲れてて…体調が芳しくないんだ」
「Oh…」

本当にごめん、と言いながら、キャブの窓の外から彼女におやすみのキスをしていると、乗るのか乗らないのか、早くしてくれ、と運転手に急かされてしまったので、彼はキャブのドアから離れた。
仕方ない、という表情をしたあとで、彼女はいつものように砂糖菓子のような甘い笑顔で、大好きよポール、と言いながら、走り出したキャブの窓から手を振った。
体調が芳しくない、というのは断る理由のための大げさな言い訳でしかなかった。むしろ「嘘」と言い換えてもよいかもしれない。ごめんよ、ジェニー。小さな罪悪感が彼の中に生まれる。
そんな思いで消えていくキャブを見送り、振り返って歩き出した時。
「Hi , Paul」と顔の横でひらひらと手を振るベティがそこにいた。







Magnet 28.「The truth is out there - 真実は心の底にある - 」





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ミッドタウン・ノース  0:10 a.m.

鍵穴に鍵を挿し込み、暗証番号を入力する彼から視線を外し、きょろきょろとあたりを覗う。
まるで映画の中でのコソ泥の押し入りシーンみたいで、その思いつきは彼女の気持ちを高揚させた。

「どうぞ」
「Thanks」

非常灯のみの店内は暗く、ひんやりとして寒々しかった。すぐにポールが上着を脱いでカウンターの中に入り、コーヒーマシーンのスウィッチを入れた。
ガラスのケーキドームに閉じ込められた、売れ残りのドーナッツやブラウニーたちが、小さなスポットライトに照らされる。
その目の前にある、ほんの数席しかないカウンター席に座り、ベティは再びきょろきょろと店内を見渡した。

「何だか新鮮ね。知らない店にいるみたい」

ベティの言葉に、そうだね、と笑みを返しながら、彼がコーヒー豆をグラインダーにセットすると、ガガガガ…と大きな音が暗い店内に響き渡った。
ばたん、ことん、ガチャガチャ、プシュー、こぽこぽ……。昼間は何ひとつ気にも留めないそれらの音のひとつひとつが、暗く静かな店内で、まるで意志を持って語りかけてくるように感じられる。
それだけではない。毎日のように目にしている彼の所作が、静かな暗がりの中ではまるで厳かな儀式のように見えて、彼女は丸めていた背中をついついしゃきっと真っ直ぐに戻すのだった。



バーからの帰り道。ミシェルと別れて、何となくそのまま歩き続けていた彼女は、無性にコーヒーが飲みたくなった。
もうコーヒーを口にすべき時間ではない、それはもちろん彼女にも解ってはいる。だが彼女は苛々したり悩んだりした時に、コーヒーを飲む習慣があった。
もちろん、何もなくとも毎日飲んではいるが、何か思い悩む時、心がざわつく時には、ことさらにコーヒーの香りが欲しくなるのだ。
近場のカフェに飛び込もうか、それとも家に帰ってからゆっくり飲もうか。
そう考えて、ああ、今日は忙しくてポールのカプチーノが飲めなかったんだった、そう思い出した時。
偶然目の前で、キャブを見送るポールの姿を発見したのだ。
今すごくコーヒーが飲みたくなっちゃって、そしたら今日あんたのカプチーノ飲みそびれちゃったなあって、今まさにそう思ってたところよ。
偶然に驚きながらもそう笑うベティに、じゃあ今から行こう、そう言って、ポールが夜中の仕事場に、こっそりベティを入れてくれたのだった。


「ごめんね、わがまま言ったみたいで」
「いや、いいんだ。僕が勝手にしたことだし」
「でも何だかわくわくする!」
「僕も。夜中に店に忍び込むなんてさ」
「んー!いい匂いがしてきた」

少量のエスプレッソが入ったカップをくるくる廻し、そこへ数回に分けて彼がスチームミルクを注ぎ入れる。
何やらピックのようなものをちょこちょこ、ちょこちょこ、と動かして、お待たせ、と言って彼がベティの前にカップを置いた。

「Wow!これって…」

…あたし…?

「ごめん、あまり美人に描けなかったけど」

そう言ってポールが肩をすくめた。
カップには、ボブカットの女の子のラテアート。デフォルメされてはいたが、猫みたいな眼にピンとあげたまつ毛や、あごのあたりに小さなほくろまで表現されてあって、ひとめで自分の顔だと解った。

「すごーい!こんな絵もコーヒーの上に描けちゃうの?」
「描こうと思えば色々描けるよ。普段はこんなふうに道具を使って凝ったものは描かないけど」
「へえー」

感心しながら嬉しそうにiPhoneでそれを撮影し、自分の顔をずずっとひと口飲んで、彼女が「ああ」と声をあげた。

「これよ、これこれ。やっぱあんたのカプチーノが一番美味しいよ」
「そんなことないよ」
「いやいや、マジだって。言っとくけどあたし、NYいちのカプチーノ好きなんだからね。そのあたしがNYいち美味しいって言うんだもの、間違いないわよ」
「…Oh…」
「絶対よ。保証する」
「…ありがとう、ベティ」
「ふふ」

ああ、美味しい、と言いながら自分の淹れたカプチーノを飲むベティ。
不思議だ。さっきジェニーが自分を褒めて持ち上げてくれた時には、あんなに居心地が悪いと感じたのに、ベティの褒め言葉は、とてもくすぐったいけど、心の底から素直に嬉しかった。

「あんたは?飲まないの?」
「え?」
「ねえ、あたしでも出来る?ラテアート」
「もちろん!簡単なやつを教えるよ」
「やった!」

うきうきとした様子でベティがカウンターの中に入る。ポールがコーヒーを入れたりスチームミルクを作ったりするのをすぐ隣で面白そうに眺め、そして彼の説明を受けながら基本のハートを描いた。

「すごい!描けた!」
「これはもう少し上級編。こうするとレイヤーのハートになるんだ」

ポールがスチームミルクの入ったピッチャーを小刻みに揺らしながら注ぐと、たまねぎの断面みたいな、いくつもラインの入った、少し豪華なハートが現れた。

「Wow!」
「やってみるかい?」

ラボで実験するみたいに、いくつかのラテアートを試したあと、2人は作業台にもたれるように並んでそれらを飲んでいる。

「あー、もうお腹たぷたぷになっちゃいそ」
「僕も」

iPhoneで撮影したいくつものラテアートの写真を一緒に見ながら、出来についてあれこれ話したり、ベティのネイルアートの写真を載せた彼女のインスタグラムの写真を見たりして、いつしかすっかり話し込んでいた。
そう言えば、とベティはあることに気が付いていた。ポールっていつも何だかおどおどとして口ごもってばかりいるのに、今夜の彼はどこか堂々としていて、いつもより自信に満ち溢れているように見える。
それってもしかして…彼女のおかげ?
ふっと笑って、ベティがポールに悪戯っぽい目を向けた。

「こんなとこ彼女に見つかったら……あたし、きっと殺されちゃうね」
「え」
「見たよ。ジェニーとキスしてたとこ」
「……Oh……」
「やっぱり付き合ってたんだ!」
「…まだ始まったばかりだけどね」
「そうなんだ。ふふっ、じゃあ今が一番楽しい時期ね」
「そう…なのかなぁ」
「そりゃそうよ。何を見ても、何をしてても…ううん、何もしてなくても、一緒にいるだけでただただ幸せで……」

まるで自分に言い聞かせるように呟くと、ベティは小さくため息を吐いた。

「…いいなあ…羨ましい。あたしにもそんな幸せ、また来るかなぁ」
「? 今……幸せじゃないの?ベティ」
「……うーん…どうだろう……まあ、おバカな浮気男とやっと別れられた、って意味では幸せよね」
「!」
「ちょっと待って、そう考えると自分がすごく幸せに思えてきた」
「…じゃあ……今は……ミシェルと…?」
「―――ぶっっ!」

ポールの言葉にベティがコーヒーを噴出しかけた。

「やだ!彼ゲイよ?知ってるでしょ?ルームシェアしてるだけよ……っていうか、勝手に押しかけて部屋借りただけなんだけどさ」
「あ…そうなんだ」
「当たり前じゃない! ―――あ!そう言えば聞きたかったんだけど!」
「?」
「あんたがミシェルを好きだとか何とか、あれはでたらめだから信じないで、ってあれ、一体何だったの?」
「あー…」

ことの顛末を聞いてベティがまた吹き出し、ポールもつられて他人事のように笑った。

「確かにミシェルは男にも女にもよくモテるし、あんたも魔が差しちゃっても不思議はないわね」
「だから違うんだって!」
「Oh!ミシェルは今フリーよ、アタックしてみたら?」
「もう…君まで。からかわないでよ、ベティ」
「ごめんごめん」

笑いながらベティが軽くぺちぺちと叩くように手のひらを彼の頬に置いた。
その瞬間。笑みを消し去ったポールがベティの瞳を見つめ返し、ふたりの間を沈黙が行き来した。
ベティは固まったように彼の頬から手のひらを離せないでいる。
その時、彼の携帯電話がメッセージの届いたことを知らせ、その音に弾かれたようにさっとふたりが身体を離した。

「Oh……えーっと……そろそろ帰ろうかな」
「うん」
「片付ける?」
「ああ、いいよ。僕がやっておく」
「OK……じゃあ……またね」
「おやすみ、ベティ」

ありがとうポール、と帰る彼女を見送り、カフェの後片付けをして、彼も帰途についた。



ヴェスパを走らせている間中も、信号待ちをしている間も、ずっと彼女の笑顔が浮かんで消えないでいる。
胸の辺りがちくちくするのはきっと、こんな時間に彼女と飲み過ぎたコーヒーのせいだ。
諦めなくちゃ。何度も自分にそう言い聞かせて、ジェニーといることを選んだのに。
それなのに、僕は……


アパートメントに辿り着くと、「アーサー、アーサー」と言いながら暗がりの中をうろうろと歩き回る人影が目に入った。ミセス・バレットだ。
彼は慌ててミセス・バレットに駆け寄り、肩を抱くようにしてゆっくりと階段を上り、彼女を部屋まで送り届けた。


それから階段を上って自室に戻り、上着を脱いでベッドにばたんと寝転がり、ふーっと息を吐いた。
何だかえらく疲れた一日だった気がする。いや、くたくたに疲れていたはずだった。ベティとばったり出会うまでは。
あれは夢の中の出来事だったんじゃないだろうか。そう思えて仕方なかった。
ベティとあんなふうに、ふたりきりで時を過ごしたなんて。
タイムマシンで過去に戻り、以前の自分に話したらさぞかしびっくりすることだろう。
ベティと過ごした時間はまるで、神様から突然贈られたプレゼントのようだった。
最後に彼女が手のひらを置いた頬に、そっと自分の手のひらを押し当ててみる。
猫みたいな彼女のグリーンの瞳、ねえポール、と呼びかけてくれる彼女の声、甘いピンク色に染められた彼女の指先、横に並んだ時にふわっと包まれた彼女の甘い香り。そして、美味しい、と言ってくれた時の彼女の笑顔。
彼は、今夜、それらを初めて独り占めすることが出来たのだと知り、そして恍惚とした。

……ベティ……

何てことだろう。
今さらながら、自分の本当の想いに気付かされてしまった。
それに気付かない振りをして、ジェニーと何とかやっていこうと思っていたけれど、やはり自分の心に嘘はつけない。

だけど……

小さくため息を吐き、ポケットに入れたままにしていた携帯電話を取り出してみる。
案の定、ジェニーからいくつかのテキストが届いている。さっき、ベティと居る時に鳴ったのはやはり、ジェニーからのものだったのだ。
彼の具合を心配するもので、決して返事を催促するものではなかったが、彼女はきっと、何度も携帯電話を手にして、彼からの返事の有無をチェックしているに違いない、そう容易に想像できた。
ベティのことを考える時の、ちくん、とした甘い痛みとは違う種類の痛み。

僕は一体、どうしたらいいんだろう。
……いや。
僕は本当のところ、どうしたいんだろう。

今頃になって、一日の疲れがどっと押し寄せて来たように感じる。
本当は解りきっていた。心の底では、答えが出ているのだ。
けれど、今夜はもう考えることはしたくない。
今はただ、すでに思い出になり始めている、ベティと過ごした時間の余韻の中に身を置いていたい。
彼はそれ以上何も視界に入らないよう、腕を瞼に乗せるようにして、瞳を強制的に閉じた。










ミッドタウン   0:00 a.m.


扉の向こうでくぐもったように小さく聞こえていた音楽が、重厚な扉を開くと同時に、大きな音のシャワーとなって彼の身体に降り注ぐ。
きょろきょろと人々を見渡すまでもなく、彼の視線はすぐに、ある一点に注がれた。
店の中は薄暗いというのに、男のいるその場所だけが、まるでスポットライトを照らされたように見えたからだ。
或いはその男が醸し出す雰囲気が、周りの空気を違う色に染め上げていたのかもしれない。
いずれにしろ、彼にはその男しか目に入らなかったから、途中、酒を運ぶウェイトレスと軽くぶつかってしまい、危うく彼女がトレイに乗せたグラスを倒してしまうところだった。

「君から電話をもらえるなんて。思ってもみなかった」
「嘘をつけ。わざと忘れ物をしていったくせに」
「…ふふ…」

上着の胸ポケットから男が取り出した、小さな手帳のようなケース。ミシェルの通勤用の地下鉄の定期カードや、職場のIDカードなどが数枚入れられているものだ。

「住まいはチェルシーか」
「Ooh , 勝手に中を見たね」
「俺の物じゃないものが床に落ちてた。中身を確認するのは当然だ」
「それで…僕に会いたくなったってわけだ」

さあな、とつれない言葉を返し、その時通りがかったウェイターに、男がミシェルの分の酒を注文した。

「早く仕舞えよ。それがなきゃ困るだろう。だから電話した、それだけだ」
「ふふ、相変わらず強情だね」

くつくつと愉しそうに笑い、男がグラスの酒を口に含む。
人目さえなければ、男の唇から、それを口移しで飲ませて、と懇願するのに。
或いは、彼の唇を自分から奪い、彼の唇とその酒の香りを思い切り味わい尽くすのに。
どうやら、昨夜火がついてしまった心と身体の熱を、まだ宥(なだ)めきれずにいるようだ。

「それで?僕に関することで新たに知ったこと、あった?」
「……」
「ないの!? 何かあるでしょ?」
「…意外と写真映りが悪い」
「何それ!」

再びくつくつと喉を鳴らして、男が愉しそうに笑う。



ふと、男がちらちらとカウンターに何度か目線を向けるのに気付き、その視線を追った。

「やめろ」
「?」
「俺の目線を追うな」
「!? …ごめん…」

ウェイターがミシェルの酒をテーブルに置いて立ち去るのを見送ると、男は、もう一度ちらり、とカウンターの方へ目配せをして、ミシェルのほうへとそのまま視線を移した。

「…悪いが仕事だ。もう行かなきゃならない」
「!」
「酒は俺のおごりだ、ゆっくりしていくといい」
「待って!」
「?」
「…また会える…? 会えるよね?」

男を見上げるミシェルの、琥珀色の揺れる瞳。それを見つめ返し、男は仕方ない、という顔で軽く肩をすくめた。

「…来る前に電話すること。いいな?」

瞳を見開いたまま、こくん、と頷くミシェルを残し、男はその店を出て行った。








Magnet 29.「" I'm a fool to want you " - " 恋は愚かと言うけれど " - 」







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5番街  10:20 p.m.


心地良い音量で会場に低く流れているジャズが、ピアノ曲から女性ヴォーカルの曲にスウィッチした。
これはおそらく、ビリー・ホリデイ*の声ではなかったかしら、と曖昧な記憶を辿る。
優美なシルエットを描く細長いグラスに注がれた、かすかに泡立つ金色の酒。それを片手に夫の横に立ち、笑みを張り付けた顔で幾人もの人々と握手を交わしつつ、彼女は頭の隅では古いジャズ歌手のことに思いを馳せていた。
彼女自身は決してジャズという音楽に造詣が深いわけではなかったから、それがビリー・ホリデイの声なのか、或いは他の歌手のものなのか、はっきりと断言できるわけではなかった。
ただ何となく頭の隅に、ビリー・ホリデイ、という名前と、癖のある歌い方の記憶が蘇っただけだった。
それはつまり、彼女は自分が今置かれている状況に集中できていない、ということだ。
今、彼女が夫と参加しているのは、とある難病の研究費用の寄付金を募る、という趣旨のパーティーで、年中こういった資金集めのパーティーには顔を出しており、彼ら夫妻にとってはごくありふれた年中行事の一つでもある。

思えば、彼女は物心ついた頃からこういった集まりには顔を出していた。両親に連れられて、また時には兄に連れられて、ということもあった。
高校生の頃には「次世代のソーシャライト*」と呼ばれて、雑誌のセレブスナップ欄に写真が載ったことも一度や二度ではなかった。
もっとも、彼女自身は「ソーシャライト」と呼ばれることを嫌っていた。そもそも、そう呼ばれるほどの名家に生まれたわけでもないのに、イメージだけでそう呼ばれていると思っていた。
だから母親から事業を受け継いだことで、これからは自分の力で社会に貢献できる、そう思っていた。
けれど、それよりも結婚のほうが早かったから、結局は「クリフォード家に嫁いだ宝石商の末娘」としての顔のほうが先に有名になってしまった。
もちろん今夜の資金集めには彼女の事業も彼女自身も貢献しているし、少しでも多くの寄付金を集めることが出来るように、とそのことを第一に考えている。
そう思いながらも、昨夜の夫とのやり取りや、昼間のアルヴィンの助言など、心がざわついてしまって、心からパーティーを楽しめないでいるのだった。

「キャス、大丈夫かい?」
「…え?」
「疲れてるみたいだ」
「あー……酔ってしまったのかしら」
「君が?俺より先に酔ったことないのに?」
「そんな日もあるのよ」

体調が良くないなら帰ろうか?―――彼女を座らせ、そう心配げに顔を覗きこむ夫に笑顔で顔を横に振る。
フィリップ!―――向こうの方から彼を呼ぶ声がして、そちらのほうに顔を向けると、男たちが数人、シャンパングラスを片手で持ち上げながらこちらの方を見ていた。

「トニーたちか…」
「行って、フィル。私なら大丈夫。しばらく座ってるから」
「Ok…気分が悪くなったら呼ぶんだよ、キャス」
「大丈夫よ。ほら、行って」

男たちの中に混じって談笑を始めたフィリップを見やり、彼女は小さく息を吐くと、シャンパンを口に運んだ。





「―――おい、見ろよ」
「?」
「Damn!(くそっ!) なんていい女だ」
「女房の目を盗んでああいう女とやりまくったら最高だな」

男たちがヒューと口笛を鳴らし、向こうのほうで談笑しているダークヘアの女について下品な話をし始める。
一見、品の良い連中の集まりに見えても、実際は男が3人も集まればこんなもんだ。
ふん、と鼻を鳴らしてその女の顔を振り返ったフィリップは、自分の目を疑った。彼らの噂の的とは「彼女」だったのだ。

「ああ、あれだよ、ダニエル・ハリスの3人目の妻」
「おいおい、嘘だろ。ハリスは正真正銘の爺さんじゃないか」
「病気であまり長くないって話だな」
「彼女は夫から男遊びを黙認されてるって聞いたことがある。その相手を探しに来たのかもな」
「どうせ財産狙いで結婚したんだろうが、彼女は3番目の妻だし、前妻たちとの間に5人も子供がいるから大した額の相続にもならないはずだ。次の富豪を今のうちに見つけておこうって腹なんだろ」
「アッチのほうも満たされてないんだろうな。カモン、ベイビー、俺がいつでも相手してやるぜ」
「お前なんか相手にされるもんか」
「そういうお前こそ」

下世話な噂話にしばらく付き合った後、フィリップは何気なさを装いつつ、レストルームへと逃げ込んだ。
まさか「彼女」がここへ来ているなんて。予想すら出来なかったのは迂闊だった。
だが、彼女はこういう集まりには殆ど顔を出さない人間だったし、彼女の夫が具合を悪くしていることは知っていた。だからここへ彼女が顔を出すなど、考えもつかなかったのだ。
とは言え、狭いマンハッタンで、二度と彼女と顔を合わせることはない、そう言い切ることは出来ない。この日がいつか来ることは予測しておくべきだった。
覚悟を決めたように息を吐き、顔を上げて鏡の中の自分を見つめる。酷い顔だ。
そう言えば、キャサリンも具合があまり良くなさそうだった。やはり今夜は早々に退散することにしよう。そう思い立ち、彼はバンケットルームに残した妻を連れ帰るため、レストルームの扉を開けた。





「―――Hi」
「?」

突然の声にキャサリンが振り返ると、黒い髪の女性がそこに立っている。

「憶えてない?以前アリーと一緒の時に5番街で会ったわよね?エミリオ・プッチの近くだったかしら」
「ああ!あの時の」
「思い出してくれた?」
「ええ。確か…ヤスミンだったわよね?どうぞ座って。そう言えばアリーは?見かけないわね」
「ええ、彼女風邪をひいてしまったらしくて、今日はご主人だけみたい」
「あら、そうなの。それは心配ね」




バンケットルームへ戻ったフィリップを待っていたのは、にわかには信じられない光景だった。
あろうことか、「彼女」が妻の横に座り、にこやかにふたりで話をしていた。
つう、と冷や汗が背中を流れるような、嫌な感覚が彼を襲う。
ふたりから身を隠すように観察を続けていると、やがて「彼女」は立ち上がり、キャサリンと別れの握手をしてテーブルを離れ、そのままとある男の元へと行き、その男の耳元に何かを囁いていた。
その男に見覚えはなかった。仕立てのよさそうなスーツを着てはいたが、少し場違いな雰囲気を持つ男で、明らかにこういうパーティーに顔を出す類の男には見えない。
よく言えば「彼女」の夫公認の情夫なのかもしれないが、いくら何でも公の場に堂々と連れてくることは考えにくい。
″ 後悔するわよ ″―――最後の電話で「彼女」が脅すように言った言葉を思い出し、再び彼の背筋が凍りついた。
何故妻に近付いたのか。何か企みがあるのではないのか。何やらキナ臭いものを感じ、彼はその場を離れると、廊下へ出て人気(ひとけ)のない場所を探し、ポケットから携帯電話を取り出した。


「―――俺だ。土曜の夜に悪いが、仕事を頼みたい―――」












チェルシー 1:40 a.m.


遅い時間に飲みすぎたコーヒーのせいだろうか。その夜、彼女はなかなか寝付くことが出来ずにいた。
カフェで過ごしたポールとの時間が、思いのほか楽しかったせいもあっただろう。最後はちょっとドキッとした場面もあったけど、あれは行き過ぎたスキンシップをしてしまった自分のせいだろうし、初めてのラテアートに、彼女の中のアーティスト魂がむくむく、と刺激を受けたせいもあったかもしれない。だからきっと、興奮がまだ収まっていないのだろう。
けれど、一番の理由はおそらく、ミシェルがまだ帰宅していないことだ。
いや、きっと彼は今夜も帰ってこない。キースと別れてからというもの、彼は夜遊びすることもなく、どちらかと言うと引きこもるようになっていたが、そろそろ傷も癒えてきただろうし、いいかげん外へ出て行かなくちゃ、という気になったのかもしれない。そしてそれは、喜ばしいことなのに違いない、とは思う。

けれど、それ以上に彼のことが心配だった。他人には的確なアドヴァイスをくれるミシェルも、自分のこととなると意外に向こう見ずで、好きになってはいけないタイプの男に惹かれやすい傾向にあったからだ。
もしかするとまだキースのことを忘れられずに、自棄(やけ)になって、自らそういう男を探し求めている可能性も否定できない。
傍で見ていてハラハラするような恋愛にのめり込み、結果、またしても彼が深く傷付く姿は見たくない。
どうして彼はいつもそんな男たちに惹かれるのだろう。相手があたしなら……絶対に彼を傷付けるようなことはしないのに。
他の誰にも真似出来ないくらいに、深く大きな愛で彼を包んで、何があろうとも、愛して、愛し抜くのに。
ふっとそんな思いが湧いてハッとなった。
何言ってるの!気は確か!? 彼女はふっと湧いたその感情を打ち消すように勢いよく寝返りを打った。

その時だ。扉の向こうで、玄関のドアが閉まる音がかすかに聞こえた。
ミシェル?帰って来たの? ―――反射的にベッドを抜け出して、こそっと自室のドアを開くと、冷蔵庫をパタン、と閉める音がした。
間違いない。彼は帰って来たのだ。確信した彼女は自室を飛び出していた。

「―――Oh!」

暗がりに立つベティに驚いた彼は思わず声を上げた。

「もう!おどかさないでよ」
「良かったー!無事で」
「はあ?」
「いやさ、ゲイのマフィアの情夫に横恋慕して、その結果ハドソン川にあんたが浮かんでたらどうしようとか、金持ちのゲイの爺さんに誘拐されて監禁されてたらどうしようとか、心配で色々妄想しちゃって」
「何それ!」

突拍子もないことを言い出すベティにぶっと噴き出し、ミシェルが呆れたように首を振った。

「どこからそんな発想が出てくるのさ」
「……ここ?」

人差し指でベティが彼の頭を突く。

「何で僕の脳みそなんだよ」

全くもう、テレビドラマの観すぎだよ―――そう言ってミシェルが呆れたように笑った。

「…心配なの?僕が?」
「……うん」
「大丈夫だよ。自棄なんか起こしたりしないから。ちゃんとこうして帰ってきたでしょ?」
「でも昨日は帰って来なかった」
「Hey、僕だってたまには夜遊びくらいするよ。それに……」
「何よ」
「…昨日は帰ってきちゃまずいと思ったしさ。ラッセルと一緒かもしれないし、って」
「おあいにくさま。彼とは上手くいきませんでしたー」
「…知ってる。ラッセルから聞いた。残念だったけど、仕方ない。また次を探してみるよ」

ミシェルのその言葉に、彼女の中で何かが「プチン」と弾ける音がした。

「は!? ラッセルから報告があったらそれで終わり!? あたしの話なんて聞きもしないで、この件はそれで終わりってこと!?」
「Whoa whoa whoa*!(おいおいおい!) いったい―――」
「―――ねえ、何で彼と上手くいかなかったのかって聞かないの!? 最高の男なのに、キスだってしたのに、それなのにどうしてって!」
「ちょ、落ち着いてよ、ベティ」
「―――あんたのせいよ!」
「!?」
「あんたが……その……」
「Me!?」
「えっと……」
「僕が何かしたの? 大事な親友を君に紹介した、ただそれだけなのに?」

―――ああ!もうダメだ!黙っていられない!
最高潮に感情が高ぶったベティは、すーっと息を吸った。


「―――あんたを愛してるからよ!」


一瞬きょとん、とした後、まるで昼間の業務連絡の確認の時みたいな表情で、ミシェルがこくん、とうなずいた。

「Yeah , わかってる」

……あれっ!?

「ちょっと!愛してるって言ってるの!」
「うん、だからわかってるって。僕も愛してるよ。君のこともラムカのこともね」
「!?」
「でも何でそれとラッセルのことが関係あるのさ」

ベティはがっくりと項垂れた。いつもなら上手く言葉に出来ないことでも、細かいところまで気持ちを汲み取ってくれる繊細な彼なのに。
……全く伝わってない…ってこと?

「…もういいよ」
「Wha ? 」
「I said , forget it ! 」
「?」

ぷい、と踵を返し、彼女は部屋へと戻ってしまった。残されたミシェルは、訳が解らない、そんな顔で暫く思考を巡らせていたが、やがて何かを思いついたような顔で瞳を見開いた。






数分の後、控えめなノックと、かちゃり、とドアが開く音。

「―― ベティ」
「入ったら殺す」
「あいにく、もう入っ――」

ぼふん、と音がして、ミシェルの顔からクッションが床に落ちた。

「…Oh, nice control(ナイス・コントロール) 」
「出てって」
「…Non」

ミシェルはベティの背中に向かって首を振り、床のクッションを拾い上げ、ベッドに腰掛けている彼女の横に並んで静かに腰を下ろした。
腰を下ろしたはいいけれど、一体何を話せばいいのだろう。言葉を探そうと努めてはみるのだが、視界を埋め尽くす床の木目を無意識に目が追ってしまい、それに気を取られてしまって何も言葉が浮かんで来ない。
ベティのほうも、ミシェルから受け取ったクッションを抱き締めたまま、じっと動かない。「殺す」だの「出て行け」だの威勢の良いことを言っていたのに、しょんぼりと項垂れてしまっている。
ミシェルと違って彼女の目が無意識に追っているのは、剥げかけたつま先のネイルだったけれど。

「――You know what――」
「――What's goin'on――」

暫く沈黙した後、ふたりの口から同時に言葉が発せられる。君から、いや、あんたから、と互いに譲り合ううちに、何を言おうとしていたのかまた分からなくなって、ベティは口を閉ざしてしまった。

「…知ってるかな」
「……」
「どちらかと言うと、君たち女性の方が後天的に同性愛に目覚めやすいんだって、そう聞いたことない?」
「…I don't know…」
「普通に男と結婚して子供までもうけていた女性が、ある日突然女性を愛してしまって離婚したなんてこと、最近よく聞くじゃない」
「……So ?」
「つまりさ。君は……その……男としての僕を愛してるわけじゃないと思うんだ。君にとって僕は女友達のような存在だから、きっと――」
「――つまり、あたしは同性愛者になった、って言いたいわけ? ラムカとか本物の女相手じゃなく、男でゲイのあんたを相手に?」
「……状況はもっと複雑かもしれないけどね。でも――」
「――ならちょうどいいよ、あんたが相手ならペニスバンドも必要ないしさ」
「! …でも…君とは…」
「セックス出来ない?」
「…うん」
「やってみなきゃ判んないじゃない、そんなの」
「Non!無理だよ!絶対無理!」
「何で?あたしが嫌い?」
「そういうことじゃないんだベティ。Non!やめて!Oh!」

気付けば彼はベティに押し倒されるように強引にキスをされていた。

「Non!」
「――!」

すぐにベティの体を押し退けてミシェルが起き上がった。涙目で口に拳を当て、今にも吐きたそうな顔をしている。

「…酷いよ、ミシェル」
「どっちが!?」
「傷付くよ、そんな顔されちゃ」
「だからやめてって言ったのに」
「ただのキスよ?今まで何度もしたじゃない」
「あんなのただのおふざけだよ!でもこういうの、本当にやめて」
「…そんなに女が嫌い?」

答える代わりにミシェルはまた吐きたそうな顔をして、それを必死に堪えている。

「……言わなかったっけ?僕の悪夢の初体験」
「!? …No ! (まさか!)」

そのまさかだよ―――思い出しただけで吐きそうだ、と言いながら、ミシェルが15歳の時の話を始めた。
同じアパートメントの2階上に住んでいた、3つ年上のスージーという女の子に無理やり奪われたのだそうだ。
小さい頃からませた子で、身体も大きく、その歳で既に相当なテクニックを持っていたらしい彼女は、あれよあれよと言う間にミシェルの体を奪ってしまった。
彼女に奪われた彼は一晩中吐き続け、すでにその頃には自分がゲイだという自覚はあったけど、それでますます女が駄目になってしまったらしい。

「ねえ、知ってたかい?女だってその気になれば男を無理やりやれるんだよ!」
「……」
「まさか君にまで――」
「――キスだけ!……あたしはそんなことしないわよ」

ミシェルは小さく首を振って項垂れている。本当に悪いことしちゃった……ベティは彼の肩を抱き寄せて、腕をそっとさすった。

「…ごめんね」
「……」
「…あんたが女を愛することが出来れば…幸せになれる可能性がもっと広がるのに……そう思っちゃったの」
「Non…」
「嫌なこと思い出させて…本当にごめん」

震えるミシェルを抱き締めてベティも泣いた。やっぱり彼を愛してる。大切な友達として。家族として。
そうだ、ミシェルはあたしにとって家族なんだ。生きていくのも大変なこの街で、あたしが真っ直ぐ立てるように支えてくれている、大切な家族のひとり。
そう、それは、喉元に詰まっていたものが、気持ちよくストンと腑に落ちる感覚だった。そうか、そういうことだったのか。
答えを見つけたような気持ちになり、彼女は涙を拭うと、すっきりとしたような笑顔を彼に向けた。

「…ほら、あたし、しばらくセックスしてないじゃない? だから……単なる欲求不満だったんだと思う。ラッセルとのことは……彼本当にいい人だから、軽々しい関係になりたくなかっただけ。本当はあんたのせいなんかじゃないの」

彼の腕をさすり、彼女はいつもみたいな少しおどけた顔で、彼の目の前に人差し指を向けた。

「言っておくけど」
「…?」
「二度とあたしにその可愛いお尻を見せないで」
「Wha !?」
「あのお尻は罪だよ」

それであんたとやりたくなっちゃったんだからね――ベティの言葉にようやくミシェルが白い歯を見せた。

「レディがそんな言葉、口にしちゃだめでしょ?」
「やりたいとか、ペニスバンドとか?」
「Noooo !」

互いに噴き出して暫くの間げらげらと笑い、再び訪れた短い沈黙。先にそれを破ったのはベティだった。

「…あのね」
「うん?」
「本当に大切な人はすぐ傍にいるよ、って言葉、憶えてる?」
「ああ…いつか言ってた、レイの言葉?」
「うん……あれね……あんたのことだと思っちゃったみたいで」
「!」
「それで何だかこんな…おかしなことになっちゃったって言うか…あんたをどういう訳か男として見ちゃった、って言うか……完全に頭おかしくなっちゃってたよ」

やっぱりレイの言葉はあんたのことじゃなかったってことだね。当たり前か――少しホッとしたような顔で呟いて、ベティが肩をすくめた。

「…本当に気付いてないの?B」
「何が」
「ずっと君を見つめ続けてる人間がいるってことさ」
「 !? Who ?」
「もう一度、周りをよく見渡してごらんよ」

その言葉にベティが部屋中をきょろきょろ見渡したので、ミシェルがぷっと噴き出した。

「馬鹿だなあ。ここにいるわけないでしょ」
「うるさいなあ!わざとだってば!」

ばつが悪そうにベティが唇を尖らせる。ふふん、と笑ったあと、彼は身体を少しずらして彼女と向き合うように座り直し、彼女の両手を取った。
何か大事な話なんだ。彼女はそれを悟り、それが何かを表情で彼に尋ねた。

「……I 'm in love (恋をしてるんだ)」
「!」
「寝ても覚めても、何をしてても、彼のことばかり考えてる」
「Oh…やっとキースの呪縛から解けたのね?Honey」

そう言って彼女は彼の頬を撫で、ほっとしたように息を吐いた。

「やだ、またろくでなしの男じゃないでしょうね?それだけが心配なのよね」
「…大丈夫。今度こそ運命の相手だと思える男と出会ったから」
「本当?キースの時も同じこと言ってたよ?」
「Non、あんなもんじゃないんだ。比べものにもならないって言うか……生まれて初めて感じたんだよ。彼には…本物の運命を感じたんだ」
「そっか……まあ、あんたが幸せでさえいてくれたら、こんなに嬉しいことはないよ」
「Thanks。僕も同じ気持ちだよ。幸せでいて欲しい。君にも、ラムカにも」
「…うん」
「もうあんな汚い言葉は聞きたくないしさ」
「Hey ! 」

げらげら笑うミシェルに仕返しの攻撃を仕掛ける。彼は彼女がハリーに怒りをぶちまけたあの夜のことを言っているのだ。
そうやってじゃれ合っているうちに、ふたりはまたもベッドに倒れ込んだ。

「Aw!」
「Hey ! 罰としてもう一回キスさせなさい」
「やだよ。何の罰だよ」
「じゃあ死ぬまでに一回でいいからセックスしよ」
「何でそうなるの」
「あんたが干乾びたおじいちゃんになってからでいいからさ」
「ぶっ!」
「その頃にはあたしのおっぱい、おへそまで伸びてるけど、いい?」
「ぶはは!」
「おやベティ婆さん、こりゃ何かね?新しいカーテンかね?」
「ぶははは!」

そうやって寝転がったまま、いつまでもくだらない冗談を言い合ってげらげらと笑ったあと、ミシェルが涙目でベティのほうへと顔を向けた。
彼女の瞳にも、笑いすぎて溜まった涙がうっすらと光っている。

ちゅっ ―― 子供の頬にそうするみたいに小さく音を立て、彼女の鼻や唇に軽いキスをして、ミシェルがベッドから身体を起こす。
笑みを収めて見上げる彼女に、彼は柔らかな微笑みを向けた。

「これだけは知っておいて、Honey B」
「?」
「男女の愛とは違っても、心から君を愛してる。本当だよ」
「…うん」
「……おやすみ」
「うん…おやすみ」

ぱたん、とドアが閉まる音を寝転がったままで聞き、彼女は短い息を吐いて天井を見上げた。
何だ。「本当に大切な人」探しを、また始めからやり直しってことか。

「…本当に大切な人は……すぐそばいる……」

あの日のレイの言葉を、噛み締めるようにゆっくりと呟いてみる。
すぐそばかあ。
お隣のフランキー爺さんだったりして。

彼女は自分の思い付きにくすっと笑い、瞳のはじっこに残された、涙のかけらを拭った。


Magnet 30.「Breaking the rules - ルールは破るためにある - 」






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翌朝、日曜日

ウエストヴィレッジ 9:15 a.m.

リズミカルな音と、じゅっと何かが焼ける音、漂い始めた美味しそうな匂い。そう…これはきっと、ベーコンを焼く匂い。
今朝はアメリカ風の朝食にしたのね、マー(ママ)。コーヒーのいい匂いもする。やった!チャイじゃなくてコーヒーが飲める日だよ、アイシュ!

「……ん……」

やがて視界が明るくなり、目の前にいたはずの母親も弟も、忽然と消え失せてしまった。

「……ん…?」

差し込む日差しの眩しさに目をこすり、反射的に寝返りをうつ。何度かまばたきをするうちに、瞳の中に映りこむ見知らぬものたちが、やがて彼女の意識を覚醒させていく。
壁の色、置かれた家具、毛布の感触、その全てが彼女の知るものではない。
彼女はそこでようやくはっと我に返り、慌てたように上体を起こした。

「Aw…」

起きた途端、額にずきんと走る痛み。額に手を当てたまま、彼女はこそっとベッドを抜け出し、恐る恐る良い匂いの漂う方へと足を進めた。

「!」

そこには、彼女の想像を絶する、あり得ない光景が用意されていた。
嘘でしょ!? ここって…彼の家!? まさか……!
ハッとしたように自分の衣服をチェックする。靴は脱いでいたが、服はちゃんと昨夜のままだ。当然、身体のどこにも、何の感覚も残っていない。
彼女は心底ホッとしたように、瞳を閉じて小さい息を吐いた。
それから足音を立てないようにベッドまで戻り、床に転がる靴とバッグを拾い上げ、再びゆっくりと足音を立てないように、玄関のドアまで向かおうとした。
だが、そのドアへ辿り着くには最大の難関が待ち受けている。そこへ到達するためには、オープンになったキッチンの横を通らなくてはならないのだ。
お願い、こっち向かないで!そのまま、そのまま……

「――Oh , mornin’ 」
「!」
「Hey !」
「あー……はは…」

願い空しく、あっさり彼に見つかってしまった。彼の視線が、彼女の手の靴とバッグに注がれる。

「…黙って帰るとか、あり?」
「…Sorry…」
「…ま、いいけどさ。とりあえず顔洗ってきたほうがいいと思うけど?マリリン」
「は?」
「マンソンのほう」
「?」
「バスルームはそっち」

彼がターナーで壁の方を指している。
混乱した頭で言われた通りにキッチンの裏側に回ると、彼の言葉通り、そこにドアがあった。
ドアを開き、バスルームに入って鏡を覗く。彼女はそこでようやく彼の言葉の意味を理解した。
昨夜たっぷり塗ったマスカラとアイラインがにじんで、彼女の目の周りを真っ黒に縁どっていた。さっきごしごしと擦った右目が特にひどいことになっている。
慌てて目の周りを洗い、彼のタオルで拭き取ることを数回繰り返す。完璧にオフ出来たわけではなかったが、少しはまともになったのでそれで良しとした。
それから勝手に彼の歯磨き粉を借り、指をブラシにして応急的に歯磨きを済ませ、がらがら、とうがいをして、再び鏡を覗き、くしゃくしゃな髪の毛を手ぐしで整えた。
それにしても、マリリン・マンソン*だなんてひどい。これくらいのアイメイクならみんなやってるわよ!
全く…男ってすぐこうなんだから!
そう言い返してやりたかったが、ひとまず今は膀胱がはちきれそうだったので、不本意ながら彼のトイレットを拝借した。
何の気なしにふっと右の方へ目を向けると、入ってきたドアとは別に、もう一つドアがあるのが目に入った。
手を洗い、こそっとそのドアを開けてみると、そこはクローゼットになっていて、その向こうにはさっきまで彼女の寝ていたベッドが見える。
収納スペースの半分も埋まっていない、ガラガラに空いたクローゼットを通り抜けてベッドまでたどり着くと、彼の部屋をまるっと一周したことに気付き、思わず彼女は声を上げた。

「ずるい!クローゼットがうちの倍以上もあるのに半分も空いてる!フェアじゃないわ!」
「は?」
「……何でもない。えっと…泊めてくれてありがとう。でももう行かないと」
「2人分作ったのに?」
「Oh……じゃあ……昨日の彼女でも呼べば?」
「……何だって?」

彼が非難するような呆れたような顔を見せた。

「真面目に言ってるの。だってせっかく彼女といい感じだったのに…その…悪いことしちゃったもの」
「へえ、驚いた。ちゃんと自覚してるんだ」
「……」

「彼女といい感じだった」――それに否定も肯定もせず、皮肉のような嫌味のような笑みを浮かべる彼。
迷惑をかけた、その負い目さえなければ、彼女はいつものように喧嘩腰な態度で応戦しただろう。
彼女がいつになくしゅん、としてしまったので、彼の方もそれ以上意地悪な物言いをするのはやめて、とにかく座りなよ、と彼女にもう一度着席を促した。

「悪い、冷蔵庫にろくなもんがなくてね。コーヒーだけは買ったばかりの豆だから美味いはず」
「…Thanks」

彼女は仕方なくテーブルに着いて、彼がマグカップに注いでくれたコーヒーをまずは啜った。ほんとだ、すごく美味しいこのコーヒー。
彼の作ってくれた朝食は、あり合わせと言う割には、カフェで出てくるようなちゃんとしたひと皿に見え、さすがね、と心の中で呟いた。悔しいから口には出さなかったけど。
に、してもだ。彼の家で朝食を一緒に食べるなんて一体どうなってるの?これって、本当に現実に起こってること?どう考えても夢の続きに違いないんだけど。ううん、夢だとしか思いたくない。
だが、彼女の抵抗もそこまでだった。人は美味しいものを口にすると、幸せな気持ちになる脳内物質に思考を支配されてしまう。どうやら降参するしかない。素直に現実を受け入れるしかないのだ。

「…ん、卵にナツメグ大好き。私もよくやる」
「そう?」
「! キャベツとクミンシード?」
「嫌いだった?」
「No , no , まさか!すごく美味しい!この組み合わせが意外で」
「ああ、クミンってカレーの材料だっけ。ライスサラダに入れても美味しいよね」

そうね、と返事をした後、しばし彼女が押し黙った。

「…ねえ…」
「?」
「もしかして……ベティとミシェルに私のこと、押し付けられた?」
「Bingo!」
「あー……やっぱり……」

そこまで言って、すぐに彼女がハッとしたような顔を向けた。

「ねえ!まさか私、吐いたりして…迷惑…かけてないわよね?」
「……」

彼は何も言わず、眉を上げて肩をすくめる仕草をしてみせた。
ああ!やっちゃったんだ、私ったら!

「Oh God ! I’m so sorry ! 」
「No , it’s ok」
「! もしかして……ベッドも奪っちゃった?」
「……」

さっきと同じように彼が肩をすくめる仕草を見せ、彼女は自分のしてしまったことを覚った。

「ああ……ほんと最悪」

テーブルの上で頭を抱える彼女を見て、思わず彼はくすっと笑いをもらしていた。

「いいから食べなよ。コーヒーもほら、冷めないうちに飲んで」






″ ―――ショーン……ショーン ″

″ …ん… ″

″ 起きてちょうだい、Honey ″

″ ……んん……いい匂いだ ″

″ 美味しいコーヒーが入ったの。さあ、起きて ″



唐突に、あの頃の朝の情景が蘇った。すぐさま彼は、マグカップのコーヒーをごくり、と勢いよく飲み込んだ。
この部屋に越して来て以来、ここに女を泊めたことはなかった。そうならないように配慮していた。
「彼女」との日々を思い出すようなことは、なるべく避けていたからだ。
酔っ払いの面倒を押し付けられ、ベッドまで奪われたせいで熟睡出来なかったというのに、朝食まで用意してやるお人好しな自分に呆れる。
挙句、封印したはずの思い出まで呼び起こされてしまったではないか。
そう恨みがましい気持ちになるのと同時に、いつの間にかこの状況を楽しんでいる自分にも気付いていた。
いつもなら仮面を被ったように、つん、と取り澄ました不機嫌そうな顔を見せる目の前の彼女が、今朝はその仮面を被ることを忘れたのか、或いは諦めたのか、意外に素直な反応を返してくるからだ。
ようやく心を開いた、と言えるほどではない。どこか警戒したような様子を見せるのも相変わらずなのだから。
けれどそれは自分も同じではないか。彼女だけではない、自分も仮面を被って生きている。そう思えるのだ。
不本意ながらも女を泊めたということは、自分の中にあったルールをひとつ破った、ということだ。
彼女といると何故かそうなってしまう。つまり、仮面を被ることを忘れてしまうのだ。いや、被らなければと思うのに、それを許されない状況に陥ってしまうのだ。
そしてそれを、諦めにも似た気持ちで受け入れ始めている自分にも驚いていた。
″ 幸せな人生を手にしたいと思わないの? ″ ――昨日姉のケイトに言われた言葉がふいに胸を突いた。
姉の言う ″ 幸せ ″ という言葉は何なのか。かつては人並みに ″それ ″を追い求め、そして、あっさり失った。今となっては、その言葉に意味を見出す価値があるのかさえ解らない。
仮面を被り続ける以上、決して手にすることは出来ないものだろう。だからこそ、あの日以来、仮面を被り続けて生きているのだ。
眼の前の彼女ももしかしたら、″それ ″ を求め、失うことを繰り返して生きているのだろうか。
一昨日の夜、恋人のふりをして欲しいと懇願した時の、彼女の瞳を思い出した。
彼女のあんな瞳の色はそれまで見たことがなかった。彼女にあんな瞳の色を浮かべさせたあの男は、一体どんな男なのだろう。
やはりあの男とのことを知りたい、心の底でそう思う自分がいるのだ。それを自覚し、苦笑いが浮かんだ。

「…Wha?」
「……Nothing」
「! ひどい、思い出し笑いするなんて。――Oh ! 私、そんなにひどかったってこと?」
「あー……いや、すごく面白かった」
「!?」
「動画に撮っておけば良かった、そう後悔するレベル」
「何それ!ひどい!」
「はは…」

彼女の頬を撫でたことも、彼女にキスをしようとしたことも、彼女を揶揄するような笑いごとの中にこっそりと隠してしまった。こんな時、いつもなら恥ずかしさを隠すように不機嫌そうな顔を見せる彼女が、ああ、と頭を抱えて素直にそれを受け入れている。
どうしたと言うのだろう。そんな彼女を見ていると、再びあの思いが沸き起こってしまったのだ。
眠る彼女に愛おしいとも言える感情が湧き、そっと頬を撫でた時と同じ、あの感情が。
彼は慌てたように、再びコーヒーを勢いよくごくり、と飲み込んだ。




そのままでいいよ、という彼の言葉に首を振り、彼女が皿や調理器具を洗い始めた。
髪の色や背格好は異なるが、やはりそれは、あの頃の「彼女」の姿を思い起こさせるものに違いはなかった。
それなのに、何故だか「彼女」の顔をはっきりと思い出すことが出来ないでいる。

「これで終わり?」
「Yeah、thanks」

皿洗いを終えた彼女にもう一度、少なめに注いだコーヒーを手渡す。
その時、マグカップを受け取ろうとする彼女の手と彼の手が重なり、反射的に二人の視線も重なった。

「…Thanks」

かすれた声で彼女がつぶやき、受け取ったコーヒーを唇に運ぶ。
その後、冗談めかして「またバイクで送る?」と笑う彼に、苦笑いで彼女が首を横に振った。
お願いだからこれ以上罰しないで、そういうことだ。
道を知らない彼女のため、地下鉄の駅の階段まで歩いて彼女を送り、じゃあまた明日、そう言って2人は別れた。
彼女の姿が地上から消え、彼は来た道をゆっくりと戻りながらふっと立ち止まった。そして駅の階段を振り返り、短く息を吐いて再び歩き出す。
見送るのはどうにも苦手だ。やはり女なんて泊めるもんじゃない。ろくなことになりはしない。
さっきから胸を焼き焦がすような、説明のつかないこの感情が、次第に苛々としたものに変わっていくのを感じた。
やがてアパートメントに帰り着く頃、彼はジーンズのポケットから携帯電話を取り出していた。

「―――Hi , It’s me 」
″ ―――― ″
「…今から行っても…いいかな…」







Magnet 31.「End of the long winter - 長い冬の終わり - 」





Sequel Ⅲ  後日談 : その3


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アッパーウエスト  11:10 a.m.

「……あぁ……」

大きくため息を吐き、がくり、と崩れ落ちた後、彼は一瞬で深い暗黒の世界に落ちた。
意識を手放していた時間そのものは、ほんの短い、時間とも呼べないほどの、時と時との狭間。
すぐに意識が戻ったのは、自分の下に敷いたままの彼女の手が、優しく彼の髪を撫でていたからだろう。
不慣れな感触に違和感を覚え、ハッとしたように身体を少し離すと、彼女がふふふ、と笑った。

「ぶっ飛んじゃったの?あんたらしくもない」
「…あんたこそ」

やめてくれ、そう言わんばかりに、彼の髪を撫でる白い手を剥ぎ取り、彼女の中に自分を埋めたままで、再び彼女を磔(はりつけ)にした。

「ふふ…まだ足りないってわけ?」
「……」
「ああ、でももう行かなきゃ。残念だわ。過去最高のファックだったってのに」

仕方なく身体を離し、ベッドに横たわって彼女を解放した。
床に落ちたシルクのガウンを拾い、するすると肌の上に滑らせる彼女を見遣る。

「……イネス」
「何?」
「……」
「? 何なの?」
「…いや、何でもない」

おかしな人ね、そう言いたげに肩をすくめ、イネスは寝室から繋がるバスルームに姿を消した。
″ ごめん ″――彼はそう言おうとして、それをやめたのだった。
部屋に入るなり、前を歩く彼女を壁に押し付け、ガウンの裾をまくり上げ、彼女の中に指を入れた。
″ もう、ほんとにせっかちなんだから ″そう呆れたように笑い、その先を許した彼女。
何故だろう。ごめん、とそう言いたくなった。彼女に対してこんな気持ちになったのは、きっとこれが初めてだろう。
彼女に愛情と呼べるほどの感情を抱いたことはなかった。何らかの絆のような、言わば同志に対する敬愛の情のようなものは感じるが、それ以上の感情はない。
いつだったか、暗黙のルールを破り、彼女がスキンシップを求めた日と同じように、彼の髪を優しく撫でる彼女に苛立ちを覚えた。
もしかしたら―――さっきの自分と同じように、彼女にも、今までとは違う感情が生まれることがあったのだろうか。
2人の距離感の均衡が破られてしまえば、もう、彼女とは終わりだ。
いや、むしろ終わりにしなければ――心の底でそんな漠然とした思いが生じるのを感じつつ、イネスに対して救いを求めている自分も嫌というほどに解っている。
実際、彼女・シェリーを見送った後、訳の解らないもやもやとした苛立ちをイネスにぶつけたのではなかったか。
だが、イネスを抱きながら、頭の中にはシェリーのことばかりが浮かんでいた。
だから彼女の残像を追い払おうと夢中で動いた。その結果が「過去最高」という賛辞を得たのだとしたら、まさに皮肉でしかない。

俺は……
一体、何をしてるんだろう……

ああ、まただ。時折彼の前に現れては胸を蝕む、あの虚無感。
これ以上ない厄介な感情に支配されてしまう前に、彼はベッドから身体を起こし、散らばった服をかき集めた。
そしてシャワーを浴びるイネスが戻って来ないうちに、彼女の部屋から姿を消した。
そして、1階へ降りるエレヴェイタ―の中で、彼ははっきりと自分の心の声を聞いた。
終わりにしなければ。そうわざわざ決意するまでもない。イネスとは、もう終わっているのだと。









ミッドノース Café Dubois (カフェ・デュボア)


その日のマンハッタンは、ぽかぽかとした陽気に誘われたように、どこもかしこもたくさんの人々で溢れかえっていた。
観光客もたくさんいて、あちらこちらで色んな言語が飛び交い、街のいたるところで人々が写真を撮っている。
彼の働くカフェも例外ではなかった。朝からひっきりなしに客足が押し寄せ、朝一番に仕入れたばかりのベーグル類も、昼すぎには早々に売り切れてしまう有様だった。
その日遅番だった彼は、朝の11時からカウンターの中に入って仕事を始めていた。
昨夜のベティとのあれこれを思い出して余韻に浸る暇もなく、そこへ入るなり、大量のラテのオーダーをこなさなければならなかった。
その日はジェニーも仕事だったが、話をする余裕もなく、「おはよう」と互いに挨拶をしただけで仕事に追われていた。
ジェニーは仕事中も彼の体調を案じているようで、目が合えば瞳で「大丈夫?」と訊いてくるから、彼はいつものように彼女を安心させるために、その都度、軽く笑みを返すことを繰り返している。
ジェニーのこともベティのことも今は考えたくなかったから、この忙しさに内心救われた思いで彼は仕事に没頭した。

そうこうしているうちに、昼の3時を過ぎた頃から少し客足が緩くなってきた。
息つく間もないほどの慌ただしさから少しだけ解放され、スタッフ同士のお喋りも飛び交うようになっていた。
その時を待っていたとばかりに、ジェニーがポールのもとへとやってきて、具合はどう?と心配そうな瞳を向ける。
気にかけてくれてありがとう。でも大丈夫、もう心配いらないよ。いつものように彼が笑みを返す。
ジェニーは心底安心した、とは言えない様子で、彼の言葉に何か言いたそうな顔を見せたが、彼がそのまま仕事を続けてしまったので、それ以上彼に声をかけることを諦めた。
そしてしばらく経った頃、店の前の道を掃除するために外へ出たポールが、掃除の手を休め、向かいのサロンの方へと手を挙げた。
ジェニーがそれに気付き、店の窓を拭く振りをしてじっと観察を続けていると、ベティが右手でピースマークを作り、オーケー、というジェスチャーを返した彼が店内に戻って来た。
そしてカプチーノを2つ作り、それをベティの元へ届け、再びカフェに戻るポールの一連の動作を、気付かれないようにこっそりと観察した。


「―――Hi , Paul」
「Oh , Hi」
「今日はホントにいいお天気ね。こんな日に仕事なんて嫌んなっちゃう」
「Yeah」

数時間後、洗ったマグカップを返しにベティがカフェを訪れた。たまたまカウンターにポールがいて、ベティと軽く会話を交わしている。
ジェニーはそれと気付かれないように横目でそれを観察しながら、ふたりの会話を聞き逃すまいと全神経を彼らに集中させた。
表面上はこれと言って疑うべきことはないように見える。けれど、少し前までは確実に存在していなかった「何か」がふたりの間にゆらゆらと漂っている。
彼が店の前で、ベティと以前のようなやりとりをしているのを見た時に、「何か良くないもの」の訪れを直感した。
そしてその後のふたりの何気ない軽い会話の中に、ふたりの間に明らかに「今までと違う何か」が漂っていることも確信した。いわゆる「女の勘」というやつだ。
ベティが店を出て行ったあとにも、ポールの周囲にはまだその「何か」がふわふわと漂っている。
残念なことに、というよりも、彼女からしてみたら幸いなことに、と言ったほうがよさそうだが、彼はそういった「何か」の存在を上手に隠すスキルというものを持ち合わせていなかった。
彼女を安心させようといつでも笑顔を向けてくれることも、彼女には時おり、それが「作られたもの」だということがちゃんと解っていた。それを知らないでいるのは彼自身だけだ。

直感に従い、ジェニーは帰宅後、何かしらの痕跡のようなものがないかとコンピューターを開き、ベティのインスタグラムやTwitterを調べ、そして直感が正しかったことを知ることとなった。
ベティのインスタグラムにアップロードされた数枚の写真。明らかにベティと解るボブカットの女の子や、ハートやリーフ模様のラテアートの写真だ。
その中の一つの模様は彼独自のデザインで、ひと目でポールの描いたものだと解る模様だった。そして全ての写真に「#weekend」「#@cafe」「#paulthebestbaristainny」(ポール、NYいちのバリスタ)とハッシュタグが付けられている。
そのうちの一枚の写真には「My first artwork.Thanks Paul ! 」とキャプションがつけられていた。









アッパー・イースト  10:20 a.m.


夫が息子を伴ってビル内のジムへと向かってから数分の時が経とうとしていた。
ぽかぽかとして春めいた、とても気持ちの良い日曜日だった。
日曜日には家政婦たちも休みになるので、今現在、家には彼女ひとりだけだ。厳密に言えば、ナディアがこの家に住み込んでいるのだから、彼女ひとりだけ、ということにはならないのだが、ナディアは朝から出かけていて留守だった。行先は言うまでもなく、教会だ。
そもそも、ナディアがどこへいつ誰と出かけたのか、いつ帰宅したのか、など詮索はしないのだから、出かけていようがいまいが、「休みの日にはナディアはいない」ものと認識されている。
キャサリンはのんびりとテラスを散策したあと、時計を見て、今日の昼食をどうするか、そのことに考えを巡らせた。
キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。サンドウィッチの材料くらいなら何とかなりそうだったが、久しぶりに家族揃って何か軽いものを食べに外へ出るのも悪くないかも、そう思い直して冷蔵庫を閉めた。
何と言っても、家にいるのがもったいないくらいの天気なのだ。
5分で身支度の整う男性陣2人を待たせることのないように、先にそれを済ませておくことが望ましい。
彼女はシャワーを浴びて、バスルームから繋がったクローゼットに移動した。
何を着て行こうかしら。ぽかぽかとした陽気だけど、案外風は冷たかったし、薄着では寒いかもしれないわね。
そんなことを考えながら、袖を通した白いシャツの上に着るセーターを選ぼうとして、ふと、夫のカシミアのセーターを拝借してみるのはどうだろう、と思いついた。
甘すぎない、少しグレイッシュな淡いピンク色をしたカシミアのセーター。彼女は夫のそのセーターがお気に入りだった。
素肌に着るには大きすぎるが、シャツの上から着るとほどよいサイズ感になる。セーターの袖口から出したシャツをまくり上げて着崩すと、彼女は満足気に鏡の前で立ち姿をチェックした。
その時だ。携帯電話にメッセージの届く音がクローゼットに小さく響いた。
自分の携帯電話かと一瞬思ったが、ここには持ってきていなかったはずだとすぐに思い直した。
クローゼット内を見回すと、昨夜夫が着ていたスーツの上着が、椅子の背にかけられたままになっているのに目が留まった。
ハンガーに掛け直そう、とその椅子から上着を持ち上げたとき、ポケットにちょうど携帯電話ほどの重みのものが入れられたままになっているのに気付く。

魔が差した。あとになって彼女は自分のしたことにそう言い訳をするだろう。
恐る恐るそこへ手を入れ、取り出した携帯電話。そのディスプレイに、届いたメッセージが表示されていた。
『素敵なタイだったわ。可愛い奥様にもよろしく』―――ただそれだけの短い一文。それだけで彼女は全てを覚った。それは夫の浮気相手からのもので、しかも昨夜のパーティーに顔を出していた人物なのだと。
差出人名は『ysl 』とただそれだけだった。きっと女の名前かニックネームのイニシャルなのだろう。
この携帯電話は夫の仕事用のもので、プライヴェートなほうはジムに持って行ったはずだ。
仕事用の電話にメッセージを送る。それがどういう意味合いを持つのか。彼女は瞳を閉じ、混乱する頭を整理しようと努めた。
そのメッセージを開き、相手の番号や情報を手に入れてしまいたい、そんな欲求に心がぐらぐらと揺れる。
しばらく考えを巡らせると、彼女は意を決し、ドレッサーの引き出しからメモ用紙とペンを取り出した。
そして夫へ届いたメッセージを開き、そこから相手の情報を引き出して、それらを紙に書き出した。
最後に、届いたメッセージそのものを消去し、携帯電話を夫の上着のポケットに戻すと、その上着を再び椅子の背にかけて、すべてを元通りにした。









ブルックリン 6:50 p.m.

お腹を空かせたデーヴィーに遅めの朝食を与えたあと、彼女はソファーでうたた寝をしてしまった。
何だか疲れちゃった―――そう感じてソファーにどかっと腰を下ろし、あれこれと考え事をしているうちに、うとうととしてしまったのだった。
春の訪れを感じさせるような、ぽかぽかとした陽気のせいもあっただろうし、彼の作ってくれた朝食をお腹いっぱい食べてしまったせいもあっただろう。
そんな彼女を起こしたのは、やはりデーヴィーだった。彼女が長いことそこで寝ていると、お腹や胸の上に乗り、毎回容赦なく起こしにかかるのだ。
時計を見ると昼の2時を半時も過ぎた頃だった。それからシャワーを浴びて、アパートメントの地下にあるランドリー室に洗濯物を放り込みに行き、それから近くのマーケットで買い物をした。
夕方帰宅し、地下のランドリー室へ洗濯物を取りに行き、そのあとは何をするでもなく、時間を持て余した彼女は、本でも読もうかとソファーに腰を下ろした。
けれど、いくらページを目で追っても、少しも内容が頭に入ってこない。仕方なく何度も同じ箇所を読んではみたのだが、結果は変わらなかった。全く集中出来ずに、文字が意味のない記号の羅列のようにしか見えないのだ。
ため息を吐いて膝の上の本を閉じ、それ以上読むことを諦めた彼女は、再びソファーにごろん、と横になった。
顔にかかった髪の毛を手で払いのけようとして、ふっと目に入った自分の手。知らない誰かの手のように、それをまじまじと見つめる。
彼からマグカップを受け取る時に重なってしまったこの指。そして、瞳。
あの時の彼の瞳の色が脳裏に蘇り、彼女の胸をざわつかせる。彼のあんな瞳の色を見たことは、今まで一度もなかったのだ。
彼の瞳に浮かんだ色。ほんの一瞬のことだったのに、鮮明に思い出すことが出来た。
あの時、見てはいけないものを見たような、それでいて、どこか確信にも似た思いが湧いた。
だが彼女自身、あの時自分の瞳にも同じ色が浮かんでいたことも、心の底に隠されている、彼女自身もまだ存在に気付いていない部屋に彼の瞳の色が仕舞われたことも、この時はまだ知る由もなかった。
今はただ、心がざわざわと音を立てていることを自覚しているに過ぎなかった。
ふと気が付くと、さっきまで部屋の隅っこでひとり遊びをしていたはずのデーヴィーがいつの間にかそばに来ていて、きちんと床にお座りをした姿勢で彼女の顔を見上げている。どうかしたの?と、そう言いたげな顔で。
デーヴィーを抱き上げて胸の上に乗せる。額に唇をうずめると、みぃぅ、とデーヴィーが小さく鳴いた。

「ごめんね、朝までひとりぼっちにして。寂しかった?」

みぃぅー。ひとりにしないでよぅ。再びデーヴィーが甘えるような声で小さく鳴いた。

「んんー、ごめんね。寂しかったの、そうなの、マミも寂しかったよ」

そう言いながら顔や額や喉元を撫でさすり、デーヴィーから気持ち良さげなゴロゴロとした喉音を引き出した。
デーヴィーが乗った胸のあたりがぽかぽかと暖かい。糸みたいな細い目になってゴロゴロ言い続けるデーヴィーの喉元を撫で続けていると、彼女まで眠気が押し寄せてしまい、デーヴィーを乗せたままでうとうとと眠り始めてしまった。



そうやって再びソファーでうとうとと微睡(まどろ)み始めて、どれくらい経った頃だろうか。誰かが部屋のブザーを鳴らす音に、彼女はまたしても起こされた。
誰かと思えば、ベティとミシェルの2人だった。デリでワインや食べ物を買い込んだ2人が、仕事帰りにブルックリンの彼女の部屋までやってきたというわけだ。
「昨日はごめんねパーティー」だと2人は言うけれど、「あのあと彼とどうなったのよ!?」と話を聞きたくてうずうずしたからやって来たのはありありだ。
残念でした、何もないわよ。って言うか、あるわけないじゃない!
そう唇を尖らせるラムカだったが、美味しいワインと食べ物のせいで、またしても幸せな気持ちになる脳内物質に思考を支配され、そのあとはいつものようにげらげらと笑い転げるのだった。


「―――でもさあ、無理やりあんたの世話押し付けられて迷惑だったはずなのにさ、朝食作ってくれたなんて優しいじゃん、彼。やーん、惚れ直しちゃう!」
「君が惚れ直してどうすんの」
「何言ってんの、優しくなんかないわよ。アイメイクが滲んだ私の顔みて『マリリン・マンソン』って言ったのよ、彼!ひどくない!?」
「ぶっ」
「他にも皮肉っぽいこと言われたしさ」
「とか言いつつ、まんざらでもなさそう」
「ね、本当は楽しかったって顔だよね」
「やめてったら。そんな訳ない」
「ってかさ、ミシェル、あの彼女どんな人よ」
「彼女? アマンダのこと?」
「そう」
「あー……今の前に働いてたサロンの客だったんだけど、プライベートなことはよく知らない。すごく要求とか評価が手厳しいけど、求められてる以上の仕事をすればチップも弾んでくれるし、新客を連れて来てくれたり、Twitterで宣伝してくれたりもする。まあ、この街に多いタイプの女性じゃないかな」
「ふーん…きっと押しが強いタイプよね。Hey、気を付けないと彼、盗られちゃうよラムカ」
「何でそうなるのよ」

げほん、げほん―――口にしていたナッツの破片を喉に引っ掛け、咳払いしながらラムカがかすれた声を上げた。

「人のことより、あんたこそどうなってんのよ」
「昨日言った通りだよ。キスだけしてサヨナラしたって。――――あっ!そうだ!ミシェルの相手の男知ってんだって!?ずるいよ」
「話したの?」
「Oui(ウィ))
「私も金曜の夜に知ったばかりよ。相手については全然知らな―――ってかミシェル!あんたこそあの後の報告まだなんだけど!」
「あの後!? 何、何があったの」
「あー……」

会いに行く勇気が出ない自分をラムカが無理やり連れ出してくれたこと、そしてその後、めでたく彼と一夜を共に出来たこと、昨夜もちょっとだけ彼と会っていたこと、昼間電話をして近々会う約束をしたこと、それらの出来事を淡々と語るミシェルの首に、ベティが後ろからガシッと腕を回した。

「Hey ! よくも抜けがけしたね?自分だけセックスした罪で逮捕する!」
「ちょ、苦しいです警部」
「共犯者の名前を吐け!」
「ミ……ミゲルです」
「Wow!同じ大天使同士なの!?」
「『ミゲル』ってミカエルのイタリアン・ネームだっけ?」
「それは『ミケーレ』。『ミゲル』はスパニッシュ・ネーム。でも彼、イタリアンとスパニッシュのミックスって言ってた」
「Ooh!きっとHotなラティーノね。ダークヘア?それともまたキュートなブロンドちゃん?」
「ダークヘア。瞳はヘイゼル」
「で、肝心のアッチのほうはどうだったのかねピノトー君。言え!言うんだ!」
「洗いざらい吐くんだ!」
「……マジで?言っていいの?飢えたお嬢さんたち」
「む?」
「いいの?ホントに?言っちゃうよ?ぶちまけちゃうよ?」
「むむ!?」
「ごくっ…」
「……His dick……(彼のアソコ)………is really fuckin’ killer!(マジで死んじゃうほどいい!)」
「きゃー!」
「Yeeeeeees!」
「一日に4回もやっちゃった!ふふっ」
「Gosh ! そんな回数、何年もないわー」
「えっ、あったの?」
「えっ!?ないの!?」
「4回よ!?」
「だって一日でしょ?一晩じゃないよ?」
「―――もう!まだあるんだから聞いて!顔でしょ、身体でしょ、声、匂い、えーとそれから……とにかく、マジで何もかもが素敵なの!」
「It’s not fair !」
「ほらね、いい男はもれなく全員ゲイなのよ。女があぶれるわけよ!」
「―――でもね、一番好きなのは彼の瞳。目と目があった瞬間、恋に落ちちゃったんだ」
「Aww…」
「それだけじゃないんだ。笑顔がとんでもなくキュートでさ、マジでキュン死しちゃう」
「うーわ、まだあんの?これ以上聞くとムカつく予感しかないんだけど」
「同感」
「あとね、あとね、キスも舌使いも腰使いも……ああ、もう、もう……ほんと、最高としか言いようがないよ」
「褒めすぎー。何か嘘くさーい」
「やっべ、まじムカついてきた!」
「ま、100倍増しに見えてる時期だもん、しょうがないけどねー」

うっとりとした顔でノロケ話を続ける彼は、女性陣のブーイングも全く耳に入らない様子で、さらに浮かれた声を上げた。

「Oh god ! またやりたくなってきた。ねえどうしてくれるの、今すぐ彼とファックしたくなっちゃった!」
「ねえベティ、さっきからいけない言葉連発する悪い子がいるんだけど」
「Yeah!そういう悪い子にはお仕置きだよね」
「わー!」

ベティがミシェルを押し倒し、反対側からラムカも参戦して、ふたりでミシェルの鼻やおでこや唇、顔中にキスの雨を降らせる。
ミシェルはもみくちゃにされ、シャツを脱がされたり、お尻を叩かれたり、ふたりの飢えた女どもからあれこれとお仕置きをされてしまった。
笑い過ぎたせいと嬉しさとアルコールのせいで、3人とも顔が涙でぐちゃぐちゃだ。
そうやって床に転がったままで、いつまでもくだらない冗談を言い合い、時にじゃれ合い、3人は寄り添うようにして、そのまま床の上で眠りに落ちたのだった。










ウエストヴィレッジ 8:10 p.m.

イネスの家からの帰り道、彼は友人のトムの店でランチをとるため、ノリータ地区へと赴いた。
食事の後、忙しそうなトムの手伝いをしたり、トムや店を訪れた共通の友人たちと話したりして夕方までのんびりとそこで過ごし、ようやく彼は自分のアパートメントへと帰宅した。
そしてそのままソファーに倒れ込むように横になった。
帰宅してドアを開けた瞬間に感じた、いつもと違う空気が部屋に漂っているような、奇妙な感覚。
自分以外に誰も居るはずのないこの部屋に、自分ではない他の誰かが確かにいたのだ、と改めて認識させられた。つまり、それは彼女だ。
姉や甥たちが帰ったあとには決して感じることのない「何か」がそこには漂っていて、それは彼を息苦しくさせた。
駅の階段で彼女を見送った時と同じような、わけのわからないものが、じりじりと胸を焦がすのを感じ、彼はソファーに寝転がったまま瞳を閉じた。そしてそのまま眠りに落ちてしまったのだった。
目を覚ましてみれば、すっかり日も落ちていて、ひんやりとした暗闇が部屋を満たしている。
明日からのクリフォード家でのメニューの準備もしなければならないというのに、何もやる気が起こらない。
彼はとりあえずソファーから身体を起こし、キッチンへ行って冷蔵庫を開け、冷やしてあったミネラルウォーターで乾いた喉を潤した。
それからバスルームへ行き、クローゼットを通り抜けて部屋へ戻り、そして、ベッドの前で立ち止まった。
そこは彼女が起き出したままの状態にされている。彼はゆっくりとそこへ腰を下ろし、身体ごと振り返るようにして、彼女が寝ていた箇所に瞳を向けた。
枕やシーツには柔らかなしわが残されている。何故だか彼女の体温がまだそこに残されているような気がして、確認するように、そっとそこへ手のひらを置いた。
当然のようにそこはもう冷たくなっている。それは解っていたはずなのに、何故だか彼を気落ちさせた。
やがて彼は頭の中のあれこれを追い払うように髪の毛を掻きむしり、そして、ベッド脇の小さいチェスト上に置かれたままの、彼女のピアスに目を留めた。
手を伸ばしてそれらを拾い上げる。手にした彼女のピアスを弄ぶようにして、しばし考えを巡らせると、彼は時計で時間を確認し、天井を見上げて小さく息を吐いた。
しばらく逡巡した彼は、彼女のピアスを手にしたまま、椅子に投げ置いてあった上着を取り上げた。




数分の後、彼はブルックリンの彼女のアパートメントへとバイクを走らせていた。
目印にしている、1階に小さな本屋がある建物の角を曲がる。スピードを落としてその通りをしばらく進み、彼女の住むアパートメントが見えてきたところでバイクを停めた。
エンジンを切り、ヘルメットを外す。乱れた髪を直すように髪をかきあげた時、聞き覚えのある笑い声が前方から聞こえてきた。
その声に顔を向ける。ミシェルとベティだった。2人は買い物の荷物を抱え、笑いながら彼女のアパートメント入口の階段を上がろうとしていた。
2人が建物の中に入るのを黙って見送ることしか出来ず、短く息を吐いた彼は、再びバイクのエンジンをかけた。
来た道を引き返し、再びブルックリンブリッジを走ってマンハッタンへと戻る。
少し前には肌を刺すように冷たかった風が、いつの間にか、冷たさの中にも暖かく柔らかな空気をはらんでいる。ようやく新しい季節が訪れようとしているのだ。
それは、彼の心の中の硬く厚い氷をも溶かし始めていた。ただ、彼自身がそのことに気付くのは、もう少し先のことだ。
昨夜から続く訳の解らない苛立ちから逃れるために、彼はその夜もまた、美しい水色のボトルから強い酒をグラスに注ぎ、それを何度も身体に流し込むことになる。
胸を蝕む苛立ちと心地よい酩酊とが、彼の中で何とか折り合いをつけ始めた頃、ようやく彼の長い一日が終わろうとしていた。