Magnet 37. 「Love is stronger than pride - 愛はプライドよりも強く -」



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「―――んん……」

指が頬を滑る感触に、寝ぼけたまま、彼が子供のような甘い声を上げる。
頬から唇にその感触が移動した時、ようやく彼の瞳が開かれた。
彼の瞳を開かせた犯人が、罪作りな笑みを向ける。

「Hi……起きてたの?」
「とっくにね」
「ふぁぁ……あー、いい匂いがする」
「Yeah , エスプレッソを淹れたんだ。それと朝食も」
「No , it’s YOU !」
「Aw !」

ベッドの縁に腰かけるミゲルを引き倒し、男の上半身に自分の上半身を乗せるようにして、ミシェルが男の唇を奪った。
先にシャワーを浴びた男の髪からは甘く清々しい匂いが漂っていて、それが媚薬のような効果をミシェルにもたらすのだ。そのせいで彼は、口付けを止めることが出来ない。
男が笑いながら何とかそれを止めさせ、『シャワーを浴びて来いよ』と言ってベッドから出て行ってしまったので、ミシェルも仕方なくのそのそと起き上がり、バスルームへと向かった。
シャワーを浴び、男の洗いざらしのリネンシャツを借りて、素肌の上にそれを纏った。ケミカルな青白さを一切持たないそのリネンシャツの白みと、洗うだけで完成するまろやかな皺が、薄いカフェ・オ・レ色をしたミシェルの艶のある肌をいっそう引き立てている。
ミゲルのシャツを素肌に纏う。ただそれだけのことで、彼はミゲルに背中からぎゅっと抱きしめられている、そんな気になってしまう。そしてその思い付きは、胸のあたりできゅっと音を立てる甘い痛みを生むのだった。
そしてその甘い痛みには、何度恋をしても、少しも慣れることがない。

「―――このあと、出掛けるか」

朝食を食べている最中に、突然男がそう言い出した。
『このあとどうする?』 今そう言おうと思っていたのに。ミシェルは少し驚いて、すぐに返事をすることが出来なかった。

「えっと、それって映画とか……ショッピング?」
「No」
「じゃあ……美術館とかアート・ギャラリー?」
「No」
「じゃあ……」
「最後にマンハッタンを脱出したのは?」
「!」






「―――君って本当に僕を驚かすことが得意だよね」
「ん?」
「この車だよ。僕の周りで車を持ってるニューヨーカーなんて、二人くらいしかいないから」
「仕事でどうしても必要な時があるから、フィルに買わせたんだ」

そう言って片方の眉を上げるミゲルに、ミシェルが怪訝そうな表情を返す。

「ウォール街で働いてて車が必要? 運転手じゃないよね?」
「もちろん違う」

ここだけの話、と声を潜め、ミゲルが神妙な顔を向けた。

「俺の本当の職業はFed(FBI捜査官)だ。誰にも言うなよ」
「嘘! ちょ、マジで!?」

冗談に決まってるだろ? そう言って笑うミゲルの髪を、仕返しのようにミシェルがくしゃくしゃっと乱す。
窓から流れる景色も、車を運転するミゲルの横顔も、どちらもずっと見ていて少しも飽きることがなかった。
ただ時折、ミゲルがこちらに顔を向けるから、そのたびに彼は、ミゲルの顔を捕えて口付けてしまいたくなる衝動を抑えなくてはならなかったのだが。

シーズン前で、まだ少し風が冷たいからだろうか。日曜日だと言うのに、思いのほか渋滞に巻き込まれることもなく、昼過ぎにはロングアイランドのサウス・ハンプトンに辿り着いた。
なかなかまとまった休みの取れないミシェルは、ここハンプトンズでのヴァカンスを楽しんだ経験が、まだ、ない。
何となくここは、白人の富裕層だけが訪れることを許された町、そんなイメージを持っていたせいもある。
実際は決して富裕層ではないラムカやベティも、夏になるとここを訪れることがある。言ってみれば『ニューヨーカーにとっての避暑地』的な場所なのだが、ミシェルには何となく縁がない場所のような気がしていた。
自然と触れ合うよりも、街の喧噪や人混みから生まれる都会のヴァイブのほうが、彼の肌には合っていたのだろう。そして、そのことに何の疑問も持ったことがない、そんな生粋のニューヨーカーなのだ。
ミゲルお気に入りのイタリアン・カフェで軽めの昼食をとった後、海のそばにあるクリフォード家の別荘に車を停め、ふたりはそのまま砂浜へ降りた。
海から吹き付ける風は少し冷たかったが、とても心地よい。
犬を散歩させる老人とすれ違い様に軽い挨拶を交わし、しばらく砂浜を歩き続けていると、座るのにちょうど良さそうな大きな石が二つ、三つ、といくつか無造作に並ぶ場所に辿り着いた。
ミゲルがそのひとつに腰を下ろしたので、ミシェルもその隣に腰を下ろして、春の匂いを運ぶ潮風を思い切り吸い込んだ。

「海なんて何年ぶりだろ」

ミシェルが眩しそうに瞳を細める。

「君は?ここへはよく来るの?」
「たまにね。逃げ出したくなった時に」
「マンハッタンから?」
「……Yeah」

軽く笑ってミゲルが海の方へと視線を移した。
ミゲルの着ている、空と同じ色をしたブルーのシャツが、吹き付ける風に心地よさげに形を変える。それをぼんやりと眺めていると、懐かしい情景が浮かんで来て、ミシェルの頬を綻ばせた。

「うんと小さい頃、ママンが時々コニーアイランドに連れて行ってくれたことを思い出すよ。体に悪そうなさ、奇抜な色したチョコレート・スプリンクルがたっぷり乗っかったアイスクリームを食べて、メリー・ゴー・ラウンドや観覧車にも乗ったっけ。でも妹が生まれてからは、あまり行かなくなっちゃったけど」
「Why ?」
「わからない……どうしてって訊けなかったから。ママンと妹の父親が上手くいってた頃までは、そういう楽しいこともいっぱいあったんだけど……」

その後は、幸せな子供時代だったとは言えないかもしれない。そう喉元まで言いかけた言葉を飲み込んで、ミゲルの方へと視線を向けた。

「妹の父親がさ、マックスって男だったんだけど、君みたいな青いシャツを海で着てたんだ。それで思い出した」
「……実は俺も『マックス』だったかもしれない、そう言ったら?」
「! そうなの?」
「Yeah , 親父が最初、Maximiliano(マクシミリアーノ)って名付けようとしたらしいんだ」
「! Non ! それじゃ僕と同じ『ミカエル』由来の名前にならないじゃない!タイムマシンで過去に行って、君のダディを全力で止めるよ」
「Oh , じゃあ君が過去に戻って親父を説得してくれたのか」

瞳を丸くして、そうミゲルが笑う。つられて笑いながら、ミゲルに『マックス』と呼びかける自分を想像した。

「でも案外『マックス』も君に似合うかも。何だか強そうな名前じゃない?」
「どうかな」
「ああでも、やっぱり君は『ミゲル』でなきゃ。良かった、マクシミリアン?マクシミリアーノ?にならなくて」
「Yeah」

ミゲルがくつくつと愉しそうな声で笑う。

「その君のダディは? 今どうしてるの?」
「I don’t know , 長いこと連絡を取ってないから」
「!」
「7年くらい前はマイアミに住んでたけどね。根無し草だから、今頃どこでどうしてるんだか」
「僕のママンもそう。男が変われば住むところも変わるひとだから」
「今は?」
「カナダに住んでるよ。いけ好かないフランス男とね」

そうか、と言ったきり、ミゲルは再び海の方をじっと見つめていた。
昨夜、クリフォード家のパーティーから帰宅した後、ミゲルはいつもにも増して口数が少なかった。
母親のナディアと会ったことが原因なのだろうか。そう思ったが、何となく昨夜はその話をすべきではないように感じた。
だからそんな話をする雰囲気にならないように、彼はベッドの中にミゲルのラップトップを持ち込んで、ミゲルと一緒に適当に選んだ映画を観たのだった。(結局、彼は途中で眠ってしまったのだが。)
今なら話してくれるだろうか。ふっとそんな思いが沸いた。

「……訊いてもいい?」
「いいけど、質問による」
「君と君のマムって、何か問題を抱えてるの?」
「Oh , 直球だな」
「ごめん。不快な質問だったなら答えなくていいよ。忘れて」
「No , it’s ok」

ミゲルは言葉を探すようにしばらく海を眺め、やがて静かな眼差しをミシェルへと向けた。

「問題があるってほどでもない。ただ、過去にひどく母を失望させてしまって……それも一度じゃなく、何度も」
「Oh……」
「母にはどうしても理解出来ないことばかりしてきたから。だから時々、ぎくしゃくしてしまうんだ。昨日みたいに」
「……僕たちのこと?」
「……Yeah」

そう瞳を伏せた目の前の男は、ミシェルのように、ゲイであることに誇りを持って生きている類の男ではないのだ。そう改めて認識させられた。
そもそも、ミゲルはゲイと言えるのかどうかさえわからない。何しろ、ミゲルのような男は初めてで、時おり戸惑ってしまう。
それまで、過剰ともいえる愛情表現をする恋人ばかりだったから、それに慣れきってしまっていただけかもしれないが。
けれど、ミゲルからの愛情表現に、物足りなさや焦燥感はもう感じなかった。
愛されたい。彼の愛が欲しい。出会ってからすぐは、そんなことばかり思っていた。いつしか、そう願うことよりも、泉のように湧いてくるミゲルへの愛しさを、きゅっと噛み締めることが出来る瞬間こそ、言葉にならない幸せに満たされるのだと知った。そして、その瞬間を味わう毎に、彼の愛は強さを増している。

「―――Look」
「?」
「……君の家族や友人たちに僕たちのことを理解してもらえないとしたら……そう考えただけですごく悲しい。いや、もちろんあり得ることだけど、実際言葉にしてみると、やっぱり辛いよ」
「……そうだな」
「ねえ、それでも君は僕を遠ざけずにいてくれる………いや、本当のところ、君にはまだ迷いがあるよね。僕たち『おあいこ』だとはまだ言えないし、それはよく解ってる。だから君を追い詰めるようなことはしたくない。だけど……」

そこまで話して、ミシェルはその琥珀色の瞳を、真っ直ぐにミゲルへと向けた。

「これだけは知ってて欲しいんだ」
「?」
「君と一緒にいるだけで……それだけでとても幸せだよ」
「……」
「たとえ世界中を敵に回したとしても、君といられるならそれでいい」
「………ミシェル、俺は―――」
「―――Non , 何も言わないで」

言葉にしなくても、君は瞳で語ってくれるから。今はそれでいいんだ―――男の頬へ手のひらを置き、親指でそうっと男の唇を撫でた。
唇の代わりに眼差しを重ねる。互いの瞳の中に灯ったもの。それを互いに確信した時、男は眼差しを重ねたまま、頬に置かれたミシェルの指を絡め取り、そこへ唇をあてた。

「……Come」




ミシェルの手を引いて、クリフォード家の別荘へと戻る。
中に忍び込むのと同時に、貪るように口付け合った。
当然、ベッドまで行く余裕などない。すぐそこのカウチまでも待ちきれず、暖炉の前、床に敷かれたファーの上で身を重ねた。
広い邸内でミシェルが遠慮なく声を上げる。それを時折唇で吸い取りながら、ミシェルの中で、男も激しさを増した。
やがてふたりの声が、共に切羽詰まったものに変わり、その時を迎える。
息も絶え絶えに口付けを交わし、ふたりは床の上で、いつまでも固く抱きしめ合ったままで離れられずにいた。
やがて整った呼吸を取り戻した頃、男はミシェルの頬へと手を滑らせて、彼の瞳を自分の方へと向けさせた。
もう俺に迷いはないよ、ミシェル―――男のかすれた声に、ミシェルの眦から、澄んだものがあふれて零れ落ちた。




少し眠りに落ちた後、彼らはモントークの灯台まで足を延ばし、美しい夕陽に染まる世界を瞳に焼き付けた。
数時間の後、すっかり闇に包まれた都会に戻り、ミシェルのアパートメントの前にミゲルが車を停める。
忘れられない一日をありがとう―――ミシェルの言葉に、男が柔らかな笑みを返した。見つめ合い、互いの頬に手のひらを添えて、そっと唇を重ねる。
甘く優しいおやすみのキスは、時を忘れたようにいつまでも続いた。
そのうちに、名残惜しそうに男の頬から手を離し、ミシェルが車を降りる。彼が建物に入って行くのを見届けると、ミゲルは静かに車を発進させた。
離れた場所から、彼らの一部始終を見ていた存在に気付くこともなく。






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