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Magnet 9.「 For the next stage -新たなステージへ-」

 

Magnet 9.   
「 For the next stage 」 -新たなステージへ-

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8:20 p.m. ミッド・ノース・『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・NY)

――「Sorry! I 'm late!」
「遅いよラムカ」
「げ、何よそのドレス、素敵!」
「ホント?ステイシーに借りちゃった」
「まじ?自分だけお洒落しちゃってずるいよ」
「でも爪塗ってくるの忘れた」
「もう間に合わないよ。残念でした」
「Mademoiselles(マドモアゼルがた) 、ご心配なさらずとも、お二方とも大変美しゅうございます。
さあ、それではお車までご案内いたしましょう」

ボルサリーノを外して胸にあて、ミシェルが軽くお辞儀をした。

「あら、そう仰る貴方が一番お洒落ですことよ、Monsieur Pinoteau(ムスィュー・ピノトー)」
「Merci bien (そりゃどうも)」

ベティの言葉ににんまりし、彼がふたりの背中に手を添え、車のほうへと導く。

店の外で待機していた車を見てラムカがOh my god!と声を上げた。
小型ではあるが、そこに立派な黒いリムジンが停まっていたからだ。

「リモに乗ってくの!?」
「そのようだね」
「Thank you、mister」

美しく着飾ったマドモアゼルたちが、運転手にとびきりの笑顔を捧げてリムジンに乗り込む。
郊外にあるクリフォード家の別荘へ向けて出発だ。

「本当にカジュアルなパーティーなの?」
「さあ・・・お友達も誘ってお気軽に、なんて言うくらいだからそうなんでしょ」
「お迎えの車寄越してくれるだけでも驚きなのに、それがリモなんて!」
「もっと胸の開いた服にすればよかったかな」
「充分だよ、ベティ」――ミシェルとラムカが声を揃えた。

初めて乗ったリムジンの中ではしゃぐラムカとベティに呆れながら、ミシェルも帽子を手でくるくると廻して遊んでいる。
マンハッタンでパーティー、なんてしょっちゅうあることだけど、郊外にこのメンバーでこうして出掛けるなんて多分
初めてのことだ。少しずつマンハッタンと日常とが遠ざかっていくのに比例して胸が高まる。



ミッド・ノースから40分も走っただろうか。
閑静な住宅街を走り抜け、ほどなくして車は木々の中に隠れているような大きな鉄格子の門をくぐった。
美しくライトアップされた噴水をぐるり、と廻りこむようにして、漸く屋敷の前に到着だ。
周りには高級車が溢れかえっていて、家の中からは音楽が低く流れている。
ミシェルは車を降りたあと、ぽかん、とした顔で立ち尽くすラムカとベティの背中を再びそっと押した。


「ミシェル!」
「Hi、キャサリン!お招きありがとう」

玄関に入ると直ぐにキャサリンがミシェルに気付き、3人を出迎える。

「キャース!」
「今行くわ!――バタバタしててごめんなさい。またあとで。ゆっくりし楽しんで行ってね、お友達も」
「Thank you so much.」
「紹介する間もなかったね」
「うわ、凄いお屋敷・・・」
「見て、あのランプ!ガレだよ」
「あっちにも!あの花瓶も!」


いかにもアッパー・イーストの住人らしい連中ばかりで埋め尽くされているのは覚悟して来たのだが、どちらかと言うとソーホーやチェルシーのギャラリー界隈で見かけるような、或いは、ひと目でファッション業界関係者と判るような、
つまり、ハイセンスな「業界人」っぽい連中が大半を占めている印象だった。
それに混ざって、いかにもウォール街で成功していそうな男たちもいる。
女性連れも多く、明らかに夫婦と判る連中もいれば、いかにもモデルといった感じの女性を連れた男たちもいる。
つまり、どのみち、ラムカにとっては何の接点も見つからないような連中ばかりだ。
ただひとつだけ、考え得る例外もあったが。
どうかこの中にセント・ジョンの父兄がいませんように。
そう祈りながら、とりあえずバーテンのトレイから適当にカクテルを選んで、ベティとミシェルとこの夜に乾杯した。


取りあえず空腹で目が回りそうな3人は、並べられた豪華な料理を楽しみながら「業界人ウォッチング」に興じることにした。
そのうちにミス・ベネットがやってきて、ベティとミシェルの働く 『 Bruno Bianchi NY 』 (ブルーノ・ビアンキ・
ニューヨーク)が先日のパーティーで大きな話題に上ったことを告げた。
キャサリンが偶然、その広告塔になったことが大きかったが、確かにあれから二週間の間にミシェルを指名する新客ばかりか、ベティの新客までも増えつつある。

考えてみればふたりはその「業界」に属すべき側の人間だ。
有名でない、ただそれだけの理由で、まだ『あちら側』に属していないだけのこと。
もちろん、大切な仲間であり有望な『アーティスト』でもある彼らの成功を心から願っているし、ミス・ベネットの報告は彼女にとっても喜ばしいものだったけれど、ラムカは自分ひとりだけが全く場違いな場所にぽつん、と立っているような気がして、何となく居心地の悪さを感じていた。

それでも、「違う世界の住人」に囲まれるのはやはり刺激的だ。
折角、上手くいかない職探しに溜め息ばかりの毎日の憂さを晴らしにやって来たのだから、うんと楽しまなくちゃ!
――そう思い直すことにした。
そのうちにミシェルが違う飲み物を取りに行く、と言って彼女たちの傍を離れ、バーカウンターのある場所へと向った。


ミシェルが通路へ出ると、そこに体の大きいアフリカ系の男が通路を塞ぐように立っている。
男の横を通り過ぎる際に目が合ったので、彼は軽く笑みを向けた。

「Hi 」
「Oh my god!」
「!!」

突然そう叫び、男はミシェルのシャツに手を伸ばして更なる奇声を上げた。

「んまあ!なんて可愛い子なの!」
「ど、どうも・・・」
「Wait!こんなふうに絶妙なピンクのドレスシャツを着こなす可愛いブラウン・シュガーはね・・・
そう、あれは、97年! アポロで観たマクスウェル以来よ! You know it? Like this! 」

指をぱちんぱちん鳴らしながらミシェルに体を摺り寄せて、そのマクスウェルの曲を歌い踊るハイテンションな彼に
固まっていると、「Excuse us 、Barnie」とキャサリンがミシェルの腕を引っ張った。

「あんもう!キャース!あたしの可愛いマクスウェルをどこ連れて行く気!?」
「Sorry! He's my boy!」

何よっ、旦那がいるくせにっ!とか何とか彼の悪態が追いかけて来たが、キャサリンはげらげら笑いながら
彼にひらひらと手を振った。

「助かったよ、ありがとう」
「そう?ふふっ。彼、あれで実はとってもいい人なのよ。でもそのキュートなお尻は隠しといたほうが無難かも」

それより紹介したい人達がいるの!――そう言ってキャサリンがミシェルの手を引いて、とあるグループの輪に
割って入った。

「Hi 、guys!楽しんでる?」
「Hi 、キャス」
「例の彼を連れてきたわ。ミシェルよ。 ミシェル、こちらジュリアン・ローレンスよ」
「Oh!まさか、あのジュリアン・ローレンス!?」
「そうだと思うよ」
「ああ!お会い出来るなんてとても光栄です」

彼女が口にしたのはあろうことか、高名なファッション・フォトグラファーの名前だった。
あなたの写真集は全て持っているんですよ!眼鏡をかけていらっしゃるから気付かなかった!
握手を交わした後、ミシェルが胸に手を当てて信じられない、というふうに首を振った。

「イアン」
「ステファニー」
「アルヴィン」
「よろしく、ミシェルです」

ジュリアンを始め、その場に居合わせた彼ら全員と握手を交わし、ミシェルは、一体・・・?と不思議そうな顔を
キャサリンに向けた。

「君が彼女をバルドーに仕立て上げた張本人だね」

イアンと名乗った男がそう言ってグラスを口に運んだ。

「イアンはね、『Avec』でエディターをしているの。ステファニーは『Avec』でも活躍してるスタイリストの
ダイアン・ウィードのアシスタントを、アルヴィンは・・・」
「電話番」

笑いが起こり、キャサリンがカモン、アルヴィン!と彼の背中を軽く叩く。

「彼はモデル・エージェンシーの副社長をしていて、キャスティング・ディレクターも兼ねているの。
キヤナ・ミナーリを見出したのも実は彼なのよ」
「本当に?彼女とても個性的で注目してるんですよ」
「君もやってみる気はない?モデルでも成功すると思うよ」
「あー・・・実は時々スカウトされるんだけど、裏方の仕事の方が好きなんです。
クリエイティビティ(創造性)のある仕事がしたくて」
「我々全員がそうさ」




―――盛り上がっているミシェルのほうをちら、と見やり、ベティがはあ、と息を吐いて
カクテルの中のチェリーを口に放り入れた。

「つまんない。スノッブばっかでさ。いい男はみんなゲイだし、そうじゃない男は夫婦連れか、
オツム空っぽのモデル連れたカスばっか」
「ちょっと!声大きい」
「あーあ。同じサロンで働いてるのに。そりゃネイリストになんか用はないですよね、そうですよね」
「私よりはずーっと需要あるじゃない!現に新客、増えたんでしょう?ほら、あそこの奥様方にでも
名前売りこんでみればいいじゃない。それに比べて私なんて全く縁のない世界でさ、ひとり浮いてるよ?」
「何言ってんの、こんだけ金持ち連中が揃ってるのよ?子守の依頼あるかもしんないじゃん。
元セント・ジョン幼稚園の先生でーす、って宣伝しときゃ――」
「――Oh my god! それ本当?」
「?」

声に振り返ると、たまたま通りかかったミス・ベネットだった。

「Hi 、ティナ」
「ベティ、彼女が幼稚園の先生って本当?」
「Yes 、she was.」
「あー・・・辞めちゃったんだけど・・・」
「今ほかにお仕事は?」
「いいえ、まだ何も・・・」
「ちょっと待ってて!」
「?」

ほら、言ったじゃない!そんなふうに両手を広げてベティが目を丸くした。
そっかベティ!そんな考えもあったのよね!今度はラムカが目を丸くする番だった。
その路線は今の今まで彼女の頭からすっぽりと抜け落ちていた。
もうベティ、早く言ってよ!だってあたしも今、思いついたんだもん――そんなことを言ってる間に、ミス・ベネットが
キャサリンを連れて彼女達のほうへ戻って来た。

「Hi 、ミシェルのお友達ね?」
「ベティです。こっちは・・・」
「シェリルです、よろしく」
「 "ベティ " に "シェリー "? ティナ、あの子の言ったこと本当だったわ」
「?」
「ああ、気にしないで。それよりシェリー、元幼稚園教諭って本当?」
「ええ、セント・ジョン幼稚園にいました」
「本当?うちの息子も最初はそこに通わせるつもりだったの。結局は近くのセント・ニコラの方になったけど」
「Wow! 名門ですね」
「So、今は何をなさってるの?」
「いえ、何も・・・」
「良かった!突然こんなお願いをしてお困りかもしれないけど、よかったらうちの子のナニー(子守)になっていただけない?」
「Oh、あー・・・」
「前任者が辞めてからなかなか良い人が見つからなくて、本当に困っているの。元先生なら家庭教師までお願い出来るし。どうか助けて、シェリー」
「それはあの・・・私としてもとてもありがたいお申し出ですけど・・・」
「じゃあ早速明日か明後日にでも、簡単な面接をさせてもらっても?」
「?」
「面接と言ってもただの形式的なものよ。一緒にお昼を食べましょう、シェリー」

詳しくは彼女から連絡させるわ――そう言ってミス・ベネットを残し、キャサリンがその場を去った。



その後、女性ゲスト陣に紹介するためにミス・ベネットがベティを連れ出した。
残されたラムカは、面接とやらに何を着て行こうか考えを巡らせたが、その前に帰ったら簡単な履歴書を作成しなきゃと思い立ち、そこで解雇された理由を正直に書くべき?と頭を悩ませた。
彼女、キャサリンはアッパー・イーストの住人にしては随分と気さくそうな女性だし、正直に答えても大丈夫そうな気はするんだけど。

そんなことを考えていると、ミシェルの笑顔が視界に入った。
今夜の彼はとても幸せそうに見える。良かった。彼はここのところ、ずっと元気がなかったから。
ラムカは、彼は「こちら側」にいるべき人間ではない、と常々思っていた。
彼が今夜をきっかけにして、成功への扉の鍵を手に出来るといいんだけど。もちろん、ベティも。
そうなったら本当に嬉しい。
わたしたち、今日という日を境に何かが変わり始めようとしているのかも――― そんな予感めいたものが彼女の中に生まれ、その思いつきは彼女をわくわくとさせた。

でもそれが一体何なのか、ってことまでは想像さえもつかなかったけど。



● 用語解説ページ


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Magnet 8.「 The next day -後日談 : 運命の日の翌日 - 」

 

Magnet 8. 
「 The next day 」 -後日談 : 運命の日の翌日 -  


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アッパー・ウェスト 10:20 a.m.

頭痛を押さえながら起き上がると、彼女はもうベッドから抜け出していた。
彼は熱いシャワーを浴びるために裸のままで寝室から繋がるバスルームへ行った。
酒の匂いを洗い流し、彼のために用意されたあったバスローブは使わずにバスタオルを腰に巻き、
彼女のリヴィングルームへと移動する。

そこから続くキッチンで壁の時計を見上げると、10:30を回った頃だった。
日曜日だと言うのに彼女は仕事に出てしまったのだろう。何しろ忙しい女だ。
気にも留めず、いつものように勝手に冷蔵庫を開け、ガス入りのミネラルウォーターの栓を捻り喉を鳴らす。
冷蔵庫の扉を閉めると、そこに短いメッセージがマグネットで貼り付けてあるのに気付いた。

"残念な夜だったけど、昨夜のことは忘れてあげる。それから、ご存じないみたいだから自己紹介しておくわ。
はじめまして、ショーン。My name is Inés.Not Shelly. "

彼は目が点になり、昨夜のことを思い出そうと思考を巡らせてみた。リヴィング・ルームで事に及び、
途中で寝室に移動したまでは憶えている。だがそこから目覚めるまでの記憶が一切ない。
イネスの文面から推測するに、どうやら彼女に向い『シェリー』と呼びかけてしまったらしい。
何てこった!この俺がそんな失態を犯すとは。
だが何故・・・一度会ったきりの彼女の名を・・・? もう顔もおぼろげにしか憶えていないのに。

昨夜のことに思いを巡らせるうちに、何故か中心部分に熱が集まり始めた。
おかしい。まさか昨夜、果てることが出来なかったのか?それでイネスはあんなメッセージを・・・?
実際、彼はイネスを『シェリー』と呼び、挙句、途中で力尽きて寝てしまったのだが、幸か不幸か、彼にその暗黒の
記憶はない。だがそれをイネスに確かめるまでもないだろう。彼女の嫌味が全てを物語っている。
この俺としたことが・・・最悪だ――彼は忌々しそうに舌打ちして残りのミネラルウォーターを飲み干し、
リヴィング・ルームのあちこちに散らばっている衣服を掻き集め始めた。

"Not Shelly. Sherry. " ――最後に彼はイネスのメッセージの "Shelly." の部分を線で消し、
"Sherry." と書き換えてその部屋を後にした。
彼女ならこんなブラックな悪戯も、きっと鼻で笑ってくれるだろう。



良い天気だったので、ひとつ先の地下鉄の駅まで歩こうか、いっそのことキャブを拾おうか考えながら通りを
歩いていると、ポケットの携帯電話が鳴った。姉のケイティだ。

「Hi 、Katie」
「Sean?今どこにいるの?」
「あー・・・アッパー・ウェスト」
「何だってそんなところに?今朝から何度も電話したのよ?まあいいけど、実は今あんたの家の下にいるの。
いきなりで悪いけど、アルとクリスを見ててくれないかしら」
「What!?」
「マムも今日は予定あるとかで・・・こら!通りで暴れないの! ――3時くらいまででいいの。お願い、ショーン!」
「・・・・いいけど・・・」

今日こそ家でゆっくり過ごして、明日からのメニューを決めたりコンピュータに溜まったデータの整理を進めたかったのだが、姉に怪獣(正式名称:二人の甥達)のお守りを突然押し付けられることになってしまった。
シングルマザーの姉は休みの日まで子守を雇うほどの余裕もない。
近くに住む長兄の妻、つまり義理姉であるアンバーとは折り合いも悪くて余り付き合いたがらないから
彼女にも頼めない。それで時折こうしてマンハッタンの弟の許までやって来る、というわけだ。
まあいつものことと言えばいつものことだ。
怪獣どもの相手は疲れるが、運動不足の解消には丁度良いだろう。
姉には近くのワシントン・スクエア・パークで待つように言い、結局はキャブを拾ってヴィレッジまで急ぐことになった。
それから急いでカジュアルな服に着替え、バスケットボールを手に持って、彼は姉親子の待つ公園まで向った。







アッパー・イースト 1:30 a.m.

熱い時間の後、一転して静寂が支配する寝室に静かに響く、夫の寝息。
直ぐに眠ってしまった夫とは対照的に、彼女はその夜もなかなか寝付けずにいた。
身体も心も満足したはずだったのに、何故こんなに虚しい気持ちになるのだろう。
どんよりとした重苦しい雲に覆われたような、漠然とした不安。
この先も夫はあんなふうに私を求めてくれるだろうか。彼に期待して求めすぎ、そして失望する。
またその繰り返しが待っているだけなのでは?そう鬱々とした不安ばかりが浮かんでしまう。


うんざりした彼女は静かにベッドを抜け出し、ガウンを羽織るとこっそりキッチンへと向った。
マグカップを手に取ってパントリー(食品庫)の扉を開け、左奥の棚に置いてある瓶類をがちゃがちゃと漁る。
やがて一本の瓶を選び取ると、彼女は床に座り、それをマグカップに少量注いで一気にあおった。
熱く喉を通り抜けた液体が身体中に染み渡る。
彼女は再び少量注いだそれをぐっとあおり、ふうーっとひと息吐いた。

そうして床に座り込んでぼうっとしていると、向かい側の棚と棚の隙間に何か紙切れのようなものが
落ちているのが目に留まった。
猫のように床を這ってそこまで行き、それを拾い上げてみると、それは色々な食材の名前が書かれたメモで、
数日前の夜に食べたものを直ぐに思い起こさせるものばかりだった。
つまりそれはショーンが落としていったものだ。
案外繊細な字を書くのね―― そう思うのと同時に彼のあの瞳を思い出し、彼女はそれを消し去るように
手にしていた紙切れをくしゃっと丸めて床に捨てた。

私ったら・・・クローゼットでフィルに抱かれながら一瞬彼のことを考えていた。
どうかしてる。私は何も彼に欲情したわけじゃない。
夫のことを愛しているからこそ、まるで知らない誰かに愛されているような錯覚を、ただの錯覚として
思い切り愉しむことが出来たんじゃない。

" I ――― " 

彼女が言い訳のようにそう自分に言い聞かせた時、さっきの "あの瞬間 " に夫が言いかけた言葉が唐突に蘇り、
彼女は後ろから頭を殴られたような思いで瞳を見開いた。

・・・アイ・・・リーン?

まさか! I gonna come・・・・, I wanna ・・・something・・・・そう、何かそういう言葉を言おうとしただけよ。

マグカップに手を伸ばし、震える手で琥珀色の液体をそこに注ぎ、天井を仰ぎ見るように勢いよくそれを喉に流し込む。
横で寝息を立てていた夫の背中に昨夜見つけた小さな新しい傷。
その訳を知りたいとは思わない。今更追及するつもりもない。
彼は家庭を壊すつもりはないのだし、それにまだ・・・私にあんなふうに欲情するのなら、それで構わない。
大丈夫、私は愛されている。きっと愛されている。―――彼女は再び自分にそう言い聞かせた。

けれどもう、次の瞬間にははっきりと気付いてしまっている。
そう言い聞かせることで自分を保っていただけなのだと。
それはもう彼女にとって癖のようなものでしかなかった。
傷を広げないよう、崩れ落ちないよう、真っ直ぐ歩いて行けるよう、そうやって言い聞かせることで自分を誤魔化し続けてきた。
そう認めたら何故だか解き放たれたような気分になれた。不思議だ。
百年も二百年も眠り続けてやっと目が覚めたような思いだった。


――そうやって、ぼんやりと床の一点をじっと見つめる彼女の瞳の中で揺れている、丸めて投げた紙切れ。
彼女はもう一度床を這ってその紙切れを拾い、くしゃくしゃに丸めていたそれを開き、そこに書かれた文字を
指先で追った。
ショーンはきっと、夫の背中の傷の理由を知っている。だから憐れむような眼で私を見ていた。
だからあんな眼で・・・

「・・・ふ・・・ふふ・・・」

何だか急に何もかもが馬鹿らしく思えてきて、彼女は泣きながら声を上げて笑った。
悔しい。夫が差し向けた男に同情されるなんて。全く癪に障る。
今頃になってフィリップが彼らを連れて来た訳に気付き、彼女は再び泣きながら笑った。
もう解らない。何が一体どうなってしまったのだろう?
彼女はぼんやりとした目でマグカップに酒を注いでは口に運ぶことを繰り返した。
意識が朦朧とし始め、気付けば、ママ、とっても美味しいよ、とトマトを食べるレイが目の前にいる。

そう、いい子ね、レイ・・・


そこでとうとう彼女の意識は尽きた。その後、夜中に目覚めた夫に発見されることになるのだが、今はまだ、
息子のレイと夢の世界に迷い込んでいた。







チェルシー 9:40 a.m.
 
ベティの涎や口紅で染みだらけのジバンシーのシャツを洗濯かごに放り込み、彼は熱いシャワーを浴びて
クローゼットを開けた。
何となく今日は全身黒でいきたい気分だが、モード過ぎない軽めの格好がしたい。
ボトムは腰回りのぶかっとした、ジョッパーズふうのチャコールグレーのパンツと黒いワークブーツ。
裾はブーツに入れるようにしてたわませる。
それから暫く考えて黒いギンガムチェックのコットン・シャツを選び、それに黒いニット製のタイを結んで
グレーのパーカを羽織る。
パーカのファスナーを上げてVゾーンを作り、コートは黒いウールのチェスターフィールドを羽織った。
最後に黒縁のウェリントンをかけ、クリスティーズ・ロンドンの黒いダービー・ハットを被って崩す。
これであとはステッキがあれば、現代風のカジュアルなチャーリー・チャップリンの出来上がりだ。


今日は日曜日だが彼にはその日も仕事が待ち受けていた。
ベティは毎週日曜日には休みを取っていたので(もっとも、彼女はハリーに合わせてそうしていたので、今後は日曜日にも仕事を入れることになるだろう)、彼だけがブルックリンから急いでマンハッタンに戻ってきた、というわけだ。
空腹で目が回りそうだったので、彼は遅めの朝食を買うためにチェルシー・マーケット内のエイミーズ・ブレッドへ寄ろうと、駅とは反対の方向へと歩き出した。
少し遠回りにはなるが、あそこのブリーチーズ・サンドが食べたい。

日曜日は10時開店の店だったのだが、10時を5分と過ぎていないのに、店内は既に沢山の人で賑わっていた。
目当てのサンドウィッチとコーヒーを買い、マーケットを出て通りを歩きながらサンドウィッチをぱくついていると、近くの建物から寄り添うようにして男がふたり出てくるところに遭遇した。

――キース!?

ふたりの男はミシェルに気付かずに笑いながら先を歩いて行く。
彼は眉根を歪めてその後姿をただ見送った。彼らが出てきた建物を見上げる。
ここが新しい恋人・ザックの住むところなのだろうか。

酷いよ、キース。そのマフラーは僕が君にプレゼントしたものなのに。
それなのに彼と一緒の時にそれを身に着けて、それを僕に見せ付けるだなんて。
後ろからキースの肩を叩き、そのマフラーを取り上げてしまいたい心境に駆られ、彼は溜め息を吐いて項垂れた。
本当はそんなことなんて出来やしない。 I missed you 、Keith.そう言ってしまうに決まってる。

まだこんなに彼を愛していたなんて、と実感するのが辛い。
わざわざエイミーズになんか行かずに近所のル・ガマンに食べに行けば良かった。
マンハッタンは狭い。今後も色んな場所でこうやって彼らに遭遇し、その度にこんな惨めな思いを味わうのだろうか。

一日も早く彼を忘れて新しい恋をすればいいのだ、そう頭では解っているけれど、なかなかそうもいかない。
ああ、キース、こんなふうに無意識に僕を最後の最後まで傷付けてしまえるだなんて、君は本当に、何て残酷な
男なんだろう。
悔しいけれど、そうされることすらも、彼との繋がりが残されているみたいで何となくホッとする自分もいる。
やっぱり彼を忘れられない。彼のような恋人にはきっともう出会えない。
そう諦めに似た気持ちが邪魔をして、新しい出会いに期待なんか持てそうもなかった。

昨日という日は、ベティとラムカ、ふたりを慰めることに尽力した一日だったが、彼自身の苦しみや痛みは
誰が癒してくれるのだろう。
もちろん彼女達も彼をケアすることに心を砕いてくれはするけれど、彼自身はどちらかと言うと、余りこういうことで
他人に頼る人間ではなかった。
子供の頃から独りで決断し、解決してきたから。そして孤独には慣れている。

ただ、今は温もりが欲しかった。傷を舐め、肌を温めてくれる誰かが今の彼には必要なのだ。
・・・久しぶりに「彼」に電話をしてみようかな。
ふとそう思い立ち、そうすることの罪悪感に、いや駄目だ、と首を振る。
けれど今の彼を温かく包んでくれるのは、きっと「彼」しかいない。
いつの間にかキースとザックの姿は消え失せていた。
彼は短く息を吐くと、気を取り直したように、辿り着いた地下鉄の駅の階段を下り始めた。








ミッドタウン・ノース 1:45 p.m.

彼女がそこに居ないと解っていながらついつい向かいの窓に目を向けてしまうから、彼はいつも日曜日にはなるだけ休むようにしている。
でも毎回そういうわけにもいかないのでこうして日曜に仕事をしているわけだが、案の定、彼女は今日は休みなんだ、仕事に集中しろ、と何度も言い聞かせなくてはならない。癖というものは恐ろしいものだ。
それを何度か繰り返した頃、またうっかり通りの向こうへ目をやってしまったが、そこに見えるのはこちらへ歩いてくる
ミシェルの姿だった。

「Hi 、ポール」
「Hi、ミシェル。 今からランチかい?」
「うん、やっと手が空いたからね」

うーん何にしよう、朝食もサンドウィッチだったんだけど・・・と悩んでいる彼を観察するように見つめる。
彼は本当にお洒落だなあ、と会うたびに毎回そう思う。
黒いギンガムチェックのシャツなら僕も持っているけど、こんなありふれたカジュアル・アイテムを彼みたいに着こなすなんて考えもつかない。
仕事柄、流行には常に敏感なんだろうけど、最新の流行を追っているふうでもないのに、とにかくさりげなくてユニークで格好良いと思う。ベティはきっと、彼みたいなお洒落な男がタイプなのに違いない。
彼がストレートじゃなくて良かった。そう言ったら失礼かな・・・

「・・・・を頼むよ」
「・・・・」
「? ポール?」
「あ?」
「しっかりしてよ。大丈夫?」
「あー・・・ごめんよ、ミシェル。悪いけど、もう一度いい?」

ま、日曜だし、解らなくもないけどね――最後にぼそっと呟いてミシェルが眉をくい、と上げたが、
ポールはそれに気付かなかった。コーヒーを淹れる時の彼はまるで別人のようだ。とても良い顔をしてる。

「Thanks、Paul 」

ベーグルサンドとコーヒーを買ってサロンに戻って行く彼の後姿をまじまじと見送っていると、くすくすっと
笑い声がしたのでその声に振り返った。同僚のジェシカとフレディだ。
彼が振り返ると同時に何事もなかったかのような顔して離れたが、彼を馬鹿にして笑っていたのは明らかだった。
またか、と思ったが、それには慣れていたので、ポールはいっぱいになったゴミ袋を取り替えたり、紙ナプキンや
砂糖の補充をしたり、黙々と仕事を続けることで気を紛らわせた。

その仕事の延長で奥の事務所の横にある倉庫に紙カップや蓋やなんかの補充分を取りに行き、倉庫から出てきた
ところで同僚のジェニーと鉢合わせた。

「Hi 」
「あ、今それを取りに行こうとしたところだったの」
「本当?」
「・・・ねえ、ポール」
「うん?」
「気にしちゃ駄目よ、あんな連中なんか」
「? ・・・う、うん、ありがとう」
「仕事もろくにしないでお喋りばっかりしてるんだから・・・あ、これじゃ私も人のこと言えないわね」

軽く笑いながら店内に戻ると、ほんの2、3分の間に混雑し始めていた。
ジェシカとフレディがバタバタと客の対応をしている。
ポールも急いでコーヒーを淹れる仕事に戻った。多少の間断はあったものの、結果、午前中とは比べ物に
ならないくらいに忙しい一日となった。


7:40 p.m.

閉店作業を終え、着替えを済ませて事務所を出ると、ジェニーが店の方からこちらに向ってくるのに遭遇した。

「Bye、ジェニー。また明日」
「あ!待って、ポール」
「うん?」
「あの・・・お願いがあるんだけど・・・」
「? なんだい?」
「実は最近コンピュータを買ったんだけど、その・・・まだ余りよく解ってないのに、何か設定を弄っちゃったみたいで色々うまくいかないの。助けてくれない?」
「どんな症状になるの?」

用語もよく解っていないジェニーの説明は要領を得ていなくて、実物を見なくては何とも判断がつかない感じだったので、イーストヴィレッジの彼女の家に行って診断することになった。
結局、セキュリティの問題でインターネットに支障が出ているだけだと解り、設定を変え、彼女に解りやすく説明をして作業を終えた。気付けば9時を回っている。
二人とも空腹だったので、近くのダイナーで一緒に遅めの夕食をとろう、ということになった。


ジェニーのくるくるとよく動く大きな瞳を見ていると、何だかベティがそこに居るみたいで少しだけ居た堪れない気持ちになる。
彼女はとても気の付く女の子だ。誰かが助けを必要としている時に、何も言わなくてもすっと現れて手助けをしてくれるような、そんな子だった。 だから今日の昼間みたいに、誰かがくすくすと彼を笑うような瑣末な出来事にも気付いて、彼にああいう言葉をかけてくれる。
彼女が相手だとベティの時と違い、少しも緊張することなく自然に会話が出来るのに。
彼は普段ならやり過ごしてしまうことを、何となく彼女に訊いてみたくなった。

「ねえジェニー、昼間のことなんだけど・・・」
「Yeah?」
「僕はその・・・彼らに笑われるのは別に構わないんだ。子供の頃からそういうのには慣れてるし、
笑いたいやつには笑わせておけばいいって思ってるから。
ただ・・・・何であの時笑われたのか、その理由が解らなくて・・・」
「・・・あー・・・・・」

ジェニーが口ごもったので、大丈夫、何を言われても傷付かないから、と笑いかけると、ジェニーが小さく息を吐いて
彼を見た。

「本当に大丈夫?」
「うん」
「・・・じゃあ言うね。
実は・・・あなたが向かいのサロンのミシェルのことを好きだ、って噂が立ってて・・・」

ぶはっ!ポールは思わずコーヒーを噴き出しそうになった。

「ぼっ、僕が彼を!?何で!?」
「彼が来るとあなたがいつも彼に見とれてて、何だか様子がおかしい、ってジェシカが言い出して・・・それで・・・」
「み・・・見とれるって・・・」

・・・ああ、彼の格好に毎回感嘆しながら見とれているのは確かかもしれないけど・・・そんな意味じゃないのに!
だって僕が好きなのは・・・

「私は信じてないわよ。そもそも、もし仮にそれが本当だとして、どうして笑ったりするのか全く理解出来ないわ」
「あー・・・サンクス、ジェニー。 ・・・ああ・・・何だか頭痛がしてきたよ・・・」

変な汗まで出てきて寒気がする。そう言えば今日ジェームズは休みだったけど、彼もそう噂してる人間の一人なんだろうか。ベティの耳に入らなきゃいいけど。
言いたいやつには言わせておけば良い、と常々思っているポールだったが、流石にこの件に関してだけは
身の潔白を証明しなくては、と頭を掻き毟った。

その後ジェニーに別れを告げ、モーニングサイド・ハイツまでヴェスパを走らせている間中、くしゃみが止まらなかった。どうやら寒気がしたのは迷惑な噂話のせいばかりじゃなさそうだ。

結局その日のうちに高熱が出て、翌日仕事を休む羽目になってしまった。
運悪くミシェルも休みだったので、またジェシカが勝手に妙な妄想をして、それを面白おかしく吹聴した。
それを耳にしたジェニーがジェシカを非難し、スタッフの間でちょっとした騒ぎとなってしまったのだが、
彼がそれを知るのは一週間後のことだった。







クィーンズ  2:20 p.m.

廊下の隅でパーカのフードを深く被り、こちらの様子を窺うように隠れているベティを見やり、
はあ、と溜め息を吐いたラムカがその部屋のブザーを鳴らす。何度鳴らしても反応がない。
良かった、どうやらハリーは居ないみたい。Come on!そう手で合図してベティを呼び寄せる。
恐る恐る中に入ると、昨日ベティがバットを振り回して暴れた、そのままの状態にされていた。
うわ、随分派手にやっちゃったみたいだね。
他人事みたいに言うベティに呆れ、割れた鏡やガラスの破片をスニーカーで蹴散らしながら、
ラムカもきょろきょろと惨状を目の当たりにして目を丸くしていた。
殺人事件現場ってこんな感じかも?

「彼、本当は今頃モルグ(遺体安置所)じゃないの?」
「I really hope so.(まじそう願うよ)」

鼻にしわを寄せて憎々しげにそう言いながらも、ベティは寝室のドアを開けるのを躊躇い、
お願い、開けて、と瞳でラムカに懇願した。仕方ない。そう息を吐いてラムカがドアノブに手をかける。
「F.B.I.!(連邦捜査局だ!)」――そう叫んでラムカがドアを蹴破った(いや、実際には恐る恐る足で軽くドアを
蹴っただけだったが)。
指でピストルを作ったベティがベッドに向けて「Bang!」と撃つ真似をしながら寝室に踏み込む。

「・・・Too much」

やり過ぎだよ、と呆れつつ、よし、やるか!と声を上げ、彼女達は作業に取り掛かった。
クローゼットから大きなボストンバッグやスーツケースを取り出し、あれやこれやと荷物を詰める。
一度にたくさん運び出せるように、とラムカのものまで持参するという周到さだ。

「Take?」
「No」
「Take?」
「Yes」
「あれ?こんな服持ってたっけ?」

Oh、it's so cute!――鏡の前で服を当ててはしゃぐラムカからそれを取り上げ、ボストンバッグに放り入れる。

「早く!あいつが帰って来たらどうすんのよ!」
「ゾンビになって?」

全くもう・・・滅多にない経験に浮かれているのか、嬉々とした様子のラムカに呆れつつ、ゾンビになったハリーの
間抜けな姿を想像して彼女は噴き出した。
ちょっと!それかなり笑える!
二人してゲラゲラ笑いながら作業を続け、服や靴以外にも、シャンプーや化粧品などの日用品から愛用のマグカップ、ネイルグッズ、大事な本や小さなランプシェード(それはお気に入りだったので壊さずにおいた)、ありとあらゆるものを詰め込めるだけ詰め込んだ。


"彼女と片付け頑張って。せいぜい手を怪我しないように気をつけるのね "
最後にハリーへの手紙を書いてテーブルの上に置いた。
仕上げに彼と二人でマイアミに旅行した時の写真を真っ二つに破り、手紙の上に彼の写真だけを乗せ、
ぺティナイフをそこに突き立て(ベティはついでに中指も立てたが)、彼女達はその忌々しい部屋を後にした。





チェルシー 4:15 p.m.

キャブがチェルシーに到着した。歴史保存区にあるミシェルの家の前だ。
スーツケース2つに大きなボストンバッグ3つを抱え、ブザーを鳴らして管理人を呼び出す。
フレンチ訛りでミシェルの従妹だと名乗ると、管理人らしいロシア人の婆さんは、ミシェルと一緒に写った写真を
数枚見せただけで彼女を信用して彼の部屋の鍵を開けてくれた。
こんな管理人で大丈夫なの?そんな顔でラムカがベティに目配せしている。

久々に訪れたミシェルの部屋は相変わらずきちんと片付いていた。
ちゃんと花を絶やさず、良い匂いが部屋中に漂っている。
最後に部屋に花を飾ったのっていつだった?さあ、半世紀前?
そんな会話をしながらどっこいしょ、とラウンジチェアにそれぞれ腰を下ろして一息吐いた。
元々この部屋は彼の母親がモデル時代に稼いだ財産をはたいて購入したもので、彼は子供の頃からずっと
ここに住んでいた。今は独りで暮らしているから部屋が空いている筈なのだ。
NYで気に入った部屋に出会えるのは、宝くじに当選するのに等しいくらい難しい。
ラムカが、とりあえず部屋が見つかるまで家に住めば?と言ってくれたのだけど、彼女の家は狭いし、
ソファーで寝るしかない。
折角使ってない部屋があるんなら、やっぱミシェルのとこでしょう!とラムカの反対を押し切って勝手にこうして
押し掛けてきたのだった。
じゃあ夕食の準備をして彼を迎えようよ――ラムカがそう提案した。勝手なことをした、せめてもの償いとして。



「何にしようか・・・」
「あんたのカレーが食べたい」
「・・・それって私に作れってことだよね」
「もちろん手伝うよ」
「でもスパイスだったらうちの近くのサハディーズなんだけどなあ・・・
焼き立てのナンもここらじゃ手に入らないだろうし・・・イーストヴィレッジまで行く?」
「Umm・・・Nah」

彼女達は夕食の材料を求めて近くのホール・フーズ・マーケットをぶらついていた。
日曜日ということもあってか結構な人出だ。

「走っちゃ駄目よ、ショーン」
――店内を走り回る子供を叱る母親の声が彼女達の直ぐ傍の通路から聞こえる。
ショーン?――昨日の彼の顔を思い出し、ラムカは思わず視線を泳がせた。彼がここにいる筈もないのに。
そうだった、昨日あのカフェで帰り際に彼の名前を尋ねたら「ショーン」だと教えてくれたんだっけ。

「お嬢さん、悪いこたあ言わねえ。あんな女たらし、やめときな。それより俺にしときなよ」

――ついでにどうでもいいことまで教えてくれたけど。


「・・・? 何怒ってんの?」
「え?」
「ショーンって名前、禁句だったとか?・・・って言うか、そもそもショーンって誰よ?」
「What!?」
「昨日、そう叫んでた」
「・・・そうだっけ」

彼のことを思い出した時にベティにその名前を出されたので、彼女はベティに心を読まれたのかと一瞬焦った。
何しろ昨日は不思議なことが立て続けに起こったのだ、そう思うのも無理はない。
Come on!そう言ってベティが答えを待ち構えている。どうしても聞き出したいらしい。
ラムカは抵抗を諦めて、昨日ベティのサロンからの帰り道に起こった出来事を説明してみせた。

「Oh my gosh!何で黙ってたのよ?」
「・・・あのね、あんな状態のあんたに何言える?」
「ね、いい男だった?」
「・・・憶えてない・・・」
「What!?」
「そんなことより、どうして彼が私の名前を知ってたか、ってことよ!まさか知らないところで私の個人情報が
漏れてるのかな」
「げ、まじ?」
「誰かが勝手にFacebookやMy Spaceに私の顔写真を使ってるとか。じゃなきゃどうしてあの子やあの彼が
私の名前を知ってたの?」
「ちょっと待って!じゃあ・・・あたしもってこと?」

お喋りばかりに夢中になってちっとも買い物かごに食材が入っていかない。
結局1時間近くもかかってようやく買い物が終わり、ミシェルの家でのカレー作りが始まった。
彼が戻って来たのはそれから更に1時間半後。
そして彼は思いも寄らない展開に混乱しながら、またも不本意な出来事続きだった一日を終えたのだった。



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Magnet 7.「 Phillip 」


 Magnet 7.  
「 Phillip 」-フィリップ-  冒頭部分がR18気味です。ご注意ください。


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すべての不幸は未来への踏み台にすぎない

――― ヘンリー・D・ソロー ―――




キスの途中でこの髪を掻き乱す彼女の指の感触に堪らなく欲情する。
たったそれだけのことでもう、自分が自分でいられない。
一刻も早く彼女の中に入りたくて気が狂いそうだ。だからそうする。
下着を剥ぎ取り、壁に押し付けるように彼女を抱え上げ、爆発してしまいそうな情熱を押し込んで
彼女を思い切り犯す。
ある時は床の上で。ある時はテーブルの上で。
ベッドまで待てないからいつもそうなる。だから毎回彼女は罵る言葉を吐き、絶頂を迎える。
恍惚とした表情を浮かべて。


あっけなく情熱が去った後はお決まりのあの感情だ。鏡に映る自分を殺してしまいたくなる。
一度だけ、気付けば拳をそこにめり込ませていたこともある。
幸い大した怪我にはならなかったが、お陰で未だに2本の指が完全には曲がらない状態のままだ。

感情を殺し、何の躊躇もなく冷徹な決断をも下すことが出来る、そう、それが己という男ではなかったか。
何故彼女を前にすると自分をコントロール出来なくなってしまうのか。
彼女の瞳に捕らえられた瞬間、自分が自分でいられなくなるのは何故なのか。
その答えを知りたくて彼女に会い、結局はまた彼女の中で暴れることを繰り返すだけ。
何の意味もない。どうしようもないほどの大きなリスクが蓄積されていくだけだ。
まるでジャンキーだ。何とかしなければ、そのうちオーヴァー・ドーズで命を落とすことになるだろう。
つまりそれは家庭の崩壊と社会的信用の失墜を意味する。
この情事にそれほどの価値があるのか?命を懸けるほどに?
答えは判りきっている。今すぐ止めなければ何もかもが破滅に向うだけだ。
・・・いや、既に破滅へ向っているのかもしれない。少なくとも妻との関係は悪化の一途を辿っている。






「ジェネラル・リーン社の買収は見事だった。お前には確かな先見の明がある。
だが2008年の純資産減少を補える起爆剤になれるのか、些か疑問は残る」

前CEOである継父の大きな声がまだ耳の中でじんじんと鳴っているようで苛々する。
受話器を3インチ離しても鼓膜がびりびりと振動するのが判るほどの大声だ。
時折オフィスまで顔を出し、こうして電話をかけてきてまであれやこれやと口出しする継父に内心うんざりしながら、
父の体を気遣う言葉をかけ、実母の声を聞き、穏やかに別れを告げて受話器を置く。
わざわざ旅行先のフランスから電話をかけてきてまで伝えたいことなのだろうか。
母の呆れる顔が思い浮かぶようだ。


たまにはレイを連れて帰ってらっしゃい――ふた言目にはそれだ。
母にとってはたった一人の血の繋がった孫なのだから仕方ないが、あの父と長時間共に過ごすなど、
想像しただけでうんざりだ。
キャサリンが気を利かせて時折レイを連れコネティカットまで行ってくれるが、多忙を理由に自分は実家帰りを
避けるようになった。
感謝祭の時ですら帰ろうとしないのだから、その時期が近付くとキャサリンは間に挟まれてナーバスになっている。

感謝祭に帰りたくない理由の筆頭はもちろん継父だ。
だがそれだけが理由ではなかった。会いたくない相手は他にもいる。思い出したくないことも。
つまり彼は、あの地にはもう近寄りたくもないのだ。

息を吐いて受話器から視線を上げる。
以前はそこに見えていた筈の、双子のように並んでそびえ立つ2つの高層ビルがある日突然姿を消してから、
もうやがて10年が経とうとしている。
だがこの10年の間に起きたさまざまなことに思いを馳せている時間は彼には無かった。
父との電話に費やした時間のせいで、あと3分のうちに迎えの車に乗り込まなくてはならないのだ。
ビジネスランチをとった後はまた会社に戻り、彼の決断を待つさまざまな案件に没頭する。
こんなことの繰り返しの日々。
仕事に人生の全てを注ぎ、それに喜びを見出すほどの思い入れも無いが、決して虚しい毎日だとも
思わない。用意された人生に素直に従うまでだ。母が父の後妻となった、あの日から。




夕方、西の彼方へ沈んでいく夕陽が彼のオフィス内を柔らかい色合いに変える。
書類に目を通しながら、ふと、今晩のメニューは何だろうか、と思いつき、知らず知らずのうちに
それを楽しみにしている自分を自覚して苦笑した。
最近雇った幼馴染の料理人の顔が浮かび、彼はまた苦笑を浮かべた。
そこへ現れた第二秘書のヴァレリーが怪訝そうな顔をして彼の目の前に書類を置いた。

「笑うような内容の報告書ですの?」
「ああ、いや・・・何でもない」

そうですか、という顔をしてヴァレリーが部屋を出ていこうとするのを目で追い、
彼は彼女が置いて行った書類に目を走らせた。

「どういうことだ?」
「・・・どういう、とは?」

振り返りもしない部下の無礼を目にしながら、彼はゆっくりと立ち上がって彼女の傍へ近付く。
彼女の背中から手を伸ばしてドアに鍵をかけると、ようやくヴァレリーが彼を振り返った。
不敵な笑みを浮かべて。

「・・・この俺を脅すのか?」
「とんでもないですわ、ミスター・クリフォード。心からご心配申し上げているんです」
「・・・心配だと? ・・・白々しい」
「・・・ミスター・クリフォード、考えてもみてください。あんな無能な男が未だに第一秘書の座に納まってるだなんて、
社外的にも風聞が悪すぎやしませんか?」
「無能かどうかは俺が決めることだ」
「では何故、彼は息子さんのボディガードなんか?つまり今の私の立場は、子供のボディガード以下ってことに
なります。 それは到底納得出来ませんわ」
「いつ君がボディガード以下だなんて―――」
「―――奥様がお知りになられたらどんなお気持ちかしら」
「・・・・・」
「これは正当な『交渉』ですわ、ミスター・クリフォード。あなたは彼女との関係を誰にも知られたくない。
私はキャリアをもっと良いものにしたい。彼は今や子供のボディガードに、いいえ、ただの子守に成り下がっている。
答えはひとつしかないとお思いにならない?」
「・・・・考えておこう・・・・」
「・・・それでは」

いつもと同じクールな笑みを浮かべ、がちゃり、と音を立ててヴァレリーが部屋を後にした。





幼馴染である料理人の男とはしゃぐ息子の会話に、どこか作り笑いで応じる妻。
視界に彼らが入ってはいるのだが、何も会話が聞こえてこない。
口からは楽しみにしていたはずの、彼の作る食事が機械的に入っていくのだが、何も味を感じられない。
じりじりと首を絞められていく感覚。生きた心地がしなかった。

気が付けば彼はベッドに横たわっていて、あの男の料理が口に合わないだとかあの男をやめさせろだとか、
妻が不満を申し立てている。
今すぐ逃げ出したい。彼女の元に。
何も考えず、欲望のままにただ彼女の温度を味わい、彼女の中で果てたかった。
そんなことをすれば一瞬でこの世界から抹殺されると判っているのに。
妻に言い放った言葉に己で傷付き、眠りの中に逃げ込むようにして背中を向けた。

目を覚ましてみれば、妻はすやすやと静かな寝息を立てていた。
あの頃と何一つ変わらない、穏やかで天使のような寝顔で。
この妻を傷付けている。その自覚が彼を苦しめている。
だが頭と心と体との折り合いが付かない。
せめて少しでも長くその穏やかな寝顔でいられるようにと願いを込め、彼は妻のキャサリンの金色の髪を
一房手に取り、唇を寄せた。



いつもならアパートメントの地下にあるプールでひと泳ぎし、ジムで汗を流すのが彼の毎朝の日課だったのだが、
久しぶりに外を走ってみたくなり、彼はスウェットに着替えてセントラルパークへと向った。
それで問題が解決するわけでは決してないが、少なくとも朝ヴァレリーの顔を見るまでの間くらい、
無心でいられる場所で一人になりたかった。
犬と一緒に散歩する連中や、彼と同じように朝からワークアウトに励む連中で既にそこはいっぱいだ。
パーカのフードを深く被り無心に走っていると、次第に汗が噴き出してくる。
一緒に心の闇まで噴き出していってくれる気がして、むきになって何周もしてしまったが、腕時計のアラームが
無情にもタイムアウトを知らせる。

それでもまだ家に帰りたくなかった。
普段読むことのない新聞と普段決して飲むことのないソーダ水を通りで買い、再び公園に戻ってベンチに腰掛け、
気分転換をそのまま続けた。
大体の大まかなニュースに目を通し、新聞を折り畳んだところで、紙面の端っこが目に飛び込んできた。

"すべての不幸は未来への踏み台にすぎない "

『 世界の名言 ― 今日の言葉 ― 』 ――見出しにはそう書かれてある。
今自分が全てを失い、全てを巻き込んで不幸になっても同じことが言えるだろうか。
例えば倒産。例えば離婚。例えば・・・死。自分ひとりの運命など取るに足らないものだし、
今この瞬間どうなろうと構わない。

だが彼は彼という個人であって決して個人ではない。その肩に背負ったものが大きすぎる。
彼は失うものの大きさを想像し、改めて身震いした。
やはり答えは自ずと決まっている。彼女とはきっぱり縁を切るべきだ。
彼は新聞をベンチに残し、立ち上がった。




それから数時間の後、職を失ったばかりの一人の若い女性が、絶望の淵に立ち、彼が残した新聞を
手に取ることになる。
そして彼女が彼の息子とここで出会い、やがて彼ら家族と係ることになるのだが、今の彼がそれを知ることはない。



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