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Magnet 5.「 Michel 」

 Magnet 5.  
「 Michel 」-ミシェル-

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僕は二十歳だった。それが人生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。

――― ポール・ニザン  ( 『 アデン・アラビア 』 ) ―――



「――ともかくママン、お願いだから朝から電話してきてジョルジュの話をするのは止めて。気がおかしくなりそうだよ」

あんたって時々、気難し屋で嫌になっちゃうわ。そういう気取ったとこ、父親そっくりよ!
最後はフランス語でいつもの捨て台詞を決め、母親が漸く電話を切った。
ああ・・・と溜息を吐いて天井を見上げると、赤黒く気味の悪い色をした亀裂の染みが、いつものように彼の瞳に
映りこむ。
どうしていつまで経ってもこうなんだろう。
いい加減良い男を見つけて、落ち着いた穏やかな暮らしをしてくれればいいのに。
Talking to a brick-wall . 言うだけ無駄か。
幾ら言い聞かせたところで、奔放な母には全く通じないってことを忘れていた。

今度こそきっと、ママンは幸せになれる―――今度の恋人は久しぶりに母よりも歳上だった。
それで変に期待してしまったみたいだ。
フランス語で愛を語り合えるから。
それだけの理由で男を選んだ、としか思えないほど、彼は " ろくでなし " の男だった。
ひとつ前の若い恋人のほうがよっぽど母を大事にしてくれていた。
とすると、男の甲斐性に年齢は関係ないということなのだろうか。

気取り屋ミシェル――母はよくそう言って彼をからかった。
時折、さっきみたいに癇癪を起こしては、あんたはそういうところが父親に似ている、と彼を責めるのだが、実際彼には悪く言えば少し気難しいとも取れる繊細な部分が備わっている。
顔もろくに覚えていない父親に似たのは、この縮れた髪と肌の色だけだと思いたかった。
どんなにうんざりすることが多くても、僕は決して父のように母を見捨てたりはしない。多分、この先も。

だからと言って、朝っぱらから電話してきて恋人への不満や悪口をのべつ幕無しぶちまけるのは勘弁して欲しかった。
どこの誰が朝の8時に自分の母親とその恋人とのベッドの話なんて聞きたがるだろう? 
ねえママン、そういう話はソフィーか友達にしてよ――そう言うと決まって母はこう言うのだ。
" あんたにしか話せないのよ " と。
やめてよ、僕がヘテロじゃないって知ってるでしょ? 相談になんか乗ってあげられない。  
解ってないのね、mon chou! そんなことは問題じゃないのよ。あんたには才能があるの。人を慰めて癒してくれる才能が。 
ソフィーが相手にしてくれないだけでしょ?都合のいいこと言わないでよ
―――毎回こんな会話の繰り返しだ。

彼はふうーっと息を吐いて電話をベッドの中からナイトテーブルの上に戻し、再びごろんと横たわった。
聞きたくもないベッドの話を聞かされるのはもううんざりだった。
子供の頃何度も目にした、母とその時々の恋人たちとの淫らな姿を思い出して、気が狂いそうになる。


彼の母親は20歳になるかならないかの若さで彼を産んだ。
恋人を追いかけてやって来た、この遠い異国の地、アメリカで。
写真家やファッション・デザイナーにとってのミューズでもあった早熟で魅惑的なパリの不良娘は、
虚構の世界を捨て愛に生きた。
恋人を追いかけて、パリからロンドンへ、そしてアメリカへ。
結局ミシェルの父親とは上手くいかなかったが、国に帰るお金も無かった彼女はそのまま、
この地で暮らすことを選んだ。
いや、直ぐに新しい男との新しい生活が始まったせいでそうなったというべきだろうか。
以来、母はニザンの『アデン・アラビア』の有名な一説をまるで自分の言葉のように繰り返し呟いて生きている。
若さを保つ秘訣は恋をすること―――そう公言して憚らない。
そしてここ10年程は恋人が変わる度に各地を転々としていて、今はカナダのケベック州に恋人のジョルジュと
住んでいた。


そんな母親だったから、彼はこの街で16歳からの殆どを一人きりで暮らしてきた。
時折、まだ小さいソフィーを連れて思い出したように彼の元へ帰ってくる母親は、彼の膝の上で涙に暮れる日々を
送ったかと思えば、また誰かと恋に落ちて何処かへふらっと行ってしまう。
何故か母は毎回、根無し草の旅人のような男とばかり恋に落ちてしまうのだ。
最長記録は3年。最短では3日。そしてジョルジュとはそろそろ3ヶ月。 ――― 何だか嫌な予感がする。



電話が鳴る度に、キースからの電話でありますように!―― そう願いながら受話器を取り上げ、
そして瞬時に失望することを一体何度繰り返してきただろう。 
大概、相手は母親のアンヌか妹のソフィーか、或いはベティかラムカか―――
つまり、そのほとんどが "女たち " だった。 
たまに聞く低い声の持ち主と言えば、数少ない男友達の一人であるラッセルか、誰がこの番号を教えるのかは
知らないが、胡散臭い男からの誘いの電話か、しつこいモデル依頼の電話か―――
つまり、ラッセル以外、ろくでもない電話ばかりだ。
僕は彼女達にとって一体何なんだろう?他の女友達と僕とは一体何が違うと言うんだろう? 
何故みんなが自分に話を聞いてもらいたがるのかがさっぱり解らない。
あんたには才能があるの。人を慰めて癒してくれる才能が。母親の言葉が蘇り、彼に溜め息をつかせる。
ママン、本当にそんな才能が僕にあると言うのなら、どうして自分の傷は癒せないの?
僕自身はまだこんなにもボロボロのままなのに。


不本意な役回りを憂いながら、彼はそれ以上考えることを止め、ベッドを抜け出してバスルームへと向かった。
こんな気分の滅入った朝には・・・そう、レニーだ!
彼は気晴らしにレニー・クラヴィッツを大音量で流した。
そして、その日も女たちを慰める役回りが巡って来る運命にあるとも知らず、身体を揺らして歌いながら
熱いシャワーを浴びた。






1:45 p.m.、まずはラムカが店に飛び込んで来た。
仕事仲間のJ.C.が(彼は " ジェシー " の名を周りにそう呼ばせていた)「どうしちゃったっての? あんたの
スパイス・ガール?」と大げさにラムカを指差して小首を傾げたので、大事な商売道具であるその指先をぎゅっと
捻り潰さんばかりに懲らしめてやった。
普段温厚なミシェルだったが、意外にも彼は時折こういった相手の不意を衝く反撃に出たりもする。
不敵な笑みを浮かべながら。
インド系のラムカを揶揄し、いつもどこか小馬鹿にしたような物言いをする尊大なJ.C.にいい加減
我慢ならなかったからだ。
(もっともJ.C.は、誰に対してもそういう尊大な態度を取る人物だったのだが。)
「何すんのよ!このビッチ!」というJ.C.の罵声が彼の背に届いたが、彼はひらひらと手を振りながらそれを無視して、ベティの目の前でうな垂れるラムカの肩を抱き、髪にキスをして、「ああ、何て酷い髪だい?」と嘆いた。


そして届く筈のカプチーノを待たずして客に指名を受けた彼は、ラムカの出会った不思議な少年の話に
後ろ髪をひかれる思いで仕事に戻り、今度はそちらに神経を集中させた。
3:30 p.m.、気付けばラムカは店を後にしており、ベティの目の前にはどういうわけか小さい男の子が座っている。
彼は困ったような顔をしたベティにくすっと笑い、再び目の前の顧客の仕上げに集中し始めた。
そして彼はその後、彼女に出会った。




彼女がサロンにやって来たのは4時を少し回ったくらいの時間だった。
ちょうど指名を受けた顧客を店の外まで見送った時に、偶然彼女が其処へ飛び込んで来たのだ。
「時間がないの!誰でもいいわ、ヘア・メイクをお願い!」
たまたま居合わせたミシェルにそう懇願する彼女に、「あなたはとてもラッキーだ。何しろ僕の手が偶然にも
たった今空いたんだから」――彼はそう豪語して自分の椅子に彼女を案内した。

彼女は名をキャサリン・クリフォード、と言った。
聞けば新人アシスタントの手違いと運の悪さが重なり、いつものサロンで予約が取れなかったのだという。
困っているところへもう一人のアシスタントが別人のようになって姿を現したので、どこで変身して来たのか
聞いたところ、このサロンだったのだと言う。
彼女の言う、別人になったアシスタントとはミス・ベネットなのだった。
ミス・ベネットを担当したランディーがそれを聞いてミシェルに抗議の視線を送ったが、ミシェルは「Excuse me 」と
片目を瞑っただけで彼の抗議を撥ねつけた。
何故なら彼女は「誰でもいい」と言っていたのだし、たまたま彼が直接それを請け負ったのだから、
この場合、ルール違反だと責められる筋合いはない。
今日このサロンは二人の新客を手に入れたわけだが、それを仲良く一人ずつ分け合えば良いのだ。


ミシェルが得意なのはヘア・アレンジはもちろんのこと、その人の魅力を最大限に引き出すメイクアップだ。
キャサリンは見事なまでに美しい素肌の持ち主だったので、ベースは余り作りこまずに本来の肌の美しさを
大切にした。
まるでマイアミの空と海のように美しい彼女の青い瞳をぐるりとラインで囲み、くるくるとよく動くその大きな青い瞳が
引き立つように、余り色味を使わずにブロンズ系のグラデーションでシックに仕上げた。
マスカラは上下にたっぷりと惜しみなく。
緩くウェーブのかかった長いブロンドの髪はシャープな印象になるようひとつにまとめ、彼女の可愛らしい
ドーリーな雰囲気を大人っぽい印象へと変えさせた。彼がイメージしたのは大昔のブリジット・バルドーだ。
ここのところ、唇に色が戻ってきたとされているのだが、あえて彼は彼女にヌードカラーのルージュを選んだ。
薄めの唇に濃い色のルージュは老けて見える。
逆に言えば幼く見えるタイプの彼女にはそれが大人っぽく見えるという利点もあるのだが、カラーレスにすることで
彼女の青い瞳と豊かな表情が、とてもクールでセクシーに見えると思ったからだ。
自分でメイクするとどうしてもピンク系のグロスで終わっちゃうの――そう言って彼女は刻々とクールに変わってゆく
自分の姿に驚いていた。


ミシェルが慎重に仕上げのチェックをしていると、名刺、ある?――と彼女にそう問われたので、勿論!と片目を瞑り、彼は人差し指と中指に挟んだそれを彼女に差し出した。

「ミシェル・・・・ピノトー? フランス系なの?それとも・・・」
「よくピノトーと読めたね」
「実は主人もフランス系なの。 ふふ・・・何だかあなた、ジャン=ミシェル・バスキアみたい」
「ああそれ、たまに言われるよ。残念ながら余り絵は得意じゃないんだ。
その代わり、女性の顔に色を塗ってるってわけ」

そう苦笑いして肩を竦めると、つられて笑いながらキャサリンが再び彼の名刺に視線を落として
首を傾げる仕草をみせた。

「・・・ピノトーって・・・そう言えば昔、何とかピノトーって名前のモデルがいたわよね?アン・ピノトーだったかしら?
活動期間僅か3年くらいの、伝説のモデル・・・」
「――それ!彼の母親よ!」

すかさず横からパチンと指を鳴らし、J.C.が口を挟んだ。
それは母親の話題を振られるのが嫌いなミシェルへの、彼からのささやかな仕返しだった。
Shit!―――普段決して4-letter-word を口にしないように心を砕いているミシェルだったが、
流石にそれにはうっかり禁忌を破ってしまった。

だが、キャサリンには彼の悪態など全く聞こえていないようだ。
と言うのも、J.C.の言葉にOh my god ! と繰り返して興奮していたからだ。
そうなるともう対処法は一つしかない。母と自分のプライバシーを守るため、人違いだと言い張ることだ。
納得いかない風情のキャサリンだったが、辛抱強く肌の色の違いを強調してそれは人違いだと言い続けたので、
何とかその場はそれで収まった。
J.C.の奴、今度また同じことをしたら今度こそ指をへし折ってやる・・・!―― 彼は心でそう息巻いたが、
それを隠してキャサリンを店の外まで丁寧に見送った。


この時、まだミシェルは彼女がラムカの話していたレイ少年の母親だということは知らずにいた。
そして先客のカットをしている間にベティが話をしていたあの少年が、そのレイ少年だった、という事実も。
その日、ラムカとベティが続けざまにレイ少年と出会い、その不思議な言動に困惑し、振り回されたということを
知るのはもう少し後―――つまり、その日の夜の事になる。





7:20 p.m.
閉店より一足先に仕事を追えた彼は、チェルシーのアパートメントへ帰る途中、ラムカが気になり電話をかけた。
「緊急事態発生よ!直ぐにうちに来て!」――昼間の力ない声とは打って変わったラムカの切羽詰った声。
彼女やベティの言う「緊急事態発生」による召集は長い夜になるということでもあり、その為に必ず必要なものが
幾つかある。
それで彼は途中、ソーホーにあるDEAN & DELUCAに飛び込んで、ワインやリキュール、数種類の
食べ物を買い込み、キャブを拾ってブルックリンのラムカの家まで駆け付けた。 
そして荒れ狂うベティの面倒を見る羽目になってしまったのである。

つまり彼はその日、突然どん底に陥った二人の女友達を慰め、予約が取れず途方に暮れていた一人の女性を美しく変身させる為に尽力した、ということだ。
他の顧客や地下鉄の駅の階段で転びそうになった女性、母親のアンヌも人数に含むとすれば、その日、
彼は8人もの女性を何らかの形で手助けした、ということになる。
それを自覚する間もなく、彼は酔い潰れたベティに圧し掛かられるようにしてその夜は力尽きた。



翌朝、お気に入りのサンローランのヴィンテージ・シャツの襟元や胸元のあちこちに付けられた、ベティの口紅や涎の染み。
彼は溜息を吐きながらこう思った。
ベティやラムカのことは心から愛しているけど、やっぱり女は嫌いだ、と。
その嫌いな筈の女を美しくすることを仕事にしてしまったのは何とも皮肉なことではある。
勿論、客は女性に限っていないが。
でも実際、女性の髪に触れ、肌に触れ、そのしなやかで柔らかな手触りに生まれて初めて恍惚を憶えた相手は、
紛れも無く母だった。
指先に摘んで上に持ち上げ手を放すと、さらさらさらっと柔らかく零れ落ちる母の蜂蜜色の髪。
黒く縮れてごわごわな自分の髪とはまるで違う、その柔らかな手触り、しなやかな動き、その度にふわりと漂う
シャンプーの香り。
心地良くて楽しくて、そうやっていつまでも母の髪で遊んでいた。


いや、本当のことを言ってしまえば、うんざりする存在でもある母に対して、反対に強烈な憧れを抱いているのも確かなのだ。
母は本当に美しい。美しいが奔放で自堕落で、どうしようもなく欠点だらけの弱い人間でもある。
でもその欠点さえも魅力的に映ってしまうほど、彼には母が眩しく見えることもまた事実だった。
だからこの仕事を選んだのかもしれないと最近になってそう思う。
やはり原点は間違いなく、あの欠点だらけの美しい母にある、と。
つまり彼はその手で数多の女性を美しくしたいのだ。おそらく、母のような美しい女性に。
それはここのところ、母親に向って素直に、愛してるよ、ママン、と言えない彼の遠回しの愛情表現のひとつなのかもしれなかった。
本人の望む望まないにかかわらず、やはり彼は女性たちにとって無くてはならない存在であり、
母親であるアンヌの言葉通り、彼には才能があった。人を癒す才能と、そして、美しくする才能とが。
そして母親のアンヌもまた、彼にとってのミューズだった。彼にその自覚はなかったが。 



数日後、そんな彼の才能により、眠っていた違う魅力を引き出されたことに感銘を受けたキャサリンから、
後日サロンへミシェル宛の花束が届けられた。
その花束にはキャサリンからの丁寧な礼状と、とあるパーティーへの招待状が添えられていた。



● 用語解説ページ



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Magnet 4.「 Paul 」


 Magnet 4.  
「 Paul 」-ポール-

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世の中には幸福も不幸もない。
ただ、考え方でどうにでもなるのだ。

――― シェークスピア ―――



今朝のウェブ・ニュースで届いた「世界の名言」は、彼が幼い頃から父親に言い聞かされていた馴染み深い言葉だった。
「It's my favorite!」 彼は思わずそう小さく呟いて、苦虫を噛み潰したような顔でコーヒーを啜った。

お気に入りの言葉なのにそんな表情を浮かべたのには訳がある。
毎日他人の為に美味いコーヒーを淹れ続ける彼が毎朝自分の為に淹れるコーヒーは、比べ物に、いや、話にならないほど酷い味のものだったからだ。
時にはコーヒーというよりも木の粉のような匂いがする。
もはやそれはコーヒーとは呼べない。木の粉のジュースだ。

それは何故かと言えば、旬を過ぎて酸化してしまい売り物にならなくなってしまったコーヒーを、捨てるくらいならと
引き取ってくるのだ。 
そんなことをしなくても一般客の3割引きで商品のコーヒー豆を買うことだって出来る身なのに、彼にはコーヒー豆を
捨てる、ということがどうしても出来ない。
販売期限近くなると店頭でセール品として売りに出され、それでも誰にも振り向いても貰えなかった"行き遅れ " の
コーヒーたちをワゴンの中に見つけると、はあ、と溜息が出てしまう。
そしてそれらをひょいと拾い上げては「うちに来るかい?」と声を掛け、それを買って帰るのだ。
この頃はマダムが「いいから持ってお帰り」とそれを無料(ただ)にしてくれるようになった。
そんな彼を「コーヒー馬鹿」だの「可哀想な奴」だのと職場の仲間たちは馬鹿にして笑うが、彼は少しも気に留めない。
美味いコーヒーなら職場で幾らでも飲むことが出来るのだし、それより何より、貧しい国のコーヒー農家の人々が、
それこそコーヒー豆の如く身を粉にして栽培しているものを、売れ残ったからと言って簡単に捨てるなんて彼には
出来ないのだ。

いや、本当ならば古いものは容赦なく廃棄して、どんどん新しいものを買ってあげたほうがコーヒー農家の収入のためには良いのかもしれない、とは思う。
でも、もしも自分が生産農家なら、出来れば捨てて欲しくない、と思うことだろう。
そんな訳で、今朝も酷い味のコーヒーを飲みながらコンピューターの画面に目を通しているのだった。
そして届いた馴染み深い言葉。父の深く優しい声が耳元で甦るような気がして、彼の口元に笑みが浮かぶ。
きっと今日も良い一日になるだろう。
根拠のない希望ではあったが、そう願いながら彼はコンピューターの電源を落とした。




そして早めの出勤のためにアパートメントの外へ出た彼は、伸びをしながら土曜の朝の空気を思い切り吸い込んだ。
快晴でとても気持ちの良い朝だ。やはり良い一日に違いない。
彼は自分にそう言い聞かせ、見上げた空から視線を戻した。
すると、まだまだコートが必要な季節だと言うのに、薄着の、というより、寝巻きのままの老女が彼の目の前を通り過ぎた。
まるで想像した通りの幽霊みたいな、青白く虚ろな表情でとぼとぼと歩くその老女に思わず目が釘付けになった。

「ミセス・バレット!?」
「・・・・・」

気付かずに相変わらずとぼとぼと歩き続ける老女を追いかけ、ポールはその肩を掴んだ。

「ミセス・バレット!」
「はあ? おや、" ジョン "じゃないか。もう学校に行く時間かい?気を付けて行っておいで」
「Oh! No,no,no! "マム "、何処へ行くの?家はこっちだよ。帰ろう、さあ」
「・・・家?」

怪訝な顔をして辺りをきょろきょろと見回して混乱したように頭に手を当てるミセス・バレットの肩を優しく抱き寄せて
手を取り、ポールはアパートメントの方へとミセス・バレットを誘(いざな)うようにゆっくりと歩き出した。

「Oh my goodness! こんなに冷え切って・・・風邪をひくよ? そうだ、温かいスープを作ってあげるよ。
足元に気をつけて。そう、ゆっくり、ゆっくり・・・」


朝から 『 徘徊 』 中のミセス・バレットを彼女の部屋まで送り、急いで自室の戸棚から取ってきたインスタントの
ポタージュを作ってミセス・バレットに飲ませ、学校に行くね、と言って彼女に別れを告げた。
道路から見上げると、2階の窓からミセス・バレットが手を振っている。彼はいつものように、そして当たり前のように「バイ、マム」と手を振り返して愛車であるヴェスパのエンジンをかけた。

ポールが彼女の亡くなった息子 、" ジョン " になってからどれくらい経つだろう。
ミセス・バレットの朝の 『 徘徊 』 が始まってからだから・・・かれこれ4、5ヶ月になろうというところだろうか。
始めは時々だった "ジョン " の振りも、ここ最近ぐっと回数が増えた。
時々面倒を見に来ていた筈の彼女の娘も最近は余り見かけないようだ。
また警察に保護でもされたら大変だ。今度こそ何処かの施設に強制的に入れられてしまうだろう。
本当ならその方が彼女にとっても家族にとっても安心出来るのに違いないとは思う。
でも以前、まともな意識のある時に、そんな処へ行ったらきっと、今以上に誰も会いに来てくれやしない、と泣いていた彼女の顔を思い出すと胸が詰まる。
大家に言ってまた娘に様子を見に来てもらわなければ。
今朝のところは見つけたのが自分で良かった・・・とホッとしながら彼はミッド・ノースのカフェまでヴェスパを走らせた。






仕事中、彼はカフェの窓から向かいのサロンへ、一日に何度も暇さえあれば視線を向けている。
赤毛のボブカットの彼女が髪を揺らしてこちらを向いてくれるのを待っている時もあれば、彼女の方が
彼が気付いてくれるのを待っている時もある。
と言っても残念ながら恋に落ちている恋人同士の、仕事中のふたりだけの秘密、という訳では決してない。
つまり、こういうことだ。ベティが天に向けて右手の人差し指を一本立てればカプチーノ一杯、ピースサインなら二杯、右手で一本、左手で一本なら、カプチーノとブラック・コーヒーを一杯ずつ。
右手で一本、左手で二本なら、カプチーノが一杯にブラックコーヒーが二杯・・・と言っても、それ以上の複雑な
組み合わせの際、彼女は電話をくれるのだが、彼はこうして窓ガラス越しに彼女とコーヒーの注文を巡ってやり取り
するのがほぼ毎日の楽しみになっている。
電話で注文されると、何だか一日の楽しみを奪われたような気になって、少しだけガッカリする。
電話で聞く彼女の声も会話自体も、それはそれで心が浮き立つのだが。

そしてその日、彼女が立てたのは、右手の指三本だった。




「Hey、ポール!」――配達から戻るなり、彼は仕事仲間のジェームズにシャツの裾を引っ張られた。
「彼女、何があったんだって?」
「・・・彼女?」
「とぼけるなって。インド系のあの子だよ。ネイリストの友達のさ」
「あー・・・・」

彼が答えに困っていると、客が入って来たので話が中断された。
ポールはひとまずホッとして自ら進んで注文を受けた。

どうやらジェームズはラムカのことが気に入っている様子なのだが、はっきり言ってラムカに紹介したくないタイプの男なので、とてもラムカが今落ち込んでいるだなどと教えたくなかったのだ。
彼女はベティの親友だ。彼をラムカに紹介してベティに失望されるのだけは御免だった。
顔見知りのベティの事でさえ、本人の居ない所では、名前ではなく「あのネイリスト」などと呼ぶような失礼な男なのだし、店のオーナーであるマダム・デュボアのことも、陰では「あの婆さん」だなどと言いながら、本人には笑顔で媚を売るような裏表の激しい男でもあった。
とにかく、彼にとってジェームズとは苦手なタイプの人間なのだ。




そのジェームズがカウンターの下にしゃがみ込んでこっそりとドーナッツを頬張っている時に、奇妙な組み合わせの
三人連れが来店した。
着飾った30代半ばくらいの女と、サングラスをかけた背の高い男、そして5、6歳の男の子の三人だ。
着飾った女は自分の分は注文せずに二人の支払いだけ済ませて向かいのベティのサロンへと入っていった。
残された男二人はどう見ても親子には見えないし、男と女も夫婦には見えない。
少年はオレンジジュースを飲みながらゲーム機で遊んでいて、男のほうは辛抱強くその様子を見守りながら、時折きょろきょろと辺りを見回している。
そのうちに男は席を立つと、つかつか、とポールの方へ寄ってきて、レストルームへ行きたいのだが、その間自分の代わりにあの席へ座り、あの少年を見ていてくれないか――そう言ってポールのシャツの胸ポケットに、カフェの店員へのチップとしては法外とも言える20ドル札を忍ばせた。
こんなに沢山、困ります、ミスター! そう言って追いかけるポールを無視して行ってしまった男の背を見送り、
仕方なく言われた通りに席に座ると、目の前の少年が顔を上げた。

「・・・Hi 」
「Hi 」

見知らぬ男が突然目の前に座ったのに、特に驚いた顔も見せない少年にポールの方が目を丸くした。
こういうこと、よくあるのかい? こういうことって? 誰かがチップを貰って、あの彼の代わりに君の前に座ってお守りを引き受けることさ。 うん、まあね。
そんな会話を繰り返した後、突然少年がゲーム機をテーブルに置いて、恐る恐る、といった顔でポールを見上げた。

「――間違っていたらごめんなさい。もしかして、君がポール?」
「え!?」

彼は思わずシャツの胸元を確認した。確かネームプレートは付けていない筈なのに。

「やっぱりそうだ!僕はレイだよ。よろしくね。えっと・・・」
「僕を知ってるの!?」
「うーん・・・知ってる、って言うより、今知ったの。 たった今、" バディ " が教えてくれたんだよ」
「バディ? ・・・さっきの彼?」
「あー、ミスター・アンダーソンのことじゃないんだ。 まあ "バディ " のことは気にしないで・・・それより・・・」
「???」

この子が何を言っているのかさっぱり訳が解らなかったが、彼は辛抱強く少年の言葉に耳を傾け続けた。

「いい知らせだよ。君の夢はいつか叶うんだってさ」
「What!?」
「それと・・・」
「???」
「その気持ちはいつか通じるからあきらめるな、だって」
「・・・!?」
「つまり、君の "みらい " は明るいってことだよ!おめでとう、ポール」
「・・・Oh・・・wow・・・驚いたな・・・・いや、その・・・えっと、ありがとう、って言うべき・・・なのかな・・・・」
「あ、ミスター・アンダーソンが戻って来たよ」
彼はホッとしたようにすぐさま席を立ち、アンダーソンという男に席を譲った。
もう一度、ミスター、こんなに沢山頂き過ぎです、とチップの件を蒸し返してはみたのだが、サングラス姿の男にいいから取っておけ、と言われては言う通りにするしかなかった。


それから暫くの後、何を思ったか向かいのサロンに連れ立って入っていく二人を見送り、テーブルを拭きながら、
彼らの相手をするベティをこっそりと窓から眺めた。
『その気持ちはいつか通じるから諦めるな』――その時、あのレイという少年の言葉が瞬時に甦り、ポールは焦った。
まさか、あの子が彼女にそれを言いにサロンへ行ったのでは!?
そう思い付いてしまい、彼は気が気ではなくなった。
それで珍しく仕事のミスも犯した。彼は明らかに普段の冷静さを欠いており、様子がおかしい。
考えてみれば彼の気持ちなどあの子供が知っている訳もなく、ただもう一人の連れの女を迎えに行っただけだと
すぐに気付きそうなものなのだが、軽いパニック症状に陥った彼にそんな冷静な判断はつかなかったようだ。

そして数十分後、バッグを肩に掛け、珍しく早い時間に帰る様子のベティが酷い顔色でコーヒーカップを返しにカフェに入って来たのを見て、彼は確信した。
ああ、やっぱりそうだ、あの少年が余計なことをしてくれたのだ。 
どうしよう・・・ベティに会わせる顔がない――
咄嗟に彼は逃げようかと思ったのだが、瞳はベティに釘付けで、どういうわけだか身体が硬直して動かない。
彼の意志に反し、まるで誰かが動けないように魔法をかけたみたいに指一本動かすことすら出来ないのだ。

「Hi、ポール。ご馳走様」
「あ・・・」

気付けば彼はコーヒーカップが三つ載ったトレイをベティに手渡されていた。

「・・・? どうかした?ポール」
「あ・・・」
「?」
「い・・・いつもカップを綺麗に洗ってくれて・・・本当にありがとう、ベティ」
「What? どうしちゃったの?ポール。 あんた、様子が変よ?」
「――20ドルものチップ貰った所為で舞い上がってさ、さっきからこの調子さ。20ドルっぽっちでだぜ?
子供じゃあるまいし」

横からジェームズが嫌味っぽく口を挟んだ。
明らかにチップをやっかんでいる口調だったが、ポールはそれを無視した。
と言うより、ジェームズの言葉など、はなっから耳に入っていなかった。

「本当!? 凄いじゃない! じゃあ今度それで一杯奢ってよ、ポール」
「・・・!?」

ベティがそう笑って彼の胸ポケットをぽん、と軽く叩いた。

「じゃあ、また明日」
「あ・・・」

おどおどとした様子でBye、と小さく呟きながら、ポールは再びの衝撃に眩暈がしそうになった。
Oh my goodness!  この二つの耳が聞き違えていなければ、の話だが、彼女は今さっき、まさか、
信じられないことに、「奢って、ポール」と言った? 
一杯奢って、と?
ただの社交辞令だ、うぬぼれちゃいけない!――咄嗟にそう自分に言い聞かせてはみたのだが、
違う考えが浮かび、彼は思わず呼吸困難に陥りそうになった。
つまり、彼女は少年から妙な話を聞かされても自分を拒否しなかった、もっと言うならば、「奢って」と言う
言葉の裏には「誘ってくれてもOKよ」、という意思表示が隠されていたのでは?という突飛した考えに至り、
ますます混乱したのだ。

確かに幸福も不幸も、ものごとというものは全て、考え方次第で "どうにでもなる " ものだ。
でも彼は混乱してしまうと、考えすぎてものごとを "どうにかしてしまう " 悪い癖の持ち主だった。
いわゆる、思い込み、というやつだ。


やれやれ、といった顔で彼の手からトレイを取り上げたジェームズは、ラムカの事をベティに訊きそびれた事を
思い出して、Shit! 、と独り悔しがった。
ポール自身が独り善がりの思い込みを知ることになるのは、それからもう少し、先の話である。



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