スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Magnet 3.「 Betty 」



 Magnet 3.  
「 Betty 」-ベティ-

m-file-magnet3-2.jpg


許すということの甘美さを知らぬ愛は、愛ではない。

――― ホイッチャー ―――




「――― お待ちしておりました、ミス・ベネット。お荷物は此方へどうぞ ――― 」

予約きっかりにミス・ベネットが来店した。
先にヘア・アレンジをし、その合間のネイル、という予定だ。
予め聞いてあった要望はシンプルで大人しめのベージュ系のフレンチで、という話だったが、
ミス・ベネットのメイクや着ているドレスを見たイメージでは、もう少し華やかな色の方が似合いそうな気がした。
取りあえず候補の色のネイルを数十本と幾つかのサンプルを用意し、頭の中で幾つかのイメージを膨らませる。
それはベティが一番好きな時間だった。あれやこれやと浮かぶアイデアをざっとスケッチし、客の要望を聞き入れながら浮かんだアイデアを提案し、それが形になる瞬間、至福の喜びを感じるのだ。

勿論、基本的に客の希望を叶えることが大前提であり、無理やりこちらの意見や提案を押し付けることはしない。
それに客も急いでいたり、確固たる好みがあるなど、アイデアを全く聞き入れても貰えないことも多い。
だがこの街には冒険心に溢れた女性が多く、此方が驚くような注文をされることもある。
思わず「それはご勘弁を」と断らざるを得ないセクシャルなモティーフのネイル・アートを頼まれることもあったくらいだ。


そして目の前の、カーラーを巻いた姿のミス・ベネットはそのどちらでもない女性だった。
つまり、素直にやり甲斐を持たせてくれる客だ。 
聞けば夕方からパーティーなのだが、ホスト側のアシスタントをしているので奇抜なものは避けたいと言う。
だがどうしてもベージュ系のフレンチに拘っている訳でもないらしく、もう少し華やかな色を、と言うベティの提案を
嬉しそうに受け入れてくれた。
明らかに高揚している雰囲気が伝わり、ベティも何だか楽しくなった。
女性がお洒落や美しくなることを楽しもう、とウキウキとする様子は自分もパワーを貰える気がするのだ。
そしていよいよ何度もボスに訴えて漸く導入して貰えたLEDプレスト・ジェルの出番だ。
それを施すのは初めてだ、と言う客が、たった5秒で硬化することにびっくりする時の快感と言ったら!
ミス・ベネットもその期待を裏切らず、何度も指先を触っては「信じられない!」と感嘆の声を上げていた。
ミス・ベネットが再びヘア・アレンジに戻った後は、テーブルの上を片付け、椅子や床の清掃をして
次の客を迎える準備をする。

やがて全てが整った頃、店の扉が開いたので目を向けると、其処には客ではなく6歳くらいの男の子が
顔を覗かせていた。
受付のモニカは席を外しており、また入り口の扉はベティのネイル・コーナーの直ぐ傍にあったので、
ベティが席を立った。

「こんにちは、坊や。ママを探しに来たのかな?」
「ううん、ミス・ベネットを迎えに来たの」
「あなたが?エスコートにはまだ早すぎるみたいだけど・・・」

ベティは笑ってその子供を店に迎え入れた。

「お向かいのカフェで待ってたの。ミスター・アンダーソンと一緒にね」

ミスター・アンダーソンとは、子供の後ろに立っているサングラス姿の男のことらしい。
ハンサムそうな男に見えるのだが、サングラスのせいで顔はわからず、結構な威圧感だ。
ボディー・ガードか何かだろうか? ・・・とすると、この子はセレブリティの子供なのかもしれない。

「そう。待ちくたびれてお迎えに来たのね。でもね、ジェントルマンはレディがドレス・アップする様子を
途中で覗いたりしちゃ駄目なのよ。 だから此処に座っていい子にして待っていてね、ミスター・・・」
「――レイだよ」
「―――!?」

レイ、ですって――!?
この子はまさか・・・さっきラムカが話していた子・・・!?
ベティは驚いて言葉を失い、あわあわとしながら笑顔を取り繕った。
そんな彼女を不思議そうに見上げる少年の瞳。
その瞳に吸い込まれてしまいそうな気がして、ベティは思わず瞳を逸らし、逃げるようにして自分の持ち場へと戻った。

「ミスター・アンダーソン、君もすわりなよ。そんなところでつったっていたら、みんながこわがってしまうよ?」

男はサングラスを外して渋々ソファに腰を下ろし、居心地の悪そうな顔で店内を見回し始めた。
その時彼のポケットの携帯電話が鳴った。
それに救われた、とばかりに電話に出るために店の外へ出て行く男を見送り、レイという少年はソファを降りると、ベティの目の前の椅子によっこいしょ、と登るようにして座った。

「・・・なあに?あなたも爪、塗りたいの?」
「――ねえ!まさか今日、君にも会えるなんて思いもしなかったよ、ミス・ベティ」
「え!?」

突然のことにベティは驚き、テーブル上に『 Betty 』と書かれたネームプレートなんか立ててたっけ?と咄嗟にそれを探した。
やはりそんなものはテーブルに立ててなんかいない。
不思議に思い、少年の顔を訝しげに見つめ返すと、少年はにっこりと笑って椅子の上に膝立ちするように座りなおし、身を乗り出すようにして彼女のテーブルの上に両肘を付いた。

「きょうこれで3人目だよ!いっぺんに会えるなんてすごいことだよね?」
「?」
「あのね、君にも言っておかなければならないことがあるんだ」
「???」
「ほんとうにたいせつなひとは君のすぐそばにいるんだって」
「What!?」
「ざんねんながら、それがだれかってことまでは僕にはわからないんだけど。ごめんね」
「・・・はぁ・・・そう・・・」
「あっ!ミス・ベネット!!」

全ての「工程」を終え、すっかり別人のようになったミス・ベネットの傍へ駆け寄る少年を
ベティは唖然と見送ることしか出来なかった。

「じゃあまたね、ベティ!」
「また今度もあなたにお願いするわ、ベティ!」

ふたりの嬉しそうな笑顔に引きつるような笑みを浮かべて見送り、ベティは腰が抜けたようにふらふらとソファに
座り込んでしまった。

信じられない・・・ラムカの話は本当だったってわけ!?
いや、違う、そんなことじゃなくて、えっと、なんであたしの名前とか、知ってるわけ!?
大切な人はすぐ傍にいる?どういうこと?何?何?あの子は一体、何者なの??

突如、目の前に現れ、訳の解らない予言めいたことを言い出した子供。
余りこういうことを信じないタイプの人間なだけに、彼女には衝撃が大きかったようだ。
ミシェルに報告しなくちゃ、とハッと思い出したように彼の姿を目で追ったが、彼はちょうど今、
ヘアカットの仕上げの真っ最中だ。
彼女は頭が混乱して、だんだん気分が悪くなってきた。頭痛もするし、何だか吐き気までする。
この後は予約も入っていないし、第一、こんな混乱した頭で集中力のいる仕事なんてきっと出来っこない。

彼女は別のネイリスト仲間であるエミに後を任せ、その日はそこまでにして早い時間に帰ることにした。






その後マーケットで買い物をし、彼女がクィーンズのアパートメントに帰り着いたのは、夕方の5時を
少し回った頃だった。
そしてバッグから取り出した鍵を差し込もうとドアノブに触れると、まるで誰かが引っ張るようにすうっとドアが
内側に動いた。
こんな時間にハリーが戻って来たのかしら、という考えが一瞬脳裏をよぎったが、彼女は直ぐにその考えを
打ち消した。
ここのところ新しいプロジェクトにかかりっきりのハリーは残業続きの毎日を送っていたからだ。
まさか・・・!空き巣じゃないわよね!!?――そしてそういう飛躍した思考へと発展した彼女は恐る恐る
ドアの隙間から手を伸ばし、玄関の扉を開いて直ぐの場所に立て掛けてあるハリーのバットを手に持ち、
そろり、と家の中へ足を踏み入れて―――
そして直ぐに鍵の外されていた理由を覚った。

まずはハリーのジャケットにシャツ、そして女物のジャケットにカットソー(どちらも決して彼女の趣味ではない)、
そして彼のTシャツ・・・・・・道標(しるべ)にお菓子を落としながら歩いたヘンゼルとグレーテルのように、
彼女がそれらを順番通りに辿って行くまでも無かった。
ベッドルームからの凄まじい声がここまで聞こえていたからだ。

「Oh・・・God・・・」

目の前が真っ暗になり、彼女は頭を抱えてはぁーっと大きく息を吐いた。
そして次第に燃え盛る焚き火の炎のように、めらめらとこみ上げる怒り。
次の瞬間、彼女はバットを振り回してベッドルームへと突進して行った。


「――Get the fuck out! Bitch!」 ――出ていきな!クソ女!!――









―――「ちょっと!ボトル隠してないでもっと飲ませなさいよ!ミシェル!!」
「No! もう駄目よ、ベティ!」
「あんたまでそんなこと言うの? もういい!誰もあたしのことなんか構ってくれなくていいよ!もう帰って!!」
「・・・・ここ、私んちなんだけど・・・」
「いいから帰れー!」
「もうー、ほんっと酒癖悪いんだから・・・」

口を尖らせるラムカにそれ以上言っちゃ駄目、というふうに首を振って、ミシェルはベティの手からグラスを取って
テーブルに置いた。

「おいで、ベティ」
「う・・・」

泣き出したベティの肩をミシェルが優しく抱き寄せる。

「ベティ、ハニー、知っての通り、僕もキースに新しい男が出来たと知った時はそりゃあ絶望したよ。
・・・まだ彼を愛してるし、今でも辛いけど・・・でも、彼を憎んでやしないよ。とっても感謝してる。
彼と過ごした日々は・・・本当に素晴らしかったから」
「・・・・あんたはキースの浮気現場を見たわけじゃないでしょ」

今の彼女には何の慰めにもならない、というふうにラムカが溜息を吐いた。

「・・・ミシェル・・・」
「うん?」
「いつも意地悪言ってごめん」
「ベティ?」
「あんたが男ならよかったのに」
「男だよ?」
「男?男だったの!?初耳だわ」
「・・・生物学上ね」

ああ、まただ・・・・
ラムカはうんざりした顔でベティが飲んでいたグラスの酒を一気にあおった。
何度浮気されても結局はハリーを許してしまうくせに。
こうやってあの馬鹿男に浮気される度に、酒を浴びるように飲んでわめいて大騒ぎして。
ああ、ハリーの馬鹿!何故よりによって今日なの!?今日は私が 『 悲しみの女王 』 の座を射止めた筈だったのに!
もう散々だ。朝から色んなことがありすぎて・・・こんなに身も心も疲れきっているのに、
慰めてくれる筈の親友を反対に慰めなきゃならないなんて。
それもこれもみんな、ハリーの馬鹿が悪い。いや、あいつらみんなが悪い!

「――セント・ジョンの理事長もあんたたちのボスも、レイもハリーもキースもショーンも、
男なんてみんな、この世から消えちまえーっ!!!」――― そう叫んでラムカはまた酒をあおった。
「ショーン? ショーンって誰よ?」
「あのさ、ラムカ、君まで酔い潰れると僕はとっても困るんだけど。ひとりでふたりの世話は無理だよ」
「何よ、スリー・サム(3P)、経験あるくせに」
「ヘイ!」

今ベティの前でセックスの話題を振るなんて!ミシェルがそう非難するような目を向けた。
当のベティはげらげらと笑ってるってのに。

「大体ね、あの子がいけないのよ!突然現れて訳わかんないこと言うから」
「そうだ!あのチビのせいだー!」

意見の一致を見て右手を叩き合った酔っ払い女ふたりを前に、はぁ、とミシェルが溜息を吐いて首を振った。

「・・・これだから女は嫌いだ」
「あはっ、じゃあ寝てみるー?」
「うわっ!やめてっ、ベティ!」

Go ahead!(やっちまえ!)
そう言ってラムカは仰け反るように笑い、そのままひっくり返るようにして床にぱたり、と力尽きた。






く、苦しい・・・・!
喉の上に乗った腕を引き剥がし、上体を起こして見てみれば、それはミシェルの腕だった。
ぎょっとして服を確認すると、自分もミシェルもちゃんと服を着たままだ。
ベティはホッとした顔で起き上がった。
テーブルの反対側の床にはラムカが死んだように眠っている。
ずきん、と鳴った頭を抱え、取りあえずぱんぱんに張った膀胱に溜まっている、昨夜の酒の成れの果てを
排出するためにバスルームへ向った。
それから勝手にバスルームの戸棚を漁り、ラムカがストックしてあった新しい歯ブラシを見つけ、それで歯を磨いた。
あ、そう言えばあたし用の歯ブラシがあったんだっけ、と思い出した時には既に歯磨きを終えていたのだが。

それから勝手にコーヒー・メイカーのスウィッチを入れ、お腹空いたよ、と足元に擦り寄るデーヴィーに
ラムカの代わりに餌をやった。
それから狭いキッチンの椅子に膝を立てて座り、適当に向こうの部屋から持ってきた雑誌をぱらぱらとめくっていた時にその言葉を見つけたのだ。

『許すということの甘美さを知らぬ愛は、愛ではない』―――

God・・・!冗談じゃないわ。それならあたしは愛を知り尽くしてることになるじゃない。
許すにも限度ってものがある。一体何度許せばいいのだろう?
これでハリーがあたしを裏切ったのは何度目!?
何故あたしは何度もあんな奴を許してしまうの!?―――いいえ、今度こそNo!よ。絶対に許さない!
よりによってアイツったら、あたし達ふたりのベッドの上で他の女とあんなことしてたんだから・・・!!
ハリーの間抜けな顔を思い出しただけで情け無さにまた怒りがこみ上げた。
あんな早い時間に帰ったりしなければあんな場面に遭遇することもなかったのに。
そう後悔しては、いいえ、そのお陰で奴の浮気を知ることが出来たのよ、と思い直す。その繰り返しだった。

今にして思えば、何故あの時、「帰ろう」なんて思ったのか・・・自分でもよく解らないのだった。
確かに急激に気分が悪くなってしまったけど、それ以前に「帰らなくちゃ」、という思いに突き動かされたと
言えばいいだろうか。
あれは胸騒ぎだったのか・・・或いは予感めいたものだったのか・・・
とにかく彼女は普段取らない行動を取った。そして恋人の浮気現場に遭遇してしまったのだ。
やっぱり何度考えてもそれが良かったのか悪かったのか・・・よく解らないでいる。
はぁ、と溜息を吐き、そこで漸く出来上がったコーヒーを口にしたのだったが――― ラムカ、不味いよ、これ。
・・・ああ、ポールのカプチーノが恋しい。


「ちょっと、もう行っちゃうの?」――餌を食べ終え、横を素通りしようとするデーヴィーを捕まえて抱き上げた。
ふわふわしたものを抱き締めると、その瞬間だけは心が安らぐのを感じられる。
Umm・・・デーヴィー!―― まるで恋人にそうしていたみたいに、そのふわふわした体を揺らすように
ぎゅうっと抱きしめてみる。

「・・・ね、あんたは好きな男とか、いないの? 教えなさいよ」

彼女はそう言ってデーヴィーの喉元をこちょこちょ、と撫でた。
ところが、無理やり抱き上げられたデーヴィーはそれを嫌がり、ふぎゃん、と鳴くと、逃げるようにベティの胸から
床に降りた。
Damn! お腹空いたと甘えてきたくせに、お腹いっぱいになった途端にこれだもの。

「何さ!あんたもあの馬鹿男と一緒ってわけ?」

都合のいい時ばっか甘えちゃってさ――彼女はしゃなり、しゃなり、と優雅に歩くデーヴィーの背に向って
悪態を吐いた。


『ほんとうに大切な人はすぐそばにいる』――あの不思議な子供の言った一言がその時ふいっと脳裏に浮かんだ。
大切な人? 一体誰だって言うのよ? 店のボンクラども? 唯一まともなミシェル? 
・・・それは有り得ないでしょ。
でもまさか・・・ゆうべミシェルとやっちゃった、なんてこと・・・ないわよね・・・? 
服、着てたし、彼、バイ・セクシュアルじゃないし。

え・・・? 

まさか―――ラムカ!?


彼女は自分で自分の思いつきにコーヒーを噴いた。



● 用語解説ページ



関連記事
スポンサーサイト

Magnet 2.「 Sean 」

 
 Magnet 2.  
「 Sean 」-ショーン-

m-file-magnet2-2.jpg


すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話に過ぎない。

――― アンデルセン ―――



義理を欠く訳にいかず、渋々顔を出した気の進まないパーティー。
そのクラブのトイレットの壁にそう落書きがあった。
見るに耐えない、くだらない落書きだらけの中にあって、ひときわ異彩を放つその言葉につい目を留めてしまったのだろうか。
そうかい、そりゃいいこと聞いたぜ、このくそったれ!―― 落書きに感謝の中指を立て、男は其処を後にした。

狭い廊下にはトイレットの個室が空くのを待っている数組の男女がいちゃついていた。目的は明らかだ。
彼らを避けながら何とかフロアーに戻ると、今度はついさっきまで彼が陣取っていた筈のソファー席を奪った見知らぬ一組の男女が、今にも事をおっ始めそうな勢いで熱いキスを交わしている。
やれやれ、と目を逸らせば、今度は向こうの壁際で、男を巡っての cat fight が幕を開けようとしている。
どいつもこいつも繁殖期のサイクルの乱れた、年中おかまいなしに発情した動物ばかりでウンザリする。
――当然、自分も含まれるのだが。

顔馴染みの女がひとり、ふたりとなく、「ねえ、またファックしようよ」としな垂れかかって来るのも鬱陶しい。
何を勘違いしたか、一度寝ただけで"Fuck buddy"を気取り、挨拶代わりに図々しく唇を重ねてくる女などは最悪だ。
彼女らが唇に残していく、やたらとベタベタしたリップ・グロスとやらが不快感を一気に煽り、彼に毎回舌打ちをさせた。
うんざりとした顔でそれを拭い、誰が二度とお前なんかと寝るか、と心の中で悪態を吐く。


だがそんな彼自身、本来ならば彼らのように刹那の快楽に身を投じることも厭わない種類の人間だった筈だが、
それがどういうわけか今夜は様子が違った。
やけに苛々するし、人と話をするのも苦痛だった。
此処で目にするもの、何もかもが、虚しく憐れに感じられるのだ。

時間の無駄だ――― 男はそのパーティーのホストに別れを告げるためにその姿を探した。





やっとのことでくだらないパーティーを抜け出すことに成功した男は家までの道のりを歩くことにした。
ここソーホーからウエスト・ヴィレッジまでなら徒歩圏内だし、いい気分転換にもなるだろう。
排気ガスだらけの街の空気ですら、あのクラブに漂う澱んだ空気に比べればずっとマシだ。
彼は外気を思い切り吸い込んで、ふうーっと大きく吐き出した。

何でこんなに苛々しているのか―――自分でもその理由がさっぱり解らないことが余計に腹立たしい。
立ち消えになった仕事の所為か、お陰で渋々引き受けざるを得なかった気の乗らない新しい仕事の所為か、
それとも、フィルの奴に打診された例の件か、それとも――― あの落書きの所為か。
ふっとそう思いつき、思わずふん、と鼻を鳴らした。

俺たちの人生は神が書いた童話だって?ふざけていやがる。
突然の悲劇も死も、何もかも、全ては神がお遊びで書いた童話だって言うのか?
神が書いた童話の通りの人生なら、何故、人は悔い改めなけりゃならない?



・・・ふん、どうだっていいさ。どうせあの日以来、神なんぞこれっぽっちも信じちゃいない。
いつものように鼻を鳴らして自分にそう言い聞かせた男は、信号待ちの間、何の気なしに周りを見渡し、
ふっと向い側で同じように信号待ちをしている男女に何気なく目を留めた。
何処かで見た女だな――― そう思ったものの、彼はそれ以上思い出そうとすることをやめた。
どうせ過去に寝た女か、或いは店の常連客だった女か――つまり、どのみち、
過去に寝た女だろうということだ。


信号が青に変わり、男は少しずつ近付くその女の顔をちら、と見て漸く腑に落ちた。
やはり過去に寝た女だったから、では無い。昼間、トムの店で出会った女を思い出したからだ。
昼間の彼女を思わせる黒い髪とエキゾチックな風貌を振り返るようにして立ち止まり、男は一瞬考えて、
来た道を再び戻り始めた。
女を追いかける為ではなく、ノリータにあるトムの店に向う為だ。




閉店間際の店内に客は殆ど見当たらなかった。常連の老人が窓際で独り外を眺めながら、いつものように
スコッチを飲んでいるだけだ。
「もうお終いだよ」――ドアベルに向ってそう声を掛けた店の主は、男の顔を見て「何だ、お前か」と笑った。
「悪いな」

そう言ってすまなそうに笑いながらカウンターに腰掛けると、直ぐにボンベイ・サファイアが男の目の前に
差し出された。 いつものように、切ったライムで縁をひと撫でさせたショットグラスに、冷凍庫でよく冷やされたそれを
注いだだけのものだ。
礼の代わりにグラスを高く掲げ、男はライムの香りで鼻腔を満たしてからそれをひと口舐め、ふうっと大きく
息を吐いた。

「今夜は決めこんでるな、ショーン。デートの帰りか?」
「ふん、下らんパーティーの帰りさ」
「何だ、珍しく女に逃げられて愚痴を吐きに寄ったのか」

ふん、と笑って鼻を鳴らし、男はジンをもうひと口飲んで、ふっとカウンターの隣の席へと視線を落とした。



今日此処に、本当に "ミス・シェリー " が現れた。
彼女が本当に " シェリー " なのかどうか確認こそしなかったが、彼女のあの驚きようから言って間違いはないだろう。
想像していた女とはまるで違っていた。いや、本当に出会うと信じていた訳ではないのだが、" シェリー " と聞いて
真っ先に浮かんだのは、さっきのクラブにひしめいていたような、彼が良く知る類の女だったのだ。
いや、そういう類の女としかここのところ関わっていないから、それ以外の種類の女が生息していたことをどうやら
忘れていたらしい。

「そうだ、ショーン、昼間の餓死寸前の彼女だけど――」

ちょうど彼女のことを考えている時にトムがそう言い出したので、彼は一瞬心を読まれたのかと内心焦った。
何しろここ数日、不思議な出来事が続いていたのだから無理もない。

「――知り合いじゃなかったのか? 帰り際、お前の名前を訊いて帰ったぜ。礼を言っといてくれ、だってさ」
「・・・あ、そう」
「俺の店でまでナンパするなよ、この女たらし」
「ああ? それより、今度またそんな女が現れたら、J.クルーニー(ジョージ・クルーニー)って言っとけ」

馬鹿馬鹿しい、というふうに手を振って、トムは店仕舞いの作業に戻った。
お前に説明したって信じて貰えないだろうな・・・そんなことを思いながら彼は再びグラスを傾けた。
俺自身、いまだに信じられないでいるんだから―――




―――" ちかいうちに君は、ミス・シェリーと出会うんだよ "―――


あれは数日前のことだ。
幼馴染のフィリップという男に頼まれ、彼の家で平日の夕食を作るという仕事を渋々承諾した、その初めての訪問の日。
初めて使う他人の家のキッチンで、オーヴンの調子や火力のチェック、パントリー(食品庫)や調理機材の確認などを一通り済ませた頃、フィリップの息子が興味深そうにキッチンに入ってきた。
「やあ」と声を掛けるショーンに、その子がいきなりそう言ったのだ。
子供の言う突拍子も無い言葉など真に受ける訳もなく、からかい半分で「へえ、そうかい。そりゃ楽しみだ。そのミス・シェリーとやらは美人かい?」
そう冗談で聞き返した彼に、その子供は真面目な顔でこう言った。

「知らない。僕もまだ出会っていないんだ。君のほうが先かもしれないね」

変てこなガキだな――そう怪訝な顔をする彼に向い、その子供が今度は微笑んでこう言った。

「出会ったらすぐにわかるはずだよ。彼女はとつぜん、君の前に "まい落ちる " はずだから」と―――


シェリーか・・・・
そう言えば・・・ミドル・スクールでそんな名前の子に告白されたっけな・・・


「―― なあ、トム・・・」
「あぁ!?」
「・・・・・いや、何でもない」

"俺の名を尋ねた彼女は『シェリー』と名乗っていなかったか? " ―― そう訊こうとしてやめた。
気にせず仕事を続けてくれ、と仕草で伝え、ショーンは再び隣の席を見下ろした。
あの子の言う通り、" シェリー " という名の女に確かにここで出会った。 
" シェリー " だという確証はないが。

だがそれが一体何だと言うのだ?
あれが出会いだと言うのなら、毎日のように誰かと何処かで出会っている。あのくだらないパーティーでも沢山の人間と出会ったし、あの女たちの中にシェリーという名がいたかもしれないじゃないか。
変テコなガキの言うお遊びに振り回されただけか。
馬鹿馬鹿しい、とばかりに鼻を鳴らし、残りのジンをくい、と飲み干した時に携帯電話にメールが届いた。
イネスからだ。
"今夜、どう? " ――― いつもどおりの、たったそれだけの文面。
今夜はこのまま帰ってゆっくり寝ようと思っていたのだが――



「――― 行くよ、トム」
「何だ?来たばっかりじゃないか」

彼が携帯電話をポケットに仕舞うのを見て、トムがニヤリ、と片目を瞑った。

「ブーティー・コールか。God damn it!(ちきしょう!)さっさと出てけ、このlover boy!(色男)」

友人の悪態に笑い、大目の金をテーブルに置いて、ショーンは窓際の老人にいつものように瞳で挨拶をして
トムの店を後にした。







「――― どうしたの、お洒落しちゃって。もしかしてデートだった?」

開かれたドアの向こうに立つ女が、からかいを含んだ声で彼を出迎える。
いつものように挨拶のキスも無し、ハグも無し。
だがそれは彼らふたりの間では『礼儀』であり、相手に対する『敬意』の表れでもあった。

「それなら来ないよ」
「どうかしら。振られた腹いせに寄ったかもしれないじゃない?」

ふん、と鼻を鳴らして女の後に続く。
シャワーを浴びたばかりなのだろう。好ましい残り香がさっきまでの苛々とした気持ちを和らげるようだった。
料理など殆どしない女には不相応な、立派すぎるキッチン。
そこを通り過ぎる度に軽いジェラシーのような気持ちを覚える。
だからといって彼好みのキッチンという訳では決してないのだが。


彼はジャケットを脱いで適当にソファの上に投げ、外した腕時計を壁際のコンソール・テーブルの上に置いた。
どうぞ、と声がして振り返ると、差し出されたグラスには赤い液体が注がれている。
それを目にした瞬間、昼間の出来事が甦り、シェリー・・・かどうかは解らないが、「美味しい」と笑った彼女の顔が
ふっと浮かんだ。
何故か心がざわつくのを感じ、それを払拭するように、彼は目の前の女へと視線を戻す。
深紅のシルクのローブから覗く豊満な胸元。十分に手入れの行き届いた素肌から漂う妖艶な香り。
慣れ親しんだそれを目にし、どことなくホッとしたような思いで彼は言葉を返した。

「あんたこそ。土曜の夜に俺を呼び出すなんて。さては男に逃げられた?」
「ふふ・・・」

軽くグラスをぶつけ合い、互いににやりと笑ってそれを味わう。
いいワインだ、そう言おうとすると、先に女が言葉を発した。

「言っておくけど、逃げられたんじゃないわよ。棄てて来たの」
「?」
「だって今日の坊や、可愛いばっかりで全然満足させてくれないんだもの」

ヒュー、と口笛を吹く彼に向い、女がにまり、と笑う。

「それであんたに会いたくなった、ってわけ。 いいえ、最初からあんたを誘うべきだったわ」
「・・・そう。それは光栄だね」――― そう薄く笑って、彼は赤い液体を再び舌の上に流し込んだ。


さっきのボンベイ・サファイアが今頃になって効いてきたのだろうか。急に視界がぐらぐらと回り始めた。
どういうわけか、目の前に居た筈の女は消え失せ、そこには昼間の彼女が立っている。
いつここにミス・シェリーが? ・・・ああ、俺は一体何を?

「――でも土曜日だし、まさかこんなに直ぐ来るとは思わなかったわ・・・・・そうだ、お腹空いてる?」

振り返ろうとした女を後ろから抱き締め、男は白い首筋に唇を這わせ始めた。

「・・・ああ、飢えてる・・・」
「もう・・・相変わらずせっかちね」

女の手からグラスを奪い、ひと口その赤い酒を含んだ男が、口移しにそれを女の唇へ注ぎ入れる。

「んん・・・ふふ・・・」

芳醇な味のキスを交わしながら、グラスの中の液体と同じ色に塗られた指先が、男のシャツのボタンを
慣れた手つきで外していった。



● 用語解説ページ



関連記事

Magnet 1.「 Lamka 」


   
Magnet 1.

「 Lamka 」-ラムカ-

m-file-magnet1b.jpg




すべての不幸は未来への踏み台にすぎない

――― ヘンリー・D・ソロー ―――




彼女がそれを目にしたのは、ベンチに誰かが置き忘れた(或いは置き去りにした)新聞を何気なく手に取った、その
紙面の隅っこだった。
『 世界の名言 ― 今日の言葉 ― 』 ――見出しにはそう書かれてある。
一見非常に前向きで、確かに勇気を与えてくれそうな言葉ではある。
だが今の彼女には何も書かれていない白紙をざっと眺めただけに等しい。
つまり、心に何も響いて来ない。何も入って行かない。
強いて言えば、アルファベット自体は目に飛び込んで来るのだが、文章としてではなく、ただの記号のようなものにしか見えていなかった。
つまり彼女は今、心ここに在らずな状態なのだ。

新聞から目を上げて、少し周りを見渡してみる。
向かいのベンチで編み物をしながらお喋りをしている老婦人が二人。
それから近くのベンチで同じように新聞を手にしながら熱心に何かを書き込んでいる、40代後半くらいの男。
本を読んでいる人もあれば、お喋りに興じている人もいる。そう、皆、" 何か" をしている。
再び前を向いて、コートの前をきちんと合わせ、マフラーを巻き直し、そして彼女はふっとこう思う。

で、どうして私、こんなところで座りこけてるんだっけ?


まるで路線を間違えたバス停のベンチに座り、間違いに気付かず一時間も二時間もバスを待ち続けながら、いつしかそのバス停に居る理由も、そこへ来た目的すらも見失ってしまったような、そんな気分だった。
それは現実からの逃避ではなく、彼女は今、本当に混乱していた。
いけない、私ったら!仕事に戻らなきゃ ――― 次の瞬間、うっかりそう思いついて急激に目の前が真っ暗になり、
彼女は上体を伏せるようにして膝の上で頭を抱えた。
戻るべき仕事などもう失ってしまったというのに。そう、ほんの二時間ほど前に。
底の無い沼にぶくぶくぶく・・・と沈んでいくような感覚が彼女を襲った。
苦しい。息が出来ない。二度と生きて這い上がることなんか出来そうにない。
助けて!レイ!―――何故よりによってその名前を呼んでしまったのだろう。
その理由はいずれ知ることになるのだが、とにかく今この時、彼女は絶望し、混乱を極めていた。



「――どうしたの?」
「――?」

突然の子供の声に彼女は現実に引き戻された。
顔を上げると、目の前に心配そうな顔をした5歳くらいの小さい男の子がサッカーボールを胸に抱いて立っている。

「あたまがいたいの?」
「あ・・・」
「それともおなかがいたいの?」
「・・・いいえ、そうじゃないの」
「でも、泣いているよ?」
「あ・・・」

慌てて濡れた頬を拭うと、少年は自分の胸に手を当てて、心配そうに彼女の顔を再び覗き込んだ。

「ここがいたかったんだね?」
「・・・心配してくれてありがとう。 えっと――」
「――レイモンドだよ。ママは僕をレイって呼ぶんだ。だからさっき、ママが僕をよんだのかとおもっちゃった」
「・・・!?」

レイ――彼女は確かにその名を呼んだ。しかし決して声に出して呼んだのでは無い。心の中で叫んだのだ。
「助けて、レイ!」と―――

「聞こえたの!? レイって!?」

さらさらのダークブラウンの髪を揺らし、少年がこくん、と頷く。

「ママはおしごとだからここにいるはずがないんだ。だから変だな、っておもったんだけど・・・きみだったんだね」
「ね、本当にレイって、そう聞こえたの?」
「うん。 どうやらやっと・・・ " そのとき " がきたみたいだね、シェリー」
「―――!?」

驚きの余り言葉を失い唖然とする彼女に向かい、少年はにっこり微笑んで片手を差し出した。

「はじめまして、シェリー。やっときみに会えた」
「ど・・・どうして・・・」
「ああ、気にしないで。これは "バディ " のせいだから。それから、悲しまなくてもだいじょうぶ。
そのうちきみにはいいことがあるから、だから泣かないでって」
「あ、あの・・・」
「―――坊ちゃま!!」
「ああ、今行くよ、ミスター・アンダーソン!・・・じゃあまたね、シェリー」 ―――








向かい側に位置する受付係のモニカが(詮索好き、別名 " スピーカー " )、興味津々な様子で何度もこちらを
ちらちらと見ている。
それを "何見てんのよ " といつもの顔でやり返し、ベティはグリーンの瞳をこちらに戻して眉をひそめた。

「なあに?その子・・・何だか・・・薄気味悪いよ」
「それは言いすぎだよ、ベティ。でも不思議な能力を持った子供には間違いなさそうだね」

最近髪をアフロから短く変えたばかりのミシェルが、椅子のキャスターをくるくるとせわしなく動かしながら
興味深そうな顔を見せた。

「そう思うでしょ?ミシェル。私の名前を知っていたのよ?それも " シェリー " の名を」
「幼稚園の子じゃないの?以前の園児だとか」
「いいえ、初めて会った子よ・・・・何だか・・・見たこともないような・・・とても不思議な瞳の子供だった」
「虹色とか!?」
「まさか!綺麗なヘイゼルの瞳だったわ。確かに猫みたいに環境で変わる瞳の色よね?そういう意味では
虹色と言えなくもないけど・・・でも、なんて言うか・・・そんなんじゃなくて何もかもを見透かしているような、
とにかくとても不思議な瞳だったの・・・・上手く言えないけど」
「あんなヤツの名前なんか呼ぶからよ、ラムカ。あんたを騙して挙句、仕事まで失わせたんだからね。
ホント最低の男!」
「ベティ」
「何よ、ホントのことじゃない」
「――ミシェル、ご指名だよ」
「ああ、今行くよ。 ――じゃ、仕事に戻るけど・・・ハニー、元気出して。またあとで電話するよ」

艶のある薄いブラウン・スキンの美しい青年に素っ気なく手を振り、ベティは頭を抱える目の前の親友に溜息を吐いた。

「もう、最悪だわ・・・失業だけじゃない、どうしてこうも男運がないの?私・・・」
「それについては悪いけど、頷かざるを得ないわね。・・・まあ、あたしも人の事言えないけどさ」
「・・・・はぁ・・・・」

大きく溜息を吐いたラムカが首をうな垂れたその時、一人の薄茶色の癖毛を持つ青年がトレイにコーヒーを載せて
店内に入って来た。

「ごめん、遅くなって」
「Hi、ポール」
「・・・・? どうかしたのかい?ラムカ」
「・・・・大丈夫、彼女にとって人生で何度目かのどん底、ってなだけ」
「本当かい!?大丈夫?ラムカ」
「・・・・・・」
「ラムカ・・・?」
「・・・・・・・・え? あ、ポール、いたの?」

ポールと呼ばれた青年とベティは思わず肩をすくめ合った。

「あー・・・あの・・・どん底の時くらいおごってあげたいんだけど・・・その・・・」
「解ってるわよ、あんたを失業させる気はないわ。こんな美味しいカプチーノ、NY中どこ探したって
飲めやしないもの」
「あー、サンクス、ベティ。 じゃ、行くけど・・・ラムカ、元気出して。また店にもおいでよ」


彼女はゆっくりと届けられたカプチーノへと視線を落としてみた。
よりによって今日はハートマーク!? ポールお得意のラテアートもこの日ばかりは恨めしく映る。
その憎たらしいハートをずず、と啜って消すように飲みながら、彼女はこっそりと胸の中でポールの馬鹿、と
悪態を吐いた。
彼には何の責任も無いというのに。
ごめんね、ポール、こんなに美味しいカプチーノを届けてくれたのに。私こそ最低だわ。
ひょこひょこと片足を軽く引きずりながら通りを渡り、向かいのカフェへと戻っていくポールの後姿を窓から眺め、
いつも優しい彼に対して八つ当たりしてしまった自分自身に嫌気が差した。

「・・・どうする?気分転換に爪、塗ってあげようか?」
「・・・・・ううん、いい。失業したんだもん、そんなお金、無いし」
「いいよ、お金なんて」
「そんなわけにいかないわよ。それにもうじき予約の時間でしょ」
「え?もうそんな時間!?」




ベティとミシェルの仕事場であるサロンを出た彼女は道を南下し地下鉄の駅へと向った。
グランド・セントラル駅の前まで来たものの、何となく電車に乗る気になれず、駅をそのまま通り過ぎ歩き続けた。
ニューヨーカーはとにかくよく歩くが、流石にここミッドタウン・ノースからブルックリンのアパートメントまで
歩いたことはない。
一体どれくらいの時間と労力が必要なのかと想像してみたが、直ぐにそれをやめた。
何しろ今の彼女には幸か不幸か時間だけはたっぷりとある。たとえ3日、いや、10日かかったとしても、
仕事に穴を開ける心配などしなくてもいいのだ。
疲れ果てて死んだように眠っても、明日の朝もその次の朝も、好きなだけ寝ていても何の問題もない。
そうよ、悪いことばかりじゃないわ。
そう無理やり自分に言い聞かせ、その無理やりさ加減にまた泣きたくなった。

今朝目覚めた時は・・・素敵な朝だと思ったのに―――

既に何度も何度も吐いた溜息をまたも吐き出し、彼女はひたすら歩き続ける。
何故突然こんなことに・・・? ――解っている。私はルールを破ったのだと。
「由緒あるセント・ジョン幼稚園の教諭に相応しくない行いをした」
一方的にそう言われ、そして抹殺されたのだ。
園児の親と恋愛をしてはいけない。
ルールブックに載せるまでもない当たり前の常識を破ったと責められて。

でもブランドンは2年前に卒園した子なのだからもう園児ではないし、父親であるレイとデートをするようになったのも
つい最近のことだ。
そしてその父親であるレイは独身だったのだ。――結局はそれも嘘だったのだけど――

彼を愛していたのか、と問われればイエスとは決して言えない。誘われて何となく始まった関係だったし、
本気で愛し合う関係に発展する、そのずっとずっと手前で終わった。
つまり彼にとってはただの火遊び・・・そう、ただそれだけ。
だから悲しくなんかない。あんな大嘘つきの男、二度と顔も見たくない。
でも・・・彼の子供も他の園児達のことも、心から愛していたのに。


――!

もうあの子達に・・・会えないの・・・・?


彼女はハッとして通りで突然立ち止まった。そのお陰で後ろを歩いていた男が彼女にぶつかり、
チッと舌打ちをして彼女を追い越して行く。
仕事を失った。男を失った。
でもそれ以上に彼女の心を打ちのめしたのは愛するあの子達にもう会えない、その事実だった。
途端にまた目の前が真っ暗になり、息苦しさが彼女を襲った。
でもこんなところで立ち止まってなんかいられない、しっかりしなきゃ。
何とか気持ちを奮い立たせて顔を上げた、その目の前に、そのカフェがあった。
何故そうしたのかは解らない。どうしてだか、その店に呼ばれたような気がしたのだ。
いや、入らなければならないとさえ感じる。
気付けば彼女はふらふらと引き寄せられるようにしてその店の扉を開いていた。



ざっと見回した小さな店内のテーブル席は全て埋まっていた。
雑然とした空気に一気に眩暈が加速したように感じる。彼女は何とか辿り着いたカウンターにもたれるように、
どさっと倒れ込んだ。
「おっと!」――勢い余ってカウンター・スツールから転げ落ちそうになる彼女に伸ばされた腕。隣の席に座る男だ。

「大丈夫かい?」

その男の声が直ぐ傍で耳に入った。大丈夫?と声を掛けてくれたのは今日これで何人目かしら。

「・・・・・・せて・・・」
「何だって?」
「・・・にか・・・食べさせて・・・」
「!?」
「・・・・・」

再びカウンターにどさっと伏せたまま動かない彼女を訝しげに見つめていた男は、
やれやれ、といった顔で彼女から視線を上げ、カウンターの中へと向き直った。

「・・・トム、こちらのお嬢さん、餓死する寸前みたいだけど。急いで何か作ってやったら」
「そりゃ大変だ。待ってな、お嬢さん」

彼女は自分で自分の口から吐いて出た言葉に驚いていた。
そう言えばお昼も食べずに歩き続けていたんだった。
口にしたものと言えばポールの淹れてくれたカプチーノだけ。
セントラル・パークからベティのサロンまで20分以上歩き、サロンからここまではその倍以上歩いている。
オープンキッチンから漂う美味しそうな匂いに漸く彼女は空腹で目が回りそうだったのだと知った。
いい匂いに誘われるように顔を上げると、隣で身体を支えてくれたその男と目が合った。

「・・・大丈夫?」

再び訝しげに大丈夫?と声をかけられ、途端に気恥ずかしくなってラムカは俯いた。

「・・・ええ、助かったわ。ありがとう」
「・・・飲むかい?きっと落ち着く」

男は返事をする代わりのように、手にしていたワイングラスをすっと滑らせるように彼女の目の前に差し出した。
怪訝な顔をする彼女にその男は、いいから飲んで、と再びそれを促す仕種を見せた。
昼間からワインなんて・・・そう思いながらも何故だかその男には抗えないものを感じる。
気付けば彼女は勧められるままにそのグラスを手にし、赤い液体を口に含んでいた。
グラスの縁から鼻に抜ける、少しつんとしたアルコール臭を含む芳香と、飲み込んだ後からふわっと口内と鼻腔に
広がる、格段に深くて好ましい芳醇な香り。

「・・・美味しい・・・」

思わず彼女は相好を崩して隣の男を見上げた。
そのたったひと口が身体中に沁み渡るような気さえする。
口許を手で覆うようにしてカウンターに肩肘を付き、その様子を見守っていた男が満足そうに、そうだろ?、という表情を見せた。

もっと飲んで、という仕種をした後で、男は突然、はっと何かを思い出したように唖然とした顔で、ゆっくりと彼女の顔を見つめ返した。

「・・・なに・・・?」
「・・・まさか、な・・・」
「・・・??」

ふっと笑って小さく首を横に振る男に向い、今度は彼女が訝しげな視線を向けた。
男は立ち上がると、ジーンズのポケットから紙幣を出してカウンターの上に置いた。

「・・・ゆっくりしていくといい・・・シェリー」
「―――!?」
「じゃ。 ―――トム、またな」
「もう行くのか?ショーン」

ゆっくりしていけよ――そう言いたげな顔で見送るトムに片手を上げ、
男は、驚いた顔で瞳を見開いたままのラムカを振り返りながら店の扉を押して出て行った。



● 用語解説ページ


関連記事

Magnet - Characters - 登場人物たち



Main characters  - 主要な登場人物たち -

woophy-character2.jpg



・ Sean   ショーン

31歳。フィリップ宅のお抱え料理人として雇われた、訳アリのやさぐれ30男。
イタリア・フランス・ギリシャ・ドイツ・スコットランド等、数カ国の血が流れているらしい。
フルネーム : Sean Edoardo Cooper ショーン・エドアルド・クーパー


・ Lamka  ラムカ

26歳。父は英国人、母はインド人。10代後半で母を亡くし、家庭を顧みなかった父とは疎遠。
幼稚園教諭だったが、ある理由で解雇され、解雇されたその日にレイ少年と運命的に出会う。
フルネーム : Sheryl Lamka Taylor シェリル・ラムカ・テイラー


・ Betty  ベティ

27歳。ラムカの親友で、ミシェルと同じビューティー・サロン勤務のネイリスト。
恋人のハリーと同棲して2年になるが、浮気性の彼に悩まされている。毒舌家。
フルネーム : Elizabeth Lee Krentz エリザベス・リー・クレンツ


・ Paul  ポール

26歳。ベティのサロンの向かいにあるカフェで働くバリスタ。
ベティに現在絶賛片思い中。少しだけ足が不自由な心優しき青年。
フルネーム : Paul William Howard  ポール・ウィリアム・ハワード


・ Michel  ミシェル

28歳。ベティと同じサロンで働くヘア・メイク・スタイリスト。
最近、恋人のキースと別れたばかりで傷心中の心優しきアフロ・アメリカン x フレンチMixの青年。
フルネーム : Michel Pinoteau ミシェル・ピノトー


・ Ray  レイ

6歳。キャサリンとフィリップの一人息子。不思議な能力を持つ。
この物語のキーパーソン・・・!?
フルネーム : Raymond Joseph Clifford レイモンド・ジョゼフ・クリフォード


・ Catherine  キャサリン

30歳。レイの母親、フィリップの妻。最近余り夫と上手くいっておらず、アルコール依存気味。
母親から受け継いだ宝石店をリニューアルさせ、新興ブランドとして成功しつつある。
フルネーム : Catherine Louise Livingston-Clifford キャサリン・ルイーズ・リヴィングストン=クリフォード


・ Phillip  フィリップ

31歳。レイの父親、キャサリンの夫。投資事業を中核とした持株会社の若き新CEO。
ショーンとは幼なじみ。
フルネーム : Phillip Thomas Clifford フィリップ・トーマス・クリフォード








Others  - その他の登場人物たち -



・ Inés   イネス

41歳。ショーンと「大人の関係」にある、やり手のビジネス・ウーマン。
フルネーム : Inés Christina Ardolino  イネス・クリスティーナ・アルドリーノ


・ Harry  ハリー

28歳。べティの悩みの種の恋人。同棲開始から2年の間、浮気を繰り返している。
フルネーム : Harold Richard Norman  ハロルド・リチャード・ノーマン


・ Miguel  ミゲル

33歳。ミシェルが運命的に出会った謎めいた男。イタリアとスペインの血を半々ずつ受け継ぐ。
フルネーム : Miguel Antonio Crespo  ミゲル・アントニオ・クレスポ


・ Anne  アンヌ

47歳。ミシェルの母親。恋人のジョルジュとカナダのケベック州に暮らしている。
活動期間、僅か3年ほどの、伝説の元・スーパーモデル。
フルネーム : Anne Gabrielle Pinoteau  アンヌ・ガブリエル・ピノトー


・  Sophie  ソフィー

19歳。ミシェルの父親違いの妹。
フルネーム : Sophie Pinoteau  ソフィー・ピノトー


・ Aish  アイシュ

21歳。ラムカの弟。
フルネーム : Nathan Raaishrya Taylor  ネイサン・ラーイシュリヤ・テイラー


・ Matthew  マシュー

56歳。ラムカの父親。現在はワシントンD.C.に暮らす。
フルネーム : Matthew Edward Taylor  マシュー・エドワード・テイラー


・ Jake  ジェイク
     
33歳。キャサリンの友人のファッション・フォトグラファー。
フルネーム : Jacob Smith  ジェイコブ・スミス



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。