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Magnet 16.「 Nothing is real  - すべては夢  -」

Magnet 16. 
「 Nothing is real 」   - すべては夢  -

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土曜日
イースト・ヴィレッジ  10:15 a.m. 

彼は今、ちょっとしたパニックに陥っている。
腕の中の、甘い匂いのする、白くて柔らかな生き物のせいだ。
左の腕が痺れきっていたが、どうすることも出来ず、噴き出した冷や汗のせいで体中に寒気のようなものが走るのを
感じていた。
どうしてこんなことになった? 
冷静に昨夜の出来事に思いを馳せようとすればするほど、冷や汗はどんどん滝のように噴き出してくる。
これは夢だ。昨夜の出来事も、目覚めた場所も、白くて柔らかな生き物も、この気だるさも、きっと全てが夢なんだ。
そう言い聞かせてみる。
瞳を閉じて次にそれを開いた時には、いつもの僕のベッドの上で、いつもの朝を迎えることが出来るはずさ。
けれど、何度瞳を閉じてそれを開くことを繰り返してみても、状況が変わることはない。
いや・・・いい加減、認めなければ。腕の中ですやすやと寝息を立てている白くて柔らかな生き物が、赤毛のボブカットの彼女ではなく、薄茶色をした長い髪の持ち主だ、というその事実を。


「――んん――」

小さい子みたいな甘い声を立てて、腕の中の白くて柔らかな生き物がゆっくりと瞳を開く。
彼は諦めにも似た気持ちでそれを眺めていた。

「おはよう、ポール」
「・・・おはよう・・・ジェニー・・・」
「起きてたの?」
「うん、少し前にね」
「やだ、寝顔見てたのね?」

少し恥ずかしそうに笑って、彼を上目遣いで見上げてくる彼女。
こんな時、やっぱりおはようのキスをすべきなんだろうか。
そんなふうに躊躇っていると、彼女のほうから唇が近付いてきて、彼のそれと重なった。
昨夜のきっかけと同じ、彼女からのキス。

「ねえ、今日どうする?」
「どうする、って?」
「折角ふたりとも休みなんだもの。どこか出かけない?」
「出かけるって・・・どこに?」
「んー、例えば・・・お昼を食べに行って、それから・・・そうだ、映画でも観ない?」
「・・・あー・・・どうかな・・・」

彼からの気乗りしない返事の連続に、彼女の真ん丸な瞳が悲しそうに翳っていく。
それを目にした彼は、慌てたように顔面に笑みを貼り付けた。

「だってとてもいい天気だからさ、映画より、外を歩きたくないかい?」



彼女がシャワーを浴びている音が聞こえてくる。
彼は彼女のベッドに寝転んだまま、頭の下に腕を組んで、考えを巡らせることに没頭していた。
考えてみたところで、ジェニーと一夜を過ごした事実は変わらないのに。 
そう。もう後戻りすることは出来ないのだ。
彼は冷静に、昨夜の出来事を順に思い出してみた。
仕事の後、食事に行こうと彼女に誘われ、いいよ、と彼は即座に返事をした。
ベティとミシェルとラムカの3人が、連れ立って向かいのサロンから出て行くのを見届けたばかりだった。
何となく疎外感を味わっていたから、対抗心のようなものもあったのかもしれない。
ヴェスパを店の前に停めたまま、彼女と食事をして、場所を変えて酒を飲んで、少し飲みすぎた彼女をこの部屋まで
送り届けて、それから・・・
ドアの前で彼女にキスをされ、シャツの襟元を引っ張られるようにして、彼女に部屋に引き込まれたんだった。
あなたが好き、と言葉で、全身で訴える彼女に、彼の理性は見事に吹っ飛んだ。
何しろ彼も彼女と同じくらい酔っていたし、彼女のキスは、それは情熱的だったから。


勢いでこうなってしまった、そう言うとジェニーは傷付くかもしれないけど、ベティのことを吹っ切るにはこれでよかったのかもしれない。
ジェニーと居るのは楽しい。緊張することなく自分自身のままで居られるし、僕の話すこと、ひとつひとつに瞳をきらきらさせて、熱心に耳を傾けてくれる。
何より、彼女は、こんな僕のことを好きだと言ってくれる。
彼女みたいな可愛くて心の優しい女の子が、僕みたいな冴えない男を好きだと言ってくれるんだ。
・・・・ベティは相変わらず、僕のことなんか眼中にもなさそうだし・・・・


バスタオルで髪を拭きながら彼女が部屋に戻って来た。
ノーブラに薄いブルーのキャミソールとローカットのショーツを穿いただけの姿で。
体に張り付いたキャミソールの胸元には、彼女のnipple(乳首)がくっきりと浮き上がっている。
それを目にして、むくむく、と欲望が起き上がってくるのを感じる。
Hey、ポール。君もいっぱしの男だったんだな。 
彼は自分で自分を嘲るように笑った。再び諦めに似た思いで彼女を見つめながら。

これでいいんだ、ポール。きっとそのほうが、何もかも上手く行く。

彼はそう自分に言い聞かせると、ベッドから起き上がり、バスルームへと向った。







セントラル・パーク  3:05 p.m. 

ランチを食べた後、アップタウンにあるメトロポリタン美術館で時を過ごした彼らは、その後セントラル・パークへ行き、のんびりと散策していた。
メトロポリタンを出て何となく南下しながら歩いていると、ジェニーがストロベリー・フィールズに行きたい、と言い出したので、西のほうにあるそのエリアまで足を運んだ。
本当のことを言うと、彼はそこに行くのは気が進まなかった。
でもその訳を説明する気はなかったし、何よりもそう言って彼女が悲しそうな顔をするのを見たくなかった。

ストロベリー・フィールズ。
その場所から直ぐ近くのウエスト72丁目にあるダコタ・アパートメントにかつて住んでいて、そしてそのエントランス前で命を落としたジョン・レノンを偲んで作られたメモリアル・プレイスだ。
名前の由来は勿論、説明すべくもなく、ビートルズのあの名曲だ。
中心に " Imagine " の文字が刻まれた有名なモザイクはオノ・ヨーコがデザインしたもので、そのモザイクの上には献花が絶えることなく飾られている。
この日もそこはピースマークの形に花が並べられていた。
ジョンの命日でもないのだが、ギターを弾きながら " Imagine " を歌う若者がいて、それに合わせてちょっとした
合唱が起こっていた。

ベンチに座ってそれを眺めていると、そう言えば、とジェニーが笑いながら彼のほうへ視線を向けた。

「ね、やっぱりあなたはポール派なの?」
「うーん、別に・・・どちらでもないよ」

気のなさそうな彼の返事にジェニーは残念そうだったが、彼はビートルズには大して興味がない振りをしてその場を
やり過ごした。余りこの話題で話をしたくなかったからだ。
統計学的にどうなのかは知らないし、全くの思い込みかもしれないが、彼の持論としてはこうだった。
父親がクリスチャンで、かつビートルズの大ファンだと、名前はジョンかポールか、そのどちらかになる確率が高い、ということだ。
勿論ジョージもいるだろう。リンゴもいるのだろうか。残念ながらお目にかかったことはないが。


子供の頃は、" ジョン " になりたかった、と常々思っていた。あいにく、先に生まれた兄がその名前を既に貰っていた為に弟である彼は " ポール " になったわけだが、父はどちらかと言うとジョン派だったから、父が兄のほうを可愛がっているような気がして仕方がなかった。ましてやこんな足の障害を持って生まれてきたものだから、余計に父親の愛情が兄に向いている気がして、子供の頃にはそれが彼のコンプレックスのひとつだった。
何しろ兄は " スーパー・スター " だったから。ハンサムで優秀でスポーツ万能で、友達も多かったし、女の子にもよくもてた。両親にとってみれば、それはそれは自慢の息子だったことだろう。
それで嫌な奴だったなら彼の溜飲も下がったのだろうが、これがまた困ったことに、素晴らしい内面を持つ、心の優しい兄だった。
つまり、あれだ。非の打ちどころのない、という表現がぴったりの男だった。
自分がこんなに引っ込み思案で冴えない印象なのは、兄がいい部分を両親から先に全部譲り受けてしまったからだ、そう思っていた。
ああ・・・またこんなことを思い出して気分が滅入ってしまうのだけなのに、どうしてこの場所に来てしまったんだろう。
ジェニーと一緒ならそんな気持ちになることもないだろう、と思っていたのに。


そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ジェニーは彼の手を取って立ち上がると、北の方へ向って歩き出した。
確かこの先にBelvedere Castle(ベルヴェディア・キャッスル)やシェイクスピア・ガーデンがあったはず、と言いながら、彼の手を引いてずんずん歩みを進めている。
気付けば昨夜からすっかり彼女のペースで時間が進んでいる気がするけど、気が楽と言えば気が楽だ。
女の子の喜ぶデート・プランを考えるなんて、経験がないわけではないけれど、決して得意なほうではなかったから。
ただこうして手を繋いで歩いているだけで、ジェニーは嬉しそうな顔をして彼のほうを見上げてくる。
正直、昨夜初めて一緒に過ごしただけで、恋人としての自覚がある訳でもなく、彼はとても気恥ずかしかった。
けれど、それを伝えて彼女が悲しむのを見るのは嫌だったので、彼女には静かな微笑みを返した。



そして予想もしない出来事が起こった。79丁目通りに差し掛かった時のことだ。
シェイクスピア・ガーデンのほうへ向って傾斜を登ろうとしたところで、少し東側にあるベルヴェディア・キャッスルの
方向から、どこかで見たことのある少年が駆け下りてくるのが目に留まった。

「レイ!飛び出すと危ないわよ!」

その少年を慌てて追いかける人物に彼は目が釘付けになった。
ラムカ!? ラムカじゃないか!
それから続いて目に入るのは、笑いながら彼女の後ろを歩く、背の高い、見知らぬハンサムな男。
ポールは咄嗟に顔を背けるようにして傾斜を勢いよく登り始めた。
平地なら少し目立ってしまうかもしれない彼の歩き方も、そこは傾斜だったからラムカに気付かれずに済んだかも
しれない。

「ポール!?」

突然手を離して先を行く彼にジェニーの声が飛び、彼は、ああ、と盛大な溜め息を吐きそうになった。
ラムカの耳に、今のジェニーの声が届かなかったことを祈るのみ、だ。 
ジェニーが再び、ポール、と声を上げないよう、彼は振り返るように立ち止まって、彼女が追いつくのを待った。

「突然どうしたの?」
「ごめんよ、ジェニー」

彼はそう笑い、自分から彼女に手を差し出した。




僕は卑怯だ。
ベティを諦めて、僕を好きでいてくれるジェニーと時を過ごすことを選んだ。
そのくせ、ジェニーとのことを後ろめたく感じている。最低の男だ。
僕とジェニーが手を繋いでいたのをラムカに見られたかもしれない。そう思うと気が気じゃなかった。
ラムカの口からベティに漏れるのが怖い。

ベティは僕のことなんて全く眼中にない。だからこんなふうに思うのは間違ってる。そう頭では解っている。
でも・・・・


「見て、ポール!凄くいい眺めよ!」

城の展望台ではしゃぐジェニーの声が彼を現実に引き戻す。
朝、ゆっくりと瞳を開く彼女を見つめた時の、あの気持ちが再び彼の胸に湧き上がる。
少しだけ悲しくて、それでいて、少しホッとしたような、諦めにも似たあの感情が。






その後、イースト・ヴィレッジまで帰るジェニーと一緒に地下鉄に乗り、彼はジェニーに手を振って、途中の駅で
電車を降りた。店の前に停めたままのヴェスパで帰るためだ。
たった一日で、自分を取り巻く状況が激変してしまった、なんて信じられない。
それはもしかしたら、ヴェスパを停めたままにしておくことを決めた瞬間から始まったのかも。そんな気もする。
もしもあの時、酒は飲まない、と決め、ヴェスパを置いたままにせずにいたら。そうしたら、違う朝を迎えていたかもしれない。違う朝、というよりも、いつも通りの朝、と言うべきなのかもしれないけど。
後悔はしていない。そう思いたい。今はまだ、ジェニーが僕を好きでいてくれるほど、同じくらい彼女を想っている、とは正直言い切れないけれど。
あれこれと考え事をしているうちに、カフェに辿り着いてしまった。
ポケットから鍵を取り出し、ヴェスパにまたがってそれを差し込む。

その時、カフェの入り口が開き、中から出てきた赤い髪の彼女が、階段を下りて顔を上げた。
ああ・・・何てタイミングが悪いんだろう。今この瞬間、君に会いたくなかったのに。

「Hi !」
「・・・Hi 、ベティ」
「あーあ。あたし明日休みなの。つまり、あんたのカプチーノを飲めるの、明後日になっちゃうってことよね?」
「・・・あー・・・そうだね・・・」
「やっぱり、あんたのカプチーノが一番だわ」
「!」
「じゃあまたね、ポール」


ベティが笑顔で手を振ってサロンに戻って行く。それを見送る彼の胸が、きゅるきゅる、と音を立てる。

・・・ベティ・・・

テーブルについた彼女が彼の視線に気付き、もう一度、Bye、と笑顔で手を振る。
そのうちに彼女の手が止まり、少しずつ笑顔が失われていくのを、彼はじっと眺めていた。
彼女の笑顔が消えたのは、思いも寄らない、彼の真っ直ぐな視線のせいだ。
彼は今、初めて瞳を逸らすことなく、想いを込めてベティを見つめていた。
戸惑った顔のベティが瞳を逸らす前に、ポールはヴェスパを静かに発進させた。

さよなら、ベティ。

――心の中でそう呟いて。



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Magnet 15.「 The quarrel theater - (ちょっと大人げない)口げんか劇場 -」

Magnet 15.  
「 The quarrel theater 」 - (ちょっと大人げない)口げんか劇場 -

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結局、使い切れなかった残りの野菜とイチゴをお土産にもらい、1階で買い物をして、3人はヴィネガー・ストアーを
後にした。ショーンがナディアには内緒だぞ、と言って、セントラルパークまでの道のりをバスに乗って移動したので、
レイは大喜びだ。
セントラル・パーク内でバスを降り、3人はそのままグレート・ローンと呼ばれる芝生広場の周りを何となく歩き続けた。


そのうちに歩道を外れるようにして、緩やかな傾斜の方へと足を進める。そこを上って行くと、「Delacorte Theater(デラコルテ・シアター)」という野外劇場がある。
毎年夏になると、その劇場では何かしらのシェイクスピア劇が上映されるのだが、その劇場の前にラムカの大好きな像がある。見つめあい、抱擁を交わすふたり。ロミオとジュリエットだ。
カメラを持ってくれば良かった、と言いながら彼女は携帯電話で彼らを撮影した。
まだ芽吹いたばかりの木々が寒々しく、余計に悲しそうなふたりに見えてしまう気がしたけど、それはそれでやっぱり素敵、と彼女の写真コレクションに加えることにした。


そのまま緩い傾斜を上り、頂上付近にある「Belvedere Castle(ベルヴェディア・キャッスル)」という名の古い小さな城を通り、79丁目通りを横切って、「Ramble(森の中の散歩道)」と呼ばれるエリアを散策した。
まだ漸く芽吹いたばかりの木々の中での散歩だったが、レイは途中あちらこちらに出現するリスに大興奮で、つい
大声を出して追いかけようとするので、リスたちはビックリして直ぐに逃げてしまい、レイはそれをとても残念がった。



その後、彼らはベンチで休憩することにした。
そのうちにレイがうとうとと眠たそうにしていたので、ラムカはレイを膝の上に寝かせてやった。
ショーンが上着を脱ぎ、それをレイの体の上にそっと掛ける。向ける眼差しは優しく静かで、でもすぐにそれを誤魔化すみたいに、ふぁーっとあくびなんかしてみたり。


ラムカはここのところ、彼のこういう部分を目にする度に戸惑うようになっていた。
出来れば昨日のキッチンでのやり取りの時や、この間のマーケットでの出来事みたいに、こんな人、最悪!とそう思っていたほうが気が楽だ。
本当はこうして一緒に過ごすことは避けたいと思っている。メアリーの視線も痛いし。
けれど、心のどこかで、彼とレイと一緒に過ごす時間を楽しみにし始めている、そんな自分を自覚していた。
何故ならレイがそんな時間を過ごすことを心から楽しんでいる様子だから。それは彼女にとっての喜びでもあった。
レイが幸せそうにしていると、自分まで幸せな気持ちになれる気がするから。
だから困っている。


「・・・レイのやつ、気持ちよさそうだなー。 ふぁぁ・・・・俺もそこで寝たい、シェリー先生」
「! ・・・残念でした、子供限定です」
「あっそ」
「・・・膝の上に寝る相手なんて・・・いくらでもいるくせに」

しまった!と後悔したけれど遅かった。この手の話題を彼とは話したくないのに!
でも彼は、ふん、と鼻で笑ってそっぽを向いただけだ。また彼に子供扱いされたような気がして、彼女は膝の上のレイの寝顔に視線を落とした。

「・・・Yeah、確かに俺は女好きに見えるかもな。 だけど仕事仲間のお堅い女まで漁るようなことはしないから。
安心しろよ」
「!」

思いがけず少し怒ったような彼の声。何だか嫌味な物言いに彼女もカチンときて、思わず彼の顔を見返した。

「よく言うわよ。仕事場であんなことしておいて」
「あんなこと?」

しまった!私ったらまた!

「・・・・忘れて。私の勘違いだから」
「Oh、 wait!昨日のこと言ってるのか?」
「だから忘れてって言ってるの!」
「うーん・・・」

そう言ってレイが動いたので、彼女は慌てて唇に指先を当てた。

「・・・話をしてただけでそんなふうに思うんだ。 君さ、被害妄想の気(け)、ない?
それか、もしかしてレズビアン?」
「はあ!?」
「その愛想の悪さは、よっぽど男で酷い目に遭ったとしか思えない」
「! 随分と飛躍した勝手な妄想をどうも!仮にそうだとして、レズビアンのどこがいけないの?」
「いけないなんて言ってないだろ?むきになるなよ」
「あなたこそ!」
「・・・・・ちょっと待てよ。何で俺たち喧嘩してんだよ?」
「・・・・・そう言えば・・・・・」


あなたが意地悪言うからじゃない。 意地悪なんか言ったっけ? ・・・お堅い女とか被害妄想とか。 
俺、そんな酷いこと言った?  はぁ!?発言にはちゃんと責任持ってくれない!? 
君こそ意地の悪いこと言ったろ? 
片方が責めると片方はいい加減に言い逃れ、むきになってまた責め立てる。まるで子供の言い争いだ。
ついさっきまで楽しく過ごしていたのに。何でこんなことになっちゃうの?
彼女は再びレイの寝顔に視線を落とした。
・・・そうか。レイが間に居てくれないと、私たち、相性最悪なのかも。


「・・・・ごめん」
「!」
「酷いこと言って。 大人げなかったよ」
「・・・・」
「・・・・あまりにも気持ち良さそうに寝てるから・・・ちょっと妬けた」
「!」
「だけど別に・・・女の膝の上なんて興味ないよ。 ・・・それをさ・・・」


そうぶっきらぼうに言って、彼がまたそっぽを向く。まるで拗ねた子供みたいに。
ああ、まただ―――彼女が「その気持ち」に戸惑う瞬間だ。
こんな気持ちになるくらいなら、喧嘩していたほうがずっとましだと思う。
でも彼にだけごめん、と言わせるのはやっぱり気が咎めたので、彼女は彼に向き直った。

「・・・・私こそ大人げなかった。 ・・・ごめんなさい」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・ふっ」

突然可笑しそうに噴き出して、彼がやれやれ、というふうに首を横に振った。

「?」
「何でもない」
「! 何なの? 」
「何でもないって」
「ずるいわよ、そういうの。気になるじゃない」
「だから本当に何でもないんだよ。ただ可笑しくなっちゃってさ。俺たち一体、何やってんだろう」
「・・・・何って・・・子守でしょ?」


じゃあ俺、明日から 『 Manny(マニー) 』 として別に給料貰うかな。 あ、人の仕事、奪わないでくれる?
じゃあ交代しようよ。美味いカレー食わして。 絶対に嫌です。 ちぇっ!
気が付くと、膝の上のレイが口に手を当ててクスクス、と笑っていた。
こいつめ、聞いてたな。 ふふふ、ショーンってやきもちやきだね、シェリー。 ええ?
ショーンはベンチから立ち上がると、また朝みたいにレイを捕まえて担ぎ上げては落っことそうとしたりして、
芝生の上でレイとじゃれ始めた。
笑いながらふたりを眺めていると、心の中にまた「その気持ち」がこみ上げるのを感じ、彼女は慌てて
彼らから視線を外した。

私・・・一体どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。
自分の言動すら理解出来ず、戸惑いは増すばかりだ。
そもそも、どうしてこんふうに憎まれ口ばかり叩いてしまうのか。
思いもよらない彼の反撃もきつかった。お堅い女だなんて酷い。結構傷付いたんだから!






3:35 p.m.

少し気温が下がってきたので、ユニオン・スクエアはまた今度にしよう、ということになり、71丁目の
クリフォード家まで歩いて帰ることにした。
南に3ブロックほど歩き、東に2ブロック歩いて漸くパーク・アヴェニューに辿り着く。
徒歩でセントラル・パークに行き来出来るなんて羨ましい、と思う瞬間だ。
それから15階のクリフォード家に帰り着くと、早速ナディアが手を洗わせるためにレイをバスルームに連れて行った。

ラムカはヴィネガー・ストアーで買ってきたものを冷蔵庫に入れるためにキッチンに行こうとして、ダイニング・ルームの入り口で立ち止まってしまった。見知らぬ男がそこに座っていたからだ。

「フィル!」
「!」
「ああ、ショーン。お前今日休みなのに出てきてくれたんだって?」
「あー、まあ・・・」

君は? 一瞬そう言いたげな顔を向けたあと、ああ、と思い出したように立ち上がり、フィリップがラムカへと
右手を差し出した。

「フィリップだ。 君がシェリーだね?」

うわ・・・すっごいハンサム!

「は、はい、初めまして、ミスター・クリフォード。シェリル・テイラーです」
「よろしく。いつもレイが君の話ばかりしているよ。とても優しくて綺麗で素敵な先生だって」
「あー・・・ありがとうございます。でもそれ、褒め過ぎです。やめて下さい」
「息子は嘘は言わない子だよ」
「・・・Oh・・・」

フィリップが眩暈のしそうな笑顔を彼女に向ける。
こそばゆそうな顔でぽりぽりと耳をかくショーンを横目に、ラムカは漸く会えたレイの父親にうっとりと見とれていた。
こんなに美しい男の人を見たのは多分、生まれて初めて! そう思った。
ミシェルもハンサムだし、プロムの相手だったハイスクール時代のボーイフレンドも結構なハンサムさんだったけど、
比べ物にならないって言うか、人としてのレベルを遥かに超越してる!

「あー、シェリー先生、ミスター・クリフォードが困ってますけど」
「Oh!Ah・・・Excuse me!」

真っ赤になって握手をほどき、ラムカはひとりそそくさとキッチンに逃げ込んだ。

「・・・あーあ。またお前の毒牙に蝶が掛かった。可哀想に」
「ふん、お前にだけは言われたくない」
「――ダディー!!!」

ふたりが立ち話をしていると、バスルームからレイが走ってきて父親の懐に飛び込んだ。

「どうしたの!?ダディ!今日は早かったんだね!」
「ああ、今日はもうさっさと切り上げて帰ってきたよ」
「ダディ、きょう僕ね、いーっぱいやさいを食べたんだよ!」
「本当か?レイ。ママが聞いたら喜ぶぞ」


ショーンは軽く笑いながらふたりの様子を見ていたが、すっとその場を離れてキッチンへと彼女の後を追った。
キッチン入り口の壁をこんこん、と叩くと、水を飲んでいたラムカが驚いて、げほげほっ、とむせている。

「・・・君って結構、わかりやすいタイプだね」
「何が」
「ま、いいけど」
「?」

冷蔵庫を開けてペリエを見つけた彼がキャップを捻り、ごくごく、と喉を鳴らす。

「!」

言い返そうとして、ふと何気なく下から見上げた彼の喉のあたり。ちょうど音を立ててごくごく、と蠢いていたその横のあたりに、彼女は赤黒い小さな痕を見つけてしまった。
その瞬間、彼女の胸が音を立てて揺れた。まさか彼に聞こえたはずもないだろうけど、彼女は慌てたようにもうひとくち水を飲み込み、少し零れた水滴を手の甲で拭った。
子供じゃあるまいし、今どきそんなhickey(キスマーク)ごときで動揺するなんて馬鹿みたい。


「ショーン」
「あ?」
「?」

振り返ると、キッチン入り口にフィリップが立っていた。

「今日は世話になったな。ありがとう」
「いいって。一応、これも仕事の一環のつもりだから」
「そうか・・・俺がなかなか相手してやれないから・・・これからも時々こうやって相手してやってくれないか」
「・・・ああ、喜んで」
「シェリー、君も今日はもういいよ」
「Oh・・・」
「早く帰って来れた時くらい、相手してやりたいんだ」
「そうですね。そのほうがレイも喜ぶと思います」
「じゃあな、ショーン。また・・・」
「ああ」

ショーンと握手をしたあと、ラムカにじゃあ、と目配せをしてフィリップがキッチンを出て行く。

「・・・・素敵・・・・」

ぽーっとした顔でフィリップを見送るラムカにやれやれ、という顔をして、ショーンは残りのぺリエを飲み干し、がちゃん、と音を立ててゴミ箱に空瓶を投げ入れた。
乱暴な人ね。そんな顔でラムカが呆れたように彼の顔を見上げる。
対して彼は、そりゃどうも、と言うような顔を向け、すぐにまた怒ったような顔をしてそっぽを向いた。
そんな彼の態度に、また彼女はカチン、となる。
一触即発。
何でこうなってしまうのか訳がさっぱり解らないが、今日のふたりは何故だか互いに好戦的になっていた。
・・・まさか・・・公園の時みたいに、妬いた、ってこと?
一瞬、そういう考えが彼女の頭を過ったが、彼女は即座にぶんぶん、と頭を横に振った。
何考えてるの!?有り得ない。絶対に!

「・・・じゃあ」

そう言ってラムカが逃げるように彼へと背を向ける。彼の瞳の端っこに映り込む彼女の後ろ姿。
彼女の残した気配と気まずい空気と共に全てが消え、彼はシンクにもたれて息を吐いた。
俺は一体どうしちまったんだ。胸の裡がもやもやと燻るように煙たくて、どうにもこうにもスッキリとしない。
こんな面倒臭い感情はまっぴらなのに。くそっ!




レイとフィリップに別れを告げ、彼は苛々とした気持ちを抱え込みながらエレヴェイターの到着を待っていた。
漸く15階に戻って来たエレヴェイターの扉が開き、顔を上げる。
そこには、彼に背を向け、先に帰った筈の彼女が、彼と同じように目を見開いて立っていた。
忘れ物。そう言って彼女がエレヴェイターを降りる。入れ替わりにそこに乗り込み、扉の方へ、つまり、
彼女の方へと向き直る彼に彼女が振り返った。
どうぞ、行って――― そんな顔で。



彼女はうっかりバッグに入れたままのレイの着替えやマフラーを返し、冷蔵庫に入れ忘れていた食材を代わりに
バッグに仕舞い、もう一度レイとフィリップにさよなら、と言って、やって来たエレヴェイターに乗り込んだ。
いつもならあっという間に1階に到着するはずのエレヴェイターなのに、どういう訳か今は恐ろしく長い時間に
感じられる。
漸く1階に到着したエレヴェイターの扉がゆっくりと開く。
彼女はいつも通りに螺旋階段の横を通り、ドアマンの立っている入り口へと足を進めた。
お気をつけて、ミス・テイラー。ありがとう。さよなら、ミスター・ジェンキンス。
いつものように笑顔で挨拶を交わし、真っ直ぐに前を向いた彼女を待ち受けていたのは―――




「・・・Hi 」
「・・・Hi 」
「・・・家まで送るよ」
「!」
「今日は何だか・・・随分と君に酷い態度をとってしまったからさ。 そのお詫び」
「・・・お詫び?」
「Yeah」
「・・・でも・・・」

バイクを見て彼女が不安そうな顔を向ける。

「大丈夫。ちゃんと安全運転で行くからさ」

彼はそう笑うと、手にしていたヘルメットを彼女へと手渡した。

「寒くなるからジャケットの前はきちんと閉めて。あと、マフラーはもっと短くなるまで首にしっかりと巻き付けて。
うっかりバイクに巻き込むと、首を絞めて危ないから」
「・・・はい」
「それからどんなに怖くても、カーブで俺が体を傾けたら、出来るだけ君も俺に合わせて同じように体を傾けて。
俺が体を右に傾けてるのに左に傾けたりしないで。心配しなくても、絶対に転んだり落ちたりしないから。俺を信じて」
「・・・はい」

身振り手振りで説明する彼に素直に返事を返す。
これじゃあ、お詫びというより罰ゲームじゃない?と内心では思ったけど、何故か断ることも出来ず、彼女は
気が付けば彼のバイクの後ろにまたがっていた。

「しっかり掴まってて」

そう言って彼が彼女の手を自分の腰のあたりにぎゅっと巻き付ける。
その瞬間、彼女の心拍数は一気に上昇した。それは初めてのタンデムへの恐怖心からか、それとも―――

Trust me(俺を信じて)―――振り返り、もう一度彼女にそう言って、彼はゆっくりとバイクをスタートさせた。



● 用語解説ページ


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Magnet 14.「 The Prince of a vegetable garden -野菜の国の王子様-」

Magnet 14.  
「 The Prince of a vegetable garden 」 -野菜の国の王子様-

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9:45 a.m.  アッパー・イーストへ

土曜日の朝の地下鉄は、いつもと違う人々でごった返していた。
いつもは平日の昼間2時半くらいに利用しているから、仕事に向うビジネスマンや子供連れと一緒になることも殆ど
ないけれど、その日はアップタウンに数多くある美術館や博物館に向おうとしているのか、家族連れが多かった。
時折、遅めの休日出勤と思しきビジネスマンらしい姿も見受けられる。

今日の彼女は朝から夕方まで、半日レイの相手をすることになっていた。
毎週ではないが、キャサリンが休みを取れない土曜日はそうする契約になっている。
その方が彼女にとっても好都合だ。その分懐は温まるし、デートの相手もいない、と嘆かずに済む。
今日はレイを連れてセントラル・パークでお散歩でもしようかしら。
いつもの6番線でなく、うっかり5番線に乗ってしまったために、ひと駅分、つまり9ブロックも余計に歩かなくては
ならないのに、それでもお散歩がしたい、と思えるくらいに天気の良い、暖かな土曜日の朝だった。


クリフォード家に着くと、出迎えてくれたのはメアリーだった。
昨日のキッチンでの気まずさを誤魔化そうとしているのか、彼女・メアリーはまるで親友を迎えた時のように
満面の笑みを浮かべている。

「シェリー、ちょっと」

その後早速レイの部屋に向おうとするラムカの腕を引っ張り、メアリーが彼女を直ぐ近くのバスルームに引き込んだ。
一体何事?という顔を向けるラムカにメアリーは懇願するような眼差しを向けた。

「その・・・昨日のことなんだけど・・・」
「Yeah?」
「ナディアに言ってないわよね?」
「・・・言う理由もないけど・・・」

ラムカの答えにメアリーは、ああ、良かった!と息を吐き、思いのほか大声を出してしまった自分に、Oh!と肩をすくめている。

「あの、誤解しないでね。クーパーさんとはその・・・本当に話をしていただけなの」
「・・・Oh yeah?」
「本当よ、信じて。そりゃあ彼って凄くホットじゃない?正直、そういう幻想が湧いちゃったことは確かよ」
「・・・・・」
「Oh、ふふっ。そんな顔しないで。実は私、以前の料理人ともそういうことになっちゃって・・・」
「・・・パントリーの中で、ってこと?」
「あー・・・そこだけじゃないんだけど、まあ・・・そういうこと」
「それとナディアとどう関係が?」
「彼女、そういうの大嫌いなの。実際のとこ見られたわけじゃないんだけど、昨日みたいに一緒にパントリーから
出てくるところを何度か見られて気付かれて。何もしてません、って咄嗟に言い訳したんだけど、今度そんなことしたら旦那様や奥様に言って辞めてもらいますからね、って釘を刺されてるの」
「・・・Ok、もちろん黙っておくわ。言う必要もないし」

ナディアでなくとも普通、知られたら即辞めさせられると思うけど、と内心ではそう思ったけど、ラムカはそれを隠して
メアリーに笑顔を向けた。
ちょっと意地悪なことを言えば、少なくとも彼女は "そういうタイプ "の人間で、懲りずにショーンともそうしようと
その機会を窺っている、そんなふうに見える。
何しろ彼女はラムカをけん制したいのか、こんなことを言いたげな顔つきだったのだから。
ショーンに手を出さないでね、私が先に目をつけたんだから、と。
安心してメアリー、頼まれなくたってそんなことしないわよ、そう返したかったけど、面倒臭いので気付かない振りをして黙っておいた。だって、私には関係ないことだもの。




その後レイの部屋に行って絵本を読み聞かせていると、開け放たれている部屋の扉をノックする音がする。
ふたりしてその音に振り返ると、その日現れるはずのない顔が部屋の中を覗いていた。

「ショーン!」
「!」
「ヘーイ、チビ」

レイがベッドを飛び降りてショーンに駆け寄る。
彼の足に纏わりつくように抱きつくのを、よいしょっと持ち上げて荷物みたいに肩に担いだり、
わざと落っことそうとする彼に、レイはきゃあきゃあと子供らしい嬌声をあげてはしゃいでいる。

「今日は休みじゃなかったの?」
「ああ、そうなんだけど――」
「――遊びに行こうよ、ショーン!」
「そのつもりで来たんだよ、レイ。今日は89丁目のマーケットに行くぞ」
「!」
「ええー?公園で遊ぼうよー」
「それは最後にな」

レイを床に下ろすと、ナディアー、と嬉しそうに叫びながらレイが部屋を走って出て行った。

「わざわざ休みの日に?」
「あー・・・週末にしかやってないイベントもあるし、時間があればユニオン・スクエアまで足を延ばせるかな、と思って」
「ユニオン・スクエア?」
「グリーン・マーケットさ。行ったことない?」
「あー・・・一回だけ行ったかな・・・」
「そんなわけで、今日もお供をお願いしますよ、Miss Sherry(シェリー先生)」
「どうせ嫌だって言っても連れてくんでしょ?」

そういうこと、とショーンが軽く笑う。 彼女は昨日のことや、さっきのメアリーの言い訳を思い出して何となく気まずい気持ちになり、彼の顔から視線を逸らして、レイの上着を取るためにベッドから立ち上がった。
クローゼットからレイの分厚いダウンジャケットを取り出すと彼が、今日は暑いくらいだからそれじゃかえって汗をかいてしまってよくないかも、と言うので、もう少し薄手のものを選んでそれをレイに着せた。
念のために彼女のバッグの中にレイのマフラーとニット帽を忍ばせ、挙句、こまめに手を消毒するための消毒用ジェルや、汗をかいてしまった時のためのタオルや下着の替えや何かをナディアに持たされたので、彼女のバッグははちきれんばかりになってしまった。



ナディアから坊ちゃんを地下鉄には乗せないで、ときつく言われたので、彼は渋々キャブを拾った。
どんなウィルスが蔓延しているか分からないから、ということらしいが、地下鉄に乗せてあげることも今日の目的の
ひとつでもあったのでレイはとても残念そうだったが、それでもキャブの中でマスクを外しては、窓の外を眺めて、
ひとりはしゃいでいる。
York Ave.(ヨーク・アヴェニュー)、89丁目でキャブを降り、そこから1st Ave.(ファースト・アヴェニュー)のほうへ向って少し進んだところにそのマーケットがあった。

「ヴィネガー・ストアー?」
「そんな酸っぱいもの食べたような顔して、レイ」

だってお酢、嫌いなんだもん、そう言うレイを笑いながら、彼が携帯電話を取り出した。

「――Hi、ゴードン。ショーンだ。今着いたよ」
「?」

彼が誰かと話をしている。どうやら店の関係者らしい。直ぐにゴードンという名のでっぷりとした、人の良さそうな顔をした男が店の前に現れて、彼らを奥の従業員用のドアの方へと案内してくれた。
ヴィネガー・ストアーという名前から浮かぶイメージとは違い、高級なフード・マーケットがその正体だ。
その店内を奥へと進みながら、どこへ連れて行かれるんだろう?そんな顔のレイの手を引き、ラムカもドキドキしながらゴードンとショーンの後を追うように扉の奥の階段を上る。

「さあ、着いたよ」
「うわあ!」

そう言ってゴードンがドアを開くと、そこは一面に菜園が広がっていた。
所狭しと野菜や果物が植えられ、何人かの従業員が水をやったり収穫したりしている。

「ここってマーケットのおくじょうだよね?」
「そうだよ。ここで野菜や果物を有機栽培しているんだ」
「ゆうきさいばい?」
「体に良くない農薬を一切使わずに、野菜や果物が本来持っている、生きようとする力を助けてあげるんだ。そうやって体に優しい野菜や果物を心を込めて育てているんだよ。それらを2階のカフェで使ったり、1階で売ったりしてるんだ」
「ふーん」
「今はまだ少ないけど、もう少し暖かくなってきたらもっとたくさん収穫出来るんだけどね」
「凄い・・・」

ラムカも一緒になって一面の畑を見渡していた。
レタスが土の中から生えているのを見たのは実は初めてだったし、土の匂いを感じたのも久しぶりのことだ。

「ねえゴードン、これはなあに?」
「これは芽が出てきたばかりの野菜たちさ。えーっとこれは何の豆だったかな。こっちはキュウリかな」
「これからおっきくなるんだね」

ビニールハウスの方へと歩きながら、ゴードンがレイへ手招きをしている。

「レイ、こっちに来てごらん」
「なあに?」
「この葉っぱ、何だと思うかい?」
「うーん・・・わかんないや」
「引き抜いてごらん」
「ええ?いいの?」
「いいよ」

ゴードンがにこにこ笑いながら葉っぱを指差し、腰をかがめてレイが引き抜きやすいように、土を少しほぐすように
手助けをする。

「あっ!わかった!ニンジンだね!?」

オレンジ色の部分が見えてきて、よいしょっと言いながらレイが人参を引き抜いた。

「わあ、お風呂に入れてあげなきゃ!」

土の付いたニンジンを見たレイの言葉に、ラムカは思わずショーンと目を合わせて、くすくす、と笑ってしまった。

「こっちも抜いてごらん」
「こんどはなにかなあ?」

またよいしょっと声を上げてレイが葉っぱを引っ張ると、今度は赤いラディッシュが顔を覗かせた。
それからゴードンが貸してくれた鋏を使い、熟れたトマトを枝ごと切ったり、ゴードンがレタスを切り取るのを手伝ったり、ラムカと一緒にイチゴを収穫したり。
イチゴはゴードンが「食べてごらん」と言ってくれたので、ラムカとせーの、でパクッと齧っては甘ーい!と声をあげ、
ショーンの口にもはい、と言って大きなイチゴを食べさせたりしている。

「見て、レイ。こんなに!」

気が付くと、ゴードンが用意してくれたバスケットに、レイの収穫した野菜がたくさん詰め込まれている。
早生の春キャベツやブロッコリー、ラディッシュ、ニンジン、レタス、ネギ、トマト、バジルやルッコラのハーブ、
そして真っ赤なイチゴたち。

「レイ、これは全部君が収穫したんだよ」
「うん!いっぱいだね」
「ちょっと預からせてもらうよ」
「?」

レイの収穫した野菜の入ったバスケットをゴードンが部下らしい女性従業員に手渡すと、彼女はそれを持って建物の中へと姿を消した。

「楽しみにしててくれよ、レイ」
「うん!」



それから3人は暫くのんびりと菜園を見て周った。ショーンは従業員にあれこれと質問をしたり、何やら真剣な顔で
野菜の味見をしたりしている。
ラムカはレイと一緒になって、やってきた鳥を追いかけたり、土の中から虫を見つけてそれに触れたり。
そんなことをしているうちに、腹の虫の方が鳴り出す時間になっていた。



ゴードンが、そろそろ準備出来たかもと言うので、レイの手を綺麗に洗わせてから、3人は2階のカフェへと移動した。
このマーケットの2階のカフェでは週末限定でランチ・バイキングをやっている。
ショーンが言っていた週末だけのイベント、というのはどうやらこのことだったらしい。
本来ならそこに並べられた料理を食べることしか出来ないのだが、ゴードンの計らいで、レイの収穫した野菜を特別に調理してくれた。
アンチョビとキャベツとブロッコリーのフジッリ、ニンジンや玉ねぎやパプリカのグリル、ルッコラと生ハムとチーズの
サンドイッチ、そして、オーヴンで焼いたミニトマトにフレッシュなバジルを添えたサラダ。
上からはチーズがたっぷりとふり掛けられている。

「うわあ、おいしそう!」
「レイ、これさっきのトマトよ」
「んー、美味い!」

トマトを手で摘んだショーンが目を見開いて少し大げさに言う。

「食べてみろ、レイ」
「うーん・・・」

ラムカがレイの皿にトマトやバジルを取り分けてやると、レイは恐る恐る、といった感じでそれを口に運び、ん?といった顔でショーンの顔を見上げた。

「甘い!」
「そうだろ。バジルと一緒に食べてごらん」

言われたとおりにバジルの葉とトマトを口に入れ、今度はさっきよりも大きく目を見開いて、美味しい!と
声を上げている。

「パスタも美味しいわよ、レイ。キャベツもブロッコリーもほら、とっても甘い!」
「ほんとうだ、おいしい!」


やがてレイはバイキングの料理にも興味を示し、ラムカと一緒になってそれを幾つか皿に載せて戻って来た。
いつもなら敬遠する野菜のマリネをぱくぱくと頬張る姿を見てショーンが苦笑している。
ラムカは正直、料理の味付けそのものはショーンの方が美味しい、と思ったけれど、とにかく野菜の美味しさそのものが格段に違う、ということにレイ同様に驚いていた。
普段食べている野菜に比べて、甘さも風味も全てが力強い気がする。
パンも評判どおりとても美味しくて、彼女もついいつも以上に食べ過ぎてしまった。

それなのに、デザートに並んでいたイチゴのタルトの美味しいことと言ったら!
もう料理だけでお腹がはちきれそうだと思ったのに、ぺろり、と平らげてしまった。
コーヒーもちゃんとマシーンが設置してあるので、淹れたての美味しいものを飲むことが出来るのだ。
もちろん、お代わり自由。
2杯目のコーヒーを持ち、ラムカが興奮気味に席に着いた。

「やばい、ここ。ハマりそう」
「そう?」
「本当にこれで12ドル?ここってアップタウンの高級マーケーットのカフェよね?」
「Yeah、D&Dもいいけど、ここのデリもなかなかだよ。Eli 's Breadもかなりの美味さだったろ?
何より、とにかく野菜が美味い」
「ほんと!色々買って帰ろうかな」
「・・・ねえ、シェリー・・・」
「?」

レイがお腹を押さえてもじもじし始めた。

「Oh、トイレットに行きたい?」
「うん・・・」
「いいよ、俺が連れてく」
「でも・・・」
「いいって。レイ、こっちおいで」


ショーンがレイを連れて席を立つ。二人の後ろ姿を見送っていると、隣のテーブルの女性と目が合ったので、
Hi、と笑みを向け、彼女はコーヒーの入ったマグカップを口に運んだ。
周りからは家族連れに見られている気がして、何だか妙な気分がする。
この間もそうだったけど、レイはこうしてお出かけをする度に本当に嬉しそうだ。
家族でこうして出かけることは余りないのかしら。
幼稚園に迎えに行ったらそのまま家で過ごしているし、友達と遊んでいる様子もないし。
レイは決してそんな言葉は口にしない子だけど、本当は寂しいのではないのかしら。
何となくそんなふうに思えて、彼女は少し考え込んでしまった。



そんなふうにしばらくぼんやりと考え事をしていると、そこへさっきのゴードンがやって来たので、
彼女は笑顔で彼に椅子を勧めた。

「今日は本当にお世話になりました。レイもびっくりするくらい野菜をたくさん食べてくれて」
「そう、それは良かった」
「評判は聞いてたんだけど、実は初めて来たんです。想像以上にとっても素敵な店!今度また友達を連れて
来てみます」
「友達と? あいつとじゃなくて?」

ゴードンが悪戯っぽく笑うので、ラムカは笑いながら手のひらを彼に向けて首を振った。

「彼とは?もう長いんですか?」
「そうだね、大学の頃からだから10年以上になるかな。歳は俺のほうが2つ上になるんだけど」
「そうなんだ」
「いい奴だよ。ちょっとばかし、女たらしだけど」
「ふふ、そうみたいですね」
「まあ・・・それも仕方ないけどね」
「?」
「ああいや、何でもない。それより、もう少し暖かくなってきたらまたレイを連れてくるといい。
もっとたくさん収穫出来る筈だから」
「ええ、是非!」
「しかし子守だけじゃなく、お抱えの料理人を引き連れてとは随分とセレブリティな子供だけど、でもとっても
いい子だね」
「ええ、本当に。いい子すぎるくらいで」
「実を言うとあいつから連絡もらった時にはさ、どんな生意気な子供を連れて来るのかと思ってたんだけどね。 
まー、うちのチビのほうがよっぽど言う事きかないよ」

そう言ってゴードンは肩をすくめて笑ってみせた。

「本当は彼、今日は休みだったのにわざわざ連れて来てくれて。何だかんだ言ってあの子が可愛いみたい」
「休みだったのか。ふうん、あいつらしいな。 そういやあ、この間は甥っ子達も連れて来たよ」
「本当?」
「あいつの姉さん、シングル・マザーなんでね。時々面倒見てやってるらしいよ」
「ふうん・・・」
「ま、ガキ放ったらかして女といちゃいちゃ喋ってたけどね」
「ええ?また?」
「―――俺の悪口で盛り上がってるだろ」


ゴードンにつられて笑っていると、ショーンがレイを連れて戻って来た。

「Yeah、お前の昔の悪事を彼女に色々と話してやってたとこさ」
「あくじ、ってなあに?」
「あー、華々しい経歴のことさ。でも聞くのはやめとけよ、レイ」
「レイ、もうお腹は大丈夫?」
「うん!」
「美味しいものいっぱい食べたもんねー。きっとお腹がびっくりしちゃったのね」
「ショーンったらね、僕のパンツおろして、おしりがきれいにふけたかどうかまでチェックするんだよ!
もう!まるでナディアみたいだよ」
「ぷっ!」
「だってうちの甥っ子ときたら、これくらいの歳の頃までクソまみれだったからさ」
「Hey!」
Mr.Cooper!まだ周りは食事中よ!そう言ってラムカが彼に人差し指を向ける。
「Oh!Sorry、 Miss Sherry(シェリー先生)」




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