スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Magnet 13.「 Tears of a Honeybee -ミツバチの涙-」


Magnet 13.   
「 Tears of a Honeybee 」-ミツバチの涙-

stockx-magnet13-2.jpg

 冒頭部分がR18気味です。お気をつけください。





0:45 a.m.  アッパー・イースト


遠慮なく大きな声を出した彼女が、夫の上でがくり、と崩れ落ちる。
独り勝手にのぼり詰めた妻を呆れたように見上げる夫。
悪びれずにふふっと笑い、彼女は夫の上で再び動きを再開させる。
「あぁ・・・」
「・・・・」
「・・・んっ・・・」
今達したばかりだと言うのにまだ足りないのか、この女は。
むくむくと沸き起こる残虐心。彼は体を起こして彼女を自分の下に敷いた。
乱暴に脚を肩に担ぎ、激しく彼女を突き上げ始める。
彼女が再びのぼり詰めそうになると彼は動くのを止め、お願い、と懇願する彼女を冷ややかな目で見下ろした。
お願い、ともう一度彼女が懇願して、漸く彼が動きを再開させる。
そんなやり取りを数回繰り返し、やがて共に真っ白な世界へと達していく。
「素敵よ、フィル。とても感じたわ」
「・・・」
褒美のように彼の唇を貪り、彼女がにやり、と笑う。


クローゼットで抱き合った夜。あの夜を境に彼女は変わった。酒の量が増え、挑戦的な言動が増え、
自ら貪欲に夫を求めるようになっていた。
あの夜、パントリーで酔い潰れた彼女を見つけて寝室まで運んだが、あのまま、彼女は深い酔いの世界から
醒めていないのかもしれない。或いは醒めてしまうことを拒絶しているようにも見える。
その証拠に毎晩のように酒を飲み、上機嫌で彼に唇を重ねてくるのだ。

それは彼が本来の彼女に対して求めている姿では決してないが、少なくとも、以前のように縋るような眼で
じっと待っている、そんな彼女よりはましかもしれない、そう思うことにしていた。
きっと彼女は全てに気付いている。
他の男と寝る私を想像して興奮する?そう訊いた後でこう言って不敵に笑うのだ。
私は興奮するわ、あなたが他の女と寝る、ってことにね。
彼女が心底そう思っているのか、何故急に態度を変えたのか、彼はまだ彼女の真意を掴みかねている。
ただ、彼女が変わってからというもの、それまでの言い争いや無言の非難、というものから解放されたことは確かだ。
不思議なことにあれ以来、夫婦仲は上手くいっている。表面上は、と言うべきではあるが。


「見て、綺麗なcroissant(三日月)」
いつの間にかベッドを抜け出した彼女の声。裸のままで窓辺に立ち、月を見上げ、あなたとパリで食べたcroissantが恋しいわ、などと呑気な声で言う。
耳に心地よく響く美しい言葉の波、スモーキーなカフェの薫り、雨に濡れた石畳を照らす街灯り。
パリか―――彼の心に蘇る、あの旅の記憶の断片。

「・・・行きたいかい?パリに」
「・・・ええ、もちろん」

じゃあ行こうか、とは決して言ってくれない。それは彼女も嫌と言うほどに解っている。
そんな時間をどこから捻出するんだ?そう答えが返ってくるだけなのだから。
彼女だって思いつきで言ってみただけだ。
ハネムーンで巡ったヨーロッパの中の、ある一つの都市の一つの思い出。それだけのことに過ぎない。
クロワッサンなんてそこらへんどこにでも売っている。同じ味にはひとつとして出会えないけど。


「・・・行こう」
「!」
「夏にパリに行こう、キャス」

気付けばそう言っていた。信じられない、という顔をして、彼女が彼を振り返る。
だが一番信じられないでいるのは、そんな言葉を口にした、彼自身だ。

「・・・本気で言ってるの?」
「Yeah、この街のクソ暑い夏にはもううんざりだ」

クソ暑い夏・・・夫がそんな言葉を彼女に使ったのは何年ぶりだろう。思わず彼女はぷっと噴き出していた。

「パリだって暑いわよ。夏のパリは空っぽよ。誰もいないし、きっとなんにもない」
「その時は地中海にでも逃げ出せばいい」
「地中海・・・」

不思議な体験をした旅に彼女が思いを馳せている。
彼はベッドを抜け出してガウンを引っ掛けると、裸の彼女にもガウンを掛けて傍に立ち、同じように
月を見上げた。

「・・・きっといい旅になるよ」
「・・・そうね・・・」
「レイにフランス語の特訓をするか」
「ふふ・・・」

彼が彼女の肩を抱き、彼女が彼の手に自分の手を重ねる。
月を見上げながら、二人は自然に寄り添っていた。







1:15  a.m. チェルシー 

喉が渇いて眠れずに、彼はベッドを抜け出して水を飲むためにキッチンへと行った。
外食をした夜は大概そうだ。思っていた以上に塩分を摂取してしまうからだ。
冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出して乾いた喉を潤し、それから部屋に戻ろうとして、ふとベティの部屋から煌々と灯りが漏れているのに気付く。
電気を消し忘れて寝ているんじゃないか?家主としては見逃せない事態だ。
そうっと隙間から中を窺うと、彼女は彼に背を向け、机の上で開いたラップトップのコンピュータを前にうつ伏せて眠っていた。
こんなことだろうと思った。やれやれ、全く世話が焼ける。

「ベティ」

部屋の入り口で声をかけてみる。ベティの返事はない。
仕方なく彼は彼女の傍まで行って彼女を揺り起こす。

「ベティ、風邪をひくよ?」
「――」
「ほら、ちゃんとベッドで寝なきゃ。ベティ?」

ベティの手が "あっち行って " と言わんばかりにミシェルの手を振り払おうとする。

「ベティ?」

ミシェルはピンときたのか、腰を落として下から彼女の顔を覗き込んだ。やっぱり!

「どうしたんだい?Honey B」

Honeybee(ミツバチ)をもじった、Honey B。
それは毒舌家の彼女に親しみを込めて彼がつけた呼び名だった。
何てことだろう。彼女は誤って自分に針をチクリ、と刺してしまったようだ。
どうしたんだい?なんて訊くまでもないことはミシェルにも解っていた。
だから彼は彼女の手を取って椅子から立ち上がらせると、ベッドまで手を引いてそこへ座らせた。
隣にゆっくりと腰を下ろして彼女の肩を抱き、腕をさする。


毒舌家で気が強くてとことん男勝り。
一見すると男が恐れて逃げ出すタイプの彼女だが、実際それは傷付きやすい彼女が外敵から身を守るための
分厚い鎧なのだ。
ミシェルにはそれがよく解っている。
あんなふうに男を散々にこき下ろしたその裏で、こうしてひとりこっそりと泣くような、そんな女の子なんだってことが。

「・・・全く・・・手先は器用なのに」
「・・・うるさい」

やっとベティが口を開いた。彼女の腕をさするのを止め、顔を覗き込むようにして彼が静かな笑みを向けると、彼女は問うような瞳を彼に返した。

「・・・ねえ、信じられる?自分の恋人だった男にあんなこと平気で言えちゃう女なんだよ、あたし」
「・・・後悔してるの?」
「・・・ううん。むしろ清々した」
「じゃあ何で・・・」

よく解んない、そう言ってベティが息を吐く。

「何だか泣けてしょうがないの。あいつ、ほんとに頭にくるよ。どうしてちっとも成長出来ないの?
言い訳すらまともに出来なくて、何がよりを戻したいよ。クライアントの女に誘惑されて断れなかった?
普通それで恋人とのベッドの上で浮気する? そんな見え透いた呆れた言い訳で許して、なんて言うような大馬鹿な男とあたしは2年も暮らしてたの? ねえ、時間の無駄遣いだったよ、ミシェル。この2年をあいつに返して欲しい」

一気に吐き出すように言う彼女にティッシュペーパーを渡し、ミシェルが再び彼女の隣に静かに腰を下ろした。

「・・・はっきり言うけど・・・よりを戻したいなんて、結局は家賃をシェアしてくれる相手が必要だからさ。
君に出て行かれて、現実として一番困るのは当面のところ、そこでしょ?」
「・・・うん・・・」


痛いところを突かれた、とベティは思った。浮気される度に何度も出て行こうと思ったのに出来なかったのは彼女自身もその勇気が持てなかったからだ。 そもそも同棲を始めたのは家賃の節約のためでもあった。
引越しの費用、部屋を見つける労力、その後のコストの負担、それらを受け入れる覚悟が出来なかった。
腹は立つけど、許してしまえばそれで済むことだから。
ベッドで「メイクアップ・セックス」をして、暫くの間、彼女をちやほや持ち上げて機嫌を取ってくれれば、
それでことは済んだ。自分が我慢して彼を許してしまえばそれで終わり。
だから、出て行ったら彼が可哀相・・・心の奥でそう思う甘い自分がいた。
一人で家賃を払っていけるのかしら?誰かルームシェアしてくれる相手が直ぐ見つかるかしら?
そんなふうに。

けれどもう無理。愛情も情けも何もかも、彼のためのものはもう、全て使い果たしてしまった。
彼女の心はもう、見事なまでにすっからかんだ。
彼の浮気を目撃してからずっと、怒りで自分を保ってきた。
それを爆発させてしまった今、明日から何を支えにしていけばいいんだろう。

「彼は君に甘えすぎていたんだよ。何をしても結局は許してくれる、ビッグ・ママみたいな存在になってしまったのかも」


そうかもしれない、と彼女は思う。
出会った頃、べったりと甘えていたのは自分のほうだったのに、どんどんだらしなくなっていく彼に対して、いつの間にか母親みたいに彼の尻を叩いて小言ばっかり言っていた。
そしてそれがいつしか日常になっていた。それに甘んじてきた結果がこれだ。
つまり、彼女にも負うべき責任の一端がある。
何てこと!あたしは彼のママになっちゃってたのね?しかも、育て方を間違えちゃったってこと?

「・・・そりゃママとはセックスしないよね」

ぼそっと言って自嘲的に笑うベティに、ミシェルは静かな視線を向け続けた。

「どうして彼は成長出来ないの、って言ってたけど、君自身はどうなの?彼と暮らし始めた頃から成長したと思う?」
「・・・解んない・・・」
「僕は変わったと思う。エミがうちの店に来て以来、君が陰でもの凄く努力していたのを僕は知ってる。
彼女みたいなさ、手先の器用なアジア人ばかりの業界の中で、実際君は死にもの狂いで努力してきたじゃない。
高い金を払ってセミナーを受けたり店に残って練習したり。朝行ったら店のソファーで君が寝てたこともあったよね」
「・・・そんなこともあったっけ」
「君だけがどんどん大人になっていってしまったのかも。彼が成長したかしてないか、なんて僕には解らないけど、
ベティ、少なくとも君は2年前の君よりずっと成長してるよ」
「本当?」
「Yeah! まず第一に、その頃より毒舌が減った」


ちょっと!それ、褒めてない!そう言ってベティがミシェルのわき腹を指先でつつく。
Oh!そう言って彼が身を捩ると、ようやくベティの顔に笑みが戻った。

「ねえHoney B、彼みたいな甘ったれた男はきっと懲りないよ。また同じことをして君を傷付けるに決まってる。
それでも君が彼を求めるならそれで仕方ない、ってずっと思ってきたけど、やっと彼から離れる決心がついたのなら、
もう彼のために涙なんか流しちゃ駄目だ。次の男のために大事に取っておいて」
「・・・うん・・・」
「あ、"喜びの涙 " のためだからね」
「そんなもの、何年も流した覚えないや・・・流したいなあ、その喜びの涙ってやつ」
「・・・うん・・・そうだね」
「・・・ミシェル」
「うん?」
「・・・ありがとう」


返事の代わりに彼が拳を突き出す。拳でタワーを作るみたいに、彼の拳の上に彼女の拳が乗って、
その上にまた彼が拳を乗せて、最後に拳同士をかつん、と突き合わせてお仕舞い。
まるで男同士だね。ふふっと笑った後、ベティが溜め息を吐いた。

「あーあ、また悲しくなってきた。何であんたゲイなのよ」
「またその話」
「だってこれが映画ならさ、ここでピティ・セックス始めるとこだよ?」
「残念、これが現実」
「あっそ」
「・・・B、誰かとセックスしたいの?」
「したいよ!当たり前じゃない!どんだけご無沙汰してると思ってるの?」
「・・・僕も・・・」
「あーもう!ほんとジレンマ!」
「そうだ!今度ラッセルを紹介するよ。凄くいい奴なんだ」
「・・・ひとついいかなピノトー君。あたしの経験上、男がいい奴、って言って連れてくる男は大抵、
つまんないカスなんだよ。何しろ脳みそがスポーツとビールと女の裸だけで出来てんだから」
「Non non、見くびってもらっちゃ困るよエリザベス。この僕をそこらへんの男と一緒にしないでくれる?
とびきりのゲイがお薦めする、とびきりのストレートの男だよ?」
「うーん、それは未知の世界だね。試す価値、ありそう」


本当はラムカに紹介しようかな、と思ってたんだけど、ということは黙っておいた。
ラムカはどうやら新しい仕事先で運命的な出会いがあったみたいだし。今のところ、彼女は否定してるけど。
ポールの気持ちを考えると躊躇われるけど、ポールがあんな調子じゃ、ベティはそのうちに飢え死にしてしまう。
悪いね、ポール。彼女を飢え死にさせるわけにはいかないんだ。

「じゃあお返しに、あたしもとびきりのゲイを探しとくよ」
「Oh、 Come On! (やめてよ!) その必要はないよ」
「ほー、たいした自信だね」
「あら。あたし、今は恋よりキャリア優先なの。解る?」
「うげ、ファゲット・トーン(オカマ口調)、やめなよ」
「J.C.のお決まりの台詞だよ、知らないの?」
「ぶはは!まじ?」
「Yeah!まだあるよ」


ああ、彼の悪口言い始めたら夜が明けちゃうよ―――そう笑い、おやすみ、とベティの髪にキスをして、
ミシェルが部屋を出て行く。
ありがとう――― 彼女は彼の後ろ姿に向い、声を出さずにそう呟いた。



● 用語解説ページ



関連記事
スポンサーサイト

Magnet 12.「 Under the crescent moon -三日月の下で-」

Magnet 12.  
「 Under the crescent moon 」 -三日月の下で-

woophy-magnet12-2.jpg



0:20 a.m.  アッパー・ウエスト

暗闇にくゆり、とゆるやかに立ち上るライト・グレイの煙。
ベッドに肘をつくようにうつ伏せていた彼女が、自分の唇で愛撫していたそれを彼の唇に差し込む。
普段の彼に喫煙の習慣はないが、時折こうして、ことの終わりにそれを楽しんでいる。
楽しんでいる、と言うよりも、彼女に付き合ってそうしているのだが。
彼の唇からそれを抜き取り、再び彼女がそれを口に咥え、からかうように笑う。

「再試験、見事に合格。満点よ」

ふん、と鼻を鳴らして窓の外に目を向ける。ブラインドの隙間から月が輝くのが見える。
何だって月の美しい夜にこんなことをしているのだろう。
もっとも、彼女と美しい月を見ながら語る、なんてロマンティックな夜を過ごすなど、考えもつかないが。

「ふふ・・・」
「?」
「別れた夫が昔、言ってたわ。"ベッドで煙草を吸う女は嫌いだ " ――だからそうしてやったの。わざわざ煙草を
覚えてね。そうやって彼が嫌がることを片っ端からやってのけた」
「例えば?」
「そうね・・・酔った女も嫌いって言うから、だらしなく酔ってアパートメントの階段に転がってみたり、他の住人の前で
汚い言葉を使って喧嘩をふっかけてみたり・・・そうやって彼にさんざん恥をかかせて楽しんだわ。
それから彼の嫌いなスパイスを効かせて料理もしたし――」
「あんたが料理を!?」
「失礼ね。これでも結婚していた頃はキッチンに立つこともあったのよ」
「想像もつかないね。それより、彼に同情するよ。そんな嫌がらせまでして挙句、財産までせしめてさ」
「あら、正当な権利を主張したまでよ。最初に若い女を囲った向こうが悪いんだもの」

彼女は少しも悪びれずにふふっと笑い、またライト・グレイの煙を吐き出した。

「おかげで自由よ。好きなだけ仕事に没頭出来るし、料理もしなくていいの。
胸糞悪い彼の母親とも二度と会わなくて済むし。セックスだって、したい男としたい時にするわ」

短めの金色の髪を掻きあげ、彼の顔を見下ろしながら彼女が意味ありげに笑う。

「・・・もう寝るよ。何だか疲れた」
「もうギブ・アップ?あんたが?」
「何とでも言えよ」


本当は気乗りがしない夜だったのに、汚名挽回とばかりに持てる力の全てを一度に使い果たしたからだ。
我ながらそんな自分に呆れるが。
彼女に背を向け、眠る振りをして、もう一度ブラインドの隙間から月を眺めた。
それまで数え切れないほど目にしてきたはずの三日月が、何故今夜はこんなにも気にかかるのだろう。
今夜の月に何故だか懐かしさを憶えるのだ。それが何なのか、そもそも、懐かしいと言うべきなのか、
この感情を表現出来る言葉さえ見つからない。
懐かしい、とひと言で表現するには余りにも重苦しく、やり切れない思いだった。
遠い記憶の彼方に眠っていた何かを揺り起こされるような、或いは、身に憶えのない記憶と、それに付随する感情が呼び覚まされるような・・・或いは、まるで他人の心の中に侵入したような、そんな奇妙な感覚。
それは彼女、シェリーと出会ってから度々現れる、厄介な感覚だった。
彼女に会うと、眠っていた何かがむくむく、と心の奥底から起き上がろうとしている、そんな気がするのだ。

「・・・止めろ、イネス」
「う・・・ん、いいじゃない、たまには」

後ろから彼に抱きつき、彼の背中のあちこちに口付けながら彼女が甘えた声を出す。
彼はうっかり、「ちっ」と舌打ちをするところだった。
余計なスキンシップはしない。行為中やその前戯の時以外、キスはしない。
そういう暗黙のルールを自ら破る彼女に苛立ちが募った。
他の女と違い、こういうことをしない彼女だからこそ関係を続けているのに。
イネスの手が後ろから彼の体の中心部分に伸ばされる。
彼の意志に反して、その部分はイネスの欲望に忠実だった。まるで囚われの身だ。
自分の意志で制御することすら出来ない。

「んん・・・ふふっ」

気が付けばそこは、イネスの口の中で既におもちゃにされている。
そのうち彼女は完成したおもちゃの上にまたがり、好き勝手に遊び始めるのだろう。
されるがままに、彼はもう一度月を眺め、やがて、諦めたように瞳を閉じた。






遡ること約4時間前   8:10 p.m.  ミッドタウン・イースト レヴァーハウス

「で?まだ旦那さんには会ったことないわけ?」
「うん。毎日帰りが遅いみたい。でもリヴィング・ルームに家族の写真も飾ってないの。変だと思わない?」
「B、そのワイン味見させて。サンクス」

レイのナニー(子守)としてあの家に出入りを始めて一週間と数日。金曜日の夜だった。
帰りに『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク)に寄ったあと、ベティとミシェルと共にミッドタウンの
レストランで報告会と称しての食事会、というわけだ。
そこは新進気鋭の若手インテリア・デザイナーが航空機の客室をモティーフにデザインしたという、ミッドセンチュリー・モダンな内装のレストランで、たまたま予約が取れたので、久しぶりに3人でやって来たのだった。

「相変わらずろくなワイン置いてないね」
「そう?特に何とも思わないけど。ワインのことよく解んないし」
「ゲイは何にでも好みがうるさいのよ。ね、それよりさ、彼の作った料理とどっちが美味しい?ふふっ」

まただ――ラムカはうんざりした顔で、その話はしたくない、とばかりに右手のナイフの先をベティに向けた。

「今度『彼』とか『ショーン』って口にしたら、今日はあんたのおごりだからね」
「Amen to that!(いいねー!)」
「あんたも今言ったよ」
「つべこべ言わない!」

たった数日でラムカの顔つきが違って見えるのに他のふたりは何度も顔を見合わせていた。
目に力が宿り、表情も生き生きとしていて、かつてのラムカを取り戻したようだった。
ただ、仕事の内容なんかより、ベティはやたらとショーンのことを聞きだそうと躍起になっていて、
今もその日何度目かのショーンに関する質問をラムカにぶつけ、彼女をうんざりとさせたばかりだ。
「だってあり得ないでしょ!運命の出会いとしか言いようがないって!」――そう言ってはラムカの心を
煽り立てようとするが、彼女は相手にしなかった。


彼女は今日キッチンで、彼とメイドのメアリーがくすくす笑いながらパントリーから一緒に出てきたのに遭遇した。
彼は平然とした顔で、やあ、シェリー、なんて言ってたけれど、メアリーは明らかに一緒のところを見られたことへの
動揺を隠しているふうで、じゃあクーパーさん、そういうことでよろしく、なんてわざとらしく彼に言ってキッチンを
出て行ったのだった。
一体何してたの?そんな呆れ顔のラムカに彼はくすっと笑っただけだ。
何って解るだろ?、とでも言いたげに、軽く片方の眉を上げて。
この人、絶対私を馬鹿にしてる!余裕ある彼の態度に何故かカチン、ときたので憮然としていると、そんな彼女に
またくすくす、と笑い、やれやれ、といった顔で仕事に戻った彼。
子ども扱いされてる、そう感じた。
実際、子供じみた態度だと自分でも思ったけれど、彼の態度に彼女は何故だか少しだけ傷付いていた。
だから彼女は、仕事場でこんなことして余計な気遣いをさせる男なんて最悪!そう思って溜飲を下げることにした。
まさにベティが喜んで飛びつきそうなネタだ。
だから、絶対言うもんですか、と彼女は心にシャッターを下ろしたのだった。






10:45 p.m.  ブルックリン

彼らと別れたあと、ラムカはいつものように地下鉄でブルックリンに戻った。
もう一件飲みに行こうよ、とベティに誘われたが、彼女の住むプロスペクト・ハイツは治安の良い場所とは言え、
これ以上遅くなると流石に夜道の一人歩きは避けたほうがいいからだ。

駅からの帰り道、彼女は何の気なしに空を見上げ、そこに美しい月が輝いているのに気付いて思わず顔を綻ばせた。
鋭い鍵爪みたいな金色の三日月だ。
満月にはない魅力、というのか、どこかミステリアスともいえる美しい光を放っている。
どうしてだろう。その月を眺めていると、ふいに胸がちくり、とした。
この月をどこかで見たことがある。悲しい出来事と共に――ふいにそんな確信めいた思いが湧いた。
そりゃ、何度も目にしてきた月に違いないもの。嫌なことがあった時に三日月を見たことが何度かあったでしょうよ。
そう言い聞かせてみるのだが、そういう曖昧なものではなく、確かに何かの記憶と結びついている、そんな気がするのだ。
それが何なのか、どうしてそんなふうに思ってしまうのかは解らない。何故だか胸がちくり、と痛かった。

でも、きっと単なる思い過ごしよね。
そんなふうに思い直し、いつもの角を曲がり、辿り着いたアパートメントの入り口の階段を上った。

「――ラムカ」
「Oh!!!」

突然の声に彼女は驚き、階段を踏み外しそうになった。
暗闇の中から突然姿を現した男に思わずひゅう、と息を飲む。

何てこと!?ハリーじゃない!

「もう!脅かさないでよ!」
「ごめん」
「ここで何してるの!?」
「ベティに会いに来た。君の処だと思って」
「・・・残念ね。ここには居ないわよ」
「待って!ラムカ!」

彼女はうんざりしたような困ったような顔でハリーを振り返った。

「君と一緒じゃないならどこ?」
「さあね。自分で訊いてみれば?」
「着信拒否されてるんだ」
「それはお気の毒」
「まさか仕事場まで押し掛けるわけにもいかないし、頼むよ、ラムカ!」
「はっきり言わせてもらうけど、今頃来て何言ってるの? ベティが家を出てからどれくらい経つと思ってるわけ?」

何か問題でも?――ラムカの大きな声に、隣のアパートメントの3階の窓から男が顔を覗かせた。
問題があるなら警察を呼ぼうか?ということだ。

「No problem!Thank you!」
「問題ありよ!ねえ、こんなことやめて、ハリー。これはベティが決めたことなの。あなたは彼女の意志を尊重すべきよ」
「なあ、ベティとやり直したいんだ。話を聞いてくれよ、ラムカ。君なら力になってくれるだろ?」
「・・・・・きっとあなたは同じことを繰り返してまたベティを傷つける。
悪いけど、力になってあげられない」
「違う、今回は本当に魔が差しただけなんだ。クライアントの女に誘惑されてさ・・・つい・・・
解るだろ?断れないんだよ」
「Oh yeah?会社のために寝たわけ。恋人を裏切って、恋人とのベッドの上で。見上げた忠誠心ね」
「後悔してる。もう二度としないと誓うよ!本当だ―――」

垂れ流される誠意のない弁明と懇願に、ノー、と首を横に振り、彼の言葉を拒絶し続ける。
そんな彼女の瞳の色を見て、ハリーがようやく口を閉じた。

「・・・・・解ったよ」
「I'm sorry、Harry.」
「・・・・・You bitch!」
「What!!?」

信じられないひと言を吐き捨て、ハリーがその場を去った。

「ちょ、ま、あっ!ちょっと! Hey、mister!やっぱりお巡りさん呼んでよ! 聞いたでしょ!? 侮辱罪よ!?」

ずっと彼女らを見下ろしていた隣の3階の男は、冗談だろ?わはは、と笑って窓を閉めた。
何なのもう!!!信じられないっ!!!
プリプリ怒りながらベティに速攻で電話すると、ベティはげらげら笑ってこう言った。

"そりゃ、奴の顔見た瞬間にコップ(警官)呼ぶべきだったね "
「やっぱりゾンビだよ、彼!ああもう、ほんとムカつく!!!」
"まあまあ、落ち着きたまえよ "
「ちょっと!誰のためだと思ってるのよ」
"ごめんって!あんたがそんなに怒るの珍しいから面白くてさ "
「笑い事じゃないんだけど」
"Ok、じゃあこうしよう!かけ直すからちょっと待ってて "




10:55  p.m. チェルシー

――「ミシェル、ちょっと音楽消して」
「? いいけど」

ふと見ると、外した固定電話の受話器がテーブルの上に置かれている。電源が入ったままだ。
切り忘れてるよ。 そう言ってそれに触れようとすると、駄目駄目、触らないで、実況中継するんだから、とベティから声が飛んだ。
ベティの言葉を無視して受話器を耳に当て、ハロー?と言うと、ハイ、ミシェル、とラムカの返事が返ってきた。

「一体何ごとなの?」
"ショーの始まりらしいよ "
「いいからラムカに聞こえるように受話器置いて。あ、こっちに向けて」
そう言ってベティが立ったまま携帯電話を耳に当てた。

「――ハーイ、ハリー!あたしの可愛い元彼ちゃん! ちょーっといいかしら?」

うわ、嫌な予感・・・。ミシェルは恐る恐るソファーから立ち上がって自室に引っ込もうとしたのだが、
逃がさないよ、とばかりにベティにシャツの裾をぐいっと引っ張られ、ソファーにひっくり返った。

「そんなにあたしに会いたかったのね? んん、突然消えたりしてごめんなさい、ハニー」
"―――――"
「そう・・・うん・・・うん・・・そうね、そうだと思ったの。誰にでも魔が差すことはあるんだもの」
"―――――"
「・・・・Alright、あなたのことは誰よりもよく解ってるつもりよ。だって2年も一緒に暮らしてきたんじゃない。
だからよーく聞いてね、airhead(おバカさん)」

そこまで言って、ベティがすーっと息を吸い込んだ。

「今度現れたらそのお粗末なくせに節操のないペニス切り落としてケツの穴に突っ込んでやるから覚悟しなさいよ!
二度とあたしとラムカの前に顔出すんじゃないわよ、このクソったれのbitch-ass! (女の腐った野郎!)
今度ラムカを屈辱してごらん、その情けない粗チン写真をあんたとその女の会社、両方にばら撒いてやる!
解ったらさっさと右手とファックして寝ちまいな!」

・・・・・・。

ミシェルがあんぐり、と口を開け、固まってベティを見上げている。
ブチッと電話を切り、あースッキリしたー!と息を吐き、今度はテーブルの上の受話器を取って耳に当てた。
「ご清聴ありがとう!ムスィュー・ピノトー、アンド、ミス・テイラー!」
ぱち・・・ぱち・・・ぱち・・・・・あんぐりとしたまま、ミシェルがゆっくりとベティに拍手を送る。
彼女はそれににっこりと笑顔で応えた。

「―――ところでラムカ、これって脅迫罪になる?」






0:20 a.m. 再び、ブルックリン

その後、彼女は寝付けずに、ベッドの中で寝返りをうつことを繰り返していた。
静かな音楽でも流そうか、それとも眠くなるまで本でも読んで起きていようか。
あれこれ思い悩み、もう一度寝返りをうってベッドから窓を見上げた。
あの金色の月が、再びラムカの瞳の中に輝きを映す。

そうやってしばらく月を眺めていると、彼女の心にとある小さな思い出がふっと蘇った。

"月が小さくなっていくのはね、ぼくがときどき、こっそりとかじってるからなんだよ "

――小さい頃、弟がそう言ってたっけ。

" ふーん、どんな味なの? "
" おとなりのおばさんがやいてくれるココナッツ・クッキーとにてるよ "
" じゃあどうやって真ん丸の月に戻すの? "
" んーとね、お水をあげるの。マー(ママ)がお花にあげるみたいにね。
そうしたらね、おねえちゃんがおこったときのほっぺたみたいに、ぷーってふくらんでいくんだよ "

―――あの子の想像力には毎回笑わされた。
・・・元気にしてるかな。明日、久しぶりに電話してみようかな。
大きな丸い瞳をくるくるさせて、いつも家族のみんなを笑わせてくれていた弟のことが急に恋しくなった。
一番呑気で、幸せでいられた頃だ。マー(ママ)がいて、弟がいて、私がいて、そして、ダディがいた。

三日月の夜はきっと人をおかしくする。
一般的には満月の夜こそがそうなんだろうけど、色んな感情に振り回された一日だったし、ベティの毒舌も
冴えまくってた・・・ってあれはやり過ぎだったけど。
だからきっと、三日月の夜にもそんな妖しい魔力が潜んでいるに決まってる。

そう思い、もう一度月を見上げる。駅からの帰り道に感じた、あの胸の痛みは何だったんだろう。
どんな記憶と結びついていたんだろう。
何故だかそれを知りたい、と強く感じた。思い出したい、と。 
・・・でも一体どうやって?

あの三日月の端っこを齧ってみればそれが解るかな?――彼女の顔に再び笑みが戻った。
やっぱり明日、弟に電話しよう。
そう心に決め、彼女は考えるのをやめて瞳を閉じた。



● 用語解説ページ


関連記事

Magnet 11.「 Trick or Artichokes ? -いたずら?それとも、アーティチョーク?-」

Magnet 11.  
「 Trick or Artichokes ? 」 -いたずら?それとも、アーティチョーク?-

m-file-magnet11.jpg



赤毛の彼女の様子がおかしい。
そう気付いたのは、インフルエンザで約一週間仕事を休む羽目になった、あの直後だった。
一週間もの間、一度も彼女の姿を目にすることが出来ずに、彼は心底悲しかったのだが、
ある時をきっかけに、これを機に生まれ変わろう、とでもいうような妙な決意に目覚めてもいた。
最後に彼女に会った時、「一杯おごってよ、ポール」と言ってくれた、あのひと言を心のよりどころに
病気にも耐えた、と言ってもいいだろう。

彼女には一緒に暮らす恋人がいる、というのは知っていた。だから相当な覚悟がいることも解っている。
自分を受け入れてくれる確立なんて極めてゼロに等しい、と。
それでも彼はこのまま、毎日窓越しにカプチーノの注文を巡ってのやり取りを続けるだけの、
そんな不甲斐ない自分に甘んじる気はなくなっていた。
もちろん今のままでは振られるのは目に見えているが、いつか状況は好転するかもしれない。
少なくともこの思いを伝えることくらい、何の罪にもならないじゃないか!
でも一体どうやって?どのタイミングで伝える?どんな言葉を選べばいい?
彼はそこで必ず頭を抱えてしまうのだ。


久しぶりにいつもの場所にベティの姿を見るのはとても良いものだ。これこそが彼にとっての日常だった。
でも毎日毎日彼女を見つめ続けてきた彼だからこそ、ベティの変化に目ざとく気が付いてもいた。
仕事の合間、頬杖をついて溜め息を吐いたり、ぼうっと考え事をしていたり。
もう一人のネイリストのエミや顧客たちと談笑していても、どこか翳りを感じさせる笑顔だった。
何があったんだい?ベティ?――コーヒーを届ける度にそう声をかけようと思うのだが、彼の前ではいつも通りの彼女でいるものだから何となく声をかけ辛くて、気がつくとまた一週間余りが過ぎてしまっていた。

そしてそのうちに彼は驚愕の事実を知ってしまうのだった。

「ねえ知ってた!?お向かいのサロンのミシェルとベティ、同棲始めたらしいわよ!」

ジェシカがフレディに面白そうにそう言うのを耳にしてしまったのだ。

「ええ?彼ってゲイじゃないの?」
「きっとバイなのよ!ちょっと、面白いことになってきたと思わない?」

――何てこった!ぐずぐずしてる間にベティは恋人との同棲を解消して、あろうことかあのミシェルと
暮らし始めた、ってこと!?恋人を振って!?じゃあベティのあの溜め息の原因はそれだってこと!?
彼女と彼はただの友達だと思っていたのに!ミシェルが相手なんて、全く勝ち目ないじゃないか!
ああ、僕は本当にのろまで間抜けな意気地なしだ。
こんなことになるんならあの時、「じゃあ来週にでもどう?」ってベティを誘えばよかった。
もう遅かったかもしれないけど、少なくともそのことで後悔することはなかったのに。
あああ、今世紀最大のショックだ。
いや、まだ今世紀になって10年しか過ぎてないけど、少なくともこの10年で最大のショックだ!
ああ、また熱が出てきたような気がする――打ちのめされ、廃人のようにぼんやりとする彼を、またジェシカとフレディがくすくす笑っているのが聞こえる(もっとも彼らは、ポールが好きなのはミシェルだと勘違いしたままだったが)。
それがどうした。笑いたきゃ笑えよ。そんな顔を彼らに向ける。
思いがけない彼の反撃に、ふたりはこそこそ、と仕事に戻っていった。

とにかく落ち着け、ポール。
直接彼女の口から事実関係を訊き出すまでは、本当のことはまだ解らないじゃないか。
僕にだってまだ「ベティ・レース」に参加する資格は残ってるはずさ!


そんなこんなでひとり悶々としていると、夕方ベティがいつものようにマグカップを返しにカフェにやってきた。

「Hi、ポール」
「・・・Hi 」

その罪つくりな笑顔を向けないで、ベティ。
入り口近くのテーブルの上を拭きながら、彼女がカウンターのほうへ歩いていくのを見送る。
ちら、とカウンターを見やると、今ジェシカとフレディは席を外していた。
返却用のカウンターの上にマグを返し、ベティが再び彼の方へ近付いて来る。

「じゃ、またね、ポール」
「・・・・・待って、ベティ!」
「?」

意を決して彼は店の外のベティを追いかけた。ああ、心臓が壊れてしまいそうだ。
いや、いっそのこと壊れてしまえ!

「なあに?」
「あの・・・」
「Yeah?」
「あー・・・その・・・」
「?」
「さっ、最近、あの・・・えーっと・・・」

肩をすくめて一体何なの?と言いたげに笑うベティを見て、彼はすーっと息を吸った。

「僕がミシェルを好きだとかとんでもない妙な噂が蔓延してるみたいだけど決してそうじゃないから本気にしないで!
じゃ」
「・・・は?」

彼はその日、生まれて初めて「死んでしまいたい」、と思った。





ミッドノースいちのバリスタが自分の不甲斐なさに打ちひしがれている頃、そこより少し北、アッパー・イーストの
クリフォード御殿では、ひとりの料理人が野菜の山を目の前に、うーん、と頭を悩ませていた。
出来るだけ野菜中心のヘルシーな料理を、と望むクリフォード夫人に対し、好き嫌いの多いその息子。
毎回子供用に別のメニューを幾つか用意してはいるのだが、野菜嫌いのご子息にどうやったらそれらを口にして
もらえるか。それが毎回の彼のミッションであり、苦労の種だ。

ちらり、と背後のテーブルを見やる。
レイは何故か自分の部屋ではなくそこで勉強したがるので、今もそこに座って「お気に入りのナニー」と
算数の勉強中、というわけだ。
こいつはまだ幼稚園児だぜ!?と声を上げたくなる瞬間でもある。
レイは体が弱いせいか過保護にされ過ぎているように思う。
他所の家のポリシーに干渉する気など更々ないが、この歳の子供はもっと外の世界をのびのびと駆け回りたいだろうし、そうさせてあげるべきだ、と彼は内心でそう思っている。
甥のアルとクリスなど真逆の育ち方をしているからなのか、外で遊んでばかりでまるで勉強に身が入らず、
母親である姉のケイティはいつも嘆いているが。

さっさと答えを教えてしまいたくなるのを堪え、こうやって気長に根気強く見守りながら、自分で考えることの
道筋を与え、やがては答えを導き出す。 そんなふうに彼らの勉強を見てやることなど自分には出来そうもない。
外でバスケット・ボールやキャッチ・ボールをする方が、自分も彼らも楽だからだ。
子供の学習に付き合うのには相当な忍耐力が要るんだろうな―――そう思いながら感心したように彼女の様子を見つめていると、彼女が彼の視線に気付いて「何?」という顔を向ける。

「あー・・・実は買い忘れた食材があるんだ。ちょっと買いに出ようかと思ってるんだけど、レイを連れ出しても構わないかな」
「ほんとう?ショーン!」
「あー、どうかしら。ナディアに許可をとらなくちゃ」
「大丈夫、直ぐそこのマーケットだから」
「・・・じゃあいいけど。Oh、バイクは止めてよね」
「もちろん歩いて行くよ。君も一緒だし」
「何で私が?」
「俺ひとりだと、あのおばさん許してくれそうにないからさ」
「おば・・・」
「わぁい!」

レイが嬉しそうに椅子から元気よく下りて、ナディアー、ショーンとシェリーとマーケットに行ってくるねー、と
駆け出した。

「レイ!上着を着て!」

自分の上着は忘れて慌ててレイを追いかける彼女にくすっと笑い、彼は自分のものと彼女の上着とを手に
ふたりを追った。




クリフォード家のあるパーク・アヴェニューから1ブロック東のレキシントン・アヴェニューを過ぎ、
さらに東へ1ブロック進んだサード・アヴェニュー。
道を1本隔てただけでがらり、と街の雰囲気が変わる、そこがこのニュー・ヨークの面白いところで、
ここアッパー・イーストも東に進めば進むほどその色合いが濃くなる。

ここサード・アヴェニューが「貧富の壁」だと言われていたことをつい最近知った。
ここから東に行けば行くほど、家賃も安くなるし、ぐっと庶民的な街並みに変わる。
反対に、セントラル・パークに近ければ近いほど家賃は高くなるし、全身ブランド品を纏ったような人々が増えて行く。

そして、2ブロック歩いたそのサード・アヴェニュー沿いにそのマーケットがあった。
直ぐそこ、なんて言ってたくせに、2ブロックも歩かされちゃった、なんて思いながらレイと手を繋ぎ、
マーケットの中へ入る。
レイにとってみれば、おもちゃ屋だとかキャンディー屋に来た時と同じくらいにわくわくする「遊び場」なのだろう。
眼をきらきらさせながら、あっちからこっちへと走ってはしゃいでいる。

「ほらレイ、見てみろ。綺麗だろ?」

彼が野菜売り場を指差して言う。オレンジやグリーンやイエロー、白や赤や紫。
色とりどりの野菜やフルーツが所狭しと並ぶさまはポップアートさながらで、一枚の巨大な静物画のようでもある。

「うん、とてもきれい」
「野菜はただそこにあるだけで、それ自身がとても美しいんだ。それでいて、食べる人をも健康で美しくしてくれる、
そんな魔法の食材なんだぞ?」
「ふーん」
「触ってごらん」
「! つるつるしてる!パプリカってこんなにつるつるしてて硬いんだね」
「そうだ。皮を剥いたり火を通したりして、君が食べやすいようにしてるんだよ」
「これは何?フルーツ?パイナップルのはっぱみたいだね」
「これはアーティチョークという野菜さ。瓶詰めのものしか食べたことないだろ?」
「わかんない。きっと食べたことない」
「これは下処理が大変な食材のひとつなんだ。今は君の顔の半分ほどもあるのに、美味しく食べられる部分は
真ん中のほんの少しの部分だけなんだよ」
「ふーん。おいしいの?」
「ああ、美味いぞ。まだ子供には美味い、と思えるものじゃないだろうけど」


彼がレイを連れ出した訳を理解し、ラムカは少し彼を見直した気になっていた。
なるほど。テーブルの上で算数を勉強させるだけが学習じゃない、というわけね。
ついでに自分の買い物もして行こうかしら、とフルーツをあれこれ吟味していたラムカは、値段を見て、直ぐに手にしていたオレンジを棚に戻した。やっぱりアップ・タウン価格とは相容れそうもない。

ふと何気なく反対側のスペースに目を向けると、彼らをじーっと見ている女がいるのに気が付いた。
いかにもモデルか何かをしてるような風情の女だ。
ラムカは彼女に見覚えがなかったので、きっとショーンの知り合いだろうと思い、彼の肩を軽く叩いた。
ショーンがその彼女に視線を向けると、彼女はひらひらと手を振って彼に笑顔を向けている。

「・・・・あー・・・・ちょっと外していいかな」
「どうぞお好きに」

レイ、お魚でも見てこようか!そう言ってレイをその場から遠ざける。
ちら、と彼のほうを見ると、その女が笑いながら彼の頬を指先ですいっと撫でているところだった。
ショーンはいつになく軽薄そうな表情をしていた。
ふたりがどんな会話を交わしているのかなんて考えるまでもない。
フード・マーケットでの立ち話に相応しい表情ではなかったから。
やっぱりトムさんの言った通りだ。きっと彼が街を歩けば女に当たる。
そして彼女はそういう類の男が苦手だ。

「気にしなくてもだいじょうぶだよ、シェリー」
「えっ!?」
「かのじょは "こいびと "なんか じゃないよ」
「見ちゃだめよ、レイ!」
「だってほら、さっさとあっちいけよ、ってこころの中でそう言ってるよ」
「?」

いいからこっちいらっしゃい、そう言って魚売り場までレイを引っ張っていくと、やっとレイは魚の方に
興味を移してくれたようだ。

"こころの中で言ってるよ " ――? 
それって一体どういう意味?彼がそういう顔をしている、ってことよね?

「・・・ふふっ」

ラムカを振り返ってにやり、と笑うレイの瞳を覗き込む。まるで別人のような顔だ。
ちょっと意地悪そうな、何かを企んでいるような、少し大人びた顔。
初めて会った時みたいにその瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚え、彼女はほんの一瞬、
眩暈のようなものを感じた。



結局ショーンはアーティチョークを買って帰った。
そしてレイに説明しながら下処理をして、今度は真っ黒になるまで焼いたパプリカの皮を剥くのを手伝わせている。
あの時レイが一瞬だけ見せたあの表情は何だったんだろう。
ふたりを後ろから見つめながら、ラムカはその時感じた、畏敬にも似た感情を思い出していた。
こんな小さな子に対して抱く感情ではないのかもしれない。
でもあの時、レイはレイではなく、違う誰かだったようにも感じられたのだ。
・・・ううん、きっと彼の中にもそういう表情をするような部分があるのよ。
彼女はそう思い直した。あれはきっと、何か悪戯心を起こしていたのに違いない。

そんなことよりも、だ。
「気にしなくてもいいよ、シェリー。かのじょは "こいびと "なんかじゃないよ」
――そっちの言葉のほうが気にかかる。何であんなこと言われなきゃならないわけ?
マーケットからの帰り道、憮然としたような顔のラムカを見て、彼がくすっと笑ったのも気に入らない。
誤解のないように言っときますけど、私はただ付き合わされて疲れただけなんですからね!
そう言ってやりたかったけど、彼の本来の目的は、ああやって女とフード・マーケットの野菜売り場なんかでいちゃつくことなんかじゃなかった筈だし、こうして野菜に興味を持たせようとしてやったことだもの。
そう思い直すことにした。
いい匂いがしてきて、思わず目を細める。
心も少し柔らかさを増すようだ。そのうちに彼女のお腹も盛大に音を鳴らすだろう。

そうだ、明日は久しぶりにお菓子でも作ってレイに食べさせてあげよう。
そう思い立ち、彼女は何の材料があるのかを確かめるために、パントリーの扉を開けた。



● 用語解説ページ



関連記事

Magnet 10.「Reunion -再会- 」

Magnet 10.   
「 Reunion 」 -再会-

woophy-magnet10-2.jpg




1:10 a.m.  アッパー・イースト

コンピュータの画面を目で追う彼の背後で、がちゃり、と響く扉の音。
相変わらずノックもしない女だ。もちろんそれを許されるのは、彼女、ただひとりしかいないが。

「・・・遅かったな」

彼が振り返りもせずに低い声で言う。彼女は壁にもたれながら、夫の背中をまじまじと見つめている。
そこにまた新しい傷でもこさえてきたかしら。私の居ない間に。
確かめてみる?あのカシミアのセーターを脱がせて?

「・・・うーん、寂しかった?ベイビー」
「酔ってるのか、キャス」

そうする代わりに、後ろから抱きついて耳を軽く噛む。
だが彼女に返されたのは温度のない声。

「ええ、酔ってるわよ。いけない?」

目の前に回りこんで夫の上にまたがり、にやり、とした笑みを彼に突き刺す。

「だってパーティーだもの」
「・・・最近、飲み過ぎだ、キャス。頼むから、また隠れて飲むのだけは―――」
「――― それよりね、フィル、喜んで! レイの子守が見つかったわ」
「・・・そう、それは良か―――」

唇を重ね、彼の言葉を遮る。不適な笑みを携えて。

「とても可愛い子よ。エキゾチック、大きな茶色の瞳、長い黒髪・・・・Oops!全部あなたの好みね」
「!?」

ふふっと笑ってもう一度夫の唇を貪り、膝を降りて、彼女が書斎を出て行く。
彼女の残した耳障りな笑い声と気配にうんざりしながら、彼は背中で彼女を見送った。





三日後  2:30 p.m. アッパー・イースト

彼女は今、何となく気後れしながらアッパー・イースト・エリアを歩いている。
狭いマンハッタンだが、彼女の人生には余り縁の無い地域だ (ただし、メトロポリタンやグッゲンハイムなどの美術館だけは何度か足を運んだが)。
高級ブランドのブティックが立ち並ぶマディソン街なんて、滅多に訪れることもない。
彼女だって女として生まれたからには人並みに憧れはある。
けれど、500ドル以上もする靴や2000ドル以上もするバッグだなんて、そんな贅沢など許されない身には、
高級ブランドなんてものは目に毒なだけだ。出来るだけ見ないにこしたことはない。

同じ高級住宅街でも、セントラルパークを隔てた向こう側のアッパー・ウエストの方がずっと、彼女にとっては
親しみやすい場所だった。
働いていた幼稚園があった場所だが、ゼイバーズやH&Hベーグルズにはよく通ったし、マンハッタン子供博物館や
アメリカ自然史博物館には園児を連れて何度も通った。
お気に入りのカフェも何件かあったし、それから・・・・
セントラル・パークのあちら側が急激に恋しくなってきたのと、同時に、思い出したくない男を思い出してしまったので、彼女はそれ以上、太陽の沈む方角に思いを馳せることを止めた。


セントラル・パーク東側沿いの5th Ave.(フィフス・アヴェニュー)から2ブロック東に通るPark Ave.
(パーク・アヴェニュー)。
70丁目あたりは高級住宅街として有名だが、キャサリンの教えてくれた住所もそのあたりだ。
ここら辺一帯に黄色いキャブが並んでいるが、時おり黒塗りのリムジンが横付けされていたりもする。
いかにも公共の交通機関とは縁の無さそうな人間の住む街、といった光景だ。

キャサリンの住む建物の入り口にはドアマンが居て、その人に顔を覚えてもらうまでは、クリフォード家に
出入りする者だと証明しなければならない。
彼女がキャサリンのくれた許可証のようなものをそのドアマンに見せると、「ああ、クリフォード夫人から
伺っておりますよ、ミス・テイラー」とドアを開けてくれた。
笑顔で礼を言って中に入ると、正面には赤い絨毯が敷き詰められた階段が美しく螺旋を描いていて、
階段の横、つまり入り口向って左側の壁側に、重厚な装飾のクラシカルなエレヴェイターがある。
暫く待ってようやく降りてきたそれに乗り込み、教えてもらった通りに15階のボタンを押した。

4階のボタンが上下逆さまになっているのに気付き、くすっと笑っていると、同時に「Wait!」という声がして、
箱を持つ腕が扉の閉まるのを阻み、背の高い男が「Excuse me」とエレヴェイターに体を滑り込ませて来た。

「ふー!どうも」
「何階ですか?」
「Oh、Ah・・・」

15階、と言おうとして、15階のボタンが既に押されてあるのに気付き、あれ?と言う顔で男が彼女の顔を見下ろした。
だが彼女は彼より少し前の方に立っていて、顔が良く見えない。
男がそれ以上何も言わないので、不審に思った彼女が男を振り返った。

「!?」
「!?」

互いに、あれっ?という顔をした後、ふたりして一回顔を前に戻して首を捻り、もう一度互いの顔を、
ひとりは見上げて、ひとりは見下ろして、今度こそ「あっ!」と言う顔で互いを指差す。

「シェリー?」
「ショーン?」

同時に名前を呼び合った時、ちーん、と音がしてエレヴェイターの扉が開いた。

「What are you doin' here!? (ここで何を!?)」
「あー、今日からここの息子さんの子守を・・・」
「For real!?」
「あなたこそ何を?」
「ここの家の料理番」
「Really!? じゃあ、Oh!!」

驚きの余り降りるのも忘れて話し続けたせいで、エレヴェイターがそのまま下降し始めてしまった。
笑う彼にぎこちない笑みを返すと、彼が右手を差し出した。

「ショーン・クーパー。トムから聞いただろうけど」
「Oh、シェリーよ。シェリル・テイラー。この間は美味しいワインをどうも」

自己紹介をしながら握手を交わすと、彼が目を丸くしていた。

「信じられない。本当に "シェリー " だったんだ」
「! そのことなんだけど、どうして・・・」

そこでエレヴェイターが開き、ひとりの白髪の婦人が乗り込んできた。行き先は1階。
最初からやり直しだ。そんな顔でショーンが彼女に目配せをしたので彼女が軽く笑うと、
白髪の婦人が自分を笑ったのかと誤解したのか、少し不快そうにふたりを振り返った。

「素敵なスカーフですね、マダム。よくお似合いだ」

彼がそう言って最後に片目を瞑ってみせると、その婦人は、まあ、嬉しいこと、とまんざらでもなさそうな顔をして
エレヴェイターを降りて行った。
あのトムさんと言う人が彼のことを女たらし、と言っていたのは本当かも。しかも全年齢対象。
彼のその『実力』とやらを目の当たりにし、何となく彼女は身構えて、再び15階のボタンを押した。
もう一度エレヴェイターが上昇を始める。

「・・・で、何だったっけ?」
「・・・あー、えっと、そう!どうして私の名前を知ってたの?ってことよ」
「あー・・・それについてはクリフォード家の坊ちゃんに聞いてくれ」
「はあ?」
「変てこなガキだよ。いつまで持つかな、君」
「どういうこと?」
「会えば解る」

再び15階で扉が開き、今度こそふたりはそのエレヴェイターを降りた。



ナディア、と言う名の、50代後半くらいのちょっと厳めしそうなメイドがふたりを出迎える。
入って直ぐのエントランスには真ん中に重厚そうな丸いテーブルが置かれ、大きな花瓶に花が活けられている。
薄暗い部屋の上を見上げると、昼間だと言うのに灯されたシャンデリアが、重厚な造りの部屋に柔らかな光と影の
コントラストを生んでいる。そこはまだほんの入り口に過ぎないと言うのに、美術品のような調度品が醸し出す雰囲気が既に彼女を圧倒していた。

そんなふうに突っ立ったままのラムカを置いて、じゃ、頑張って、とショーンはあっさりとひとりキッチンの方へと
行ってしまったので、彼女は急に心細くなってしまった。
ナディアというメイドがラムカを連れ、家のあちらこちらを案内しながらてきぱきと注意事項を伝え始める。
例えば、ここから先は夫妻のプライヴェイト・スペースだから許可なく立ち入ってはいけない、とか、使用人はメインの
バスルーム(トイレ)を使ってはいけない、とか、家族のプライヴァシーに立ち入るのは勿論のこと、それを外部に
漏らしてはならない、とか、まあそんな類のものだ。
先日のランチでキャサリンは「好きにのびのびと、あなたのやりやすいようにやっていいのよ」と言ってくれたけど、
このナディアという人はそれを許してくれなさそう・・・などと思いながら彼女の後をついて行くと、次の案内場所は
キッチンだった。


「Welcome to my restaurant!」

ショーンが軽く笑ってラムカを出迎え、彼女は引きつった笑みでそれに応える。
彼は仕事の手を休め、なんだか面白いことになってきたぞ、と言わんばかりに、シンクにもたれながら腕組みをして
面白そうに彼女達の様子を眺め出した。
冷蔵庫のドリンク類や、コーヒー、紅茶等はご自由に、とか(でもこちらの棚のものは奥様のものだから手を出さないで、とも言われたが)、坊ちゃんに余りミルクを飲ませすぎないで、とか、賞味期限と消費期限を必ずチェックしてね、とか、そういう細かい説明だった。
彼が、くすくす、と笑っているのが聞こえたので、ナディアの目を盗んでこっそりと『何で笑うの?』と抗議の視線を
彼に向けたが、彼は軽く肩をすくめてみせただけだ。


次にナディアが、そこはパントリー(食品庫)だと言って奥の扉を指差した時に、電話か何かの呼び出しの音が
聞こえたので、Excuse me、と言って彼女が席を外した。
ラムカがきょろきょろとしていると、中を見るかい?そう言ってショーンがパントリーの扉を開けてくれた。
そろっと顔を覗かせ、ダブルサイズのベッドが二台余裕で入るくらいの広さに面食らい、Wow!と思わず声を上げた。

食材のストックだけで無く、其処にはやミキサーやフード・プロセッサー、大きな鍋といった調理用の機械や器具、
冷凍庫、ワゴン、予備の椅子などの雑多なものが仕舞われていて、更に最奥のガラスの仕切りの向こうはワインセラーになっている。
パントリーの方が私のキッチンより広いなんて、この家って一体どうなってるの!?
下手したら、あのワインセラーより狭いかもしれない!

「驚いたろ?」
「全くだわ!うちのキッチンの5倍は広いんだもの!」

感に堪えない、というふうに彼女が溜め息を吐いて首を振る。

「・・・Yeah、本当に驚きだよ」
「?」

何だかしみじみとしたような声だったので振り返ると、驚いた、と言う彼の視線は、パントリーではなく
ラムカに注がれている。

・・・どういうわけか、心臓が0.5インチ(約1.3cm)ほど動いたような気もするけど、
気のせいだということにしておこう。

「・・・また会えるとは思ってもみなかった」

・・・・・今度は1インチ(約2.5cm)ほど動いたような・・・・・
やっぱり気のせいじゃなかった? ううん、気のせいに決まってる。


曖昧に笑って、ええ、私も、なんて適当に返事をしたところで、向うの方から賑やかな声が近付いてきたので、
彼女はそちらに気を向けた。子供の声だ。

「待ってたよ、シェリー!」
「?」

そう言ってキッチンに走って来た男の子の顔を見て、彼女は思わず、あっ!と声を上げた。

"はじめまして、シェリー。やっときみに会えた "

ラムカの脳裏に蘇る、あのどん底の日、セントラルパークでの不思議な出来事。
あれは幻かと思っていたのに。ううん、思いこんでいた、が正解だったけど。
レイ・・・だったわよね?
えーとえーと、私がセントラル・パークでこの子に会って、そのあとベティがこの子に会って、
ミス・ベネットとこの子が繋がりがあって、ミス・ベネットはキャサリンのアシスタントで・・・
で、キャサリンは・・・この子の母親・・・?
ちょっと待って、どこをどう結びつければキャサリンとこの子が繋がる?どうしてこうなった??
情報を処理しきれず、ぼーっと突っ立ったままのラムカにくすくす、とレイが笑う。

「あの日言ったでしょ?シェリー。君にはそのうちいいことがあるよ、って」
「!」
「それがこのことだとは僕もしらなかったけどね」

それからレイはあの日と同じように手を差し出し、少しかしこまったように彼女を見上げた。

「ちゃんとフルネームで "じこしょうかい " するね。レイモンド・ジョゼフ・クリフォードだよ」
「Oh、あー、シェリル・ラムカ・テイラーよ。よろしくね、レイモンド」
「ら、ん?」
「ラムカよ。 L-A-M-K-A、ラムカ」
「ラムカ?かわったなまえー!」
「そうでしょ?」
「どこのくにのことば?」
「あー・・・そうね、えっと・・・ママがインド人なの」
「ふうん。じゃあ・・・『ナマステー、ラムカ!』 」
「! そうよ!よく知ってるわね!」
「僕ね、いろんなくにの『こんにちは』が言えるんだよ!『ありがとう』や『さよなら』も!」
「Wow!凄いのね!じゃあ・・・お部屋でゆっくり聞かせてくれる?」
「Sure!」


ショーンは、信じられない、というふうにゆっくりと首を振りながらふたりの会話を聞いていた。
僕もミス・シェリーに出会ったんだよショーン!そう言っていたレイの言葉を彼はまるっきり信じていなかった。
いや、信じないようにしていた。信じてしまえば彼女やレイとの出会いを運命的なものだと認めてしまうことになる。
偶然の重なりに過ぎない、そう思い込んでこの数週間を過ごしてきたのだ。

レイは時折、未来を読むような変てこなことを言い出すが、きっと当てずっぽうのでたらめに決まってる。
たまたま偶然が一致するだけさ――だから彼女との再会もまた、ただの偶然だと思い込むことにした。
でなければやってられない。

シェリー、とレイが彼女を呼ぶ声を聞き、イネスのメッセージがふいに脳裏を廻る。
彼は、ああ、と頭を抱えたい心境になり、ふたりに背を向け、再び仕事に戻ることにした。



● 用語解説ページ


関連記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。